熊本熊的日常

日常生活についての雑記

手仕事の日

2012年01月31日 | Weblog
1月の最後の日だというのに、年明け最初の壷を挽く。やはり週に1回では土に触れる機会が全然足りない。それでも昨年7月以来、壷ばかり挽いているので、さすがに多少は慣れたという感じを覚えるようにはなっている。そういう自分のなかに物事が消化されていく感覚を確かなものにするには、場数を重ねるよりほかに効果的な方法は無いと思う。そろそろ新しい住処を探さないといけないことになるかもしれないので、窯は無理としても、せめて轆轤やその周辺の作業ができる程度の場所を確保できるような物件を探してみようかと考え始めた。ちなみに、今日は2個の壷を挽いた。時間的にはもうひとつ挽くこともできたが、週1回の貴重な時間なので、ひとつひとつ考えながら丁寧に作業をすることを心がけている。限られた時間のなかで最大の効果を狙うなら、無闇に手を動かすのではなく、ひとつひとつの動作の意味を考え確認しながら取り組むほうが、目先の生産性は落ちても自分の中に残るものが大きいと感じられるのである。

陶芸の後、サンドブラスターを使ったガラス加工の体験に出かける。これは先日のアントレフェアに出展していた事業者の個別説明会に応募をしたことによるものだ。「説明会」だから何人か参加者があるのかと思ったら、私だけだった。おかげで仕事内容や事業モデルの説明にはじまって実技体験に至るまで、約3時間に亘る濃い内容の体験ができた。機械類を駆使して作業をするので、未経験者でも比較的短時間である程度のものを作ることができるようになる。しかし、いまひとつ面白みに欠けるとの印象は否めなかった。ただ、サンドブラスターはガラスだけではなく、皮革や木材の表面加工にも使うことができるので、工夫次第では思いもよらぬ使い方ができるのかもしれない。引き続き注意を払っておきたい事業のひとつだ。

陶芸やガラス加工をしている間に、携帯電話には多くの着信とメールが来ていた。これまで携帯電話は電話番号を持つためだけに所有しているようなものだったので、失業して就職活動を始めてみて、稼働率が高くなるといろいろとつまらないことを知るようになる。まず、電池の減りがこれほど早いとは知らなかった。以前は週に1回程度の充電で済んでいたのが、近頃は毎日のように充電している。次に、外出先で電話やメールをやりとりするために電話機を持ち歩いているのだから、外出中の電話やメールが多くなるのは当然なのだが、私にとっては慣れないことなので、率直な感想として、うざい。最後に、ますます素朴な疑問が強くなる。携帯電話は本当に自分に必要なのだろうか。

ガラス加工からの帰り道、たまたま通りかかった沖縄料理の店で夕食をいただく。沖縄ソバを使ったナポリタンスパゲティのようなものとゴーヤチャンプルを注文した。メニューにその「ナポリタン」は沖縄でよく食べられているものと書かれていたが、本当なのだろうか。

ありがとう

2012年01月30日 | Weblog
所用で銀行と郵便局を回った後、かねて予約しておいたカイロプラクティックの施術を受けてから住処に戻る。その後、荷物を替えて、或る事業の代理店の説明会に出かける。今日と明日、それぞれに別の事業の説明会を予約しておいたのだが、うっかり今日と明日の説明会を逆に記憶していて、今日行くはずだった説明会に出はぐってしまった。別にどうしても聴きたいという説明会ではなく、なんとなく勉強のつもりで予約したものなので緊張感が無かったということもあるが、あってはいけない失敗と反省する。結局その後、青山のトレーディング・ポストに寄って、修理を依頼しておいた靴を受け取り、地下鉄を乗り継いで茗荷谷へ行き、1ヶ月ぶりくらいで橙灯にお邪魔する。

今日は「ひろせべに作品展」の最終日であり、この後、橙灯は2月15日まで休業となる所為もあるのか、えらく混んでいた。席が空いていなかったので、ひろせさんの作品を眺めてみる。独特の世界観が描かれていて、なかなか楽しいので、私の絵葉書の在庫のなかにはひろせさんの作品も何枚か常備されている。残念なことに、近頃は葉書を書く相手がいないので、使う機会に恵まれない。葉書をやり取りする相手がいたら楽しいだろうと思う反面、数が多いと書くのが難儀だという不安も同時に感じる。今日はひろせさんの作品も絵葉書も拝見するだけで買わなかったのだが、店内にポスターが貼ってあった活字の葉書セットを1組購入した。これは中村活字、佐々木活字店、築地活字の3社が共同で制作したものだ。今は印刷物の殆どがグラビア印刷やオフセット印刷ではないかと思うのだが、活版印刷に対する需要は細々とではあるが根強く残っているらしい。

私も自分で使う名刺は中村活字で作った。その時のことはこのブログの2009年1月30日付「活字で名刺」に書いた。やはり活版で印刷したものは存在感の強さが違うと思う。尤も、そんなことを言っているのは名刺を作った本人くらいなもので、活版だろうが平版だろうが印刷などに注意を払う人など殆どいないのが現実だ。名刺を作った頃に考えていたことが殆ど実現できていないので、その名刺を使う機会が殆ど無いままに今日に至っていが、その限られた名刺交換の経験のなかで唯一、文字のことを口にしたのが昨年1月に開催した陶芸の個展の案内状制作をお願いしたデザイン事務所のデザイナーさんだ。さすがにデザイナーだと感心した。そんなわけで、同じ文面の名刺を活版印刷と平版印刷と2種類用意し、相手に応じて使い分けている。違いがわかりそうな人には活版の名刺を差し出し、鈍感そうな奴には平版の名刺を差し出すことにしている。

ところで活字3社共同カードだが、売上は全額を東日本大震災の義捐金に寄付するのだそうだ。義捐金についての私の考え方はこのブログの昨年4月9日付「いまできること」に書いたので、ここには書かない。蛇足になるかもしれないが、私はこのカードが気に入ったので買ったのであり、義捐金を出すつもりで買ったのではない、ということを付け加えておく。

見えるもの見えないもの

2012年01月29日 | Weblog
子供と一緒に、午前中は日本民藝館でスリップウェアを眺め、午後は出光美術館で山田常山の急須を眺めてきた。民藝館のスリップウェアは主としてイギリスのものだ。そう思って見る所為もあるかもしれないが、やはり肉と野菜を煮込んだような料理を盛るのによさそうな気がする。貧乏性なので、皿を飾るだけという用途では考えることができず、ついつい何を盛るかということを思ってしまう。急須のほうは、煎茶を淹れる道具なので中身については想像の余地はそれほどないのだが、どのような場で使うかということはあれこれと考える楽しさがある。

スリップウェアに対する興味は、なぜあのような装飾をしようと考えたのかというところに尽きる。陶器の化粧というのは、一旦乾燥したものに水を掛けるようなものなので、制作そのものがそこで終わってしまうというリスクが高い。そこまでして施すような装飾なのだろうかと思うのである。勿論、それは見る人作る人それぞれの考え方なので正解というものはない。それにしても、目の前に並んでいるような器で作り手は何を表現しようとしたのかということは素朴に疑問に感じる。私は人の手仕事に無駄や無意味なところは一つも無いと思っている。動作のひとつひとつを丹念に意識するわけではなくとも、なにかしらの考えや思いがあって身体は動いているはずだ。勝手な想像だが、模様を付けることで食事という人間と自然が直接に関わる場を神聖化したのではないかと思う。縄文土器が実用というよりは呪術や祭礼の道具として用いられたと推定されるように、装飾というのは単に美意識というような牧歌的なことではなく、自分たちの生活を取り巻く不可視のものに対する怖れと敬意を表現する行為なのではないだろうか。とすると、古い時代のスリップウェアの模様も、単なる指跡ということではなく、手をかけることそのものに製作中の器類を使うことに際して、具体的には食事の場において、そうした敬意を表現するひとつの方法なのではないだろうか。そう思って眺めれば、古びた厚めの皿もなにやら輝きを増すように見えなくもない。

