今年の元旦に自分が書いたブログ、日記、年賀状には仕事をなんとかしたい、ということを年頭の抱負として書いてある。残念ながら、これはなんともならなかった。昨年9月にこちらへ渡ってからというもの、自分なりの生活をすることで精一杯というのが実情だった。それでも、なんとなく、視界に光が射す兆しを感じるようになった。
この一年、何か特別なことがあったわけではない。毎日の暮らしは3月30日付「修道僧か囚人か」に書いた通りである。職場での仕事は精神修養と割り切り、自分の内面の変化を観察することと地の利を生かした活動に注力したつもりである。50冊の本を読み、13本の映画を観て、のべ91の博物館・美術館を訪れ、毎日欠かさず日記をつけ、今日の分を含めて285日分のブログを書いた。その結果、自分自身の変化をかなり意識できるようになった。自分の年齢では、今更ものの考え方だの人に対する見方といったものは固定化されてしまって変わらないと思っていたが、そんなことは全くなかった。
日本を離れることで、それまで自分の生活を取り巻いていたものが、かえってよく見えるようになったことも予期せぬ収穫だった。ほんとうに必要なものというのは思いの外少ないということも確認できたし、ほんとうに必要な人間関係は必ずしも固定化されたものではないということも知った。
世界的な経済の混乱の影響も多少はあり、実利面では良いことは何一つ無かったが、それが殆ど気にならなくなった。老眼は進行したかもしれないが、自分の外にあるものと内にあるものとの関係を見通す心眼は、多少は改善したかもしれない。年齢を重ねるということの楽しさを実感できた年だった。出会った人、文物、出来事、全てに感謝する。
ここを訪れるのは7月5日以来である。作品の入れ替えや展示位置の変更があり、特に1階(日本の数え方では2階)の、階段を上がって最初の部屋の雰囲気が変わったように感じた。確か、前回来たときに開催されていたセザンヌ展が終わり、当館所蔵のセザンヌ作品がもとの場所に戻り、それで全体に作品の並びが変わった所為だろう。7月9日付「モネだけの花」に取り上げた「Vase of Floweres」があった位置にはマネの「Banks of the Seine at Argenteuil」が展示されていた。今日はモネの花を見ようと思って来たので、少しがっかりである。しかし、同じ部屋にあったモネの「ANTIBES」にこれまでよりも強い興味を覚えた。なんとなく見たことがあるような風景に感じられるのである。何故だろうと思いながら説明を読むと日本の浮世絵の影響を受けた作品だという。なんとなく了解できたようなきがして、この絵に自分なりのタイトルをつけてみた。「熱海」。
7月頃はそれほど関心がなかったボッティチェリに惹かれるようになった。ここにあるのは「The Trinity with St Mary Magdalen and St John the Baptist, the Archangel Raphael and Tobias」という長い名前の作品だ。全体の構成とか、子供の姿をした人物の顔とかその配置がおもしろい。15世紀まで遡ると、その時代がどのような時代であったのかという興味は減退してしまう。自分のなかで歴史への興味は、現在という時代が最も強く、そこから過去へ向かって弱くなる。絵画は、本来なら古い作品ほど、そこに込められた寓意とか物語が強く反映されているものなのだが、自分の意識としては、そんなものはどうでもよくなってしまう。ただ、そうした意味性や記号性の故に奇妙な表現に見えるものに溢れていて、それが興味をそそる。あと、当時の画家は芸術家というよりも科学者に近い存在であったので、絵の作りに計算された均整のようなものがあり、それが美しいとも思う。
ここにはピカソが描いたアイリスの小品があるが、ちょっとゴッホのような感じだ。この人の作品は何を描いても、大きなものも小さなものも、強烈な存在感を放つから不思議だ。こういう人を天才というのだろう。彼と同時代の人で、モディリアーニの作品もある。この人の作品は、以前はそれほど好きでもなかったのだが、やはりこちらへ来てから惹かれるようになった。特に裸体像が素晴らしいと思う。ここにあるのは、まさにその裸体像「Female Nude」だ。
Courtauld Galleryを出て、まだ日が高かったので、少しぶらぶら歩いてから住処へ戻った。このところ急に冷え込み、日が落ちると、道端に駐車してある車がすぐに白く凍りはじめた。それでも、冬至を過ぎた所為か、なんとなく気持ちは明るめである。
先週はクリスマスがあり、こちらは町がまるごと休日という様子でした。ただ、景気が悪い所為か、去年に比べると家々の飾り付けも地味で、あまり華やいだ雰囲気はありませんでした。繁華街は勿論、派手な装飾が施されていますが、商売のほうは厳しいようです。
イギリスは25日と26日が休日で、25日は公共交通機関が全て運休します。私は仕事があるので歩いて出勤するのですが、去年と違って天気が良かったので、朝から出歩いている人が多いように感じられました。去年は風雨が強かったので、ゴーストタウンのようでしたが、今年はテムズ川沿いの遊歩道などはジョギングをする人が行き交い、普通の週末のような風景でした。
いよいよ来週水曜日に、現在の住処を引き払い、ホテル住まいになります。このため、食材などを残さないようにしないといけないので、食事の献立とか、買い物には注意を払うようになりました。
確か、9月に会った時、ミレイ展を見たって言ってませんでしたか? ミレイの「オーフィリア」という作品は記憶にありますか? 小川のなかで女性が仰向けになっている絵です。昨日、あの小川の場所へ行ってきました。ロンドンの中心部から鉄道で30分ほど南へ下ったところにあるユーウェルという町にあります。あの川はホッグスミルズ川といいます。今でも水はきれいで、川の周囲も緑地として整備されているので、なんとなく、あの風景のような感じの場所はいくつもありました。
ミレイは1851年の6月から11月にかけて、毎日のようにそこで絵を描いていたそうです。あの絵の精緻な描写を思い起こしてみれば想像がつくかもしれませんが、とにかく時間をかけて正確に写生して色彩をつけていったそうです。あまりに精緻な作業なので、1日にどんなに頑張ってもコイン1枚ほどの大きさしか描けなかったと、後に本人が語っていたそうです。
