熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「春の雪誰かに電話したくなり」

2012年02月29日 | Weblog
朝から雪。東京の雪は水分が多いらしい。ときどき上の方から「ドサッ」と大きな塊が落ちて来る音が聞こえる。雪が降るくらい寒いので、外出はせずにほうとう鍋を作っていただく。一人暮らしで鍋を作ると、一食では食べきれないので、昼と夜を同じ鍋汁ベースにして、内容を多少変化させる。今日の場合、昆布と鰹節でだし汁を作り、それで里芋と南瓜を茹でる。8割方茹で上ったところでほうとうを入れ8分程度さらに煮込む。そこへ長葱、しめじ、椎茸を加えてさらに3分煮込む。最後にほうとうに付いていた味噌を溶き入れて、ざっと馴染ませて出来上がり。こういうものを作っているときは、本当に囲炉裏のある家で暮らしたいと思う。自在から吊った鉄鍋にこんなものが炭火でぐつぐつ煮えている画がなんともいいなぁと思うのである。

家といえば、今月は結局2軒の不動産を内見した。このブログにも書いたように片方は申し込みをしたのだが、先客に決まってしまった。もう片方は洪積台地の物件ではなかったのでパス。台地ではない、というよりも台地から低地へ向かう傾斜地で、妙な造りであったことと、その家の前に古い石のお地蔵様が半分埋まりながら傾いて立っているという図がいただけなかった。どちらも一戸建てで、家賃は今生活している巣鴨の下宿と同水準なので、同じ家賃で倍の居住面積を確保できることになる。今暮らしている部屋は、時々このブログに書いているようにバランスのよい長方形で四方に窓があるため、夏場に風の通りがよくて暑がりの私にとっては有り難い。それがここを去り難くしている最大の要因で、広さは別に求めていない。ただ、建屋の一部をギャラリーとして使いたいという希望があるので、一戸建てを探しているのである。

今日のように寒い日はやはり考えるのだが、今月内見した2軒とも窓枠の隙間がすごいことになっており、やはり冬場は辛いかもしれない。しかし、無い袖は振れないので、予算の上限は上げることができない。それでも丹念に探し続ければそのうち良い出会いもあるだろう、と思うより他にどうしょうもない。

今週はひな祭り関係のバイトの案内も頻繁に携帯メールで入ってくる。身体は空いていても、時給と場所によってはバイト代のかなりの部分が交通費に消えるという間抜けなことになるので、応募しようと思える案件は無い。エキストラの方の案内もたまに来る。つい先日は某テレビドラマでバーテンダーの役というのがあった。これは年齢制限で応募不可。あの元アイドルと共演できたかもしれないのに、と誠に残念に思う。

結局終日雪だったので、晴耕雨読ではないが米朝の句集を読んだ。今日のブログの表題はその句集から引用した。それで鍵括弧で囲んである。私は俳句のことなどさっぱりわからないのだが、岩波書店からけっこうな装丁で発行されているのは米朝の名前に拠るところだけではなく、句にも見るべきところがあるということなのだろう。噺家といえば言葉の専門家、しかも師匠は若い頃から俳句に慣れ親しんでいたというから、これほどの句集になるのである。こういうものに触れると、私も俳句や短歌を勉強したいものだとの思いが強くなる。どの句も好きだが、特に気に入ったものを以下に列挙してみる。

煮凝りの一瞬溶ける舌の先

初鶏の声より先に山の神

ふきのとう四五寸横に残る雪

入り日にザクロその粒々の輝ける

鶯の日向になおす日曜日

風鈴も鳴らず八月十五日

薔薇の垣いつまで続く立ちばなし

新米に新海苔添えて古女房

老妻と仰げば春の星座かな

ゆく秋やこの頃狸化かさざる

ランドセルこれが苦労のはじめかも

新しき蛇の目の匂い梅雨に入る

夏の夜に置きたいような女なり

打上を見て帰りきて庭花火

(以上、「桂米朝句集」岩波書店 より引用)

ところでほうとう鍋だが、夜は昼の残りの汁に牡蠣を入れてみた。海外では季節に関係なく生牡蠣を食べるところもあるようだが、若い頃の胃腸の丈夫な頃ならまだしも、たとえ加熱調理をするにしてもそろそろ素直に食べ納めの時期だろう。明日から3月だ。

「恋の罪」

2012年02月28日 | Weblog

本作のプログラムには「物語は、21世紀直前―世紀末の渋谷区円山町ラブホテル街で実際に起きた殺人事件からインスパイアされたオリジナル・ストーリーである。」と書いてある。その「殺人事件」というのは「東電OL殺人事件」のことだろう。1997年3月19日午後5時頃、円山町にあるアパートの1階の空室のはずの部屋で東京電力東京本店企画部経済調査室副長である39歳の女性の死体が発見されたという事件だ。被害者は慶應女子高校から同大経済学部を経て、同社の女性総合職一期生として入社した経歴の持ち主だ。企画部経済調査室というのは国会答弁や政府の審議会や委員会などで使う資料の作成といったことも担当する部署らしく、政官界とのつながりが強いところでもあるらしい。そこへもってきて事件後はいかにも冤罪風の展開になっているのだから、何か裏があると思わないほうがどうかしている。尤も、映画のほうは「インスパイア」されただけなので、そういうアンタッチャブルなところには踏み込まず、よく言われる「心の闇」というあたりを題材にまとめた作品だ。

園子温という映画監督が評判らしいので、ずっとその作品を観てみたいと思っていた。「愛のむきだし」は観に行くつもりでいたのだが、ついつい観そびれてしまって悔しい思いをした。本作も昨年11月に公開されたときに観に行くつもりだったのが、思いの外早く公開が終わってしまったが、こうして名画座系での公開が始まっていて、念願かなって拝見できた。

正直なところ、もっとすごい作品なのかと思っていた。どこにでもありそうなことが普通に描かれているという印象だ。細部の詰めが今ひとつ不自然さを拭いきれず、監督の生活観に疑問を抱かざるを得ないところもある。例えば作家である菊池由紀夫は自宅の外に仕事場を設け、午前7時ちょうどに家を出て、午後9時ちょうどに帰宅する。仕事との往復で持ち歩くカバンはAero ConceptのSupertransporter A3wideだ。何を運ぶことを想定してこのカバンにしたのだろうか。本作のなかで、彼が本来の仕事場ではなくホテルで原稿を書いていることをうかがわせる場面がある。ということは、原稿とそれを書くのに必要な道具類を持ち歩いていることになる。しかも、その場面では手書きの原稿が使われているのだが、B4の原稿用紙で小説を書く場合、どれほどの量になるのだろうか。Aero ConceptのSupertransporterといえば、それほど容量の大きなものではない。原稿を手書きで書く作家が持ち歩く小道具としてどうなのだろうか。また、本作では頻繁に雨の場面が登場する。その度に主人公の吉田和子は透明のビニール傘を使っている。雨は激しく、傘をさしていてもスーツの肩が濡れるほどなのに、自宅に帰ってきたときの彼女の傘はいつも濡れている様子がない。傘だけではなく、靴もそうだ。映画は作りものであることは誰でも知っている。だからこそ、小道具類には必要以上に気を配るべきではないのだろうか。凡庸な物語をいい加減なセットで撮ったら、誰が脱いだというようなこと以外に人を惹き付けるものにならないのではないか。全体的な印象として作り手の不真面目さが感じられる作品だった。

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「ニーチェの馬」

2012年02月27日 | Weblog
芸術新潮の2月号にタル・ベーラ監督のインタビュー記事があり、それを読んで観たいと思っていた。前作「倫敦から来た男」は2007年の制作だが日本で公開されたのは2009年。本作は2011年制作で日本公開が2012年ということなので、それだけ日本での注目度が上昇しているということなのだろう。「倫敦から来た男」のほうも観て、2009年12月23日付のこのブログに書いている。前作と同じく本作も渋谷のイメージフォーラムで公開されている。

昨年11月にタル・ベーラ監督が来日した際の記者会見のなかで、氏はこう語っている。
「先日、たまたまロサンゼルスを訪れましたが、映画に関わっている方々が映画をショービジネスの一部であると、皆が強く信じていることに疑問を感じました。私はそうは思いません。映画というものは第七芸術であると思っています。二つの違った見方ではあるのですが、私は観客も知的であり、作り手として常にベストを尽くして作品を作らねばならないと思っていますが、例えば観客を子供のように、娯楽しか求めていないと決め付けて、その観点から映画をファストフードのように作ることも可能ではあります。しかし私は、観客はそれぞれが人格を持っていると思っていますし、観客に近づき、分かち合うような作品を作らねばならないという想いで映画を作ってきました。」(本作プログラム「記者会見 2011年11月22日@駐日ハンガリー大使館」より引用)

