熊本熊的日常

日常生活についての雑記

大晦日

2007年12月31日 | Weblog
今年も終わる。2006年4月1日から日記をつけている。去年の年末の頁を開くと、そこには居心地の悪そうな自分の姿があった。いつの日からか、長い休みというものが苦痛になっていた。休むことが苦痛なのでも、仕事をしないことが苦痛なのでもなく、家に居るのが苦痛だった。今年の年末年始は元旦以外出勤で、休みというものがあまりないのだが、それでも久しぶりに平穏な心持ちで年の暮れと始めを迎えている。東山魁夷の作品「年暮る」の世界が心の中に広がっている。

生きていれば、男時女時というようなものがあるのが当然だろう。様々な経験を積んで人は人になっていく。そう言われれば、その通りなのだが、災厄のなかにあれば、己の無力を反省する以前に己の不遇を恨むという醜態を曝すことが少なくない。自分の置かれている状況が不本意であるならば、本意の状況に変える行動を起こさなければならない。自分で考え、行動をすれば、どのような結果が生じたとしても、少なくとも自分の考えや行動に対する評価を自分で下すことができる。そして、改めるべきは改め、進むべきは進むという進歩が自分のなかに生まれる。その繰り返しを通じて、知恵を得、生きることの愉しさのようなものを感じることができるのだと思う。

2007年は、まだ記憶の中に鮮明であるせいか、これまでになく学ぶことの多い年だったように思う。来年の今日があるとすれば、今よりも多少なりとも知恵をつけてその日を迎えることができるように、明日からの生活を重ねていきたい。

娘へのメール 先週のまとめ

2007年12月30日 | Weblog

DSは楽しいですか。勉強もしっかりやってください。とりあえず、追試を受けなくても済むような学力をつけることを目標にしましょう。

先週は、クリスマスということで閑散としたオフィスで働きました。オフィスが閑散としていていることも、徒歩で1時間かけて通勤しなければならないことも、全く自分の生活には関係のないことだということが改めて確認できました。懸念していた食料品の調達も、特に問題はありませんでした。要するに、世の中の出来事の多くは、個人の生活と直接的には結びついていないということです。それとも、私個人が世間と没交渉にあるということなのでしょうか。

クリスマスというのは、日本の正月とは少し意味合いが違うような気がします。私が育った家庭が貧しかった所為なのか、日本の文化としてそうなのかは知りませんが、年末の大掃除にしても正月のお節にしても、身近な人々と一緒に、一年間無事に過ごすことができたことに感謝し、新しい年も恙無く暮らすことができるよう祈るという意味合いがあり、正月早々不要不急の出費をしたり、揉め事を起こしたりすることは慎まなければならないと思っていました。つまり、正月というものは静かに迎え、過ごすものだと思っていました。ところが、こちらのクリスマスというのは、何かに取り憑かれたように買い物に走り、消費の一大イベントのような様相でした。毎日、ショッピングセンターの駐車場を斜めに横断して通勤しているのですが、24日の朝は、いつも閑散としている駐車場がかなり車で埋まっており、スーパーから山のように商品を買い込んだ人々がカートから車へ荷物を積み込んでいました。クリスマスの準備は終わったけれど、ふと気付いたら足りない物があって、店に駆けつけた、という様子ではありません。この時期は何が何でも買い物をしないと気が済まないという様子です。もし本当に神がいるなら、こんな様子を見てさぞ嘆くのではないでしょうか。

クリスマス明け後、営業を再開したスーパーの棚には明らかにクリスマス用に準備したと思われる商品の在庫処分品が並びます。安いので、私もチーズを買ってみましたが、酷い味でした。こちらの小売業にとってクリスマス時期の重要度がどれほどのものか知りませんが、この機に売上と利益を稼ぐという姿勢を見て取ることができます。

さて、今年ももうすぐ終わります。個人的にはいろいろなことがありましたが、その多くは予定通りのことだったので、とりあえずはほっとしています。ロンドンで暮らすというのは予定外でしたが、新しいことを経験するというのは、それがどのようなことであれ、自分の生活を豊かにするものだと思いますので、じっくりと身の回りことを観察して、知見を深めてみたいと考えています。