私は別にこの絵とかこの作家が好きで、ユーウェルへ行ったわけではありません。ただ、休日にどこか気持ちのよい田舎町を歩いてみたいと思っただけです。たまたま、あの絵の小川が、ロンドンの近くであることを知り、出かけてみました。好天にも恵まれ、冬の半日をのんびりとすごすことができました。
そちらも寒さが厳しいでしょうから、健康管理には十分気をつけてください。
そろそろ誕生日ですね。なにか欲しいものはありますか? 考えておいてください。
では、さようなら。ごきげんよう。
昨日は、午前中にEwellを訪れた後、ロンドン市街へ向かう電車をVauxhallで降り、地下鉄Victoria Lineに乗り換えて、その終点Wallthamstow Centralまで行った。駅から10分ほど歩いたところにウィリアム・モリスが幼年時代を過ごした家がある。彼の父親は金融業界で働いており、投資で大きな利益を得たのだそうだ。この家はいかにも成功した中産階級然とした大きなものだ。現在はWilliam Morris Galleryとして公開されているが、今はクリスマス休暇中である。
ウィリアム・モリスは芸術と労働の一致を理想とした社会思想家という面も持っている。産業革命を経て、効率化、利益の極大化を指向した社会のなかで、分業という労働のありかたが広まり、ひとつひとつの労働作業に意義を見出しにくい状況、所謂「人間疎外」ということが問題になっていた。モリスは働くことを楽しいと感じるには、1人の人間が仕事の全ての工程を意識できるようにするべきだと考えていたという。いわば中世のもの作りの姿に回帰するかのような思想だ。それを具体化したのが、「アート・アンド・クラフツ運動」である。
現実は、なかなかそのようにはいかない。ひとつには、世界が市場原理の下にあるということがある。生活に必要な財やサービスは、全て貨幣価値で表示され、原則として貨幣を媒介にして取引される。価値というものが数字に転換されてしまうと、その背後にあるものが見えなくなってしまうように思う。その数字が何を根拠にしているのかということを考えず、闇雲に数字を大きくすることを目指すのが、我々の置かれている現実であるような気がする。
そこに権威という概念が生まれる。先日、米国で被害総額500億ドルというねずみ講が摘発されたが、その被害者は名立たる投資家たちである。一度名声を確立し、それが世間に定着すれば、人々は何の考えもなく、その権威に寄りかかろうとするものなのである。12月23日に自殺した被害者は、先祖の名前がパリの凱旋門に刻まれているほどの名家の出身だったそうだが、14億ドルという彼の被害金額を苦にしたのではなく、考えるという人としての基本を怠った己の不明を恥じたのではないだろうか。
モリスの思想は、自分で生きるという実感を持つことができるような生活を目指す、ということではないかと思う。生活のなかのひとつひとつの要素、家事や仕事や育児その他諸々のことを、自分で考え、そこに自分の意志を表現するということではないか。モリス個人は、昨日も書いたように、自分の家庭生活には必ずしも恵まれなかった。しかし、完全とか完璧というものから無縁であるのが、人間というものでもある。
市場原理と個人の価値観とは、やはりどこかで対立することにもなるだろう。ただ、一個人の立場からすれば、自己の表現というのは、それほど困難なことではないように思われる。徹底するということではなく、与えられた条件のなかで工夫できる範囲内で、自分の考えというものをひとつひとつの自分の行動に表現するだけのことで、生きることの喜びというものを感じることができるのではないかと思うのである。恐らく、その実現を阻害する最大の要因は、自分自身のなかにある権威だろう。
英国の画家と言って誰を思い浮かべるだろうか。私の独断と偏見によれば、以下のような名前を挙ることができる。
William Hogarth (1697-1764)
George Stubbs (1724-1806)
Thomas Gainsborough (1727-1788)
William Blake (1752-1827)
Joseph Mallord William Turner (1775-1851)
John Constable (1776-1837)
William Holman Hunt (1827-1910)
Dante Gabriel Rossetti (1828-1882)
John Everett Millais (1829-1896)
Edward Coley Burne-Jones (1833-1898)
John Singer Sargent (1856-1925)
Francis Bacon (1909-1992)
少ない。ここに挙げた人は、自分のなかで馴染みがあるというだけのことであり、特別好きというわけでもない。ただ、ジョージ・スタッブスについては好きな画家として、このブログでも過去に何回か取り上げている。
上の名前は生年順に並べたのだが、年齢が近いウィリアム・ホルマン・ハント、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレイの3人はロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの同窓で、英国絵画の革新を標榜して「Pre-Raphaelite Brotherhood」を結成した仲である。ミレイの初期の作品に「オーフィリア」があるが、このモデルの女性は後にロセッティの妻となるリジー・シダルだ。リジーは結婚2年後に精神安定剤の過剰摂取により32歳で亡くなってしまう。ロセッティの作品「ベアタ・ベアトリクス」は彼女の死を表現したものだそうだ。つまり「オーフィリア」と「ベアタ・ベアトリクス」のモデルは同一人物である。ロセッティには「プロセルピナ」という作品もあり、こちらのモデルがジェイン・モリス。今で言うデザイナーであったウィリアム・モリスの妻である。ロセッティとジェインは恋愛関係にあったようなのだが、時既に、ロセッティはリジーと婚約していたので、ジェインはモリスの求愛に応じたということらしい。リジーが精神安定剤を常用するようになった背景には、そうした夫の気持ちに関わる事情もあったかもしれないと言われている。