これが急須となると自分の生活に身近になる分、敬意だの怖れだのということを思う以前に、そのものの佇まいが自分のなかにしっくりとくるのかこないのかという原始的な感覚が反応する。特定の作家の回顧展のような展示は往々にして年代を追うように作品が並ぶ。山田常山展も例外ではない。作家によっては生涯ほとんど変わらないという人もいないわけではないのだが、多くの場合は変化していく。その時々でテーマを追求する人が多いらしく順繰りに連続性を持って変化するよりは、相変化と呼ぶことができるような段階的な変化をする人が多いように思う。今回の展示では、最初の部屋の作品が私は好きだ。急須という日常の道具だが、はっとするような美しさを感じる。それが奥の展示室に進むにつれて作為が勝ってくるように感じられて魅力が減じていく哀しみのようなものを覚えた。作家の悩みというか、試行錯誤の痕跡というか、あれこれ思い悩みながら制作しているのではないかと思ってしまうのである。その過剰な意識がなんとなく痛々しく感じられてしまう。実際に作家が悩んでいたかどうかなど私は知らない。ただ、そうだったのではないかと思ってしまうのである。

昼は天一でおまかせを頂いた。天ぷらというのは良質の具材に衣を付けて揚げるだけのものではない。具材によって、その旨さが最も引き立つ火の入り加減というものがある。その判断はマニュアル化できるようなことではない。ひとりひとりの職人の経験と勘と腕に任されている。そういう商売を大看板を掲げて営むというのは並大抵のことではない。料理であろうと、作陶であろうと、人の手で生ものを扱う作業というのはその時々一回限りのことである。作り手と素材と道具類などと、作られたものを受け取る側との全ての気が上手く重なったときに、そこに関わる全ての人が至福の時を味わうことができるのだと思う。看板や名前というのは支えるものであって寄りかかるものではない。しかし、人には我とか欲といったものがあるので、有名になれば慢心が生じるのは自然なことなのかもしれない。ふとそんなことを考えた。

投資と投機

2012年01月28日 | Weblog
米国でFacebookの株が公開されるらしい。会社を創業した人たちは当然に巨万の富を得るが、それにあやかろうという輩が大勢蠢いていることだろう。株とか債券などに資金を投じることを「投資」という。去年のサマージャンボで一等の3億円に当選した人は、2,000万円を投じたそうだ。これを一般的には「投資」とは呼ばないだろう。「投機」だ。株式は、その企業の事業内容や業績という内実があるので、その将来性を「分析」することによって「価値」を「計算」することができる、というのが一般的な公式見解だろう。宝くじはあくまでも確率の話だ。当たりくじが多く出る売り場、というのは発券枚数が多いというだけのことだろう。よく宝くじを買う人の行列がニュースなどに紹介されるが、理屈だけで言えば、行列に並んでも、行列のない売り場で買っても当たる確率は同じだ。当てようと思って買うのだから、気分として当たりそうなところに並ぶというだけのことだろう。そこに理屈はない。ただ、株式にしても、起業した当事者は、株式を公開するに至るまでにそれ相応の困難を乗り越えてきたのだから、その対価を得るのは当然なのだが、投資するだけの人はそれで儲けたいというだけのことだろう。なかには起業家との人間関係で、単なる損得ではなしに資金を提供したという人もいるかもしれないが、それは無視しうるほど少ないだろう。儲かりそうだ、という気分で投資するという点では宝くじを買うのと然したる違いはない、と思う。

投資と投機の違いは何か。私は以下のようなものだと考えている。
投資=投機+後講釈
やれ事業内容が、とか、やれ業績が、というようなもっともらしい講釈ができる対象に利益を求めて資金を投じることが「投資」であり、そういう講釈が無理なものに金を出すのを「投機」というのだろう。バブル期の不動産や株へ資金を投じるのは、その時点では「投資」で、今から振り返ってみたときには「投機」である。バブルの頃よく耳にした「投資尺度」に「Qレシオ」というものがあった。今は死語である。しかし、当時はそれを用いて高いの安いのと言いながら資金を投じていたのは事実だ。結果として所期の結果を得ることができれば「理論」と呼ばれるが、要するに「講釈」だ。
「講釈師 見て来たような 嘘を言い」
という川柳があるが、世に「アナリスト」だの「エコノミスト」だのと呼ばれているのはそういう人たちだ。競馬や競艇などのギャンブルにも専門紙があって、そこに記事を書いている人たちがいるが、そいうのも「アナリスト」と呼ぶのだろうか。個人的にはそういうものを読んだことがないので知らないのだが、やっていることは本質において同じことだ。

「過去を振り返るとき、人は神になる」
という言葉がある。振り返ってみれば、あのときはああするべきだったと恰も神の如くに語ることができるのである。後出しじゃんけんのようなものだ。しかし、同じ人物がその時点で同じような講釈ができたかというと、果たしてどうなのだろうか。50年近く生きてきて思うのは、世の中にはどのようなことも起こりうるということだ。眼前の現実は無数の因果関係の連鎖の結果なのだろうが、その現実を構成する因果関係のうち自分が知りうるものは極一部でしかない。それは誰しも同じことだろう。その因果関係のなかで、もっともらしく語るに足る材料をかき集めて講釈を垂れる人がアナリストとかエコノミストなどと呼ばれるのである。大事なことは「もっともらしい」ということだ。話の内容もさることながら、ヨレヨレのズボンに汚いジャンパーで耳に赤鉛筆をさしている、というような恰好ではまずい。それなりの学歴で、それなりの企業に勤めているか勤めたことがあり、利口そうに見える恰好をしていないといけない。サン=テグジュペリの「星の王子様」にも似たようなことが書いてあった。

投資は宗教であり科学である。未来を保証するものは何一つない。それでも、過去の延長線上に未来がある、という仮定の下に日々積み重ねられていく膨大な過去の記録を取捨選択し分析し加工することで世の中を動かしていると想定される原理原則を見出すのが科学である。取捨選択に無理をして、その解釈にさらに無理をしたものが宗教である。そうした科学的かつ宗教的な理屈を駆使して「儲けたい」という利己心を格好良く表現するのが投資である。それに失敗して講釈のしようがなくなったのが投機である。などと私は考えている。

ついでに書かせてもらうと、人は不確実性を生きる不安を払拭すべく宗教や科学を追求するのだと思う。それが哲学にまで深めることができるか、教条主義的に皮相な理解でとどまるのかは、各自の思考力に応じて決まるのである。社交の場では政治や宗教の話題はタブーだ、というようなことを言う。自分の信条に反する見解を不愉快と感じる人が少なくないからだろう。多少の批判や反対意見で不愉快になるというのは、その程度の信条でしかないということだ。自分が信じよう、信じたいとは思っているものの、どこか根本的なところに懐疑や不理解があるから、その理解の欠如や懐疑という後ろめたい部分を刺激されると不愉快になるのである。ちょっとくらいの批判や反対で不愉快を覚えるような信条はよくよく考え直したほうがよいということだ。尤も、考える能力があれば、の話だが。

「サウダーヂ」

2012年01月27日 | Weblog
かれこれ10年ほど前のこと、ある講演会で講師役の大学教授が「今の学生は物心ついてから好景気というものを経験したことのない子たちなんです」とおっしゃっていていた。だからどうなのか、という話のところは今はもう記憶にないのだが、景気が良いという状況を経験せずに成人する世代が登場しているという事実に気付いて衝撃を受けた、その衝撃の感覚だけがなんとなく記憶されている。以前にもどこかに書いた記憶があるが、私は日本の経済成長と自分の生理的な成長がほぼ軌を一にしている世代に属している。ついでに日本の凋落と自分の老化のトレンドも重なっている。昨年、民藝学校というものに参加して地方都市を何カ所か訪れたが、そのゴーストタウンのような雰囲気に怪談めいた気味の悪さを覚えたのは、自分の身にしみて記憶されているものと、その地方都市の風景にあるかつての賑わいの痕跡とが作用し合って醸し出した違和感の所為ではないかと思っている。