珍しく東京の年末年始の天候が荒れるようですが、健康は荒れないように、ご自愛ください。では、また来週。よい年を迎えてください。


娘へのメール 先週のまとめ

2007年12月23日 | Weblog

今年も残り1週間となりました。元気ですか。 先週は火曜日に職場の忘年会があり、水曜日はナショナル・ギャラリーでファン・エイク兄弟の画業についての講演を聴いてきました。

忘年会といっても、シティとゴールドマンの日本企業のレポートを担当する編集者や翻訳者の集まりです。在宅でロンドンから遠いところで働いている人も何人かいるので、全員集合というわけにはいきませんが、それでも12名集まりました。私にとっては、殆どの人が初対面でしたが、シティは勿論、ゴールドマンにも知り合いのアナリストは何人もいるので、なにかと共通する話題も多く、疲れましたが、楽しかったです。

ファン・エイクというと、私はヤン・ファン・エイクしか知らなかったのですが、フーベルトという兄がいて、この兄が現在の油彩画の技術的基礎を確立した人だということを今回初めて知りました。美術史におけるファン・エイク兄弟の位置づけ、特に、写実主義という形で彼等の時代にモダニズムの最先端を行っていたという主旨の講演だったと思います。英語の講演なので、内容は半分くらいしか理解できていないと思いますが、それでも楽しかったです。

金曜日には、国民保険の面接を受けに出かけてきました。アメリカでは、Social Security Numberというコード番号で国民を管理するわけですが、英国でこれにあたるのが、National Insurance Numberと呼ばれるものです。端的には日本の住民票や戸籍制度のように、国民ひとりひとりを政府が認識し、主に徴税を漏れなく行うための主要な道具と言えます。11月中頃に、勤務先からこの番号を取得するようにとの指示を受け、言われるままに電話で面接の予約をしたら、この日になったという次第です。会場には、私のような外国人労働者があふれていました。自分の番が来るまでの間、他の人の面接の様子を見ていたのですが、英語ができない人が多いことに驚きました。言葉の通じない土地で暮らすのは、決して楽なことではありませんし、そんなことは百も承知なのでしょうが、それでも自分の生まれ育った土地を離れなければならない事情がある人が多いのでしょう。そうした人々を受け容れるこの国の度量の深さにも感心しますが、移住にせよ出稼ぎにせよ、外国で稼がなければならないような国が多いことにも驚きます。改めて、今の時代に日本人であることの幸運を感じました。

今週はクリスマスで、街中は休暇モードですが、景気減速で小売業のほうは商売に必死なようです。毎日、クリスマス開けのセールのチラシが舞い込んでいます。クリスマスの終わりが射程に入り、冬至も過ぎて、これから少しずつ日が長くなると思うと、何故か嬉しい気分になります。

年末年始はなにかと気忙しいでしょうが、冬休みの宿題は早めに終わらせて、よい正月を迎えてください。では、また来週。


冬至

2007年12月22日 | Weblog
今日は冬至である。日に日に日没時間が早くなり、このまま太陽とは縁が切れてしまうのではないかと心配したが、それは杞憂に終わるようだ。日本の国立天文台のサイト(http://www.nao.ac.jp/)で日の出入の時刻を調べてみたら、暦に「冬至」と書かれている前後数日も日の出から日の入りまでの時間は冬至と同じである。東京(緯度35.658、経度139.741)では10時間45分で、これが12月18日から12月26日まで続き、ロンドン(緯度51.500、経度-0.170)では8時間50分の日が12月18日から12月24日まで続く。しかし、その時間の変化の割合は、当然ながらロンドンのほうが大きい。大晦日の日の出から日の入りまで、東京は10時間47分で冬至に比べて2分長くなり、ロンドンでは8時間55分で5分の変化である。