なるほどそういう作品だ。「芸」とか「美」というものが単独で存在するのではなく、それを観たり聴いたりする人間がそこに「芸」や「美」を見出すからこそ価値が生まれるのは確かなことだ。つまり、そこに作り手と受け手とのコミュニケーションが存在している。ただ、気をつけなければいけないのは、作り手が作品について饒舌に過ぎると、解釈の余地を狭めることになり、作品の奥行きのようなものが浅くなってしまうことだ。もっと言うと、受け手が「正解」を求めて表層を彷徨うことになってしまう。芸術新潮のインタビューで面白いところがある。
「私の映画の話になると、みんながメタファー、アレゴリー、シンボリズムといったことを訊きたがる。どうしてなんだろう。」(「私はセンチメンタリズムが大嫌いだ」タル・ベーラかく語りき 芸術新潮 2012年2月号 107頁)
と語っているのだが、それは彼が
「この映画では、人生というものを純粋かつミニマルなかたちで見せているつもりです。われわれはルーティーンを生きているけれど、毎日同じかというと実は違う。人生は弱まっていく、少しずつですが。同じような食事の場面でも、日によってカメラポジションを変え、リズムを変えて撮ることで、何かが日々失われていく感覚を伝えようとしたのです」(「私はセンチメンタリズムが大嫌いだ」タル・ベーラかく語りき 芸術新潮 2012年2月号 106頁)
などと余計なことを言うからだ。映像作家は伝えたいことを全て映像に託し、受けてはそこからそれぞれの人生経験に照らしながらそれぞれの力量に応じてそこから何事かを読み取る、というように割り切ってしまえばよいのである。映像作家が言葉で制作意図を表明すれば、観るほうは映像の構造を探ろうとするのは人情として自然なことではないか。当然、メタファーを云々したくなるだろう。

メタファーといえば、作り手がどれほど意識しているのか知らないが、画面のなかで毎日吹き荒れる風のことがとても気になった。この作品のなかで描かれる6日間のなかで、日常は少しずつ崩壊していく。稼ぎ手である馬が言うことをきかなくなり、井戸が枯れ、生活に必要なものが不足をきたし、ついにはジャガイモを生で齧らざるを得ない状況に陥る。それでも家の中にいれば外の激しい風からは守られている。結局、風は6日目にはおさまるのだが、仮に強風が続いて外に出ることができない日がさらに続いたとして、暴風から守られていることと外で暴風に教われることとの間に実質的な違いはあるだろうか。近頃、東京を巨大地震が襲うとまことしやかに喧伝されているようだが、我々はそれに対してどうしたらよいのだろうか。福島の原発事故から1年になろうとしているが、あいかわらず放射能は放出されている。どれほど気をつけたところで、その影響から逃れることはできない。そうしたなかで、我々はどうしたらよいのだろうか。生まれたからには必ず死ぬ。病気や事故で生命の危機に瀕したとき、それでも我々は延命の道を模索するのは何故だろう。何万年先か何億年先かわからないが地球は必ず最期を迎える。地球固有の事情なのか太陽の超新星爆発なのかわからないが、最期を迎えることは確実だ。滅びることが運命付けられている天体上で展開されている我々の生活に果たしてどのような意味があるのだろうか。

ギューちゃん

2012年02月26日 | Weblog
少し前にも書いたかもしれないが、近頃ふらりと入った飲食店が良かったというようなことが多くなったような気がする。先日、埼玉県立近代美術館を訪れたときに偶然「篠原有司男 講演会」というチラシを見つけた。日曜の午後で他に予定もなかったので、今日はそれを聴きに東京都現代美術館へやって来た。

まずは2階のCafé Haiで肉団子のフォーをいただく。腹ごしらえが済んだところで講演会の整理券を取りにいく。講演会は15時からだが13時半から整理券を配布するとチラシに書いてある。整理券を配るということはそれなりに人気のある人なのだろう。私はこの人のことを全く知らなかった。

現在、企画展のほうは靉嘔と田中敦子のそれぞれの特集が組まれており、今日は靉嘔自らが吹き抜けのフロアで作品制作の実演をしていた。常設展の中では特集展示として福島秀子を取り上げており、屋外ではブルームバーグ・バヴィリオン・プロジェクトの展示がある。私は美術にも疎いし感性も鈍い方だと自覚しているので、殊に現代美術を観て感動するというようなことはないのだが、作り手と同時代の空気を呼吸している所為か、眺めていてなんとなく楽しいと感じるものが少なくない。靉嘔の作品はあの虹柄のものしか知らなかったが、あのスタイルに至るまでの道程を今日の展示で初めて知った。そういう「知る」という具体的な行為がおそらく楽しいと感じる原動力であるように思う。

それで篠原有司男の講演会だが、身体は小柄だが人物は大柄だと思わせる愉快なものだった。話の内容は自分が何を考えて作品に向かい合っているかという至極真っ当で真面目なものなのだが、巧みな話術の効果もあって笑いが絶えなかった。

今日の講演で「読売アンデパンダン展」というものも初めて知ったが、無鑑査自由出品で公共の美術館を展示会場として提供するということが何年にも亘って行われていたということに驚いた。1949年から1963年まで毎年開催されたというから、日本の戦後復興と重なっている。物事が建設的な方向に進んでいるときというのは、社会が寛容になるのだろう。戦後復興の象徴としては東京タワー、東京オリンピック、万国博覧会といったものがあり、そこに未来に対する暗黙の希望や夢があったからこそ、秩序とは反対に向かうかのような運動も許容されていたのだろう。そうした文化的な解放感が転機を迎えるのが60年代後半ではなかったか。学生運動の過激化、公害問題の深刻化、ドルショックや石油危機に見られる経済成長の限界といった戦後秩序形成過程での矛盾が露呈するようになったことと、文化の方向の転換が重なっているように思われる。日本に関しては、その後貿易摩擦という形で経済成長にブレーキがかかり、着地を探るなかでバブルが発生と崩壊を経て取り返しのつかない状況に陥ってしまったということなのだろう。

何事にも過不足というものはつきものだ。ちょうど良い具合に最初から収まるようなことというのはありえないのではないか。そのはみ出したところから新しい価値が生まれるのではないかと思う。価値というのは、それまでにはなかったこと、という意味だろう。既存の流れやその延長線上には価値は生まれないのである。無から有を生む、それまで評価されていなかったものに注目する、というのは結局は考え方の問題だ。要するに、価値というのは自分が創り出すものなのである。自分の外側をいくら探しても見つかるはずはない。篠原有司男、通称ギューちゃんの話を聴いていて、そんなことを考えた。

似て非なる

2012年02月25日 | Weblog
小説というのは散文で構成された虚構の物語ということらしいが、それなら落語を文章に起こしたものは小説なのだろうか。以前に円朝の「牡丹灯籠」を岩波文庫で読んだときには、その構成の妙に感心したものだ。落語というのは口演するもので、客はただそれを聴いて話の内容を自分なりに思い描くだけだ。本を読むというのは言語情報を入力して処理するということではただ聴くのと同じことのようだが、文字を視覚で認識して、それを意識するとしないとにかかわらず頭の中で音声化するという言わば二重の入力経路を持つことになるわけで、聴くだけというのとはやはり違うことのように思う。小説と落語とは似て非なるものということになるだろう。

今日、円朝の「真景累ケ淵」を読了した。「牡丹灯籠」に比べると分厚で、その分、話も複雑になる。複雑というよりも因果応報ということを語りたいがために妙に登場人物が多くなるという恨みがある。しかも口演を前提とした話なので、取って付けたようなわざとらしいエピソードが数珠繋ぎになって登場人物どうしを無理矢理に結びつけるようになっている。さらに怪談なので、登場人物が悪人ばかりで、読んでいると気分が滅入る。概して落語の登場人物というのは能天気な人たちが多いのだが、それでは怪談が成立しないのだから、悪人が多いのは仕方ない。しかし、読み進めていくうちにデフォルメされてはいるけれど人間の業というものはこういうものかもしれないと思うようになる。「悪人」と書いたが、人を善悪に二分できるものではない。世の中のことを吉凶二元に割り切ることのできるものでもない。しかし割り切らないとよくわからないということはよくわかる。それで、「真景累ケ淵」だが、読んでいて稚拙な話だと思っていたのだが、最後まで読み進めたときにそうした否定的な思いが逆転した。サゲに感心したのではない。そのさらに先のことだ。
(拠小相英太郎速記)
と書いてある。つまり、ここまで読んだ文庫本450数頁分の文章量は口演したものということだ。円朝という人は、それが商売とは言いながら並の人間ではないと思った。もちろん一気に噺をしたわけではないだろうが、口演録として読むなら、話がくどいのも、わざとらしいのも、すべて得心できる。