この作品にもゴーストタウンのような商店街の風景が頻繁に登場する。舞台は甲府だそうだ。主人公は土木作業員とその周辺の人たち。土方を生業にしている人もいれば臨時雇用の人も、派遣会社から派遣された人もいる。その昔、土方といえば、聞こえは悪くとも報酬は恵まれていた時代もあった。第二次世界大戦で焦土と化した国土の復興のなかで、土木や建設という産業は国づくりの中核であり、そこに投資が集中した時期が長らく続いたのは事実だ。そうしたなかで、たとえ食い詰めたとしても土木や建築には景気に左右されることなく仕事があるという神話的な状況が生まれたのも事実だろう。土木・建設関係者のなかから総理大臣にまで出世した人がいたり、土木・建設業をタニマチにして総理大臣になった人もいたほどなのである。

私が通っていた高校の近くにも主に土方仕事を斡旋する職業紹介所があり、毎朝その前の通りには炊き出しのような屋台が出ていた。山手線沿いのその場所は、殊に今時分ともなると寒気のなかに立ち上る鍋の湯気で遠くからも自然にそれと気付くほど賑わいを見せていた。今はどうなのだろうか。少なくとも都内に関する限り、至る所に高層ビルの建築現場があり、土建業というのは活気があるかのように見える。しかし、日本全体で見れば、あるいは地方都市に焦点をあててみれば、違った様相を呈しているであろうことは、現場を目にしなくとも感覚的に了解されることだ。

作品は3時間近いが、不思議とその長さを感じなかった。おそらく、特別な人物が登場しないことで、スクリーン上で展開される物語のなかに身を置き易いということなのだろう。自分も先月の頭に失業して以来、単発のバイトを3回経験した。いずれもピッキングや工場の臨時作業員やイベント会場設営のような黙々と所定の作業に取り組みタイプのもので、そこに自分と同じように集められた人たちの様子を観察させていただくことになった。軽作業ということがわかっていながら何故かスーツ姿の人とか、バイトのプロのような人といった、少し訳あり風の人たちが、当たり前にバイトに来ている若い人たちに混じって働いていた。私のような単なる失業者かもしれないが、実はミャンマーの民主化運動の闘志であるとか、日本とフィリピンにそれぞれに配偶者を持っているとか、事業に失敗した元IT長者であるとか、なにか驚くような物語を抱えているとしても、「ま、そういう人もいるよね」と素直に納得できてしまうような雰囲気がそうした現場には漂っているのである。そこで自分と一緒に働いている人が平生どのような暮らしをしているのか知らないが、単発バイトの現場というのは、なんとはなしに人生の楽屋裏のようなもののように感じられた。その楽屋裏感が、この作品のなかの土木作業現場にも感じられるのである。

人生の楽屋裏というのは程度の差こそあれ、誰しもが意識するとしないとにかかわらず抱えているのが今の時代ではないだろうか。その昔、この国の庶民の生活というのは明け透けであったように思う。例えば農村であれば、その作業の性質上、共同で何事かをするという機会が多かったはずなので、所謂プライバシーというようなものは薄かっただろう。それが都市化や産業化の進展に伴って人の生活が労働力商品としての在り様とそれ以外、つまりプライベートの世界とに分離されるようになり、どちらも矮小になったように思うのである。組織のなかにあっては、そこに生涯所属できるわけではない仮初めのものという意識を拭いきれない。かといって、私的な部分を充実させるほど余裕がある生活を送ることのできる人というのはそうあるものでもないだろう。人が個人情報保護だのプライバシーだのと騒ぐようになったのは、個人情報の電子化が進んで透明性が高くなった結果として犯罪に利用される危険が高くなったという大義名分はあるものの、本当のところは私的な生活の矮小さや脆弱さに本能的な危機感を覚えているからではないかと私は思っている。弱い犬ほどよく吠えるし、窮鼠は猫を噛むのである。個人情報保護法が成立したのは2003年で全面施行されたのが2005年4月だ。背後にOECD8原則と呼ばれる1980年に採択された問題意識があるらしい。所謂先進国の経済成長が転換点を迎えたのがベトナム戦争の終結、ドルショック、石油危機といった政治経済の国際秩序を揺るがす一連の出来事に象徴される1970年代であったとすれば、人がささやかな私的領域に執着するようになったのは、80年代以降の成長の限界が鮮明になっていく時代の流れと軌を一にしていると見ることができるのではないだろうか。

私的領域というのは個的領域でもあり、友人知人どころか家族に対してさえ詳らかにするのを憚るのが当然という時代になっているように感じられる。勿論、家族というのは特別な関係ではなく、人が生涯の間に取り結ぶ数多ある人間関係のひとつに過ぎないのだが、共有する物理的時間的領域が大きいだけに特別視されがちなものである。そういう相手のことであってもよく知らないというのは、知る意欲と能力が低いということではないだろうか。人は関係性のなかでしか生きることができないはずなのに、それが細分化され浅薄化されて、全人的なものが失われているように思う。この作品のなかで、例えば精司は妻の恵子に対して心を閉ざしてしまい、タイ人ホステスのミャオと所帯を持つことを真剣に考えている。ところが、恵子はエステティシャンという仕事を通じて接する小金持ちの生活への憧憬が勝って精司との生活への関心はいまひとつで、ミャオも精司を客の一人としてしか見ていない。濃い関係であるようでいて、互いが自己の欲求を一方的に発露させているだけで、相手を受け止めようとする姿勢が感じられない。彼等だけでなく、主要な登場人物が誰も狭い楽屋裏に執着しているように見えるのである。

楽屋というのは舞台があってこそ意味のある場だ。楽屋だけでは何も生まれないし始まらない。それなのに、人は自分の楽屋に執着して舞台を忘れてしまったかのようだ。シャッター商店街の風景は楽屋裏への執着の結果を象徴しているようにも見える。ドラッグの幻覚のなかでは、そこにかつての賑わいを感じるのだが、薬が切れて幻覚が消えると荒涼とした現実が広がっている。旧来の商店街は寂れてしまったが、一方で大型ショッピングセンターが建設されようとしている。ゴーストタウンではないのである。自分にとっての現実と社会のそれとの乖離がシャッター商店街の風景に象徴されているのではないか。精司は恵子と別れミャオのもとへ行くがミャオに拒絶されて行き場を失う。精司の雇用主は土建業を廃業してしまう。精司のところへ派遣会社から派遣されていた猛は夜はヒップホップグループのリーダーなのだが、対立するブラジル人ラッパーを刺し殺してしまう。自分の楽屋に執着していた人たちは自分と社会との乖離の谷間に落ち込んでしまうのである。こんなふうに書くと、希望の無い映画のようだが、不思議と暗い感じがない。それは、なぜなのだろうか。たぶん、ひとりひとりにとっては厳しい現実であっても、全体としては物事が淡々と続いていく感じがあるからだろう。

毎度のことだが、まとまらなくなってしまった。

一歩一歩

2012年01月26日 | Weblog
朝方、少し体調が思わしくなかったのでベッドのなかで雑誌を読んでいると警察から電話がかかってきた。先月申請した古物商の許可が下りたという。いつ取りにくるかというので、今から行きますと答えて急いで身支度を整えて出かけた。許可証は郵送されてくると思っていたが、運転免許もパスポートも申請者が役所に出向くのだから、こういう公の証明書類というのは頂きに上がるものなのだろう。なにはともあれ、これで今日から骨董商を営むことはできるようになった。あくまで許認可の問題であって、実際に商売ができるだけのネタがあるわけではないのだが。