今回、日の出入の時刻を調べて初めて知ったのだが、冬至は日の入りが一年の間で最も早い時間の日、ということではない。日の入りが最も早い時刻になるのは、東京が11月29日から12月13日にかけて16時28分であり、ロンドンは12月8日から12月18日にかけての15時52分である。日の出の時刻が最も遅いのは、東京が年明け1月2日から14日にかけて6時51分であり、ロンドンは12月26日から1月5日にかけての8時6分である。

冬至には、なぜか夏が旬であるはずの南瓜を食べると良いと言われているが、どうしてそんなことになったのだろうか。柚子湯に入ると良いとも言われているが、何故なのだろう。諸説あるようだが、個人的にはあまり興味は無い。ちなみに、今日の食事は朝昼兼用にシリアルとオニオンベーグルを頂き、おやつに栗を焼いて食べ、夕食はカレーライスである。

朝は、先週末にロンドンで唯一、焙煎しながら豆を売っている珈琲屋で購入したブラジル産のSanta Daru(? 珈琲屋のオヤジの手書きの文字がよく判別できない)を飲んだが、これは本当に美味しい。最初は、月並みな味だと思ったのだが、豆を挽くときの粗さを調整したり、湯の落とし方を調整した結果、香豊かで奥行があり、それでいて喉越しのよい味が出るようになった。その珈琲屋はCamdenという地域にあり、私の居住地からは少し遠いのだが、わざわざ足を運ぶ価値のある店なのである。というより、ほかに満足できる豆を売っているところが無いのである。

なにはともあれ、これから日が延びると思うと、何故か嬉しい。

外国人労働者として思ったこと

2007年12月21日 | Weblog
私は今、外国人労働者である。外国人旅行者というのは気楽で結構なのだが、外国人労働者となると、生活にまつわる諸々の手続きが必要になる。これは難しいことではないが、面倒くさいことこの上ない。

今日はNational Insurance Numberというものを取得するための面接に出かけた。11月中旬に勤務先で税務関係の面談があり、その時にこの番号を取得するようにとの指示を受け、早速電話をかけて面接の予約をしたら、それが今日だったのである。

面接会場は職場から地下鉄を2路線乗り継いで30分ほどかかる場所にある。日本で言うならハローワークのような役所で、こちらではJobcentreplusという。指定された時間に受付を済ませ、指示に従って面接会場に行くと、そこには順番待ちの人々が大勢いた。その順番待ちの人々が座っている場所を取り囲むように机がいくつも配置され、面接官が座っている。面接のやりとりは、筒抜けである。

自分の順番を待つ間、他の人の面接の様子を見ていた。面接を受けている人は、殆どが私と同じ外国人労働者である。なかには英語を解さない人もいるが、面接官は手慣れた様子で、そのような人を相手にしていても、手際良く手元の書類に何事かを記入している。驚くことに、英語を解さないのに、ここで就労している人、あるいは就労しようとしている人が次から次へと面接を受けている。一体この人たちは、普段どのように生活をしているのだろうと、疑問に思うほどである。

ろくに言葉の通じないような国に来てまで働かねばならない事情とはいかなるものなのだろう。なかには大志と野望を抱いてやって来る人もあるだろうし、やむにやまれずやって来た人もあるだろう。私の場合は、いつまであるかわからないが、まだ、帰る場所はある。いざとなれば出ていくことができると思えば、たいがいのことは我慢ができる。それでも、日々無数の些細な不平不満の種が蓄積していく。帰る場所が無いとしたら、嫌でもこの地で生活を築いていかなくてはならない。言葉が通じない場所で生活することの不安や不満は容易に想像がつく。

改めて、今、自分が生きていることの不思議を思う。生まれる場所と時代が違えば、同じ身体的能力を備えていたとしても、全く違う人生がある。それは自分で選ぶことができないのである。自分が特別恵まれているとは思わないのだが、それでも今の自分があることを、自分を取り巻くあらゆることに対して、感謝しなければいけないと思うのである。