話は変わるが、先日手にした「銀座百点」という冊子に小池真理子、池内紀、北原亞以子の鼎談が掲載されていた。そのなかでこんなところがある。
(以下引用)
池内:最近は男女関係もいろいろな形が出てきましたから、書かれる小説の世界も、うんと広がったんじゃないですか。どういう男女でも結びつくことができるし、別れることもできるし。
小池:逆に言えば、今、恋愛小説というのは成立しにくいですね。もうまったくタブーもないですし、そこに文学的な意味をもたせてもそれを読み取ってくれる読者がどんどん少なくなっているので、正直、恋愛小説はきついです。
北原:小耳にはさんだんですけど、今の読者の方は終わりをきちんと書いてくれって言うんですって?
小池:そうなんです。なぜ失恋したのかとか、理由がはっきりしてないとダメなんです。あやふやな終わり方とか、不幸のにおいのする終わり方も絶対受け付けないですね。それに主人公の女性が読者の年齢より高いと、自己投影ができないのか、もう読まないとか。私なんかは不倫小説をよく書いているので、一部の読者には不潔だとすごく嫌われているらしいですよ。
池内:明治時代みたいだなあ。不倫がいけないんだったら、恋愛小説なんて成り立たないですね。
小池:そうなんです。今の子はコミュニケーションして恋愛を深めていくというのはもう面倒くさいし、「くるのこないの、こないんだったら次に行くから」って感じで、色気っていうものもない。でも不倫を書いた小説は不潔だという神経が、私には信じられなくて。不倫が肯定されて、夫が不倫して自分が脅かされるのがイヤなのね。
北原:そうか、自分が不倫するのはいいのね。自分は正しいんだ。
小池:そうなんです。…恋愛小説もそうなんですけど、全体に、自分にはない世界を想像して、行間を読んで楽しむということは少なくなってきましたね。
池内:読者にバトンを渡して、あとは好きなように想像してくださいっていうのが、いちばんの文化ですのにね。それがなくなったら小説は成り立たないのにね。
(以上引用 「銀座百点」No.687 2012年2月号 94-95頁)

あくまで個人的な印象でしかないのだが、小説にしても落語にしても他の芸事にしても、近頃面白くなくなったような気がするのは、読者や客の質が落ちている所為ではないか。例えば短歌や俳句にしても、それだけを読んだのでは意味は十分理解できず、その下敷きになっている詠み手と聞き手とが共有しているはずの本歌や歴史や文化の常識が失われているのは事実だろう。そうでなければ31文字や17文字程度で世界観を表現することなどできはしまい。行間を読むというのは、その場だけのことではなく、そこに至る知的経験の蓄積作業を指すことでもある。デジタルというのは人間の身の回りのことを機械装置に置き換える上での便宜なのだが、生活の電子化が進行することで、それを利用する側であるはずの人間のほうが便宜に合わせた発想しかできなくなり、結果として物事を二元論でしか捉えることのできない浅薄な思考に陥ってしまったような気がしてならない。

今の落語家や落語作家にどれほどの力量があるものなのか、門外漢の私にはわからないのだが、「真景累ケ淵」で描かれているデフォルメされた我執や良心、また一人の人間のなかにある我欲と良心との葛藤といったことが、人間の業のダイナミズムを表現していると思う。口演で聴けば、おそらくデフォルメやわざとらしさは薄まって聞こえるだろうから、きっと噺の躍動感に感心して聴くのだろう。しかし、ふと考えたのだが、二元論に囚われた発想しかできない人に、そのダイナミズムとか躍動感が感じられるだろうか。

他人を批判したり批評したりすることは容易いが、大物が少なくなったと嘆く前に己の矮小浅薄を反省しないといけないと痛感させられた。読み進むうちに変化するものではあったにせよ、
「取って付けたようなわざとらしいエピソードが数珠繋ぎになって登場人物どうしを無理矢理に結びつけるようになっている。さらに怪談なので、登場人物が悪人ばかりで、読んでいると気分が滅入る。」
などと思いながら読んでいた自分を恥ずかしく思う。朝から雨で住処に籠っていた所為もあるかもしれないが、気の滅入る日だ。

天気晴朗ナレド浪高シ

2012年02月24日 | Weblog
記念艦三笠を訪れる。先日、呉の大和ミュージアムへ行ったので、いつか三笠も見てみたいと思っていた。三笠は言わずと知れた日露戦争時の帝国海軍連合艦隊旗艦である。三笠といえば日本海海戦を連想し、縁起の良い艦と見る人が多いのではないかと思うが、1902年3月に竣工後、1905年9月には弾薬庫の爆発事故で沈没している。その後、引き揚げられて改修され現役復帰したものの、1922年にはワシントン軍縮条約に基づいて廃艦が決定。1923年9月の関東大震災で岸壁に衝突して着底。当初、廃艦後に解体される予定だったのが、保存の機運が高まり、1925年に保存されることになった。保存された後も、太平洋戦争後の物不足のなかで上部構造物が持ち去られたり、甲板のチーク材が剥がされて薪や建材に使われるなどして、荒廃するというようなこともあった。華々しい歴史を刻んだのは竣工から日本海海戦までの3年間しかない、と見ることもできるだろう。船というのは不思議なもので、同じ形式の艦であっても、運というか縁というか巡り合わせのようなものがそれぞれにあると聞く。三笠の場合は、三笠という艦よりもそこに座乗した東郷平八郎の持っていたものの影響が大きかったのではなかろうか。人物評についてはいろいろあるようだが、明治天皇が東郷を連合艦隊司令長官に指名した理由を海軍大臣山本権兵衛にお尋ねになられた際、山本が「東郷は運のいい男ですから」と奏したという逸話が、東郷と言う人の何事かを語っているように思う。後に軍神として祭られ東郷神社というものまで登場するようになったのだから、やはりただの人ではない。

国力に大きな差がありながら、日露戦争で日本がなんとか首尾よく講和を結ぶことができたということが世界中で多くの人を勇気づけたことは事実のようだ。トルコで対日感情が比較的良好であるとか、フィンランドで東郷をラベルにしたビールがあったとか、元国連事務総長のブトロス・ガリは日本に来ると必ず東郷神社に参拝していた、というような類のことは他にもいくらもあるのだろう。困難を乗り越えたものを目の当たりにすることで自分を鼓舞したり気持ちを解放するというのはよくあることだ。私などは生まれてこのかた順境というものを感じた経験が無いのだが、失業という現実に直面すれば、ことさらに広島を訪れるとか、こうして三笠を眺めに来るというような殊勝なことを考えるのである。東京というところで暮らすだけでも困難を克服することの実例を見るべきなのかもしれない。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど江戸は火事が多く、殊に明暦の大火は当時の江戸の町を焼き尽くしたと言ってもよいほどだったという。江戸城の天守閣が町の火事で飛来した火の粉によって火を発したというのだから、どれほどの火の粉が飛んでいたかということだ。その後も関東大震災と東京大空襲で繰り返し焼け野原になっている。その度に復興を果たして今日の姿がある。毎日暮らしているとそういう来歴を意識することなど無いのだが、それくらいに力強く復興したということでもある。近々震度7ほどの大きな地震があるらしいが、なんでも来いという気になる。既に人生そのものが焼け野原なので、今更失うものも無い。ただ、困るのは始末の付けようだ。三笠は記念艦として保存が始まった後に太平洋戦争とその後の混乱があり、一旦は荒廃したものの、関係者の努力によって現在のような良好な保存状態に復した。自分の生活のほうは荒廃したまま最期を迎えるのか、最期の前に多少は体裁を整えたほうがよいのか、最期の時期や形がわからないので困るのである。

経堂にて

2012年02月23日 | Weblog
生協のイベントで東京農業大学の博物館を見学するというものがあり、参加してきた。単に「食と農」の博物館というものを見学するだけのことで、ぞろぞろ集まることもないのだが、聞くところによれば食の安全を考える委員会のようなものの例会のついでに、どうせなら一般会員も誘ってみんなで見てみようということらしい。しかし、こういう機会でもなければこの博物館を知ることもなかったので、たいへん有り難いことだ。

大学付属の博物館なので、常設展示も含め、大学での研究成果の動向を反映して展示内容を入れ替えるのだそうだ。現在は常設が「稲に聞く」、企画のほうが「森林に聞く」と「生き物に聞く」で、特設として先頃ブータンから寄贈されたブータンシボリアゲハの標本が展示されている。また、常設の稲のコーナーの奥は醸造についての展示がかなりのスペースを割いて行われていた。日本の蔵元の8割が東京農大の卒業生によって運営されているのだそうで、日本酒は東京農大によって作られていると言っても過言ではない状況のようだ。ちなみに業界団体である日本酒造組合中央会に所属する蔵元は1,896あり、このうち清酒が1,611、単式蒸留焼酎が271、残りがみりん二種という内訳だ。私は自分が酒を飲まないので酒席に出かける機会が殆ど無いのだが、たまに行くと焼酎を飲む人が増えたという印象を受けていた。しかしこうして蔵元の数を見るとまだまだ清酒の存在感が大きいようだ。