実は、今日、「オーフィリア」の絵の背景とされている小川を見に行って来た。場所は、Waterloo駅からSouth West Trainsで30分ほどのところにあるEwellという町だ。今ではごくありふれたロンドン郊外の品のいい住宅街だが、線路沿いに少しロンドン方面へ戻ったところにHogsmill Riverが流れていて、その周辺が緑地となっている。この川が絵の川だ。今でも水がきれいで、それらしい雰囲気は残っている。1851年の6月から11月にかけてミレイはここの風景を徹底的に描いた。一日かけてコイン1枚ほどの大きさを仕上げるのが精一杯だったと、後年、画家自身が語っている。実物を見ればその言葉が納得できるが、写真のように精緻な絵だ。そうやって描いた背景に人物像を加えたのだそうだ。もちろん、リジーに川のなかに入ってもらったっわけではなく、バスタブに浸かってポーズをとってもらったという。
もともと絵画の芸術性の要素のひとつに、写実性というものがあった。今では写真があるので、この部分は後退したが、未だ見ぬ世界を再現するというのは、かつてはそれ自体が芸術だったのである。しかし、ミレイの写実性は、芸術性の追求としてのそれではなく、彼あるいは彼が対象としていた顧客層が持っていた価値観にある。それは勤勉であり、現実をありのままに表現するという科学性でもあった。毎日こつこつと小川の風景を丹念に描き続けるというのは、勤勉と科学なのである。
その勤勉とか科学性という価値観は、当時、英国の発展を牽引していた中産階級のものである。それ以前に絵画をはじめとする美術品の需要者は人文主義的教養に重きを置く貴族である。つまり、英国絵画の歴史のなかで、ミレイたちが大きな位置を占めるに至った背景には、この国における中産階級の勃興があり、さらにその背景には産業革命に象徴される科学技術の発達があったということなのである。ちなみに、ダーウィンが「進化論」を発表したのが1859年11月24日。ミレイが毎日のようにHogsmill Riverを描いていた8年後のことだ。
今の自分自身の生活と、その礎である科学技術の発達と、それを支えた新興中産階級の価値観とが、目の前を流れる小川に集約されて見えた。寒いが穏やかに晴れた日だった。そろそろロンドンでの生活の総まとめである。
6日に書いたWhistlejacket柄の傘は12月17日の仕事帰りにNational Galleryに寄った折に買い求めておいた。しかし、さすがにこれはいかがなものか、という代物だ。冗談としてはよいだろうが、これだけで済ますわけにも行かないだろうと思い、今日の行脚となった。
特に具体的な考えもないままに、とりあえずLibertyという百貨店を訪れた。ロンドンには有名な百貨店がいくつもあるのだが、ここの品揃えは独特で気に入っているのと、比較的空いていて買いやすいので、ここにした。この建物も好きだ。日本では建築基準法や消防法との関係であり得ないのだが、木造5階建てなのである。木造大型建築物が持つ独特の味わいのようなものがあって、なかなかよい雰囲気だ。断っておいたほうがよいかもしれないが、「気に入っている」だの「買いやすい」だのと書いたが、ここで買い物をしたことは一度も無い。あくまで、買い物をするとしたら、という想像の話である。そして、今日も結局ここでは何も買わなかった。
LibertyからCarnaby Streetへ出て、突き当たりをRegent Streetへ出て、Vigo Streetへ抜けてRoyal Academy of Artsへ行ってみる。売店をのぞいてみたが、これはというものがない。しかし、せっかくなので、開催中のGSK Contemporaryという企画展ものぞいてきた。コンテンポラリーは名前が売れている作家の作品なら「芸術」として世間から認知され、多くの観客を呼ぶのだが、そうでないとただの余興だ。物好きでもない限り、金を払ってまで観に来たりはしない。そんなわけで、観客は殆どいなかった。私は物好きなので、コンテンポラリーは大好きだ。この企画展もたいへんおもしろかった。これについて書き出すと長くなるので、別の機会に譲る。ちなみに、私の子供に言わせると、コンテンポラリーは「資源の無駄遣い」との厳しい評価である。無駄、というなら、そもそも人間の存在自体が無駄の最たるものではないか。他者を評して無駄だの無用だのという背景には「自分は貴重」という思い上がりがありはしないだろうか。世間の評価が固定化したものだけに存在価値があるとするなら、世の中のものは全てが無駄ということになってしまう。なぜなら、最初から評価が固定化されたものなど無いからだ。それに評価する主体である自分が他者にとって無駄なのか否かということも考えなくてはならないということになるだろう。無駄とは何なのか、無駄の無い世界というものが存在しうるものなのか、無駄こそが豊かさの源なのではないか、無駄がなければ人は生きることができないのではないか。日常何気なく使う言葉の裏に、ほんとうは考えなければならないことがたくさんある。いずれ、そういう議論は子供がもう少し大きくなってから、ゆっくり語り合ってみたい。
Royal Academy of ArtsからGreen Parkへ抜け、地下鉄Victoria LineでPimlicoへ行き、TATE Britainをのぞいてみる。ついでに、少し腹がへったので、members roomで腹ごしらえをする。さらについでに、せっかくなのでミレイやロセッティ、バーン=ジョーンズなどを眺めてみる。ここに来る途中の地下鉄の駅にナショナル・ジオグラフィックのショップの広告が出ていた。以前にも、地下鉄のなかで、このショップの紙袋を持った人を見かけて、この店がどこにあるのか気になっていた。広告には住所も掲載されていたので、出かけてみる。
PimlicoからVictoria LineでOxford Circusへ行く。ナショナル・ジオグラフィックの店は83 Regent Streetだ。店はかなり広く、なかなか面白そうなものが置いてある。実用的であるかどうかは使う人次第だが、ロゴ入りのシステム手帳があったので、それを買うことにした。革の、やや大きめのカバーで、ファスナーがついていて、手帳というよりクラッチバックのようにも使えるかもしれない。システム手帳は日本でも珍しいものではないが、6穴のものは英国で考案されたそうだ。これで一応は「英国らしい」という説明がつくだろう。これで懸案が片付き、一安心である。
Japan Centreが近いので、ついでに立ち寄って、どら焼きと納豆を買って住処へ戻った。