娘へのメール 先週のまとめ

2007年12月16日 | Weblog

今年も残りわずかとなり、今週から冬休みですね。お元気ですか。

この週末は、ようやく満足のいくコーヒー豆を調達できました。Camdenというロンドン北西部の下町の、商店街から少しはずれたところに、恐らくロンドンで唯一の自家焙煎店があります。みるからに頑固爺が店を切り盛りしているのは、東京のこだわり珈琲店に似ています。店主に好みを伝えて、薦められたブラジル産の豆は、私にとってはやや物足りない部分があるものの、いかにもブラジルらしくバランスのよい万人受けしそうな味でした。なにより、焙煎して日が浅いので、気持ちよく淹れることができます。これまで、いつ焙煎したのかわからないくらい酸化の進んだ豆ばかりだったので、いくら湯を注いでも吸収するばかりでなかなか落ちてこなかったのですが、ここ豆はイメージ通りに淹れることができます。まずは、調達先をひとつ確保し、日頃のささやかな不満の種をひとつ消すことができました。

土曜日、コーヒー豆を買った後、ナショナル・ギャラリーに行って、キュレーター・トークを聴いてきました。まず、形式ですが、一枚の絵を題材に、その絵のこと、その作家のこと、その時代のことをキュレーターが説明します。所要時間は約30分。今回のお題はSalvator Rosaの”Witches at their incarnations”でした。私はこの作家を知らなかったのですが、日本では彼の作品を観ることは殆どできません。風景画、特に山岳風景画で有名らしいのですが、詩人でもあり版画家でもあり哲学者でもあります。彼が生きた17世紀の画家というのは、誰も多才な教養人であることが要求されたようで、彼が特別そうであったというわけではなさそうです。この絵は彼自身の詩(諷刺詩)をモチーフに描かれたそうで、かなりグロテスクです。解釈はどうにでもできるでしょうが、私には人間の心の闇のイメージを描いたように見えました。 キュレーター・トークの客は、東京の美術館のそれと良く似ています。老人が多く、熱心にメモをとりながら聴いている人もいれば、半分居眠りをしている人もいます。好きで観に来ている人もいれば、暇つぶしでそこにいるだけという様子の人もいます。年寄と子供というのはいつの時代もどこの世界も似たり寄ったりなのではないでしょうか。

今週は火曜日が職場有志の忘年会で、水曜は美術館のセミナーで外食なので、今日は冷蔵庫のなかのものを整理しました。玉葱、パプリカ、マッシュルーム、ズッキーニ、トマトが少量ずつあったので、先日買ったカレーペーストの残りを使って野菜カレーを作りました。これで、木曜と土曜に買い物をすれば、適切な食料在庫を持って、うまい具合に週末とクリスマスの連休をしのぐことができそうです。

こちらはクリスマスと、その翌日が祝日で、特にクリスマスには都市機能がほぼ停止します。それなのに、仕事は東京時間に合わせなければならないので、地下鉄も動いていないのに出勤しなければなりません。ちょっとこの体制は勘弁して欲しいものです。クリスマスがこれほど厄介だと思ったことは、過去にありません。

キリスト教徒でもない多くの日本人にとって、クリスマスもへったくれも無いでしょうが、楽しいクリスマスを迎えることができるよう、健康に気をつけてください。


娘へのメール 先週のまとめ

2007年12月09日 | Weblog

今年も残りわずかとなり、なにかと気忙しい時期になりました。期末試験も近いと思います。お元気ですか。

この週末は土日とも家で過ごしました。天気が悪く、庭の手入れもできず、家のなかで、日本から転送されてきた郵便物の整理やら、いつものように掃除やらで、あっという間に終わりました。でも、いつもより遅い時間に起床し、家のなかで過ごすのは、豊かな時間を感じるような気がして好きです。 街中はすっかりクリスマス一色になっています。商店もオフィスも様々な装飾が施され、夜は至るところでパーティーが行われているようです。それでも、東京に比べると繁華街の規模も限られており、夜遅くまで飲み歩く人も少ないので、それほど盛り上がっているようには見えません。

