熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「点検」

2011年06月23日 | Weblog
仕事からの帰りは、原則として山手線を利用している。職場を出るのが0時過ぎなので、東京駅の山手線ホームにたどり着くのは早くても0時10分頃になる。その後に東京駅を出発する内回りの発車時刻は0時13分、27分、38分で、その前後に北行きの京浜東北線が同じホームから出ている。山手線の最終は0時38分でも、0時40分発の京浜東北線赤羽行きが、田端駅でこの2分先発の山手線に接続するので、私にとっての最終電車は0時40分の京浜東北線だ。今日は、恵比寿駅で「ドアの点検」のために山手線のダイヤが乱れ、0時13分発が運休になってしまった。京浜東北線のほうは通常通りに運行されていたので0時17分発の南浦和行きに乗って、田端で山手線を待った。この時間にしてはホーム上は人が多かったが、到着した山手線は昼間の乗車率程度で、混雑しているというほどではなかった。私の前に立っていたオネエサンたちはそれぞれに熱心にスマホの画面を操作している。覗き込んだわけではないが、自然に目に入るその画面は簡体字で表示されていた。地震の後、身近なところで中国人の姿が激減したが、あれから3ヶ月も経って状況が多少なりとも落ち着くと、消えた人たちも戻ってくる。それでも、印象としては震災前と同じと言えるほどではない。

車内の様子はともかく、JRを利用していて面白いのは、その言葉である。ダイヤが乱れ、列車を運休させるほどの状況でも「ドアの故障」とは言わない。あくまで「点検」だ。今日に限ったことではない。いつからそうなったのか知らないが「故障」という用語はJRではタブーになったらしい。何故なのかは知らない。私の勝手な想像だが、「故障」というと、その原因を明らかにしなければならなくなる。どこが故障したのか、それは何故なのか、明確にしなければ、乗客の命を預かる事業者として事業責任を全うしたことにならない。ところが、「点検」と言い換えることで、原因も責任も消えてしまう。誰が考えるのか知らないが、感心するほど姑息だ。

かつて国鉄総裁だった石田礼助は「粗にして野だが、卑ではない」という言葉を遺したそうだ。この言葉は城山三郎が石田の半生を描いた小説の題名にもなっている。国鉄からJRになって、乗客に対する職員の対応は表面的には卑屈になった。国鉄時代は酷いのがいたものだが、民営化後は態度の悪い職員というのを見たことがない。しかし、態度が改善されても、意識が改善されたわけではなく、単にそういうマニュアルになったからそうなったというだけのことかもしれない。少なくとも石田が主張していた「パブリック・サービス」の精神というものは、今のJRには無い。その証拠に、3月の震災のときには早々と休業を決め、帰宅の足を奪われた市民を駅施設から排除し、公共交通の担い手としての意識が無いことをわかりやすい形で表現して見せた。

「故障」を「点検」と言い換える精神は、おそらくJRだけのことではないだろう。「安全」と声高に喧伝していた原子力発電所がああいうことになった背景にも、同じ精神が流れているのではないだろうか。あれも確か「公共」関係の施設だろう。近頃は景気が低迷を続けている所為で、就職先としては「公共」関係が人気なのだという。3月の震災は我々に様々なことを問いかけたが、「公共」が本来負うはずの責任の意味もわからない輩が「公共」の仕事を占拠するとどうなるかということも、震災は我々に示して見せた。