好天だが寒さの厳しい日だった。英国は今日もBoxing Dayという祝日である。引き続き地下鉄Jubilee Lineは運休だが、バスとDLR(Dock Land Railway)は運行されているので、それらを乗り継いで出勤することもできるのだが、天気が良いので、少し遠回りをしてグリニッチ公園の中を突っ切って歩いた。
公園で写真を撮っていたら、メモリーの容量がなくなってしまった。今年の1月26日に前のカードと交換したので、ほぼ1年で1GBを使い切ったことになる。撮影済みの画像を見て、2枚消去して2枚撮影した。これで579枚撮影したことになるので、1GBで577枚ということのようだ。写真を撮ることが特別好きなわけではないのだが、カメラを毎日持ち歩いている。今年はカード交換前、1月に9枚撮影しているので、今日までに588枚撮影したことになる。去年は198枚しか撮影していないので、やはりこちらに来て目新しいことが多かったということなのだろう。
使っているのはリコーのGR DIGITALというコンパクトカメラである。このカメラを選んだ理由は、普段持ち歩くのにコンパクトである必要があること、シャッターを切ってから画像が記録されるまでの時間差が短いこと、持った感じがよいこと、の3つが主なものだ。デジタルカメラは便利だとは思うのだが、シャッターを切ってから画像が記録されるまでの間に、フィルムカメラには無い時間差があるのが不満だった。最初に登場したコンパクトデジタルはカシオのQV10という機種だろう。当時はCCDが高価だったこともあり、記録画素数が25万程度で、カメラというよりは玩具の領域に入る商品だった。これが発売されたのが1995年3月だ。以来、世に流通するコンパクトデジタルの画素数は増えて画質は玩具からカメラの領域に入ったのに、シャッターを切ってから画像が記録されるまでの時間差がどうしても縮まらない。それがどうにも不満に感じていたし、今でも不満である。
去年、離婚してから離れて暮らす子供に、クリスマスプレゼント代わりに、自分で撮影した写真を使って壁掛けカレンダーを作って送っている。去年は気に入った写真が少なくて、カレンダーにする写真を選ぶのに難渋したが、今年は枚数が増えたので、去年よりは楽だった。選択肢が増えたので、今年送ったものは、原則として、その月に撮影した写真を各月の写真にして、季節感が出るようにしたつもりである。作成したのが11月下旬だったので、12月の写真だけは去年の12月に撮影したものを使ったが、他は今年撮影したものだ。実物は見たことがないので、どの程度の大きさに仕上がるのか、その時に写真の画質がどの程度のものなのか、あまり見当がつかない。実物のサンプルは、以前、銀座のアップルストアで見せてもらったことがあるのだが、当時はまさか自分がそんなものを作るようになるとは考えてもいなかったので、真剣に見ていなかった。手元のノートパソコンの画像を眺めながら、拡大に耐えそうな写真を選んで作った。結果として以下のような写真となった。
表紙 ドーバーの麦畑(7月12日撮影)
1月 ロンドン 住処前の雪景色(4月6日)
2月 ロンドン 近所の高速道路 朝の渋滞2枚 (2月12日 霧の朝、2月13日 晴の朝)
3月 ロンドン グリニッチ公園 (3月2日)
4月 ロンドン ポートベロー通りの骨董市4枚 (4月5日)
5月 ヘイスティングス 城跡3枚 (4月26日)
6月 セント・アイヴィス 町の風景4枚 (6月22日)
7月 ドーバー 海辺の白い崖の上の麦畑と灯台 (7月12日)
8月 ヨーク 旧市街の風景3枚 (6月29日)
9月 ロンドン ハムステッドの街並3枚 (10月4日)
10月 ロンドン エルサム宮殿3枚 (10月12日)
11月 ロンドン キュー王立植物園2枚 (11月8日)
12月 ロンドン トラファルガー広場 (2007年12月15日)
肝心の子供からの評価だが、メールに
「カレンダーの写真とても綺麗で見ているだけで楽しいです。」
とあった。自分に拍手。
普段は住処を出て、Woolwich Roadを渡り、North Greenwich Shopping Centreを突っ切り、Greenwich Millennium Villageという団地のようなところを通って、地下鉄Jubilee LineのNorth Greenwich駅まで歩く。今日から28日までJubilee Lineは運休なので、この経路は使えない。
今日はWoolwich Road沿いに西進し、Greenwich大学のところを右に折れてテムズ川沿いの遊歩道に出て、そのまま川底トンネルの入り口まで行く。Woolwich Road沿いには様々な商店が並んでいる。飲食店が比較的多く、スーパーの小型店舗がいくつかある。「銀座」という日本料理屋もある。なんとなく荒んだ感じのする通りで、これまで滅多に足を踏み入れたことがなかった。テムズ川沿いの遊歩道は、天気が良い所為か、ジョギングの人が多い。北京オリンピックでは、英国チームが自転車競技で多くのメダルを獲得したが、自転車とか歩くということが好きな人たちが多いように思う。
川底トンネルはマンホールを沈めたような感じで、閉所恐怖症の人は横断できないかもしれない。地上とトンネルの間は有人エレベーターとそれに絡み付くように螺旋階段がある。今日は有人エレベーターは運休だが、トンネルは普段通り開放されている。
テムズ川を越えてドック・ランドと呼ばれる地域に入ると、雰囲気が一変する。ちょっと不自然な感じがするとでも言えばよいのだろうか。古くからの建物もあるが、比較的新しい集合住宅が目立つ。ロンドンの街並は、戦災を経ているにもかかわらず、過去からの時間が綿々と続いているような風情がある。しかし、ここにはそのような連続性が感じられないのである。
ドック・ランドは、その名が示す通り、もともとは造船所が数多くあった地域だ。英国の造船産業は1950年代にその役割を終え、その後この地域は廃墟のようになっていたそうだ。1970年代になって再開発計画が立てられ、紆余曲折を経て、この地域の北部には金融街が作られ、南側は瀟酒な住宅街となった。今でも開発は続いており、建築中のビルや住宅があちらこちらにある。
去年は、このドック・ランドの南端近くにある、Mudchuteという地域を歩いていたら、キツネが現れた。このあたりには、公園とそれに続く小さな牧場がある。牧場の縁に遊歩道があり、たまにここを通ると牛が草を食んでいたりする。今日はキツネも牛もいなかった。