金曜日の会社帰りにヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムという美術館で朗読劇を観てきました。リー・ミラーの生誕100年を記念して、同館で企画ものがいろいろ開催されています。たまたま同館のサイトを眺めていたら、そういうものが金曜の夜にあるということを知り、その場で予約して行ってきました。朗読劇であることは、当日その場になるまで知らず、リー・ミラーの作品解説か、彼女その人についての講演かと思っていました。朗読劇は彼女の息子が書いた彼女の伝記に基づいたもので、「天使と悪魔」というタイトルがついていました。Vogueのモデルとしてキャリアをスタートさせ、モデルから写真家へ転身、第二次大戦中は恐らく女性初の戦場カメラマンも勤め、晩年は料理研究家として生涯を閉じるという、華やかな人生を歩んだように見えます。しかし、家庭では、いつもいらいらしていて、ウィスキーとタバコが手放せなかったといいます。その対比が「天使と悪魔」ということのようです。朗読によって、主として彼女の写真家としてのキャリアを描いていましたが、静止画と朗読だけで、一人の人生をこれほどまでに生き生きと描くことができるものかと感動しました。

東京は11月後半から急に冷え込んで来たと聞いています。風邪の流行る時期でもありますから健康に気をつけてください。


Lee Miller - The Angel and the Fiend

2007年12月08日 | Weblog
この標題を見て、どのような内容を想像するだろう。これは昨夜、Victoria and Albert Museumで行われたイベントのタイトルである。私は、Lee Millerについての講演か作品解説だろうと思って予約した。実は、Lee Millerの一生をモチーフにした朗読劇だった。出演している人たちがどの程度の役者なのか、私は知らないのだが、Lee Millerの作品や彼女のポートレートを使いながら、ただ脚本を読むだけで、これほど人一人の人生を生き生きと表現することができるのかと感動した。脚本は、彼女の息子が書いた彼女の伝記に基づいており、”The Angel and the Fiend”というのは、職業人としてのLee Millerではなく、家庭での、あるいは息子の目から見た母としてのLee Millerの姿を表しているのだろう。

今年は彼女の生誕100年を記念して、モデルにして、写真家にして、料理研究家でもある彼女の作品展The Art of Lee MillerがVictoria and Albert Museumで開催されている。その生涯は、波瀾万丈というか破天荒というか、適当な形容が思いつかないほどだが、表現者であり続けようという強い意志が貫徹されていて、痛快で美しい。その作品は、街角の風景も、ポートレートも戦場も、彼女の思い描く美しさが表現されている。彼女の最初の写真の師はMan Rayだが、恐らく、誰が師であったとしても、彼女の作風は今そこにあるものと同じものになっただろう。それほどまでにその作品に強烈な意志を感じるのである。

写真というのは不思議だと思う。同じ風景でも、そのどの部分をどのように切り取るかというわずかな差異で、全く違った写真が出来上がる。それは、写真だけのことではないだろう。同じ風景を一緒に見ていても、自分と他人とでは同じには見えていないということでもある。自分のなかでさえ、見る時の気分によって、同じ風景でも違って見える。今、この瞬間の自分は、今、この瞬間にしか存在していないのである。写真を見ると、そんなことを思う。

酔っぱらいに絡まれる

2007年12月07日 | Weblog
会社の帰りに、ちょっと寄り道をして遊んでいたら、ロンドンの市街を出るのが夜9時をまわってしまった。クリスマス前の宴会シーズンでもあり、地下鉄には酔客の姿も目立つ。

自宅方面に向かって地下鉄を利用していた。London BridgeでNorthern LineからJubilee Lineに乗り換えたら、宴会帰りの集団と乗り合わせた。色付き色無し混成の集団で、そのなかで最も酔っているように見える30代半ばくらいの男が絡んできた。たまたま向かい合って立っていたのである。横山やすしに似た色無しだ。始めはぶつぶつと何事かを話しかけてくるだけだったが、無言で相手の目をじっとみていたら、私の腕をつかんで何事かを話す。同じ集団の別の人間が慌てて止めに入るが、彼は当然、止めない。私の隣で、彼と対面するように立っている女性が、彼の手首を掴み、時折彼の口をつつきながら牽制し、次の駅で降りるので我慢してくれと私に向かって言う。私は終始無言でそのまま彼の前に立っていた。結局、何事もなく彼等はCanada Waterで下車した。