警察で許可証を手にしたのが午前11時を少し回ったところだった。今日は目覚めたのは普段通りなのだが、体調不良でずっとベッドのなかにいたので、まだ食事をしていない。外気に当たったり身体を動かしたりしたことで気分も少し良くなったので、警察から駅へ行く途中にある市役所の食堂で食事を済ませた。それでも少し物足りない感じが残ったので巣鴨に着いてから地蔵通りにある和菓子屋で菓子を買って帰り、住処でコーヒーを淹れて頂いた。大福も悪くはないが、やはりちゃんとした茶菓子が一番美味しいと思う。

夕方、映画を観に渋谷へ出かける。映画のことは明日改めて書くつもりでいる。

ところでこのブログだが、今日で開設から2,105日目を迎えた。どれくらいの人に見られているかということは、かなり以前にも話題にした記憶があるのだが、その頃は自分が見知っている人に対して近況を綴るというつもりで書いていたので、ページビュー(PV)や訪問IP数の数字自体にはあまり関心を払っていなかった。さすがに何年も続けていると、そういうことも少しは気になるようになり、昨年8月から手元に記録を残すことにした。8月は月の途中からのデータしかないが、9月から12月にかけての月間のPVとIPの動向は以下の通りだった。

9月  5,704PV 2,458IP
10月  9,145PV 3,040IP
11月  8,510PV 3,238IP
12月 10,166PV 3,636IP

PVのほうは多少の増減はあるが訪問IP数は増加を続けている。今月は昨日までの25日間で9,266PV、3,051IPだ。12月はクビになるというイベントがあったので、それにまつわる記事のなかに世間的にヒットする用語があって多少膨らんでいるのだろう。一日の数字では、PVの最高値が10月21日金曜日の685PVで、訪問IPの最高値が今月7日土曜日の173IPだ。このgooブログではIP数の上位10,000位以内はそのランキングも表示されるのだが、7日は1,670,313のgooブログ中6,936位だった。それにしても、これだけの数ということは毎日読んで頂いている人も複数おられることは確実だろう。こんな駄文でも気にかけていただけるというのは本当に嬉しいことである。

全部のせて

2012年01月25日 | Weblog
先日「監督失格」という映画を観て以来、ずっと野方ホープのことが気になっていた。今日は就職の面接で都心に出かける用があったので、帰りに高円寺に出て本店に寄って来た。映画を観て、店のウエッブサイトも見て、あれこれ先入観が入っている所為もあるかもしれないが、旨かった。ただの「ラーメン」にするか「全部のせ」にするか中央線のなかで少し考えたのだが、高円寺から歩きながら次第に「全部のせ」にする意志が固まり、店に着いたときには自然に「全部のせお願いします」と口から出た。

所謂「メガ系」というジャンルがあり、やたら大盛りであったり、具材がテンコ盛りになっていたりするものがあるのだが、それで全体のバランスがどうなのだろうかと素朴に疑問を抱いていた。例えば、豚骨スープをベースにしたものに、これでもかといわんばかりに厚切りのチャーシューや角煮が入っていたら、麺の立場はどうなるのか、と心配になるだろう。あまりラーメンというものを食べないので一般的にどうなのか知らないが、少なくとも今日頂いた野方ホープ本店の「全部のせ」に関する限り、そうした心配は杞憂だった。おそらく基本となる麺とスープの相性が良いのだろう。その関係性を軸にして、丁寧に作り込まれた具材が絡むので、丼の中の体系が破綻することなく豊穣な味わいを生むということになるのだろうか。

店に入った時間は午後5時過ぎ。先客が2人、ともにラーメンができるのを待っていた。その後、私が食べ終わるまでの間に先客の2人が食べ終えて店を出る一方で、5人の来店があった。夕食には早い時間だと思うが、それでもこのように客が絶えないのである。カウンターのなかには2人の青年。2人とも感じの良い店員さんだ。繁盛店は何が違うのか、ということをコンサルタントであるとか識者と称される人たちは饒舌に語ってみたりするわけだが、非言語的な要素が大きいのではないかと私は思う。言葉で表現できる程度のことは誰でも思いつくものだ。それを超えたところに人を惹き付けるものがあるのではないか。

店を後にして、バスで練馬に出る。西武線で池袋へ行き、そこの大型書店で取り置きを頼んである月刊雑誌を受け取り、ついでにあれこれ立ち読みをする。山田風太郎の「人間臨終図巻」(徳間文庫 全4巻)を買おうかどうしようか迷いながら1時間ほど立ち読みをして、結局買わなかった。面白いとは思ったのだが、単に面白いだけでそれ以上のものが感じられなかったのと、住処に読まずに積み上げられた本がいくらもあるので、見送ることに決めた。

雑誌といえば、昨年12月17日付のこのブログ「凶を引いたら」に書いたAero Conceptの菅野さんの原稿が掲載されている雑誌「Japanist」の12号が今日発売になった。これは書店では見当たらないので出版元のウエッブサイトを通じて発注した。表紙もAero Conceptのカバンの写真だ。この赤い皮のカバンが欲しいと思っているのだが、中に入れるものをまだイメージできなくて発注できないでいる。どうしたらイメージできるようになるかというと、それは今後の身の振り方に拠る。ある程度のことは自分のなかで固まりつつあるのだが、具体的な行動を本格的に始めていないので、今の段階では未定ということにしておく。

年明け後最初の作品

2012年01月24日 | Weblog
陶芸は先週乾燥が不十分で十分に削ることのできなかった碗3つの削りの続きと素焼きが上がっていた壷の施釉。削りかけの碗は、ちょいちょいと片付けてしまうこともできたが、慌てるとろくな結果にならないのは経験則からわかっていることなので、時間を気にせずに丁寧な作業を心がけた。同じ日に挽いたものなのに、厚さが微妙に違う。最初に挽いたものから順に薄くなっている。やはり土に触れる時間が空いてしまうと回復にそれなりの時間がかかるということだ。3個目に挽いたものはまずまずという感じに仕上がった。3個の碗の削りを終えた段階で残り時間が1時間。新たに一個挽きで壷を挽くという選択肢もあったが、昨年末に削りを終えていた壷が素焼きから上がっていたので、これに釉薬を掛けることにした。これまで青磁や長石などの薄めの色のものが続いたので、今日は鉄赤を掛けて還元で焼くことにした。写真の壷は2週間前に施釉して今日焼き上がっていたもの。どちらも土は並信楽で同じ青磁を掛けたが、左の首長のものが還元焼成で右が酸化焼成。右の丸っこいほうは高台のところの釉薬が垂れて羽のようになっていた。それを取り去ろうとして高台を少し欠いてしまった。そういうこともある。

陶芸の帰りに大宮に寄ってパスポートを受領してくる。大宮まで出かけたついでに鉄道博物館に足を伸ばそうかとも思ったのだが、今日は待っている電話があるのでそのまま帰る。巣鴨の住処に戻るとき、埼京線の板橋駅から歩く。途中、都電の庚申塚電停にある甘味屋でお汁粉を頂く。今日は天気は良いが寒いので、こういうものがありがたい。待っていた電話は15時過ぎにかかってきた。ちょうど住処に戻った直後だった。別にどうということはないのだが、調子良くトントンと物事が収まると気持ちが良い。

雨が続いて

2012年01月23日 | Weblog
この3日間は毎日雨で、それが今夜遅くに雪に変わった。都内には大雪注意報が出され、明朝は交通機関の乱れが予想されている。冬なのだから寒くて当たり前だし、たまには雪も降るだろうが、それでも天候が悪くなれば気分も陰鬱になるというものだ。

