熊本熊的日常

日常生活についての雑記

思い込みを放置していないか?

2006年06月28日 | Weblog
職場近くの郵便局に所用があって出かけた。貯金の窓口に用があったのだが、時すでに14時45分。番号札の発券機によれば待ち人数16。これは今日は無理かなと思いつつ、順番を待つことにした。ビルの中にある郵便局なので規模は小さく、担当している職員は2名。住宅街の特定局では訳の分からぬ客が出現して事務が滞ることも珍しくないのだが、ここでの作業は流れるように進んでいる。あっという間に自分の番が来て、用が終わったのは14時55分だった。いろいろな金融機関の窓口にいく機会があるのだが、郵便局の事務処理は最も迅速だと思う。

郵政民営化の議論のなかで「官=非効率、民=高効率」という暗黙の前提があるように感じられる。問題解決の基本は、正しい現状認識であろう。まず現実を観察して問題点を適切に認識することが議論の前に必要である。身近な出来事を敷衍することはできないが、世の中で話題になっている論議のなかには、議論の前にきちんと準備をしたとは思えないものもあるような気がする。

せめて自分の生活においては、物事を観察してから考えるということを心がけたいと思う。

嫌な場所

2006年06月27日 | Weblog
辻厚成展を観に渋谷で出かけた。何度来ても、この町は好きになれない。どことなく垢抜けなくて、人と霊とが渾然一体となって彷徨っているような雰囲気を感じるのである。特に西口のスクランブル交差点からセンター街に抜ける道は、歩いているだけて吐き気を催す。このあたりの地形は、土地の名前からもわかるように谷地である。大雨が降ると、このスクランブル交差点は水浸しになるが、ここで宇田川と渋谷川が合流しているのである。尤も、どちらも暗渠なので外からはわからない。西武百貨店のA館とB館が地下でつながっていないのは、そこが宇田川の暗渠になっているからだ。宮益坂は、古墳時代に墳墓が並んでいた場所。現在のスクランブル交差点があるあたりを見下ろすように墓がならんでいたという。ちなみに、神泉には火葬場があったそうだ。スペイン坂を登り、パルコの並ぶ交差点がある高台まで来ると、ようやく一息つくことができる。谷は嫌いだ。

苦痛の少ない老い方

2006年06月26日 | Weblog
アンリ・カルティエ=ブレッソンのドキュメンタリー映画を観た。死の直前、アンリ自身が自分の仕事を回顧するという作品だ。改めて写真というメディアの力を感じた。そこに写っているのは一瞬の現実だが、それが物語るのは過去の記憶であり未来への示唆である。時間は連続している。

映画を観ていて気になったのは、登場人物の老い方である。加齢とともに身体は肥満し、締まりというものが失われていく。もう少し健康管理に気を配ればよさそうなものだと思う。

枯れるように死ぬのが最も苦痛が少ないのだそうだ。自分も歳を取ってわかるようになったのだが、加齢に伴って代謝が緩慢になれば、所要エネルギーは少なくなるのに、食欲の減退は代謝のそれに比例しない。食欲に素直に従うと、自然に過食になってしまうのである。自然に任せるというのは不健康な習慣が増えるということでもあるらしい。人は体内に自爆装置を持っていて、適度に健康を損なうようにできているのだろう。枯れるように老いるというのは、かなりストイックな生き方を要求されるようだ。

親は神にあらず

2006年06月25日 | Weblog
父“ICU”で暴力 高1長男とあつれき (共同通信) - goo ニュース
人は親として子供に対する時、自分が神であるかのような錯覚に陥るものらしい。何が正しくて何が間違っているのか、何をなすべきで何をなすべきではないのか、自分のことすらろくな判断を下すことが出来ないくせに、子供に対しては全知全能であるかのように振る舞う。本人は子供のためと思っているふりをしているが、実のところは単なる自分の見栄だったりする。気の毒なのは子供である。生活を親に依存せざるを得ない状況にある以上、どんなに間抜けな親であっても、その関係を断つことは困難である。結果として精神的に追いつめられてしまう。火災が身内だけでなく、周囲に被害を及ぼしたら、問題は家庭内に留まらなくなってしまう。親子であっても、自分と自分以外の人という人間関係の基本は変わらないはずなのだが、子が自分の一部のように感じている親は少なくないだろう。個人という概念が希薄な社会では、今回のような事件が起こりやすいのだろう。

不健康日和

2006年06月24日 | Weblog
自宅の向かいで家の建築工事が進行している。朝8時頃から夕方5時半までたいへん騒々しい。このことは深夜に帰宅する身にとっては睡眠時間の削減を意味する。尤も、この工事がなくとも朝6時過ぎから掃除機の音が轟わたる環境なので大きな違いはないとも言える。

睡眠不足が続いているせいか頭が重い。体調も良いのか良くないのか判然としない。プールで泳いでみると特に違和感はないので、不健康であるとしても深刻な状況ではないのだろう。それにしても、一刻も早くお向かいが竣工することを念じている。