今日見学した展示のなかで印象深いのは醸造に関するところだ。醸造そのものも興味深いのだが、もっと面白いと思ったのは器のほうだ。酒の容器というと一升瓶を思い浮かべるのだが、今は色も形も様々な容器におさめられて流通している。展示を眺めていて、おもわず容器を蒐集してみようかと本気で考えてしまったほどだ。容器の意匠は容器そのものの製造にかかわる理由と、内容物である酒の品質保持にかかわる理由と、単純に装飾性あるいは商店に並んだときの訴求力といったことによって規定されているのだろう。ひとつひとつ何故そのような色形の容器にしたのかということを取材して回ったら、きっと面白いだろうと思う。

見学の後、博物館内にあるカフェで軽食をいただく。農大の食堂だから変わったものがあるのかと思いきや、特筆するようなことは無かった。ただ、カフェの一画に並んでいる大学発の様々な商品はさすがに農業大学だと思わせるものが多い。米や味噌という農産物の基本のようなものはもちろんのこと、エミュー生どら焼きというようなネーミングだけで好奇心をそそられるものもあり、ちょっと目の毒のようなコーナーだ。あいにくエミュー生どら焼きは品切れでその味を経験することはできなかったが、大変人気のある商品だそうだ。お土産にいただいたのがカムカムドリンク。カムカムというのは南米の果物で、傷みやすいため南米でも自生地以外の人には知られていなかったという。近年は保存技術や運送技術が発達してこのように日本でもジュースという形で入手できるようになった。これは味がどうこうというよりも、麻薬の栽培を阻止すべく、麻薬に代わる商品作物として栽培が奨励されているとのことだ。そのような作物は他にもあるが、肌荒れ防止、風邪予防、便秘、肥満抑制、糖尿病・高血圧などへの対策としての効能もあるとされており、麻薬撲滅と健康増進のために販売促進を図っているのだそうだ。

せっかく経堂に来たので、以前から気になっていた芝生というギャラリーカフェにお邪魔する。農大は経堂駅の南側だが芝生は北側で、すずらん通りに面している。そもそも経堂で下車するのは今日が初めてなのだが、このすずらん通りには自家製のパンやケーキを売り物にする店とか、雰囲気の良さそうなカフェが並んでいる。おそらく地元の人よりは、わざわざその店を目的に他所から経堂へやって来るというような人がメインの顧客層なのではなかろうか。店主さんによれば、ここはギャラリーが主で、少しのんびりとギャラリーを眺めてもらうというつもりでカフェもやっているとのこと。だから、ギャラリーでの展示が無いときは店を休みにしてしまうという。彼はグラッフィックデザイナーだそうで、ギャラリーは兼業ということだそうだ。今は湯島のロシア系雑貨屋のnicoが出張店舗としてギャラリーを使用している。なんだかよくわからないが、妙な味わいのあるものが並んでいる。確かに、ほっとできる空間だ。

さらについでに経堂西通りも歩いてみる。こちらも個性的な店が並んでいて、改めて世田谷という土地の個性のようなものを感じる。このあたりはもともとは農地だったはず。もともとを言い出せば銀座だって埋め立て地だし、都内城東地区はことごとく江戸時代以降に開発された地域だ。もともと、というのはどうでもよいことなのだろう。大事なのは今だ。

ところで、今日の夕方に人事からメールが来た。たいへん詳細にわたる退職の事務手続きについての説明が書かれていて恐縮する。

楽しい毎日

2012年02月22日 | Weblog
昨夜、勤務先の人事担当者から退職日について尋ねるメールが来た。解雇通告を受けたのは昨年12月2日で即日職場への出入り禁止となったのだが、形式的な雇用関係は3月15日まで継続している。ただし、次の職場が決まるなどして、それ以前に退職を希望する場合、事務手続き上その旨を人事担当者に伝えないといけない。正式退職日が間近に迫り、人事のほうから確認のメールが来たのである。

そのメールの書き出しに
「熊本さん、その後いかがおすごしでしょうか?」
とあったので、返信の書き出しを
「○○様 ご連絡ありがとうございます。小生のほうは、おかげさまで毎日楽しく暮らしております。」
としたところ、反応が無かった。相手の質問に対し簡潔に答えを返したので、それ以上のやりとりは不要である。それとも「おかげさまで毎日楽しく」というのが嫌味に受け取られたのだろうか。まぁ、しかし事実そうなのだから仕方がない。

今日は午後の比較的早い時間に或る外資系企業の面接に出かけてきた。月曜に続いて2回目の面接で、電話によるインタビューも含めると今日が4回目だ。これと並行して進行している日系企業の話もなかなか結論に達しない。人を雇うというのは企業にとってはそれなりの投資でもあるので、軽々しく決めることではないというのは承知しているが、迅速な意思決定ができないというのもいかがなものかと思う。ふと、先日読んだ「おじさん図鑑」の記述を思い出した。
「自営業おじさんの特徴 マスターを含め、自営業おじさんはサラリーマンのおじさんと雰囲気が違う。上司がいない自営業は、何でも自分で決める癖がついていて、決断が早い。好き嫌いもはっきりしている。」(なかむらるみ著「おじさん図鑑」小学館 106頁)
洋の東西を問わず組織人は決断力が鈍いということなのかもしれない。

面接は30分ほどで終わってしまい、他にやることもなかったので銀座に出て伊東屋を覗く。いつも不思議に思うのだが、この店は銀座本店に限っていつ行ってもたいへんな賑わいだ。それでいて、レジに並んでいる人が手にしているものといえば、別にここでなくとも買うことのできるようなものばかりである。近頃は所謂「こだわり」の文房具が人気らしいが、日用品というのは作り手の押し付けがましい「こだわり」よりも、使い勝手を重視しないと買った後で後悔することになる例が多い。個人的には単機能品よりは汎用品を選好するので、この店に並んでいるようなものは品質に優れているのは確かなのだろうが、食指の動くようなものはあまりない。

伊東屋を出て京橋方面へ歩いていると炭の専門店があるのに気がついた。去年の震災以来、七輪を買おうか買うまいか迷っていて、迷う理由のひとつが燃料炭の入手可能性にある。私が子供の頃は、家の風呂を沸かすのに薪を使っていた時代があり、それが練炭になり、石油になり、ガスになった。その間10年ほどのことである。薪をどのように調達していたのか知らないが、練炭は近所の燃料店で買っていた。当時使用していた行火は豆炭が熱源だったと記憶している。炭を燃料に使う道具が当たり前にあり、炭を商う店も当然あちこちにあった。今はどうだろう。少なくとも巣鴨界隈では思い浮かばない。実家の周辺では、蕨西口商店街にある米店のなかに燃料炭を扱っているところが少なくとも一軒あるのは確認している。昨日も警察から駅へ向かう途中でその店の前を通った。しかし、流れとしては炭を扱う商店は少なくなることはあっても増えることはあるまい。正式な茶席では炭を使うし、焼き鳥屋などで炭焼きを売りにしている店も少なくないので、炭が無くなることはないだろうが、今後入手が大変になる危険性は拭いきれない。それで、その銀座の店だが、いかにも銀座の店らしい小綺麗な様子だ。紀州備長炭の専門店で、もう12年もここで営業しているのだそうだ。

京橋から地下鉄で三越前へ行き、三井記念美術館で茶道具展を観てから巣鴨に戻る。自然に茶碗に目が向かう。個別具体的に注文を受けて作られたようなものは、そう思って見る所為か、どことなくぎこちない感じがする。普段使いのつもりで挽いたようなもののほうが形が伸びやかで気持ちがよく見える。卯花墻のように何かオーラのようなものを放っているものは別にして、あまり茶道具を意識せずに作られたと思しきもののほうに私は惹かれるものが多い。

帰宅後、昨日読了した山田風太郎の「あと千回の晩飯」の付箋を貼った箇所を読み直す。以下はそのなかから。

「死は推理小説のラストのように、本人にとって最も意外なかたちでやってくる」(46頁)

 江戸の入谷に窯場をひらいた老乾山は晩年仕事もせず、病んでも薬も飲まず、世話する人もなくひとり老いさらばえて影のように生きていた。
 ある夏の日、長屋の戸がひらかないので、近所の人がのぞいてみると、辞世を一枚残して乾山がひとり死んでいた。
「うきこともうれしき折も過ぎぬればただあけくれの夢ばかりなる」
(124頁)