今日は先週申請したパスポートが受領可能な状態になっているはずで、朝起きたときには大宮まで行くつもりだった。昼食の片付けを済ませ、いざ出かける段になって、別に急ぐわけでもないのに雨のなかを遠くまで出かけることもないだろうと思い直した。夕方に新宿へエキストラの登録に出かけることになっていたので、それまで所得税の還付請求のための作業に取り組んだ。これまでは確定申告といえば2月中旬から3月中旬にかけての1ヶ月間が申請時期だったが、今年から申請開始時期が1月に繰り上げられた。早く申請すれば早く還付されるだろうという期待の下、e-Taxを利用して申請を完了した。

国税庁の確定申告に関するサイトは、少しずつではあるけれど年を追う毎に使い勝手が改善されている。私の場合、申告内容に大きな変化はないのだが、去年まで必要とされていた資料の郵送が今年はやっと省略可能となった。省略可能というのは、あくまで提出を省略することができるということであって、資料は5年間提出可能な状態を維持しなければならないことになっている。つまり実質的な手間は発送作業が不要になったというだけで無くなったわけではない。それでも、この件に象徴されるような手続きの簡便化は着実に進んでいる。

それでも確定申告をする人の過半がe-Taxを利用するようになるには、まだまだ使い勝手の改善が必要だろうし、サイトだけでなく申告用紙のフォーマットや用語にも改善の余地はいくらでもありそうに思う。自営業の人は別にして、給与生活者で既に勤務先で年末調整を受けている場合には本人確認が完了した段階でその時点で判明しているデータが自動的に取り込まれ、あとは対話形式で不足部分を補うというようにして、もっと簡便なインターフェースで手続きが完了するのが理想だと思う。1年間の金の出入りのなかから税金の納付や還付に関係のあるものを選び出して、数分間で手続きを終えるというのは感覚的にはそもそも無理なことのように思うが、より簡便な方向にもっていくということはいくらでもできる。現に、私の場合も昨年までは郵送しなければならなかった書類で今年は提出省略になったものがある。提出したところでひとつひとつ見ることができないなら、そもそも提出させることに意味は無いのである。そいう当然のことはまだまだいくらもあるはずだ。

ところで、夕方に出かけたエキストラの登録だが、なかなか面白いところだった。大部屋で時間を区切って数名ずつ面談が行われているのだが、私のような登録だけというのは少数で、殆どがタレントや歌手を志望している若い人たちだ。部屋の隅にはライティングされたところがあって、そこでカメラに向かって自己PRをしているらしい女の子がいるかと思うと、別室からは歌声が聞こえてくる。私の隣で面談をしていたのは歌手志望という青年で、自分が作ったという曲をスマホに録音して持参していた。携帯電話というのはこういう使い道もあるのかと思うと同時に、そういうお手軽に流れるから売れる音楽ができないという気もした。音楽という形に残らないものを売ろうというのなら、もっと強烈なアピールをしなければ相手の印象に残るはずがないということが何故わからないのだろう。楽譜をならべるだけで「音楽」にはなるまい。そこに伝える心が何よりも重要なのである。心の無い奴はどれほど技巧に秀でていたところで人を動かすことはできないと思うが、日々の生活のなかで人の意気を感じる機会が少なくなっているのは確かなことなので、経験の無いことは発想できないというのも当然だ。こうして文化は衰退するのだろうか。

目の毒

2012年01月22日 | Weblog
「上方落語の四天王」という本を読了した。こういう本を読んでいると、そこに書かれている噺が聴いてみたくなって、ついパソコンを引っ張り出しては、その噺家のDVDやCDを注文しようとする。画面上のカタログを見ていると、自然とあれもこれもということになり、いざ勘定という段になって「待てよ」と手が止まる。そんなことの繰り返しだ。YouTubeなどの動画サイトでも、かなり古いものを観ることができるので、なにも無理をしてDVDだのCDだのを買わなくてもよいということは重々承知しているつもりだ。ただ、過去にその「待てよ」を突破して購入に踏み切った数少ないDVDやCDは、私が暇であるという所為もあって大活躍をしているので、そういう実績に鑑みると決して無駄な買い物にはならないという思いもある。しかし、今は失業中の身なので、そういう楽しみは就職祝いや創業祝いにとっておこう、というのがとりあえずの結論だ。一方で、そういうちまちまとした発想がいけない、とも思ったりする。心が激しく揺れている。

その落語の本を読み終えて、たまには寄席にでも出かけてみようかと思い立った。寄席というのは出入り自由なので開演から居ることもないのだが、各定席のサイトを見たら開演前に到着できそうなのは池袋演芸場だけだった。番組表を見て、急に「そうだ映画にしよう」と気が変わった。急いで身支度をして出かけた先は円山町のオーディトリウム渋谷。「監督失格」という作品を観た。

今は学生や普通の勤め人が小遣い稼ぎにAVに出演する時代なので、「AV女優」という言葉が死語になりつつあるように思うのだが、それがまだ活き活きとしていた時代に活躍した林由美香が主人公だ。といってもAVでもポルノでもない。ドキュメンタリー作品である。作品の監督でもあり、出演者でもある平野という人には感心するところが全く無かったのだが、林の母親である小栗冨美代さんが強烈な存在感を放っていて、彼女のことが深く印象に残った。

世にラーメン通を自称するような人なら小栗さんの名を知らない人は皆無だろう。「野方ホープ」(法人名は株式会社SORYU)の社長だ。このブログに時々書いているように、私はラーメンというものは滅多に口にしない。ラーメンという食べ物自体にそれほど興味が無い上に、行列というものや流行というようなものが嫌いなのだから、生活のなかにラーメンが入ってくる機会というものが殆ど無いのである。それでも野方ホープには一度だけ行ったことがある。かつてその近所に住んでいた。なぜ、そこに居を構えたかといえば、当時の配偶者の実家が野方ホープから徒歩2分ほどのところにあるからだ。よくある話だが、実家離れのできない人で、結婚当初は板橋区内に住んだのだが、結婚5年目で彼女の実家の近くに引っ越し、さらにその5年後にその近くに家を建てたのである。別にそういう事情があってラーメンを口にしないのではなく、食事としてあまり魅力を感じないということである。

それで映画だが、林由美香はAV女優として頂点を極めたと言っても過言ではないだろう。この作品のなかの彼女は、ドキュメンタリーなのでカメラの前の姿とはいえ、私的な部分が色濃く出ているのではないかと思う。その私的ななかにあってさえ、カメラに対して自分を見せるという姿勢が貫徹されているように感じられた。それをプロフェッショナルの流儀というのかある種の職人気質というのか呼び方はいろいろだろうが、常人にはない物事の頂点に立つ人だけが持つ姿勢のようなものであるように思う。親子だということを映像を観てわかるからそう思うのかもしれないが、その由美香の姿勢と母親の小栗さんの佇まいのようなものに相通じるものがあるように感じられるのである。小栗さんのほうは言わずと知れたラーメン界の大看板である野方ホープの創業者であり社長だ。先日このブログに書いたように日本のラーメン市場は5,000億円とも7,000億円とも言われる巨大市場だが、それだけに競合が激しい。そのなかで1988年の開店から四半世紀近くも営業を続けているばかりか、野方本店を含め都内に5店舗を展開するほどにまで成長しているのである。これはラーメン界で頂点を極めていると言って差し支えないだろう。やはりその繁栄の背後には小栗さんのラーメンとその向こう側にいる客に対する真摯な姿勢があるということなのではないだろうか。