まだ大丈夫らしい

2006年06月23日 | Weblog
世間では今日が給料日というところが多いらしい。どこの銀行もATMの前には長い列ができている。月末接近というのも銀行が混雑する理由のひとつだろう。オフィス街の喫茶店では店内のあちこちから様々な職種の作戦会議のような声が聞こえてくる。こんな光景を見ていると、この国はまだちゃんとまわっているように思える。

ジャコメッティを観に

2006年06月22日 | Weblog
ジャコメッティの作品展を観に葉山まで出かけた。平日だというのに逗子までの電車は乗車率が高く、みんなどこへ行くのだろうと思いながら乗っていた。降車する客が多かったのは北鎌倉と鎌倉だった。車窓からは寺院とそこへの参拝客、そうした客を目当てにした人力車などが見えた。鎌倉というのは人気スポットらしい。

ジャコメッティの名前は聞いたことがあったが、その作品を鑑賞するのは今回が初めてだ。若い頃の写生から晩年の作品まで、絵画から彫刻まで揃っている。「見えるままに表現する」ことに徹底的にこだわった作家だったそうだ。彼の目に見えていたのはこういうことだったのか、とはじめは驚く。しかし、よくよく考えてみればなるほどとも思う。

物事の認識は誰もが同じという前提で社会はできあがっている。しかし、自分が見えているように、別の人にも見えているのかどうか、実は確かめようがない。日常生活に大きな障害がない以上、色や形、臭いなど五感で知覚するものは共通であるのだろうが、その解釈には個性があるように思う。自分の限られた経験から言うなら、言葉については意味の理解や語彙の運用に微妙な個体差がある。そして、それが共同生活を営む者どうしの間で、時として、決定的な軋轢を生む。さらに時として、その軋轢はとりかえしがつかない。五感の対象についても、言葉程ではないにしても、感性の個体差が認識のギャップを生み出していると思う。

解釈や感受性の個体差を当然のこととして受け入れられる関係ならば、おそらく心地よいであろう。正解か不正解かという二元論的世界観の持ち主とのあいだでは、どれほど些細な個体差も軋轢につながるだろう。そして、それは話し合いでどうこうなる性質のものではない。袂を分かつか殺し合うしかない。それが現実の世の中だ。だから生きることはしんどいのである。せめて自分の生きるささやかな世界には、心地よい関係のひとつやふたつは確保したいものである。

世界の根源

2006年06月21日 | Weblog
物事は突き詰めると単純なものになるのかもしれない。見慣れた風景が点の集合でしかなく、自分の身体が水と少しのミネラルでしかないように、世界が抱える厄介な問題も単なる誤解でしかないのかもしれない。

国立近代美術館で吉原治良展を観た。はじめは写実的な絵を描いていたのが、徐々に描く作品が抽象化され、最後は大きな円になるというのが面白かった。晩年に円を描く画家としてすぐに思い浮かんだのが熊谷守一で、墨絵の世界では誰彼ということなく頻繁に目にする。

物事を観察し、その成り立ちを探っていくと、それが物理的な世界であれ、形のない世界であれ、単純な要素に分解できるのだろう。そうすることで、世界の理解はより容易になり、応用的な物や考え方が生み出されることになる。この大本の認識がきちんとできれば、世界は輝いて見えるのだろうし、たとえ大本のことが見つけられなくても、ある程度世の中をシンプルに理解できるなら些細なことに心乱されることもないのかもしれない。

丑の日予行

2006年06月20日 | Weblog
地下鉄の駅で配布されている情報誌を開いたら鰻重の写真が載っていた。おいしそうだったので、その鰻重を食べに浅草まで出かけた。

創業1861年だそうだが、小さな店である。その敷居の低さがよい。元気のよい主人が焼く鰻はホクホクして香ばしく、たれの旨味とご飯の食感と見事に調和している。自分の家の近所にこんな店があったら、きっと常連になっていると思う。

歳をとると

2006年06月17日 | Weblog
週末の夜は近所の公営プールで泳ぎ、帰りにモスバーガーに立ち寄って、ちょっとしたものを食べたり飲んだりしてくる。空腹というより、イートインの席で他の客を観察しているのが楽しいのである。毎週、同じ時間帯に行くのだが、常連客はいないらしく、多くの人を観察することができる。

傾向としては、若い人たちは他愛のないおしゃべりに興じていることが多く、年配の人たちは愚痴をこぼし合っていることが多い。人は歳を重ねる毎に、辛いことが増えるものらしい。自分も年配の部類に属するので愚痴をこぼしたくなる気持ちはわからないではない。しかし、不平不満を無関係な人に話したところで問題が解決するはずもなく、かえって些細なことで思い悩む己の器の小ささにがっかりするだけだろう。愚痴を話している本人は「一生懸命生きているのに理解されない可哀相な私」という悲劇の主人公を演じることができて気持ちが良いのかもしれない。聞かされるほうは退屈なだけである。迷惑なことだ。今日は年配客がいない。平和な店内だ。

