以前、ヨガを習っていた。2005年12月から、途中1年半ほどの中断を経て2009年8月までyoga jayaというところに通っていた。今は代官山のスタジオだけだが、以前は青山にもスタジオがあった。路地裏のボロボロの大きな建物の3階、というより2階の上にあるペントハウスのような雰囲気だった。激しく雨が降るときは雨漏りがして、夏は外気とともに暑く、冬は外気とともに寒い、ヨガにはうってつけともいえる場所だった。たまに1階の広い部屋を使うこともあったが、たいていはペントハウスを使っていた。そのボロボロの建物は全体として庭を囲むような造りになっていた。建物1階と庭の部分がカフェだった。店員も客も多国籍で、コースになっている食事を注文すると、出てくる料理の順番がむちゃくちゃだったりする楽しいところだった。
今日、「東京カフェを旅する」という本を買って読んでいたら、そのむちゃくちゃなカフェがLAS CHICASという有名なカフェであったことを初めて知った。この本は、よくあるカフェの紹介本なのだが、東京のカフェの歴史について語っているところとか、いくつかの有名店のオーナーに寄稿してもらっているところが、差別化と言えなくもない。所謂「エッセイスト」が書いた文章にありがちな、湿っぽい感じにも苦笑させられてしまうのだが、ところどころに惹かれるものがあって、読み終わってもすぐに売り払ったりはしないと思う。その惹かれたところをひとつだけ引用させていただく。
「気持ちのよい初夏の休日、夕方の早い時間に、白いリネンをかけたテーブルが並ぶブラッセリーコーナーのテラス席で夫と夕食を始めようとしたときのこと。だしぬけに大粒の雨が落ちてきたのだった。あちこちでいっせいにあがる悲鳴、笑い声。
ギャルソンたちの動きはみごとだった。ひとりは私たちのテーブルに駆けより、ワイングラスやカトラリー、上着やバッグをすばやく店内に運び入れた。カフェのテラス席でも、走って帰る人々や軒下に避難する人々でにぎやかな騒ぎが起きていたが、やはりギャルソンが機敏に対応しながら看板を店内に移動させていた。感嘆したのは、一連のことがすべて踊るような足どりと陽気な笑い声のもとにおこなわれたことである。ハプニングを小さな祝祭に変えてしまうギャルソン魂。」
(川口葉子「東京カフェを旅する 街と時間をめぐる57の散歩」平凡社 24頁)
これはパレフランスビルにあった「オー・バカナル」を語った一節だ。私もフランス資本の会社でフランス人上司の下で働いていたこともあるので、当時、この店で食事をする機会は何度かあった。幸か不幸か、このようなハプニングに遭遇したことはなかったが、ここに書かれていることは容易に想像できるような店だった。注目したのは最後のほうの一文だ。ハプニングがあっても、それを陽気に何事でもないかのように片付けてしまうという精神だ。仕事も、それだけでなく人生まるごと、そんなふうにあしらうことができたらかっこいいなと思う。
そう遠くない将来、生活をがらりと変えてしまおうと本気で考えている。そのために必要なのは、人とのつながりだと思っている。人とつながるためには、自分に何かがないといけない。その何かのために目の前にある現実を生きている。その何かというのは、お金とか、特別な技能とか、言葉で説明できるようなものではなく、人としての内実のようなものだと思っている。そんなものはいくら時間をかけたところで満足のいくようにはならないのだが、はやる気持ちを抑えながらもう少し精進しないことには、先には進むことができない。希望的観測かもしれないが、あと一歩という気がしている。
今日、「東京カフェを旅する」という本を買って読んでいたら、そのむちゃくちゃなカフェがLAS CHICASという有名なカフェであったことを初めて知った。この本は、よくあるカフェの紹介本なのだが、東京のカフェの歴史について語っているところとか、いくつかの有名店のオーナーに寄稿してもらっているところが、差別化と言えなくもない。所謂「エッセイスト」が書いた文章にありがちな、湿っぽい感じにも苦笑させられてしまうのだが、ところどころに惹かれるものがあって、読み終わってもすぐに売り払ったりはしないと思う。その惹かれたところをひとつだけ引用させていただく。
「気持ちのよい初夏の休日、夕方の早い時間に、白いリネンをかけたテーブルが並ぶブラッセリーコーナーのテラス席で夫と夕食を始めようとしたときのこと。だしぬけに大粒の雨が落ちてきたのだった。あちこちでいっせいにあがる悲鳴、笑い声。
ギャルソンたちの動きはみごとだった。ひとりは私たちのテーブルに駆けより、ワイングラスやカトラリー、上着やバッグをすばやく店内に運び入れた。カフェのテラス席でも、走って帰る人々や軒下に避難する人々でにぎやかな騒ぎが起きていたが、やはりギャルソンが機敏に対応しながら看板を店内に移動させていた。感嘆したのは、一連のことがすべて踊るような足どりと陽気な笑い声のもとにおこなわれたことである。ハプニングを小さな祝祭に変えてしまうギャルソン魂。」
(川口葉子「東京カフェを旅する 街と時間をめぐる57の散歩」平凡社 24頁)
これはパレフランスビルにあった「オー・バカナル」を語った一節だ。私もフランス資本の会社でフランス人上司の下で働いていたこともあるので、当時、この店で食事をする機会は何度かあった。幸か不幸か、このようなハプニングに遭遇したことはなかったが、ここに書かれていることは容易に想像できるような店だった。注目したのは最後のほうの一文だ。ハプニングがあっても、それを陽気に何事でもないかのように片付けてしまうという精神だ。仕事も、それだけでなく人生まるごと、そんなふうにあしらうことができたらかっこいいなと思う。
そう遠くない将来、生活をがらりと変えてしまおうと本気で考えている。そのために必要なのは、人とのつながりだと思っている。人とつながるためには、自分に何かがないといけない。その何かのために目の前にある現実を生きている。その何かというのは、お金とか、特別な技能とか、言葉で説明できるようなものではなく、人としての内実のようなものだと思っている。そんなものはいくら時間をかけたところで満足のいくようにはならないのだが、はやる気持ちを抑えながらもう少し精進しないことには、先には進むことができない。希望的観測かもしれないが、あと一歩という気がしている。