ロンドンというところには、至る所に監視カメラがあり、地下鉄の駅は勿論、車両の内部にも取り付けられている。カメラもあり、相手も大人数だったので、何もしなかったが、カメラが無く、相手がひとりならどうなっていただろう。

英国的なるもの

2007年12月06日 | Weblog
3月に10日間ほど休暇を取って日本に帰ることにした。経済的に余裕が無いので、ネットで安い航空券を検索して、いろいろ比較検討の末、ある英国の航空会社の直行便を利用することにした。その時、時刻は午前1時をまわっていた。

その航空会社のサイトを開き、航空券の予約のページから、指示通りに必要事項の入力を済ませ、最後に予約確定のボタンをクリックした。すると受付ができないという画面が現れた。ネットでの予約は午前7時から午後10時の間でないと受け付けないというのである。

だったら、予約の画面を開いた段階で、そうした利用時間の制限があることを明示して、入力指示など出さなければよさそうなものである。無意味なことを最後までやらせで、「はい、残念でした」というのは悪意すら感じる。しかし、こうした底意地の悪さというのは、いかにも英国的な感じがして、受付不能の画面を見て、思わず吹き出してしまった。

娘へのメール 先週のまとめ

2007年12月02日 | Weblog

お元気ですか。平均的に地球の大気の温度は上昇しているのでしょうが、11月にコスモスが咲くのは当たり前だと思います。

日本のヨガ人口は20万人と言われています。そのかなりの割合が、痩身を動機として始めているのだそうです。ヨガ教室の側も、そうした需要に応じるべく、痩身効果が期待できるポーズをプログラムに取り込んでいる、というのは穿った見方でしょうか。ポーズによっては、腹部に圧迫を加えて溜まっているガスを抜くような効果があるものも少なくないでしょうから、ヨガで放屁、というのは自然なことのように思います。今度、我慢せずに自然にやってみてはどうでしょう。楽しそうじゃないですか。 ちなにみ、私が通っていた教室では、ヨガの前には食事は控えるようにと言われていました。毎週金曜の12時50分から90分間のクラスでしたが、金曜は朝食を抜くのは勿論のこと、木曜の夕食も軽めにして、しかも、午後9時前には済ませるようにしていました。その所為か、ヨガで放屁というのは自分では経験がありません。

こちらでは、相変わらず運動はしていません。先々週から通勤のバスをやめて歩くようにしたことと、職場でエレベーターを使わずに階段で5階の自分の席まで行き来するようにしていますが、運動効果は殆どないでしょう。ようやく生活のリズムのようなものができてきたので、年明けくらいから新しいことを始めてみようかと考えています。 しかし、朝9時から夕方5時まで時間が固定されるというのは、思いの外大きな負担であると改めて思います。UBS時代、いかに時間に恵まれていたかということを今更ながら実感しています。ヨガに陶芸、映画に美術館と、それは楽しい日々であったと今になって思います。

平日、帰宅途中にスーパーに立ち寄る頻度は少なくなり、先週は水曜日だけで済みました。それだけ自炊でも素材の使い回しの効率が向上したということです。ただ、買い置きのじゃがいもを腐らせてしまいました。こちらでは、野菜や果物の皮を剥くということをしない人が多い所為か、芋すらも洗った状態で袋詰めされています。その水分の所為で痛みが進んだのではないかと思います。今後は、濡れた状態のものは袋から出して乾かしてから保存することにしました。 芋といえば、さつまいもが、どうも今ひとつおいしくありません。オーブンで焼き芋にして食べるのですが、見た目はホクホクで素晴らしい色艶なのですが、甘味が欠けているように思います。でも、栗はおいしいです。これも焼き皿にならべてオーブンで200度程で焼き上げますが、日本で食べていた天津甘栗よりも自然な甘さがして、とてもおいしいです。