 平安朝のころは牛車というものが都大路をねり歩いていたのに、その後西洋のように馬車が出現しなかったのはなぜだろう? とは、私のかねてからの疑問であったが、『日本史再発見』はその謎をといてくれた。
 それは、日本に山坂が多いからだとか、馬車が走れるほどに道が整備されていなかったとか、日本馬が小さかったから、などの理由のほかに、中国で馬車が流布しなかったからだという。
 中国で馬車が流布しなかったわけはわからないが、とにかく日本は文化的装置や道具など、どこか外国の手本がなければ自分で発明することができない国民だから、あるいはこれが最大の理由であったかもしれない。明治になって西洋には馬車があると知って、たちまちそのまねをしはじめたのだ。(149-150頁)

 それでも人間の脳というものは因果なもので、十分間も無念無想でいるわけにはゆかない。さまざまな感想や疑問や新発見や一人合点が泡のように浮かんで支離滅裂にながれてゆく。
 その例として、ここ数日のそんな断片をいくつかならべてみる。
“いつか読んだ『静かに流れよテムズ川』という本で、著者(女性)が、バスにあおむけに横たわった自分の身体のぶさまさを歎いていた。イギリス暮しの長い著者でさえ西洋風呂には違和感を禁じ得ないようだ。
 まして私などまったく同感の至りだが、つらつら思うにわれわれは、バスを日本流の風呂と同じように扱おうとするのが―――たとえば一定時間湯ぶねに身を沈めることなど―――まちがいじゃないのか。日本人にとって風呂は保養の場である。だから銭湯に富士山の絵など描く。
 これに対して西洋人は、バスはただ身体を洗えばよい場所で、そのためには石鹸をつけてシャワーをあびれば用はつとまり、バスはそのシャワーの受け皿にしているだけじゃないのか。西洋人にとって、風呂はただ垢の処理場である。だから浴槽といっしょに便器をならべる。”(154-155頁)

 それは個人的な話として、それ以外で人生の大意外事は例の大敗戦であった。戦争の様子をみていて、勝てるとは思わなかったが、まさか無条件降伏の運命に立ち至るとも予想しなかった。
 それまでの軍国日本の洗脳ぶりを思い出すと、それも無理はない。特に満州事変以後の日本人を思うと、いまの北朝鮮が笑えない。
 去年、旧制中学の同窓会が東京であった。あいにく私は入院中で出席できなかったが、あとで報告を読むと、一同打ちそろって靖国神社に参詣したらしい。戦後五十年たつというのに、なお靖国神社に集う老人たちの心根のいたましさよ。
 ついでにいうと、戦後五十年たっていよいよ太平洋戦争の評判が悪くなるのも、私の大意外事の一つである。敗戦も五十年もたてば太平洋戦争を再評価する声もあがってよさそうに思うが、いまだに大臣連中は靖国神社に参るのに尻ごみしている。
 しかし、その戦争に私自身は参加しなかった。片腕くらいなくても召集した敗戦前年、召集を受けたとき、私は肋膜炎で病床にあったからだ。
 吉凶はあざなえる縄の如し、というが、吉の次に凶がくる、というように吉凶が交互に訪れるというのではなく、吉そのものが凶となり、凶そのものが吉となるという例を私はいくつも見ている。右の例に見る通りだ。(221-222頁)

少し前進

2012年02月21日 | Weblog
昨年7月から壷ばかり挽いているが、先生と話をして次回から面取りという技法に挑戦することになった。今日は2月7日に挽いた壷2つを削った。削り終えたところで残り時間が45分あったので、碗の2つや3つは挽くことができたかもしれない。しかし、慌ててする仕事にろくなものはないので、今日のところはそのまま片付けて、教室の終了時刻5分前に退室した。

陶芸教室の後、警察へ行く。ちょっとお願いしたことがあり、それが出来上がったという連絡が昨日の夕方に入った。急ぐほどのことはないのだが、放っておくわけにもいかないので、早速今日取りに出向く。他の警察署というものがどのような立地なのか知らないが、私の地元の警察署は中途半端な立地だ。要するに警察の厄介になるようなことをするな、ということなのだろう。それでお願い事というのは、写真にある古物商の許可標識の制作だ。自分でこういうものを作るところを探して発注してもよいのだが、標識の大きさや文字の配置などに細かい規定があるので警察経由で指定業者に依頼した次第だ。バランスがちょっとどうかと思うのだが、これも規定通りのレイアウトなので他に選択肢は無いのである。それにしても、ちょっとどうかとの思いが拭えない。例えば、氏名欄の姓と名が離れ過ぎているところなどは、どうも間抜けな感じがしていただけない。

警察を出て、近くのイトーヨーカドーにあるフードコートで昼食を済ます。こちらも立地がいかがなものかと思うのだが、車で来ることが前提の店舗らしく、店舗と同じくらいの大きさの立体駐車場が併設されている。それで昼食だが、マクドナルドのBroadway Burgerをいただく。マックでは今「Big America」という販促を実施していて、4種類の企画物ハンバーガーをそれぞれ期間限定で販売している。今は3種類目のBroadway Burgerで、既に販売終了となっているのが、Grand Canyon BurgerとLas Vegas Burgerだ。別にハンバーガーが好きというわけではないのだが、カップヌードルと同じで、時々食べたくなるのである。その時、たまたまGrand Canyonの販売期間中で、せっかくなので4種類全部を食べてみようと思ったのである。4種類目はBeverly Hills Burgerで3月上旬に販売されるらしい。

ヨーカドーを出て、商店街を京浜東北線の駅へ向かって歩く。所謂「シャッター商店街」一歩手前という風情だ。埼玉県へ来たついでなので、北浦和にある埼玉県立近代美術館まで足を伸ばすことにした。

日本人でよかったと思うことはよくあるのだが、小規模ながら充実した美術館が国内の至るところにあるというのは世界でも珍しいのではないだろうか。世間一般には日本の高齢化とか経済力の低下を憂える論調が主流のようだが、私は世間が騒ぐほど悲観していない。なぜなら、もうそれほど長くは生きないだろうと思っているので、将来の話には正直なところ関心が無い。もうひとつの理由は、これほど食と美術工芸に恵まれた国は他に無いと思っていて、そういう領域の優位性が揺らがない限り、先行きは安泰ではないかと思っている。旨いものを作る料理人がたくさんいて、心を癒すような美術品や工芸品をあちこちで見たり触れたりできる国というのは、欧米でもそうないのではなかろうか。ましてや他の地域では推して知るべしだろう。

埼玉県立近代美術館の建物は黒川紀章の設計で、黒川が設計した最初の美術館でもある。建物はともかくとして、企画展は毎回面白い。現在、「清水晃 漆黒の彼方/吉野辰海 犬の行方」を開催中で、常設のなかのミニ企画として「大浦一志 自然と人間 雲仙普賢岳との20年」が開催されている。企画展のほうはコンテンポラリーなので誰が見ても楽しめるというものではないが、観る者に何事かを考えさせるという点では面白いと思う。昨年夏のエル・アナツイも良かったし、一昨年の小村雪岱は会期中に図録が売り切れるほどの人気を呼んだものだった。今日も常設のほうに雪岱の「春告鳥」、「青柳」と着物と帯の「紅梅図」が展示されていた。「Cool Japan」という言葉があるらしいが、雪岱の作品などはその典型として世界に誇示してもよいのではないかと思えるほどだ。

帰りは北浦和から京浜東北線で王子へ出て、都電に乗り換えて庚申塚で下車して住処へ戻る。就職活動中で生活にかかわるメールのやりとりがたまにあるので、何はともあれパソコンを開く。すると残念なメールが一通。先週水曜日に内見した不動産が、私より先に内見をした人に決まったとのこと。こういうことも縁なので、それは私に縁がなかったというだけのことだ。微妙な物件だったので、ひょっとしたらそこに住むことで人生が大転換するかもしれないとは思ったが、すぐに生活を始めることのできるものでもなかったので、いざ決まったらある程度は自分で手をいれなければならないだろうと金銭面のやりくりを考えていたところでもあったので、負け惜しみではなくほっとしたところもある。ちなみに仲介不動産会社は東京R不動産だ。ずっと以前から用もないのにこのサイトを眺めていて、なかなか面白いので、いつかこの人たちの厄介になりたいものだと思っている。