対して己の姿を反省しないわけにはいかない。真摯どころか全てにおいて中途半端以前の状態のまま今日に至っている。本作のウエッブサイト「週刊女性」2009年6月23日号の「人間ドキュメント」に加筆をしたという小栗さんの紹介記事がある。そのなかで、自分の娘がAV女優をしているということを知ったとき、最初は「うそだろ!」と思ったという。そりゃ誰でもそう思うだろう。そして娘に問うたというのである。それは本当かと。娘がそれを認め事情を語った後の小栗さんの言葉がいい。
「どうせやるならその業界でトップになりなさい。そしてお金を貯めなさい」
真摯に生きている人でなければこんなふうには言えないだろう。この小栗さんのことを知ったという点で、この作品に出会うことができた自分にとっての意味がある。「職業に貴賤はない」というが、人には貴賤があると思う。世間的に立派な職業であっても卑小な輩は五万といるだろうし、世間が眉をひそめるような職業に就いていても自然とこちらの頭が下がるような人もたくさんいるだろう。表面的なことに左右されずに本質を見抜く眼をもちたいと思うと同時に、自分も恥ずかしくない生き方をしないといけないと気持ちを引き締めた。いつまでも「中途半端以前が続いている」などとほざいている暇はない。

今日は大寒

2012年01月21日 | Weblog
朝から終日雨模様の寒い日。出かけるのが億劫だったが、申し込んでしまっていたのでライカ銀座のニューイヤーパーティーに足を運ぶ。カメラ店のパーティーなので実質的には撮影会のようなものだ。今回が最初なので体験として出席してみた。とにかく人寄り場所にはとりあえず足を運んでみるというのが現在のところ意識している最大の課題なので、雨だとか寒いとかいうことを言い訳にせず己を励ます。たいして大きな店ではないが、思うように動くことができない程度の人の入りだ。持っているカメラは様々で、写真が趣味というよりライカを持つということに喜びを感じているらしい風の人もいるようだ。店の2階ではプリントサービスもしていたが、カメラが立派な割に写真がしょぼかったりするのもあって、それはそれとして楽しい体験だった。だいたいの様子が把握できたので1時間ほどで店を出て、インズの地下で食事をして帰宅する。

敢えてどの店ということは伏せておくが、銀座の地下商店街に出店して単価1,200-1,500円程度でどのようなものが出てくるのかと思ったら、ざっくり4割が不動産の賃借料で1割が原価、3割が人件費と賃料以外の固定費、残りが儲け、という印象のものだった。実際はどうだか知らないが、原価1割という印象の味だったということを言いたいのである。雨で寒いという所為もあって、地下の人通りはそれなりにあり、そういうところでも次から次へと客が入れ替わる。それを必要最小限の人数で回しているという感じだった。

このところ、気が進まない場合でも、出かけてみればそれなりに愉快だったりすることが続いたが、今日はハズレの日。そういう日があって当たり前。こういう日は読まずに積んである本を読んだり、それに飽きたらYouTubeで落語を聴いたりして過ごすのが一番だ。ここ数日、談志を聴いている。

お勉強の日

2012年01月20日 | Weblog
雪の降る中、京急蒲田の近くで開催された「アントレフェア」というものに参加してきた。3月にビックサイトで「フランチャイズショー」というのが予定されているが、これはそのミニチュアのような印象だ。出展しているのはフランチャイズビジネスだけではないが、殆どがフランチャイズチェーン本部である。今回ここを訪れたのは、そうしたFCビジネスの話を聴くというよりも、会場内で開催されるセミナーを聴講するためである。せっかく時間がふんだんにある状況に置かれているので、この機を利用していろいろ新しい体験をしてみたいと思っている。昨年末は肉体労働系のバイト、年明け以降はさまざまな無料セミナーに足を運んでいる。今回聴講したセミナーは以下の3つだ。
「成功・失敗実例に学ぶ「トレンド&商機」大研究 小売業」講師:井上竜也氏
「成功・失敗実例に学ぶ「トレンド&商機」大研究 サービス業」講師:西野公晴氏
「成功・失敗実例に学ぶ「トレンド&商機」大研究 飲食業」講師:安藤素氏
講師はいずれも社団法人中小企業診断協会東京支部フランチャイズ研究会所属。

今回の出展企業数は49社で大まかな分類ではサービス業が29社、小売が16社、飲食が4社だが、セミナーは飲食が一番興味深いものだった。もし自分が起業をするとして、一番可能性が低いのが飲食なのに、ノートを取った量は飲食が一番多かった。その走り書きのなかからいくつか紹介してみようと思う。

このブログには何度も書いているが、私は積極的に酒を口にすることはない。居酒屋の類にはもう何年も足を向けていないし、外食チェーンも今は滅多に利用しない。失業した12月初旬以降、何度か会食で酒を飲む機会があったが、いずれの場合も食事が主で酒は従である。そういうことなので、世間の居酒屋事情のようなものには疎いということを断っておかなくてはいけない。

統計上の動向として、昨年11月の飲食店の倒産は過去最高水準だったそうだ。そのなかで特に多かったのが居酒屋だという。まず社会全体の傾向として若年層人口が減少しているので、低価格帯市場が縮小を続けている。さらに昨年特有の傾向として震災以降の人々の帰宅時間が早まっているというのである。ひとつには例の「とりあえず自粛」ということで接待が激減しているらしい。接待自粛は高価格帯、例えば銀座のクラブのような市場を直撃したという。もうひとつには、不測の事態で公共交通網が麻痺する前に自宅近辺に戻っておこうという帰巣本能が強くなっているらしい。尤も、これは郊外の「地元飲み」という新たな傾向を生み出しており、個店ベースでは都心店がマイナスで郊外店はプラスなので市場としては中立と読むこともできよう。もうひとつ昨年特有の事象としては焼肉需要の落ち込みが挙げられていた。ユッケでの食中毒事件を機に焼肉店そのものへの需要が減少した上に、焼肉店の売上としても生肉系の落ち込みを他のメニューでカバーできず客単価が下がったという。震災と生肉事故の影響が一時的なものなのか、このまま傾向として定着するものなのか、今の段階ではなんとも言えないが、景気全体が低迷を続けるならば回復などしないだろう。そうしたなかで比較的元気のよい飲食業は低投資、素材重視、個店化(コミュニケーション重視)というキーワードで象徴されるものだそうだ。

飲食を業態毎に俯瞰すると、ラーメンは市場規模が5,000~7,000億円で、寿司や蕎麦・うどんの各1兆円市場に次ぐ大きさだそうだ。しかし、都心では競合が激しく、売上が立地に大きく左右されるため、市場規模が大きいからといって必ずしも事業の難易度が低いということにはならないという。平均的な客単価は700円前後で、一般的な傾向としては開店初月の売上がピークでそこから逓減していく。このため、撤退が早く、居抜店舗が多いので新規参入の比較的容易で、結果的に店舗の入れ替わりが激しくなる。但し、居抜店舗は前の入居者の設備を流用できるというメリットがあるものの、それらの経年劣化が進行していることも少なくなく、例えば空調が故障して交換が必要になるなどすれば、予想外の出費を強いられることにもなる。空調は使用年数に比例して交換リスクが上昇するが、冷蔵庫は使用年数より電源の入切に寿命が左右されがちなので、出店の際には動作状況を確認しなければならない。また、カウンターが狭いと労働環境が過酷になる。豚骨スープを終日作り続けるというようなことは常人には不可能に近く、求人が難しいらしい。

洋食の最大の競合はファミレスだ。成功例としては居抜店舗を活用して初期投資を抑え、主力商品の単価を大手ファミレスより300円程度落とし、なおかつ一手間かけて付加価値をつけたもの、というのが一般的イメージだという。例えば、おれのハンバーグなどが挙げられるという。銀座のジャポネは老舗系の色彩もあるが、立地の良さと大盛りで客を吸引しているという。個人的な経験では、ジャポネは新入社員時代のランチ圏内の店だった。当時は今のように行列のできるような店ではなかったのだが、いったいいつ頃から今のような人気店になったのだろうか。

牛丼や海鮮丼のような単品系では、不思議なことに魚貝系の成功例が少ないという。肉に比べると魚介類の扱いが高い技能を要求するせいではないかとのこと。ただ、ピンポイントでは貝専門店で人気店が現れているらしい。