牧場を過ぎると、ASDAという大きなスーパーがあり、そこを過ぎるとオフィスビルが目立ち始める。South Dockという川のようなものを越えるとCanary Wharfという金融街になる。米系金融機関の英国現法が数多くあり、先頃話題になったリーマン・ブラザーズもこの一画にある。英国の金融機関も、英国金融庁もここにある。地下街も整備されていて、英国での主要なブランドショップは全て揃っている。必ずしも好立地というわけではないのだが、平日の昼間はかなりの人出がある。さすがに、今日は人影がほとんどない。
毎日見ている風景なのに、クリスマスの朝は、やはり特別な日であるように感じられる。人の気配の有無というのは、風景の構成として大きなポイントになると思う。もともとそこにいた人たちが、突然いなくなってしまったかのような風景というのは、キリコの絵のような、妙な不安を醸し出す。おそらく、大自然のなかに、突如、人間の団体が現れたら、やはり妙な感じがするだろう。器と中身の関係には、健全なバランスというものがあるような気がする。
「徒然草」の底流にあるのは、仏教的な無常観とそれに基づくミニマリズム的思想だ。ミニマリズムというのは「足るを知る」という考え方と言ってもよいだろう。
人はいつの世でも名利を求めるものであるようだ。そうした欲望があるからこそ、身を立て名を揚げんがために粉骨砕身する人が現れ、それが時に時代を変えるような創造あるいは破壊を生み出し、歴史が刻まれてきたのである。しかし、自分の外にあるものを追い求めている限り、欲望というものは永久に満足されるものではない。そこに邪心が生じ、不正をしてでも名なり利なりを得ようとする者も現れる。そうした世俗の姿を醜いと感じ、そこから距離を置こうとする価値観も同時に現れるのだろう。
兼好は、おそらく、名利を求めた時代もあっただろう。そして、人のむき出しの欲望というものの醜さを目の当たりにしたこともあったのだろう。だからこそ、遁世という道を選んだのだと思う。平凡だけしか知らない人間には名利も遁世も語ることができない。物事の表しか見たことが無い人に、裏の世界を想像することはできないし、極端を知らない人に中庸を語ることはできない。
「遁世」というと仙人のような浮世離れした生活を思い浮かべてしまうが、思いの外、波瀾万丈があったのだろう。結局、知恵というのは、思い悩み、決断を下して行動を起こし、その結果を受容して思考や発想が深くなる、という過程を経て身につけるものだろう。解釈ばかりしていて自分で行動を起こさないのでは、いつまで経っても経験することができないから、思考が深くならない。
読み始めたのは5月だが、今ごろになって漸く読み終えた。本文自体は長いものではないのだが、古文なので注釈と本文を行ったり来たりしながら読んでいるうちに時間が経ってしまった。第十八段については5月4日付「幸福な生活」にも書いている。
情けないもので、こういう時にどうしたらよいものか咄嗟にわからない。とりあえず、出勤してから不動産業者に連絡して指示を仰いだ。家主に連絡するという選択肢もあるのだが、私は英語が不自由なので、電話と郵便以外に連絡手段を持たない家主よりも、メールで意志の疎通を図ることのできる不動産業者のほうを頼ってしまう。しばらくするとメールの返事が届いた。家主に連絡したところ、すぐに電気工事業者を手配するよう依頼されたので、そのようにしたという旨のことが書かれていた。ほどなく電気工事業者から私の携帯に電話が入った。これからすぐに行く、という。すぐに来られても、職場にいて家にいないので、翌日の朝にきてもらうことにして電話を切った。
果たして今日の朝、立派な体格をした初老の男性が道具箱を持って現れた。温水器は極めて単純な仕組みである。タンクに水をため、それをヒーターで温めるだけだ。修理といっても、テスターで機器の通電を確認し、作動しなくなったヒーターを交換するだけだ。慣れた様子で作業はすぐに終わり、男性は悠々と引き揚げていった。
何か困ったことが起きた時、最も手っ取り早い解決方法は、そのことを知っている人に尋ねることだと思う。以前読んだ小説に、人をひとり知ることは図書館1つ分の新たな知識を得るのに等しい、というようなことが書いてあった。図書館といってもいろいろあるが、あながち大袈裟な物言いでもないだろう。
人ひとりができることはたかが知れている。3本の矢の逸話ではないが、人は他者と関係することで存在意義を得るのであり、何事かを成すことができるのである。当然のように人は集団として行動する。家族、地域、組織、国家、民族、その他諸々と集団の単位は様々でも、何がしかの集団への帰属意識を持って生きている。そして、自己の領域は自分自身だけでなく、自分が帰属していると意識している集団にも及んでいる。
温水器が故障して困った、それを他人に相談したらすぐに解決した。それだけの些細な出来事だが、そこに人と人とのつながりが機能している。そういうつながりを感じることが人としての普通の幸せでもあると思う。
カレンダーは気に入ってもらえてよかったです。去年に比べれば写真のストックもかなり増えたので、作成するのも楽しくできました。
ヘイスティングスは今は単なる海辺の保養地ですが、英国人なら誰もが知っている町です。1066年のヘイスティングスの戦いに勝ったノルマン朝のウイリアム1世が現在のイギリス王室の起源とされているからです。それから20年後には現在のロンドン塔を築城し、居城をヘイスティングスからロンドンへ移し、今日に至っています。ノルマン朝はもともと現在のフランス北部にあった王国です。ウイリアム1世はそのフランスのほうの王も兼ねており、そちらではギョームという名前で、墓に刻まれたのもこちらの名前です。その後、現在に至るまでイングランド国王の座を巡り数々の権力闘争を経て現在のエリザベス2世はハノーバー朝の血統です。但し、今「ハノーバー朝」という名称は公式には使われず、ウィンザー朝と呼ばれています。何故名前を変えたかというと、ハノーバー朝はドイツ由来の王朝で、二つの世界大戦でドイツはイギリスの敵国だったからです。敵の国の出身の王様、というのはいろいろまずいでしょ。