年齢の意味

2012年02月20日 | Weblog
母子殺害、元少年の死刑確定へ=犯行時18歳、上告棄却―「責任あまりに重大」(時事通信) - goo ニュース

2009年の1月早々、「なぜ君は絶望と闘えたのか」というルポルタージュを読んだ。そのことは2009年1月3日付のブログ「絶対尺度」と同年1月13日付「号泣」に書いた。今読み直してみて、修正するようなことは今のところは無いと認識している。今日、あの事件の被告の死刑判決が確定したが、それに対する識者のコメントをいくつか読んだりラジオで聞いたりして気になったことがある。学者先生が何の為の少年法かということについて触れながら死刑判決を批判していることに違和感を覚えるのである。要するに更生の可能性というものが有るや無しやということをどのように判断するのかということにまで踏み込まず、判決だけを評論家風に批判している姿勢に対して違和感を覚えるのである。確かに「可能性」という言い方をすれば、どのような犯罪者にも更生の可能性はある。しかし、可能性があることと更生することは別だろう。実際に犯罪者を更生させたという実績があって、その経験に基づいて公に批評を語るのなら文句はないが、そうした具体論なしに評論家然として「問題だと思います」と言い放つ、そのお気楽な態度のほうがよほど問題ではないかと私は思ってしまう。

弁護団のコメントのほうは立場も立場なので仕方が無いところもあるが、興味を覚えたのは以下のコメントだ。
「被告は逮捕以来13年間、社会から遮断された中で被害者の無念さと遺族の憤りを受け止め反省しているのに、裁判所は目を向けず、更生可能性を否定した」
裁判を傍聴したわけではないので、弁護団がどのような論証をしたのか知らないのだが、「更生可能性を否定した」と判決を批判するからには、更生可能性を証明して見せたということだろう。どのように更生可能性を証明したのか是非教えて頂きたいものだ。また、弁護団は「被告は犯行時18歳だったが、幼児期からの虐待によって成長が阻害され、実質的には18歳未満だった」として、こうした少年に死刑を言い渡すのは憲法や少年法に違反すると訴えたそうだが、「幼児期からの虐待」で「成長が阻害」されたまま18歳になった人間が、どのようにその後成長するというのだろうか。判決を批判するからには、当然、成長についての具体的展望を示したはずだろう。それもうかがってみたいものだ。

佐倉にて

2012年02月19日 | Weblog
子供と佐倉にある国立歴史民俗博物館を訪れる。天気が良かったので、ちょっと郊外へ足を伸ばしてみようかと思ったのである。前回1月にここを訪れたときは、初めてだったので見学の時間配分を誤ってしまったが、今回はそうしたことのないように気をつけた。子供が進学のことを考えなければならない時期に入っている。内部進学なので受験はしないのだが、今の段階では史学か日本文学に進みたいというようなことを言っている。そういうこともあって、一度ここに連れてきてみようという気持ちもあった。

前回は様々な縄文土器と弥生土器を一度に見たことで、いろいろ考えるところがあったが、今回もどちらかといえば、集落が形成されていく過程に関心が向いた。狩猟採取の生活から農業を営む生活になり、そこから社会構造が複雑化していく背後にどのような価値観や世界観があったのかというところに素朴に興味を覚える。社会階層の分化であるとか、後の職業にも通じる人々の間での役割分担の発生といったものが、どのような基準でどのような方法で進行したのか。一旦は決まった社会構造が大きく転換することがあるとすれば、それはどのような要因によるのか。

卵と鶏との関係のような話になってしまうのだが、皆が持っていないものを持っているとか、知らないことを知っているというような独自性というか抜きん出たものが階層分化や役割分担の重要な要素だったのではないか。それはその共同体の外部のものである。つまり、既存のものに依存している限り、上層階へは進むことができないということでもある。それは共同体における個人の立場にとどまらず、共同体間の力関係にも当てはまることだろう。それまでになかったことというのは、その社会のなかでは評価が定まっていない。しかし、評価が定まるということは、社会の中に取り込まれたということでもあるので、評価が定まっていないものを扱うというリスクを負わなければ、その対価は期待できないのである。

今の我々が暮らす時代や社会にそうした気概があるだろうか。溢れんばかりの情報のおかげでどうでもいいような細部の知識にこだわる評論家のような矮小な輩ばかりが多くなり、常識を破ろう、人の考えないようなことに挑もうという人が少なくなっているような気がしてならない。それは経済成長というものが期待できなくなった結果として既存のものに執着する保守性が強くなり、そうした後ろ向きの姿勢によって成長の芽を摘むことになるという悪循環に陥っているということではないかと思う。

日本だけでなく世界の歴史を振り返るとき、経済成長は交易によってもたらされている。必ずしも対等な立場での交易だけでなく、戦争や強奪によって無理矢理権益を得たというようなことも含め、ある場所ではふんだんにあるものを、それが稀少とされる場所に持ち込むことによって、その同じものの価値が何倍にも跳ね上がる。その尺度の転換を首尾よく利用できた者が富を手にすることができるのである。交易を可能にするのは知識と技術だ。遠方まで安全に往復できるだけの知識や装備を持たなければならない。交易によって得た富を使って知識や技術を獲得し、それを利用して稀少であるはずのものを大量に準備することが可能になり、それがさらに富をもたらす。だからこそ、人はシルクロードを旅し、大航海に乗り出したのである。命を賭けるに足る報酬を得ることができると思うから、危険を顧みずに大海原や大平原の先を目指したのである。

もちろん知識や技術のフロンティアはこれまでの蓄積のおかげで小さくなっているのかもしれない。しかし人知の及ぶ範囲など知れたものではないか。立ち位置を少し変えただけで、同じものが全く違って見えるということは程度の差こそあれ誰しも経験があるのではないだろうか。閉塞も解放も自分の脳のなかの営みに過ぎないことのように思う。

ところで歴史民俗博物館だが、展示内容もさることながら、佐倉城址というまとまった緑地のなかに立地していることもあり、散策するのにもたいへん気持ちのよい場所だ。普段、雑踏の中で生活しているので、週末などにこういう空の開けた場所を歩くと生気が高まるような心地がする。

子規の時代

2012年02月18日 | Weblog
しばらく前から詩に興味を感じている。俳句とか短歌といった類のものを少し勉強してみたいと思い、ちょっとした歌集などを開いてみたりしている。しかし、殊に短歌は馬鹿馬鹿しい内容のものが多いように感じられて、そう感じた瞬間に興味が萎えてしまうということを繰り返して半年ほどが過ぎた。また、短歌というものは本歌取りに見られるように先人の歌についての知識が要求される。限られた文字を並べるのだから偶然既存の歌と似たようなものが出来上がってしまうという近頃喧しい著作権の問題というのもあるだろうし、素朴に先人に学ぶという意図もあるのだろうが、いずれにしても基礎的教養として主だった歌集は頭にいれておかないといけないらしい。そういうことも私にとっては敷居を高くしている要因だ。どのようなことであれ、新しいことを知るのにはその道の人に教えを請うのが確実だ。とはいえ、身近に歌のわかりそうな奴などいないので、どうしようかと思案しつつ時が過ぎている。

柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
時々このブログにも書いているが、私は果物が好きで、今の時分なら林檎、春は直ぐに思い浮かばないが、夏はなんといっても桃、秋は柿を毎日欠かすことがない。それで、この句のことだが、作者を知らない人でも、日本でまともな教育を受けた人ならこれを知らない人はあるまい。作者は正岡子規。歌壇俳壇の革命児と呼んで差し支えないだろう。今日は「正岡子規と美術」という展覧会を観に横須賀美術館へ出かけて来た。

江戸から明治へと時代が転換するなかで、さまざまな新しい知識が外国からもたらされたが、そのひとつに西洋画がある。写真というものができる前は西洋画に写実性というものが強く求められていた。写実というのは単に技術の問題ではなく、ものごとを考える基本的な姿勢にも通じる問題、らしい。子規が目指したのは人が生きる現実を限られた言葉に凝縮することだったようだ。現実を端的に表現するという点では言葉も絵画も同じことで、子規は絵画に対しても大きな関心を払っていた。
「僕に絵が画けるなら俳句なんかやめてしまふ。」
というようなことも言っていたらしい。

展示のほうは子規自身の手になる絵のほか、子規と同時代に活躍して子規に影響を与えた人々の作品が並ぶ。具体的には、フォンタネージ、小山正太郎、浅井忠、五姓田義松、中村不折、下村為山などだ。子規は評価していなかったそうだが、黒田清輝の作品も並んでいる。自然へのまなざしにおいて、子規と黒田との間に通じるものがあるのではとの本展主催者の考えによる取り合わせとのことだ。

それにしても、あるものをあるがまま、ということは果たして可能なのだろうか。そもそも「あるもの」とは何か。「あるもの」というものが果たしてあるのだろうか。私が言いたいのは、「ある」というのは自分にとって「ある」と認識されているのであって、決して誰にとってもおなじようにそこに「ある」わけではない、ということだ。写生が写真と異なるのは、まさにこの点においてかもしれない。勿論、同じ風景を撮影するにしても、微妙な構図の差で全く別世界のような写真ができあがることは、意識的に写真を写すという行為を経験すれば誰しもが体験的に了解できるであろう。それを描き写そうというのである。同じ場所、同じ時間、同じ視線の位置、同じ視力であったとしても、そこに十人十色の写生画が現出するであろうことは容易に想像がつくことだ。ある風景を言葉で表現する場合でも、絵画表現と同様に様々な文言が並ぶことになるだろう。「写生」は個人にとっての「写生」であって、万人等しく納得する「写生」というのは存在し得ないのである。