本を読んで涙を流す

2006年06月15日 | Weblog
本を読んで涙を流したのはいつ以来のことだろう。昨日、たまたま職場近くの書店で手にした「水曜の朝、午前三時」という本を読み終えた。

末期癌で死を間近に控えた45歳の女性が娘に宛てて遺言のテープを遺す。自分が若かりし頃の恋愛の話が主だが、そこに込められたメッセージは己を知れ、ということだ。自分自身と向かい合い、自分がほんとうは何をしたいのか、どのような人間になって、どのような人生を送りたいのか、よく見極めろ、ということだ。

人の生活というのは雑音に満ちている。そうした雑音に惑わされて、気がつけば不本意な人生を送っていたというのはよくあることだろう。不幸ではないが幸福でもない宙ぶらりんな人生というが平均的な姿なのではないだろうか。しかし、命というのはそんなもののためにあるのではない。何かに思い悩む時、この作品を読むと、少しだけ上を向いて歩きだしたくなる、ような気がする。

いわさきちひろという人

2006年06月14日 | Weblog
いわさきちひろという人の絵本や絵はみたことがあっても、その人については全く知らなかった。男か女かということすら知らなかった。今日、上井草にあるいわさきちひろ美術館を訪れてみて、その作品だけでなく人となりについても初めて知るところとなった。正直なところ、作品のほうには興味は無いのだが、その生活史については興味深いものがあった。

作家、画家、妻、母という様々な役割を一身に背負いながら創作活動を続け多くの人々を魅了したのは、その才気の故なのだろう。しかし、何事にも限界というものがある。年譜を見て気付いたのだが、それまでの義父母の介護に、自身の母親の介護をするようになった翌年に病に倒れている。家政婦を2人雇っていたというが、心の負担は家政婦の数とは無関係であったことだろう。

本当のことはわからないが、残された作品や夫、息子の書いたものを読む限り、充実した人生であったように思う。少なくともそう見せるだけの力を感じる。その原動力となったのは、自分が情熱を傾ける対象をしっかりと掴んでいたということなのだろう。誰にでもできそうだが、稀なことである。

みんないっしょ

2006年06月12日 | Weblog
コーヒー教室の今日のお題は「モカ」。コーヒーの起源とされるイエメンのモカ港にまつわる話を聞きながら、3種類のモカを飲み比べた。

新聞の商品欄でもたまに見かけるが、コーヒーの需給は長期的には逼迫しつつある。新興諸国での消費量が増加する一方で、供給が減少しているからだ。コーヒーは経済効率の良い農作物ではない。それにもかかわらずこれまで生産が続いているのは、自然環境の厳しい場所で生育するため、置換作物の選択肢に限りがあることと、主要消費地が先進地域であるため、市況が比較的安定していたためだ。しかし、ドラッグ系農作物のような末端価格が高い作物が作られるようになったことや、先進地域の経済成長が鈍化してきたことで、コーヒー産地を取り巻く環境も変貌しつつある。

おいしいコーヒーが飲めなくなることは寂しいことだが、生産者にも生活というものがある以上、コーヒーを作り続けるインセンティブは乏しい。こうして、世界は経済効率を追求していく。その先にあるのは画一化された世界である。

健康日和

2006年06月09日 | Weblog
激しい雨のなか、原宿から10分ほど歩いてヨガの教室にたどり着いた。行くまでは億劫だったが、終わってみれば来て良かったと思う。ヨガの後、教室近くの定食屋で昼食をいただく。その店は米にこだわりがあるらしく、自社で新潟に田んぼを持ち、コシヒカリを作っているという。こだわるだけあって、この店のご飯はおいしい。おかずがいらないほどだ。不思議なことに、おいしいご飯を食べた後はデザートが食べたいとは思わない。今日は、夕食もサラダと鴨せいろである。毎日このような食生活なら、人生が変わるのかもしれない。

価値

2006年06月07日 | Weblog
投資用マンションのセールスの話をたまに聞く。最近持ち込まれる案件は半年前に比べて値上がりしている。1戸あたりの価格はそれほど変化が無いのだが、場所が都心から離れている。先日は都下、今日は都内だが川向こうである。不動産に関しては、投資のタイミングは過ぎてしまったような気がする。

それにしても、どの世界でも営業というのは大変な仕事だ。楽なセールス、楽しい営業というのは、自分が売る商品に自信があるときだけだ。そんな商品というのはそもそもあるのだろうか。あるとすれば、自分が作ったもの、あるいは自分自身だろう。

現実には、市場で売買されるものは、その価格決定のロジックやメカニズムが明朗ではない。その不透明なところが時に「価値」と呼ばれたりする。要するに自分では理解できないけれど、なんとなく世間の評価が固まっているものがある。その得体の知れない暗黙の合意が膨張した状態がバブルと呼ばれる空気なのだろう。

自分の身の回りのことをきちんと理解するというのは、思いの外難しい。だから、世間の評判に無闇に寄りかかる人が多いのである。そしてそのことが世間をますます肥大化させる。