週末はナショナル・ギャラリーでシエナ展を観てきました。こちらの国立美術館や博物館は、原則として入場無料なのですが、企画展は有料で、料金は東京の同様のものより割高に設定されています。今回のシエナ展も9ポンドという日本円にして軽く2,000円を上回る料金設定です。確かに、移動に金のかかるフレスコ画を展示の目玉にしていたりするので、開催経費が嵩むことは理解できますが、それほどの内容があるものかどうか疑問に思いました。 シエナは15世紀のルネサンスの中心となった都市のひとつです。ドナテルローやラファエルの作品もありましたが、作者不詳の作品も多く、それだけに当時の美術愛好家、所謂パトロンの層の厚さを感じさせます。15世紀から16世紀という時代を考えれば、当時世界の最先端の美術品だと思いますが、それほどの富を集めた都市が、今はイタリアのただの町です。栄枯盛衰という歴史のダイナミズムを感じます。

12月に入り、週末のオックスフォード・ストリートとリージェント・ストリートが車両通行禁止になりました。東京で言うなら、銀座のような地域ですが、クリスマスの買い物客でごった返し、通りの人口密度はアメ横並みです。この地域にはハロッズ以外の百貨店の本店が軒を並べ、客の収容能力も高いので、店の中は、普段の週末よりも少し混んでいるかなという程度でした。クリスマス商戦の対象はプレゼント需要であるようで、子供向けの大型玩具の売り場が拡張されています。私は、シエナ展の後、ベッドシーツと枕カバーを買いにある百貨店に行ったのですが、レジに並んで他の客の買い物を眺めていたら、ソープ・ディッシュをプレゼント用にラッピングしてもらっている人がいて驚きました。プレゼントというのは、内容ではなく贈与という行為に意義があるようです。

いよいよ師走。なにかと慌ただしい時期かと思いますが、ご自愛下さい。 では、また来週。


Good

2007年12月01日 | Weblog
地下鉄の駅に、各路線の運行状況を示すパネルがある。通常、殆どの路線に”Good Service”という表示が出ていて、たまに”Delay”などとなっている。この”Good Service”というのは、単に「運行している」という程度の意味であり、決められたダイヤ通りに運行されているという意味ではない、と思う。”Delay”というのは、ダイヤに対して遅延しているという意味ではなく、「運行停止ではないが、殆ど動いていない」という意味であろう。そもそも、時刻表などというものが、駅構内のどこにも表示されておらず、”Delay”と言われても何に対して「遅れている」のかわからないようになっている。

先日、人事考課の電話会議でのこと。ロンドンでの生活はどうか、と尋ねられたので、”It’s not too bad and not too good.”と答えたら、”Ah, that’s “fine”, you mean.”と言われた。目から鱗が落ちる思いだった。”good”だの”fine”だのというのは、積極的に物事を肯定するということではなく、現状をあるがままに受け容れることが可能、という程度の意味でしかないようだ。

日常会話のなかで、”brilliant”だの”marvelous”だのといった言葉をしばしば耳にする。例えば、買い物で、買ったものを贈り物用にラッピングしてくれるよう頼めば、当然、店員はそれを拒んだりしない。すると客は”oh, it’s brilliant”などと言うのである。別に頼むほうだって、当然やってもらえるものと期待して尋ねているわけだから、”brilliant”もへったくれもないだろう。郵便局で、クリスマスの贈り物を送る時、相手先にどれくらいの日数で届くのかと尋ねて、3日ほどで届くという答えが返ってくると、”That’s wonderful.” ささやかなことに喜びを感じる豊かな感性がそこにあるわけでは、たぶん、ない。期待していた答えを得て「そりゃそうだよねぇ」という程度の意味だろう。

しかし、こうした語彙の運用が、日頃の生活を円滑に進行させる潤滑油のような役割を担っていることも確かだと思う。”Good”と言われて喜ぶのは間抜けだが、”Good”とすら言われないような立ち居振る舞いしかできていないとしたら、それは危険なことである、とも言える。