結局、人はわかり合える相手としか意志の疎通ができない。同じ絵画を前にして同じことを考えるわけではない。同じ俳句を読んで、詠んだ人と同じことを思うわけではない。その乖離を埋めたりやり過ごしたりする試みが生きることの或る側面でもあろう。確かに、子規が生きた時代は西洋から新しい科学が押し寄せて来た時代でもある。あるものをあるがまま、というのは観察と表現であり、つまり科学だ。子規が目指したのは俳句や短歌の科学化ということではないだろうか。絵画は今でこそ芸術や美術として認識されるが、もともとは科学技術の一領域だ。あるものとは何か、あるとはどのようかことか、というようなことを問うよりも、物事を観察してそこから何事か普遍的なものを見出すという態度はその時代の姿勢だったのだろう。そう思って見れば、子規の時代に子規のような写生写実への傾倒が見られるのは至極当然の趨勢であるように思われる。

それでは今という時代がどのような時代なのかと思わずにはいられない。現代の俳句や短歌、現代の表現とは、どのようなものなのだろうか。

ところで、京浜急行で横浜を過ぎると車窓の風景に目を奪われてしまう。起伏に富んだ地形なのだろうが、高台はまるで家屋を積み重ねたようで、もとの土地を感じさせないのである。よくもこんなところにまで宅地を造成したものだと感心し、またよくもそんなところに住むなどということを考えるものだとその勇気に感嘆する。私は小心なので少しでも落ち着けるようにと、馬鹿の一つ覚えのように「洪積台地」と騒いでいる。この風景を眺めていると、つくづく自分が小さいと思ってしまう。浦賀から乗ったタクシーの運転手によると横須賀はトンネルの数が日本で一番多い自治体なのだそうだ。「昔からこんなふうに高台の上まで開発されていたんですか?」と尋ねると、「いやぁ、昔は違ったんですけどね。だんだん上に上がって行っちゃって。でも、去年の地震のときは崖崩れが一件もなかったんですよ。」ということだった。三浦半島というのはずいぶんしっかりした土地らしい。

経過良好

2012年02月17日 | Weblog
先週手術をした下肢静脈瘤の術後経過観察のためクリニックを訪問。予約の時間を30分ほど過ぎてからようやく順番が回ってきたところを見ると、問題のある人が私の何人か前にいたようだ。少なくとも私の直前3人はトントンと進んでいた。私自身も診察室に入ってから、診察を終え、会計を済ませるまでに15分程度しかかからなかった。経過は順調とのこと。術後1週間はシャワー浴しかできなかったが、今日からは入浴も可能となった。次回の診察は2週間後。

今日は午後の比較的早い時間に就職の面接があって、昼をクリニックの近くで済ませるか、とりあえず面接場所近くに移動してから食べるか、少し迷った。近頃は人身事故などで電車が止まることが多いので、とりあえず面接場所近くに移動すべくクリニックの最寄り駅へ向かう。改札を通ろうとした直前、視界の左隅に派手な建物を感じた。改札へ向かう人の流れから外れてその建物のほうへ向かう。台湾料理という看板を掲げた店だった。12時台で駅前だというのに店内には客が2人しかいない。これは入るしかないと思い、赤い戸を開けて「こんにちは」と中に入る。入口のところに写真入りのメニューがあり、店内に入る前に鶏肉と野菜の炒め物の定食と決めていた。フロア担当も厨房も中国の人らしく、楽屋話は中国語だ。しばらくして出て来たのは、なんとなく見覚えがある定食だ。大根と青菜のスープが付いていたが、これは確かに覚えのある味だった。

以前、茅場町で働いていた頃、昼食圏はかなり広めで、日々おいしい店の開拓に努めていた。エクセルで表を作り、そこに店名、住所、寸評をまとめて社内に回覧していた。茅場町で勤務していたのは1996年夏頃から1998年夏頃までだったが、かなり大きな表になっていたと記憶している。退職するときに派遣社員の人たちにファイルごとあげてしまった。当時、人形町に台湾人姉妹が営んでいた小さな食堂があった。私がその店を知った頃はランチ時間帯は姉がひとりで切り盛りしていたが、後に息子さんが中学を受験するのでその世話に専念するとのことで、妹さんと弟さんに交代した。なんとなく姉さんがひとりで切り盛りしていた頃のほうが旨かったように思ったが、妹弟コンビになってからも頻繁に足を運んでいた。その店の定食で大根のスープが出ることがあり、そのスープを思い出した。

不思議なもので、台湾にはその後頻繁に出かけるようになった。きっかけは1999年9月21日の大地震だ。地震のはるか以前から9月末から1週間程度の予定で出張することになっていたのだが、地震で同行するはずだった人たちが次々と出張予定を取り消してしまい、最終的に私を含めて3人で出かけることになった。出張先は新竹の半導体工場群だ。地震後10日ほどしか経過していなかったので余震が続いており、宿泊先のホテルも訪問先の企業も程度の差こそあれ何がしかの被害を受けていた。それでも関係者の皆さんがそれぞれに尽力して下さったおかげで大きなスケジュール変更もなく出張を完了できた。その時にお会いさせて頂いた方々がそれぞれに復興へ向けて奮闘されているご様子を目の当たりにしたときの頼もしい印象が忘れられず、その後も3ヶ月毎くらいに足を運ぶようになった。それは私のほうの状況が大きく変化して台湾との縁が希薄になってしまう2001年夏頃まで続いた。

そんなわけで、街で「台湾」とか「台湾料理」という看板に出会うと、なんとなく足がそこへ向いてしまうのである。最後に台湾を訪れたのはいつのことだっただろうか。2001年であることは間違いないと思うのだが、今となっては遠い昔のことになってしまった。

さて、就職の面接だが、今日訪問した先はこれで3回目だ。前回が役員面接で、今回は課題を与えられて、それに対する自分の見解を語るという試験のようなものだ。全体の雰囲気としては事がうまく運んでいると私には見えるのだが、相手のある話なので、実際のところがどうなのかは私にはわからない。そろそろ結論を頂きたいところだ。

面接の後、その結果をこの面接をアレンジしていただいた人材紹介会社の担当者にメールを書いて送る。持参しているiPadには前職の直属ではない上司から先日紹介してもらった別口の面接の進捗状況を尋ねるメールが入っていたので、それにも返事を書く。その上司からの紹介案件については、先週、彼の知り合いらしい米国のエライ人と電話で話をし、今週に入ってその下にいて香港で働いている別のエライ人と電話で話をし、来週は米国や香港とは別系統のエライ人と都内でお目にかかることになっている。世の中の景気のほうは多少明るさも見られるようだが、総じて厳しいことに変わりはないと言えるだろう。そうしたなか、自分の周囲にあれこれと世話を焼いてくれる人たちが存在するということが何よりも嬉しい。

メールを送信した後、出光美術館で三たび山田常山展を観る。今日は金曜なので閉館時間が普段よりも2時間遅い午後7時だ。丸の内カフェでの講演会の際に本展の招待券をいただいたので、今日も飽きずに足を運んだ。美しいものは何度観ても飽きないものだ。

普遍的幻想

2012年02月16日 | Weblog
東京国立博物館に「北京故宮博物院200選」を観に行く。会期終了間近で通常ならば混雑するはずだが、東博の場合は客の大多数が取り立てて美術が好きなわけでもない老人なので、今日のように寒さの厳しい日は出足が鈍いだろうと踏んだのである。果たしてその通りだった。

先日、香港の美術館を訪れたときにも感じたのだが、中国美術の主流は書画であるようだ。漢字を創造した文化なので、そこに特別な思い入れがあるというのはうなずけることだ。科挙でもしっかりとした楷書を書くということが大きな評価ポイントであったという。今回の北京故宮博物院展も多くのスペースを占めているのは書である。画に付された讃や詩といった他の美術領域の付属部分も含めると、中国美術=書と言っても過言ではないほどだ。手書きの文字を見て巷の人々が達筆だの悪筆だのと言い合うのは日本人も同じで、日本にも書道という確立された美術領域があるところを見ると、文字というものに対する美意識は大陸にも日本にも通じ合うところがあるのかもしれない。