サンタの写真は、特にイベントというわけではなく、なんとなくあちこちからサンタの恰好をした人たちが集まって、広場の銅像にみんなでよじ登ってみたり、馬鹿騒ぎをしていただけのようでした。今年はこのような風景には出会いませんでした。景気が悪い所為なのでしょうが、去年に比べると町全体に活気が無いように見えます。
ナショナルジオグラフィックは最近読んでいないので、どのような記事構成になっているのか知りませんが、野生の動植物が豊富に生息しているのは途上国ですから、このふたつの話題は切っても切れないということなのでしょう。先日、自然史博物館というところでネイチャーフォトという自然を対象にした写真の展覧会があったので観てきました。主催がイギリスの団体なので、参加者はヨーロッパや旧英国植民地の人たちが多いのですが、写っている場所は世界の様々なところで、北海道で撮影された白鳥の写真もありました。(撮影したのはアメリカ人)出品しているのは、殆どがプロのカメラマンですから、それなりの写真なのですが、個人的にはこうしたプロの写真よりも10歳以下の部の入選作のほうが面白い写真だと思いました。子供ですから、使っている機材も撮影の技術もプロに比べて当然見劣りするのですが、撮影する絵として選んだ風景が自然の奥深さを素直に表現していて、プロの写真よりも感動的でした。
シーパラは楽しそうでなによりです。帰国したら、畑仕事を手伝って欲しいという人がいて、週末などを利用して出かけるつもりなのですが、一緒に来ますか? 今すぐどうこうということではないので、考えておいて下さい。
期末テストは少し残念でしたね。それでも全体としては手応えのある結果だったようでよかったです。何度も言うように、点数それ自体はどうでもよいことです。何をどうしたら、どういう結果がでるのか、ということを考えながら勉強するとよいと思います。英語は困りましたね。世界に数ある言語のなかで、英語は簡単なほうです。だからこそ、世界にこれだけ広まったのです。おそらく、スペルを覚えるとかイディオムを覚えるといった、暗記作業が苦手なのではないかと想像しますが、つまらないことでもやらなくてはならないことというのは、世の中にたくさんあるものです。何度も書いて、何度も声に出して覚えるようにするのが結局一番確実な方法ではないかと思います。あと、たくさん英語を聞くようにしたら良いと思います。英語のラジオ講座とか、ポッドキャスティングを利用するとよいでしょう。この冬休みに、全科目の問題点を洗い出し、3学期に備えておくようにしましょう。何が自分にとって問題なのか、それを克服するにはどうしたらよいのか。よく考えて行動してください。
では、悪い風邪などひかないように、手洗いとうがいをしっかりして、栄養のバランスを考えた食事を心がけてください。
昨日はロンドン塔だけでなくGeffrye Museumも訪れた。ここは英国の典型的なmiddle class家庭の居間の変遷を展示している博物館である。18世紀に養老院として使われていた建物を利用しており、博物館の外観はmiddle classの住宅というわけではない。
なぜ「middle class」と表記して「中流階級」とか「中産階級」という語彙を使わないかというと、意味が一致しないからである。困ったことに「middle class」の語感は英語と米語の間でも異なるそうだ。さらに困ったことに、この語の意味するところが時代と共に変化している。
最近、日本では「格差社会の到来」などと言われているようだが、意識調査を行えば圧倒的多数の人が自分は「中流階級」に属していると回答する。こうした現象は米国でも見られるそうだ。ところが、英国では多くの人が「労働者階級」に属すると回答するという。これは英国での「labour class」と日本語の「労働者階級」の語感に違いがあり、英国英語には「労働者」にそれほど否定的なニュアンスが無いという事情もあるのだそうだ。英国において社会階級を「upper」、「middle」、「lower」と分けるのは所得水準よりも教育や家庭環境に拠るところが大きいという。周知の通り、英国議会は労働党と保守党による二大政党制である。現ブラウン政権も、その前のブレア政権も労働党である。トニー・ブレア氏の生い立ちは、エリート中のエリートと呼べるほどのものであり、日本語の「労働者」の語感からはほど遠い。
ちなみに、かつてゴルバチョフが日本を「世界で最も成功した社会主義国」と評したのは有名な話である。日本人のセルフイメージとは裏腹に、外国から見た日本の「中流階級」は、「labour class」に近いということなのだろう。
さて、博物館ではmiddle classの住宅の居間を1630年、1695年、1745年、1790年、1830年、1870年、1890年、1910年、1935年、1965年、1998年の順に展示している。家庭内での男女の役割の分化、公私の分離といった流れがインテリアという物理的風景の中に読み取ることができる。また、調度品類も社会の豊かさの進展とともに変化しているのが興味深い。
個人的には陶器の位置づけの変化が面白かった。初期においてはガラス器が高価なので、ほんとうはガラスが欲しいけれど陶器で我慢する、というような使われ方だったという。ところが、中国から、それまで見た事も無いような絵柄や形状の陶器が大量に流入するようになると、実用品というよりは装飾品として広がりを見せるようになる。また、英国といえば紅茶も代表的嗜好品だが、初期のティーポットは小さい。これは陶器が単純に大きさに比例して製作の難易度が上がるという事情が影響していないわけではないが、より大きな要因としては古くは紅茶が貴重品であり、大量に消費されることがなかったからである。最初、紅茶は薬として少量ずつ消費された時代があるのだそうだ。
英国では紅茶に砂糖とミルクを入れて飲まれることが多いのだが、こうした飲み物が普及すること自体、英国の国力の強さを象徴している。紅茶の茶葉はインドや中国から輸入され、砂糖はカリブ海諸島から輸入される。そこに地元の酪農家で産するミルクを加える。英国を中心に東西から長い距離を運ばれてきた産物が大量に消費されるということが何を意味するのか、言わずもがなであろう。
そういう国の「middle class」が新興国や全く異なる歴史を持つ国のそれや中流階級とどの程度同じなのか、あるいは違うのか、ということは一考に値するだろう。
それにしても、自分がどの社会階層に位置するかという意識調査というのは馬鹿げたことである。どの階級に属したからどうだというのだろう?