ファーストフード(ファストフード)・カフェはいずれも低単価なので客数を必要とする。カフェは出店する側も雰囲気や素材にこだわりがちだが、よほど商品の完成度が高く、立地に恵まれない限り成功はしないらしい。殊に健康だの安全だのといったこだわりを前面に出して成功した例は無いのではないかとのこと。所謂「自己実現」的な動機でカフェを開業する人が多く、また内装を担当するデザイナーも雰囲気重視の店作りに走る傾向が見られるが、それで商売として上手くいくとは思えない、ということだ。

最後に居酒屋だが、主戦場は低価格帯市場なので、個人店で戦うには素材などの付加価値で勝負するしかない。成功例としては神田のVinocityや恵比寿のVocoなどがあるが、価格は安くて当然、料理は旨くて当たり前、というのが必須条件でその上で店の関係者の人脈やノウハウを活かした特殊事例と言えるそうだ。他に立呑系で自動車メーカーに勤めていた人が脱サラでいくつかの業態を経営した後に起業した串カツ店が成功事例として紹介されていた。酒の肴となると、旨いものを出そうとすれば職人の腕が必要になることが多いが、職人を使うというのは難しいことなので、自分やバイトを使ってできるもので、競合の少ない立地で営業してコストを抑えることで経営が軌道に乗るということになるらしい。また、売上的には成功している手作り餃子店があるが、手作りなので変動費が高く、それが果たして「成功」と言えるかどうかは微妙なものも紹介されていた。

こうした内容が素朴に面白かった。なにしろ自分では未経験のことなので、ついつい感心しながらノートを取ってしまった。セミナー聴講の後、興味をそそられたブースを2カ所まわり、会場を後にした。帰り道の途中、ハニービーンズでマンデリンを買う。年明け最初の豆補給だ。

火を囲む

2012年01月19日 | Weblog
失業して一月半になるというのに不思議と危機感というものが湧いてこない。それどころか、馬鹿な上司から解放されたという清々しさのほうが勝ってしまって以前にも増して気分が良いという始末。昨夜は友人と飲み食いをして久しぶりに終電での帰還となった。普段は酒を口にすることがないのだが、相手がソムリエの資格を持っている奴なので、こちらも飲まないと相手も気を遣うだろうと思って、どぶろくと梅酒と芋焼酎を飲んだものだから、今朝は起きることができなかった。ソムリエ相手なのに何故ワインではないのか、と思う奴は野暮天だろう。ソムリエ相手だから敢えてワインは避けるのである。ワインが好きでどうしょうもなくてソムリエになったというならいざ知らず、趣味が高じて、どうせなら資格でもとってやろう、という言わば向学心のようなものでソムリエ資格を取得した根が真面目な奴なのである。酒はあくまで話のついでということで気楽に飲もうというならば、むしろワインはその場にふさわしくない。また、店のほうもワインを売りにしているようなところではないので尚更のことである。

昨夜は広尾の雲母という炭火焼の店で楽しい一時を過ごした。この店を訪れるのは10年ぶりくらいだろうか。前回にお邪魔したのは先代のご主人が亡くなった直後くらいだったと記憶している。店の主人が代替わりしたのと自分の仕事の状況が変わったのとが偶然重なって足が遠のいてしまったが、たいへん好きな店のひとつであることに変わりはなかった。失業して夜の時間ができたので、こうして久しぶりに訪れてみたのである。相変わらず美味しい食事と感じのよい店員さんたちのおかげで、この店が初めてだという相方に対して私の顔も立ち、嬉しいかぎりだ。

炭火焼きなら自分の家でもできるじゃないか、と思う人は本当の炭火焼きというものを知らない人だと思う。確かに、見た目だけでいえば、炭火で野菜や肉や魚貝を焼くだけのことだ。しかし、真似しようと思ってなかなか真似できないのはそれらの素材の下ごしらえである。塩に秘密があることは明らかだが、どのような塩をどのように調製しているかというところが店が持つノウハウらしい。その下ごしらえされた素材を炭火で焼きながら語り合うというところにこの店で食事をする楽しさがあるということだろう。

火を使う生物は人間だけである。他の動物には無い知能や精神の高さを象徴するのが火であり、火を囲むことで他の個体と知性や感性の深い部分で交流を図ることができるのが人間ということでもある。古い住居、例えば縄文時代の竪穴式住居は内部の中心に炉があり、生活圏の軸を成していた。時代が下って、かなり最近まで古民家には囲炉裏が切ってあり、そこで暮らす人々が囲炉裏端に集まって過ごす時間というものが必ずあったはずだ。茶道では今でも茶室に炉が切ってあり、炉のある室内で一期一会の世界を分かち合う。また、その分かち合いを喜び合う。親しい相手、あるいは親しくなりたい相手と火を囲むというのは自然なことなのである。炭火焼に限らず、鍋料理とか焼肉、バーベキューなど洋の東西を問わず火を囲む料理があるのは、火を囲むことの意味に文化を超えた人としての普遍的なものがあることの証左であるように思う。

青の世界

2012年01月18日 | Weblog
Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「フェルメールからのラブレター展」を観て来た。別にフェルメールが好きなわけでもないのだが、好奇心をそそられる作家のひとりであることには違いない。現存作品数が35点と極端に少なく、観たいと思ったときに観ておかないと次にいつお目にかかることができるかわからないといっても過言ではない作家なのである。本展では以下の3点が来日しているが、私はいずれも初めて実物を目にする作品だ。これで通算すると12点を観たはずなのだが、記憶のなかでは2点が抜け落ちているので、実質的には10点だ。何故2点が抜け落ちたかといえば、それを目にした当時は今のように美術に対する興味が強くなかったからだ。だからといって、そのことを惜しいとも思わないし、リカバリーショットを打ちにベルリンへ行こうとも思わない。「観たはずなんだけどなぁ。やれやれ」と頭を掻くだけのことだ。

ところで、今回の展覧会には3種類のチラシがある。大きな展覧会なら複数種のチラシが用意されるのは珍しいことではないが、Bunkamuraのような小規模のギャラリーでの展覧会で3種類というのはそうあることではあるまい。私だけがそう感じるのかもしれないが、それらのなかではやはり「青衣の女」がフェルメールのイメージとして一番しっくりくるように思う。何故そう感じるのか自分でもわからないのだが、どういうわけかフェルメールのイメージは青なのである。確かに、フェルメールが青にこだわりを持っていたらしい、ということは良く知られたことなのでそうした世評の影響を無意識のうちに受けているということもあるだろうし、「フェルメール・ブルー」と呼ばれる独特のウルトラマリンなので否応なく作家の拘りが観る者に伝わるということもあるだろう。

この青はラピスラズリという石を粉末にした顔料で、アフガニスタン産というオランダからは遠隔の地からはるばる渡ってきた貴重なものだ。今でも単なる石というより宝石として扱われるのが一般的なものだが、フェルメールはそのストックを潤沢に保有していたというのである。青く見える部分はもちろんのこと、赤いスカートや黄色い上衣からも微量のウルトラマリンが検出されており、フェルメール作品の隠し味のようなものとしてこの青が至る所に使われているのである。画家が青にこだわるのは自然なことであるように思う。

写真が登場する以前の時代において、絵画に写実性が強く求められていたのは周知のことだ。当然、画家はいかに本物らしく描くかということに腐心したはずである。目の前にある明確に物理的な存在を画面に再現することは画家という専門職になるほどの人にとってはさほど難しいことではないだろう。専門職としての腕が問われるのは、存在はわかっていてもそれが明確には表現できないものをどのように表現するかということだ。端的には空気あるいは空気中にある微粒子、人の表情の背後にある感情といったものの表現だ。空とか水を青で表現するのは文化を超えてよくあることだろう。写実というときに何を写すかということが勿論問題になるし、どのように表現するかということも大事なことになる。それには世界を構成する最小単位をどのように認識するかという世界観のようなものが問われることにもなる。そこに大気あるいは描く対象物と描き手との間の空間の表現として青に注目するのは当然の発想ではないかと思うのである。その空間の大気や水蒸気を表現しようとして青くないところにも青を使うことに不思議はない。そういうはっきりと見えないところにある、対象物と描き手との間の空間の質感が画面全体の質感を決めることにもなるということだ。となれば、たとえ高価であろうとそこに最適な素材と技能をつぎ込まざるをえないだろう。稀少で高価な宝石の粉末であろうと、それがなければ自分の表現や仕事が完成できないなら、何としてでも手に入れて、それを駆使するべく最大の努力を払うのが当然の自己表現であり職業倫理でもある。