しかし、この国で「美術館」という看板を掲げた施設で最初の展示が書というところは思いつかない。鴬谷の書道博物館のように専門の美術館は例外だ。日本の美術館でありながら、西洋絵画を売りにしているところならいくらもある。これはどういうことだろうか。私は美術の門外漢なのできちんとした知識は無いのだが、美術に限らず日本発のものというのが無いのではなかろうか。その時々の流行のもののなかから自分たちの好みに馴染むものを引っぱり込んできて、自分好みに洗練していくという過程そのものがこの国の文化を特徴付けているような気がする。書も絵画も華道も茶道も近代産業も全部そんなふうに見える。ふと、以前読んだ坂田和實の「ひとりよがりのものさし」を思い出す。車箪笥についての記述にこのようなものがあった。
「箪笥は桐製、ボロボロ、虫喰いの大安物。しかしそのプロポーションの良さと、引き手の金具などに見られる軽み―――これが日本の家具本来の美しさではないかと僕は思っている。」
家具に限らず、この国の文化の基調には軽みというものがあるように思う。「軽妙洒脱」というのは褒め言葉だろう。軽さというのが価値基準の重要な要素となっているような気がするのである。それは時々の最先端を自由自在に取り込んで自分たちのものとしてカスタマイズしてきた歴史に通じるのではないかと私は思っている。そう考えれば、美術館の最初の展示が西洋絵画であるのは、ある意味当然のことと合点がいくのである。

よく普遍性という言葉を見聞きする。私もこのブログで時々使う。しかしよくよく考えてみれば真に普遍的なことというものがあるだろうか。そんなものがそもそも無いから「普遍性」「普遍的」と喧しく言うのだろう。中国、といっても多くの民族から成る複合体だが、代々この地域を統治してきた王朝が重要視してきたとされる中華文化、多数派である漢民族の文化の担い手としての正統性は、その基盤が不安定であるが故に軽いと困るのである。欧州の歴史や文化にも言えることだが、陸続きで異質な文化と接している緊張感を抑えるには、自分たちの存在の正統性を主張するに足る確たる証が必要なのだろう。そこに時々の貴重品や稀少品をしゃかりきになって蒐集する必要が生じるのである。勢い重厚長大を指向した文化が出来上がる。紫禁城は城という域を脱してそれがひとつの町のようだし、古代の大帝国の首長の館というのはどれも似たように巨大なものではなかっただろうか。自分を大きく見せる、というのは発情期の畜生のようだが、要するに人は年がら年中発情しているということだ。そうしていないと生命をつなぐことができない弱さがあるということだろう。

故宮博物院の宝物を前にして、その美意識と自分のそれとの間に果てしない距離を覚えるのは、勿論私が貧乏でそうしたものとの縁が無いという所為も多分にあるのだろうが、日本という国で生まれ育って生涯を全うしようとしていることが大きく作用していると思う。

最近ご無沙汰だった法隆寺宝物館も覗いてみた。改めてそこに並べられている仏像や装飾品を眺めてみると、時代が古い分、造形に未熟なところを感じるがそれを同時代の大陸のものと比較した時に完成度の低さと捉えるか、独自の解釈と捉えるかということを思った。気になるのは仏像の姿勢が悪いことだ。どれも猫背で老人がやっと立っているような風情だ。後代の美しい立ち姿とはちょっと違う。これは何故だろう?

東京芸大の学食で一服した後、久しぶりに寄席でも覗こうかと思った。最初に鈴本へ行ってみるとトリが白鳥なので却下。地下鉄を乗り継いで池袋演芸場へ行くと、そこもぱっとしなかったので却下。新宿へ移動して末広亭に落ち着く。平日夜の部としては平均的な人の入りだろう。寄席は落語を聴きに行くというよりも、今時こんな芸が生き残っていたのかというある種の考古学的興奮を体験する場だと思っている。落語のほうは時間の制約があるので大きなネタはできない。そこをどう上手く聴かせるかというのが芸というものだろうが、それを期待するのは酷というものだろう。今日一番面白いと思ったのは、江戸の物売りの呼び声を演じるというものだった。あってもなくてもよいものを売って商売にするというのだから、呑気に聞こえる呼び声には呑気ではない意気が込められているはずだ。今時は物売りというのは殆ど聞かなくなったが、それは商売への意気込みが全体として低下したということなのか、単に意気込みを資本に置き換えたということなのか。なんでもかんでもデジタル表示というのは、果たして未来につながることなのか、自分自身の生活を知らず知らずに痩せらせる自殺行為なのか。

寄席がはねてから、近くの桂花ラーメンで遅めの夕食にする。学生時代の友人で親が熊本出身だという奴がいて、この店は彼に教えてもらった。今年彼から届いた年賀状には「今年は生涯忘れない年になりそうです」と書いてあった。彼の勤務先は東京電力だ。

住処探し

2012年02月15日 | Weblog
不動産の内見に出かける。近所というわけではないのだが、散歩がてら1時間近く歩いていく。一応、今の巣鴨の住処は勤務先名義で借りているので、これを退職日翌日から私の名義に変更するという手続きを進めている。今の住処に取り立てて不満はないのだが、クビになった先の名義で借りていたというのはげんが悪い。ここは状況が厳しいからこそ、腐れ縁を潔く断ち切る意味でも処替えをしようと思っている。しかし手元不如意である。となると移る先についてはあれこれと厳しい制約が生じることになる。といって細かいことを言い出すと何もできないということになりかねない。そこで今回は以下の3条件を考えた。

一 洪積台地に位置している
二 現在の家賃と同額で現在の住処より広い、または、現在の住処と同じ広さで現在の家賃より安い
三 駅から徒歩圏内

このブログの読者はお気付きのことと思うが、私の「徒歩圏内」というのはかなり広範に及ぶので、あまり意味を成さないかもしれない。しかし、都内で洪積台地というと山手線より東側は考慮すべき対象から丸々外れてしまう。第一の条件は、都区内ではかなり厳しいものなのである。

それで、今日拝見した物件は、まだ退去前なので現在の住人の方にいろいろお話しを伺うこともできて、結果がどうあれ、たいへん勉強になった。ちなみに、第二の条件に関しては、同家賃で倍の広さになる物件だ。そんな甘い話があるだろうかと思われるかもしれないが、家というのは家賃と広さだけで決まるものではない、と言えばどのような物件なのか想像はつくだろう。おそらく、世間の多数派の意見ならば過酷な物件ということになるのだろうが、私は気に入った。ただ、数日前に仮押さえをして検討中の人がおられるそうなので、その人が正式に決めれば私にはまわってこない。それはそれで仕方のないことなので、探し続けるだけのことだ。

それにしても空いている不動産が思いの外多くて、少し恐くなる。都内でも特定少数の場所については、このご時世でも家賃が上がっているそうだが、今日歩いたところなど至るとこに貸家や貸事務所の貼り紙があった。地方都市では「シャッター商店街」というのが当たり前のように広がっていたりするものだが、都内も繁華街を外れたところでは似たような風景が見られる。私は身近に農業に従事する人がいないのであまり意識していないのだが、風景という点では農村の荒廃も深刻だという。今はTPPにまつわる議論が聞こえてくるが、TPPに参加しようがしまいが、そもそも議論の対象となっている日本の農業が存在するのかということが問題だろう。確かに生産額という尺度では、日本の農業総産出額は平成22年において8兆1,214億円である。これはどのような規模かというと、少し時間を遡り2005年(平成17年)では8兆5,119億円と少し多く、同年においては中国、米国、インド、ブラジルに次いで世界5位だそうだ。尤も、金額表示というのが曲者で、平成22年の内訳を見ると67.9%が耕種で残りが畜産だ。さらに内訳を見れば一番多いのが野菜で全体の27.7%、それに米19.1%、乳用牛9.5%、果実9.2%、鶏9.1%、豚6.5%、肉用牛5.7%と続く。海外で生活をしてみればよくわかるのだが、日本の農産物は総じて高価だ。それは色形が美しいとか、揃っているとか、ちょっと他国産には見られない特徴がある。腹を満たすのは見栄えではなくて中身なので、これが生産量となると心もとないことになり、カロリーベースの食糧自給率39%という数字になる。話が大きく脱線したが、要するに耕作が放棄されて荒れている農地が増えているということを言いたかっただけだ。都市の住宅や事務所と言わず、農村の農地と言わず、日本の至るところが空いて荒れているのである。

そうしたなかで残存能力を活用することを考えないといけない。いやらしい言い方をすれば、生活のためになんとか勝ち馬を見つけ出してそれに乗らないといけないのである。経済成長が当然とされていた頃には考えられなかったことだ。どんな馬でも永久に走り続けることはできない。適当に乗り換えの馬を見つけるという作業も自分が生きている限り継続しないといけない。冒頭で「腐れ縁を断つ」というような言い方をしたが、要するに常に新しいことに挑戦し続けないと生活を継続することができないのではないかと思うのである。巣鴨の住処に籠ってこんな駄文を書き散らかしている場合ではないのだ。