ロンドンは入場無料で質の高い博物館や美術館がいくつもあってよいと思っていたが、なかには驚くほど高額の入場料を求められるところもある。キュー植物園が13ポンドで、ロンドン塔が16.5ポンドだ。どちらも世界遺産に登録されていて、維持にそれなりの費用がかかるということなのだろう。さらにロンドン塔の場合は、貴金属や宝飾品も収蔵されているので、その保険料も少なくないだろう。
クリスマス前の最後の日曜日は物見遊山で市内を徘徊している奴などいないだろうと思って心躍らせながら出かけたのだが、夏場の観光シーズンほどではないにしても、けっこう人出があるものだ。
漱石は2年間のロンドン留学中に一度だけ、着後間もない冬の日にロンドン塔を訪れたと「倫敦塔」にある。私には漱石が目にしたような幻影は、何一つ見ること能わなかった。見物客が多い所為もあるのだろうが、私の感性が鈍いというのが最大の理由だろう。文豪と称される人と比較してはいけない。少し期待感が強すぎたということもあるかもしれない。その歴史からして、もう少しおどろおどろしい雰囲気があるのかと思っていた。尤も、過去を知らなければ風景から読み取ることのできる情報は薄っぺらなものでしかない。かつてダッハウの強制収容所跡を訪れた時、そこだけ見れば悲劇の跡を感じることはできなかった。抜けるような青空の所為もあったかもしれないが、それだけ今が平和だという現実の所為もあるだろう。人を見るときも同じことが言えるのだろう。ひととなりを判断するのに、あまり深いことは考えずに今の印象から自分に都合のよい情報だけを取り出して勝手に相手のことを決めつけているものだ。それで多くの場合は不都合は無いのだが、付き合いが深まり、相手を理解する努力をすることなく距離感だけが縮まってしまうと様々な違和感に襲われることになる。現在の姿は過去の蓄積の上にあるという当然のことを肝に銘じておかないと期待と現実の差に戸惑うことになる。
ロンドン塔の正式名称はHer Majesty’s Royal Palace and Fortressであり、宮殿兼要塞だ。歴史的には監獄であった時代もあり、囚人としてここに投獄されると生きて出るのは稀であったとされている。多くの人々がここで処刑されおり、その方法は一様ではなかったそうだが、ジェイン・グレイが描かれた絵の影響か、英国の処刑と言えば斬首と思ってしまう。犯罪者や政敵の命を奪うのに、その首を切り落とすというのはどこの文化でもよく見られるものだ。人は首というものに、その根源的な存在の象徴を見るのだろうか。
程度の差ということでしかないが、城のもともとの姿に興味がある人にとっては、ここよりもドーバー城のほうが興味深いかもしれない。世界遺産に登録されているとはいえ、ロンドン塔は現役の宮殿であり、ロンドン屈指の観光地でもあるため、外見は往時の姿でも中身は現代そのものだ。ドーバー城も1995年まで軍事施設として本来の目的のためにつかわれていたが、現在はEnglish Heritage管理下にある文化財で、外も中もなるべく元の姿を維持するように配慮されている。入場客数もロンドン塔とは比較にならないほど少ないであろうし、ドーバーのほうが落ちついて歩くことができると思う。(2008年7月12日付「備忘録 Dover」参照)
テムズ川の対岸から眺める佇まいは「倫敦塔」にもあるように様々の歴史的事件を想起させるのに十分なものだ。中に入ってみたり、遠くから眺めてみたり、歴史のあるものはいくらでも楽しむことができる。
子供の頃から博物館というものが大好きで、今でも旅行などで初めての街を訪れると、必ず博物館へ足を運ぶ。このブログでは美術館の話題のほうが多いのではないかと思うが、絵画や彫刻を好んで眺めるようになったのは40歳を過ぎたあたりからである。子供の頃も今でも、最も好きなのは秋葉原にあった交通博物館だ。大宮に移転してからは訪れる機会に恵まれていないのだが、帰国したら是非行ってみたいと思っている。
海外では戦争関係の博物館を訪れる機会もあるが、自分が当事者であったわけでもないのに、どこか敗戦国の国民として、居心地の悪さのようなものを感じることがないわけでもない。キャンベラの戦争博物館を訪れた時には、日本軍によるダーウィン爆撃のテレビ映像がエンドレスで流されていた。それを眺めていた時、前にいた子供が振り返って私の顔を見上げた。ただ、「あ、この人日本人だ」という好奇のまなざしを感じただけで、そこに嫌悪とか敵意のようなものは感じなかったのだが、その時の、えも言われぬ感覚はいまだに拭い去ることができない。シンガポールには日本による占領時代を説明したものがあって、やはり多少は後ろめたいものを感じた。
今日は空軍博物館(Royal Air Force Museum)に出かけてきた。英国の博物館の特徴として、実物をふんだんに展示するという手法があるように思う。ヨークの鉄道博物館もそうだし、大英博物館もそうだ。この空軍博物館は、展示されているのが航空機で、それが空軍の草創期から現在に至るまでを網羅しているのだから、その規模の大きさが並外れている。あまり予備知識もなく出かけてみたのだが、これほど大規模なものだとは想像していなかった。
昨日も書いたが、英国には「世界初」が多い。軍事技術などは、ただでさえ、その時々の最先端のものが投入されるのだからなおさらである。実戦で長く使われたものもあれば、プロトタイプで終わってしまったものもある。その違いは、運もあるだろうが、経済性も含めた使い勝手の善し悪しにあるように思う。英国製の機体で最も広く使われたのはSpitfireではないだろうか。しかし、第二次世界大戦後は英国の航空機企業は次々に姿を消し、現在はBAEシステムズに統合されている。技術の高度化に伴って開発費用や製造費用も上昇しているため、航空機産業は民間企業が単独で事業を行うことのできるものではなくなってしまった。結果として、米露のような超大国だけがこの産業を継続することになったが、それとても、同盟関係諸国との開発分担や製造分担に拠っている。