フェルメールが絵を描き始めたのは21歳頃で30代半ばにむかって熟達の度合いを増して行くとされている。その先は見解の分かれるところだが、43歳で亡くなる晩年へ向けて衰えているとの見方がある。本展出品の3作品の制作推定年齢は「青衣の女」が32-33歳、「手紙を書く女」が33歳、「手紙を書く女と召使い」が38歳頃とされている。前2作が成熟期、後の1作が晩年ということになるが、成熟期の作品はスフマート法にも似た繊細な輪郭の処理がなされ、それが青の効果と相俟って抑制されながらもマットな質感を生み出している。その微妙なボケが空気の質感のようなものを感じさせ、そこに青を見るのかもしれない。映画にもなった「真珠の耳飾りの少女」も成熟期の作で青いターバンのようなものを身につけているのでその青が印象に残る。さらに、「青衣の女」は2年間に及ぶ修復作業を終えたばかりで、青の鮮やかさが回復されているのも青の印象を強いものにしているかもしれない。ちなみに「手紙を書く女と召使い」は明らかに雰囲気が他の2作とは異なる。あまり青を感じない作品だ。青の印象、という漠然としたテーマのようなものを抱えてこれら3作を眺めるだけでも楽しい展覧会だ。

本展でのフェルメール作品
「手紙を読む青衣の女(Girl Reading a Letter)」1663-1664年 アムステルダム国立美術館蔵
「手紙を書く女(A Lady Writing)」1665年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵
「手紙を書く女と召使い(A Lady Writing a Letter with her Maid)」1670年 アイルランド・ナショナル・ギャラリー蔵

上記の他に過去に観た(はずの)フェルメール作品
「ヴァージナルの前に立つ女」1669-1671年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
「ヴァージナルの前に座る女」1675年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
「ギターを弾く女」1673-75年 ケンウッド・ハウス
「レースを編む女」1665-1670年 ルーヴル美術館
「天文学者」1668年 ルーヴル美術館
「絵画芸術」1666-1668年 ウィーン美術史美術館
「地理学者」1669年 シュテーデル美術館蔵(2011年にBunkamuraで開催された「フェルメール《地理学者》とシュテーデル美術館所蔵オランダ・フランドル美術館展」にて初対面。シュテーデル美術館を訪れたことはない)
「真珠の首飾り」1662-1665年 ベルリン国立絵画館
「真摯とワインを飲む女」1658-1659年 ベルリン国立絵画館
※「絵画芸術」は2004年に東京都美術館で開催された「栄光のオランダ・フランドル絵画展」、「レースを編む女」は2009年に国立西洋美術館で開催された「ルーブル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画」でも再会。

蕎麦屋発見

2012年01月17日 | Weblog
先週挽いた碗3つを削って、一個挽きで壷を一つくらいは挽けるだろうと思って轆轤に向かった。ところが、碗の乾燥が不十分で思うように削ることができず、壷どころか来週も引き続いて碗の削りをすることになった。別に焦る理由もないので、そういうこともあるだろうと淡々と今日できる限りのことをして削りかけの碗を室に戻す。

陶芸の後、注文しておいた本をLibroで受け取る。先日、鎌倉の県立近代美術館で観たシャルロット・ペリアン展の図録とペリアンの自伝だ。どちらも美術館の売店で立ち読みをして、じっくりと読んでみたいと思ったので売店では買わずに注文をしたのである。Libroの池袋西武店で買うと、陶芸教室の会員証の提示で5%の割引になるからだ。

書店から無印良品に回って眼鏡を新調する。度が進むと同時に老眼も始まっていて少し不自由を感じていた。それが先週、香港に出かけたときに空港で航空会社の看板やゲートの案内板が読みにくいという経験をして眼鏡を作り直さないといけないとの思いを強くした。最初は今かけている眼鏡のレンズを交換するつもりだったのだが、売り場の人に現状を説明して検査をしてもらうと、近くのものを長い時間見る場合は今使っている眼鏡を使い、普段かけるのは少し度を強くしたものを新たに作って使うのが、少し面倒でも現実的ではないかとの結論に至ったのである。

無印を出て、少し遅めの昼食を頂くことにする。齢を重ねる毎に少しずつ食が細くなり、近頃は一日一食のこともある。今日は軽く朝食を頂いたが、午後2時を過ぎて少し小腹が減った。先日香港へ出かけてみて、中国語を習おうかとの思いが漠然と湧いたので、ベルリッツで話を聞いてみるつもりで、池袋校へ向かう。その前に、財布のなかに一銭の現金も無かったので、無印の通りを挟んで向かいにあるシティバンクで現金をおろし、そのまま通りをベルリッツのある方向へと歩き始めた。ほどなく蕎麦屋のランチの看板が目に入った。腹が減っていなければ通り過ぎてしまいそうな地味な看板だ。蕎麦くらいがちょうどよい程度の腹の空き具合だったので、看板が出ているビルの階段を地下へと降りた。看板に負けぬくらい地味な構えの蕎麦屋があった。一見したところ立ち食い蕎麦屋に毛の生えた程度の雰囲気だ。小さな店内には3人組の客がメニューを眺めていて、奥のテーブルで看護師の制服を着た人がひとりで何か食べていた。店員に案内された席に着いて、外の看板に出ていたメニューのなかから「Aランチ」を注文した。せいろと豚焼肉丼のセットだ。

結構時間を置いてから運ばれてきた蕎麦を見て「おっ」と思う。立ち食い蕎麦ではない。それらしい佇まいの江戸切りだ。これは心して頂かないといけない、という気分になる。蕎麦猪口に汁を淹れて一口手繰る。旨い。改めて考えてみると、立ち食いのような狭い店というのは江戸の蕎麦屋としては正統だろう。そもそも江戸切りというのは、酒の肴にするならともかく、時間をかけて食べるものではない。すっと店に入って、さっと食べて出るものだ。蕎麦というものが時間の経過に耐えるものではないのだから、少量をさっと食べるというのは合理的なことだ。江戸切りについてはここでうだうだ書くよりも落語の「そば清」を聴いたほうがよいだろう。「そば清」の成立は寛文12年(1672年)頃だそうなので、当時としては蕎麦に限らず、江戸のような都市の庶民の食べ物というのは量が少ない。なぜなら、今のように朝昼晩というような食事の仕方ではなく、腹が減ったら食う、という食べ方だったからだ。日に3食というのは産業革命以降、工場の操業に都合が良いように、つまり、なるべく稼働している機械を止めないように労働者を使うために設定された習慣なのである。だから江戸では蕎麦だけでなく寿司も少量をつまむ程度の食べ方を前提に考案されたものだし、天ぷらも人気を集めた屋台だったそうだ。それにしても、こんな場所にこんなに旨い蕎麦屋があるとは嬉しい驚きだ。蕎麦だけでなく、豚丼も味噌汁も香の物も全部美味しかった。「浅野屋」という店だ。

ベルリッツで話を聞いたところ、中国語は個人レッスンのみで、クラス制の授業は無いそうだ。個人レッスンとなると授業料がそれなりなので、やる気が後退してしまった。無印に寄って眼鏡を受け取って巣鴨の住処へ戻る。今は注文してから1時間ほどで眼鏡が出来上がる。便利になったものだ。