費用が巨大化するのは軍事産業に限ったことではない。製造業も金融業も小売業も同じことである。市場経済という基盤の上では、一事が万事全てというわけではないが、より多額の投資をして質量ともに高水準の経営資源を投入したほうが、提供する製品やサービスの競争力は向上する確率が高くなる。競争力の向上とは必ずしも生産物の性能だけではない。経営の規模拡大によって単位あたりの固定費が低下することも価格引き下げ余力となり、競争力を向上させる。
しかし、資本の集中が進行すれば、製品やサービスの画一化も進む。それが消費者の購買意欲を削ぐことになり、需要の低迷をもたらし、更なる資本の集中を促進する。典型的な例としては各種家電製品、パソコン、携帯電話、デジタルカメラなどを挙げることができる。以前は高額商品だったが今ではコモディティだ。当然、生産者の淘汰も進み、実体としては最盛期の半分以下の市場参加者になっているのではなかろうか。単価は高いが、自動車も傾向としては同じような流れのなかにある商品だ。金融業も同じだろう。私が社会人になった頃は都市銀行と呼ばれる全国展開をしている商業銀行が13行もあったし、証券業も「大手4社」と言われていた。今残っているのはどれほどか。小売店にしても、百貨店の統廃合に象徴される状況となっている。ちょっと前まで、三越と伊勢丹が合併するなど想像すらしていかなった。
一方で、巨大化することが強力化を意味しないという状況にもなっている。ベトナムで米軍がどうなったか、アフガニスタンでソ連軍がどうなったか、という事実は確認しておいたほうがよいだろう。湾岸戦争は結局どうなったか。武力制圧とそれに対抗するテロの連鎖がとどまるところを知らない。巨大化した金融機関は、生み出す損失も巨大化して呆気なく倒産したり公的資金のお世話になったりしているが、この暴落相場で大儲けをしているファンドもあるはずだ。百貨店の売上が減少を続けていても、ユニクロは増収増益だ。
要するに、ゲームというのはルールを共有していなければ成り立たないのである。昔、モハメット・アリとアントニオ猪木が試合をしたことがあった。あの試合が象徴しているようなことが、国と国の間や、企業と企業の間に広がっているのが今の時代であるように思う。巨大だからといって安心することもできないし、弱小だからといって悲観することもない。自分でルールを作ってしまえば、選択肢は無限にあるということだ。
話はいつものように脱線してしまったが、書こうと思ったのは、英国まで来ると、アジアや環太平洋地域とは違って、先の大戦での日本の影が薄いので、比較的安穏と博物館の展示を眺めていることができる、ということだけだ。
実は、現在の地下鉄路線図の原形がロンドン地下鉄の路線図なのである。正確には、ロンドン地下鉄でダイヤ作成や路線図のデザインをする仕事に従事していたHarry Beck氏が考案したものである。氏の最初の作品が1931年に発行されたベルリンの地下鉄路線図であり、ロンドンのそれは翌32年発行だ。勿論、路線図自体は地下鉄開業時からあったが、初期のものは既存の地図に地下鉄路線を書き込んだような体裁のものである。
路線や駅が少ないならば、路線図の意匠など気にする必要もないだろう。しかし、それが網の目のように発展すれば、路線図が同様に網目のようになってしまうと、見にくくなり、何のための路線図なのだかわからなくなってしまう。利用者が知りたいのは、A地点からB地点へ移動するのに、どの線を利用し、どこで乗り換えるのが効率的かということであろう。一見複雑なものでも、ある意図に基づいて必要な情報とそうでないものとを取捨選択すれば、思いの外単純化ができるものである。この点において、現在、ロンドンは勿論、東京でもベルリンでもパリでもマドリッドでもソウルでも、地下鉄網の発達した都市ではどこも似たような路線図が使われている。
英国には「世界初の」というものがたくさんあるのだが、科学技術だけでなく意匠の世界でも既存の考え方にとらわれずに合理的な発想をするという文化があった。世界に新しいものを次々と発信し続けるというのは歴史上の偉業だと思う。新しいことを考え出し、それを誰もが利用できるようにするというところに、真の偉大さがあるように思う。
ちかごろは「知的所有権」などと、つまらないものにまで自分の所有権を主張して、それでささやかな利益を得ようなどとする雑魚のような輩が多いように感じられる。以前、知的所有権侵害の被害者に弁護士と裁判費用を斡旋し、侵害者に対して訴訟を起こし、損害賠償を獲得した暁に成功報酬をいただくという仕事に関わったことがある。マスコミを使って、記事に取り上げてもらったら、問い合わせや訴訟依頼が殺到した。そのいくつかを拝見させていただいたが、訴訟に耐えるほどの独創性や新規性のあるものは皆無だった。
人の発想というのは、それほど大きな個人差があるわけではない。もし、そこここに独創的な人がいたら、そもそも社会の秩序というのは成り立たないかもしれない。時に、世を揺るがすような大事件もあるけれど、人間社会が今日まで続いていること自体、人間の物事に対する考え方が大同小異であることの証左であろう。自分だけが何か突出したものを持っているかのように思うのは、単なるエゴの肥大に過ぎない。
それでも、もし、自分が他人よりも優れたものを持ち合わせていると考えるのなら、それを公開して、広く世間全体の利益になるようにしようと考えるほうが、はるかに自分自身にとっても有益ではないだろうか。自分だけでは思いもよらないような発想の展開を得て、それこそ世の中を良いほうに変えるかもしれない。ひとつひとつは些細な思いつきでも、それが数多の別の発想を誘引し、世の中を豊かにするようなものにつながれば、そこで生活する自分自身の利益にもなる。利益というのは端金のことではない。気持ちよく生きることだ。
地下鉄の路線図を眺めながら、上手いことを考えたと思うと同時に、それが世界各地で使われていることを知り、この国の偉大さというものも感じた次第である。
参考文献:Mark Ovenden “Metro Maps of the World” Capital Transport 2005