熊本熊的日常

日常生活についての雑記

LAS CHICAS

2010年08月31日 | Weblog
以前、ヨガを習っていた。2005年12月から、途中1年半ほどの中断を経て2009年8月までyoga jayaというところに通っていた。今は代官山のスタジオだけだが、以前は青山にもスタジオがあった。路地裏のボロボロの大きな建物の3階、というより2階の上にあるペントハウスのような雰囲気だった。激しく雨が降るときは雨漏りがして、夏は外気とともに暑く、冬は外気とともに寒い、ヨガにはうってつけともいえる場所だった。たまに1階の広い部屋を使うこともあったが、たいていはペントハウスを使っていた。そのボロボロの建物は全体として庭を囲むような造りになっていた。建物1階と庭の部分がカフェだった。店員も客も多国籍で、コースになっている食事を注文すると、出てくる料理の順番がむちゃくちゃだったりする楽しいところだった。

今日、「東京カフェを旅する」という本を買って読んでいたら、そのむちゃくちゃなカフェがLAS CHICASという有名なカフェであったことを初めて知った。この本は、よくあるカフェの紹介本なのだが、東京のカフェの歴史について語っているところとか、いくつかの有名店のオーナーに寄稿してもらっているところが、差別化と言えなくもない。所謂「エッセイスト」が書いた文章にありがちな、湿っぽい感じにも苦笑させられてしまうのだが、ところどころに惹かれるものがあって、読み終わってもすぐに売り払ったりはしないと思う。その惹かれたところをひとつだけ引用させていただく。

「気持ちのよい初夏の休日、夕方の早い時間に、白いリネンをかけたテーブルが並ぶブラッセリーコーナーのテラス席で夫と夕食を始めようとしたときのこと。だしぬけに大粒の雨が落ちてきたのだった。あちこちでいっせいにあがる悲鳴、笑い声。
 ギャルソンたちの動きはみごとだった。ひとりは私たちのテーブルに駆けより、ワイングラスやカトラリー、上着やバッグをすばやく店内に運び入れた。カフェのテラス席でも、走って帰る人々や軒下に避難する人々でにぎやかな騒ぎが起きていたが、やはりギャルソンが機敏に対応しながら看板を店内に移動させていた。感嘆したのは、一連のことがすべて踊るような足どりと陽気な笑い声のもとにおこなわれたことである。ハプニングを小さな祝祭に変えてしまうギャルソン魂。」
(川口葉子「東京カフェを旅する 街と時間をめぐる57の散歩」平凡社 24頁)

これはパレフランスビルにあった「オー・バカナル」を語った一節だ。私もフランス資本の会社でフランス人上司の下で働いていたこともあるので、当時、この店で食事をする機会は何度かあった。幸か不幸か、このようなハプニングに遭遇したことはなかったが、ここに書かれていることは容易に想像できるような店だった。注目したのは最後のほうの一文だ。ハプニングがあっても、それを陽気に何事でもないかのように片付けてしまうという精神だ。仕事も、それだけでなく人生まるごと、そんなふうにあしらうことができたらかっこいいなと思う。

そう遠くない将来、生活をがらりと変えてしまおうと本気で考えている。そのために必要なのは、人とのつながりだと思っている。人とつながるためには、自分に何かがないといけない。その何かのために目の前にある現実を生きている。その何かというのは、お金とか、特別な技能とか、言葉で説明できるようなものではなく、人としての内実のようなものだと思っている。そんなものはいくら時間をかけたところで満足のいくようにはならないのだが、はやる気持ちを抑えながらもう少し精進しないことには、先には進むことができない。希望的観測かもしれないが、あと一歩という気がしている。

美人

2010年08月30日 | Weblog
出光美術館の特別講座「美人画の見方」を聴講した。

骨隠す 皮には誰も 迷うなり
好きも 嫌いも 皮の技なり

誰が言ったか知らないが、こんな歌がある。どれほど美人だといわれても、あるいは不細工だといわれても、最後は髑髏だというのである。最近流行の白骨遺体を、粘土などを使って生前の姿に戻す特殊技能者もおられるようだが、そういう技能を持たない圧倒的大多数の人にとっては、しゃれこうべを前にして、その生前の姿を想像するというのは至難の技である。しゃれこうべにまでは至らなくとも、若い頃の面影が全く想像できないくらいに容姿が変容してしまう人もいる。美人であるとかないとか、刹那的などうでもよいことのようでもあるのだが、世間から美人とされる人がちやほやされるのも現実だろう。昨日のブログで、元ミス横国と下北でお茶をした話を書いたが、やはり美人というのは、一緒にいるだけで心踊るものである。

さて、その「美人」という言葉だが、近代以降に用いられるようになった用語なのだそうだ。誰もが支持する説というわけではないようだが、「美人画」の源流を辿れば神仏像に行き着くのではないかという。仏教において仏様は性別を超越した存在とされるが、仏教発祥の地であるインドの神話には女神も登場する。日本の美術史上、「美人画」の最初とされるのは正倉院にある「鳥毛立女図屏風」なのだそうだ。確かに、ここに描かれている女性から、時代を下り、少なくとも明治の「三大美人画家」と呼ばれる上村松園、鏑木清方、伊東深水に至るあたりまでは、「美人」のイメージに連続性があるように思われる。それがどういうわけで断絶してしまったのか。私は「断絶」と思っているのだが、そのあたりのことについては、そのうちおいおい考えてみたい。

美人画のほうだが、「画」となるといろいろと約束事があるようだ。今日の講義のなかでは、浮世絵に描かれているモチーフとしての美人を、それ以前の仏画や禅画と、図像として比較対照していた。一見すればただの女性が、そのように眺めてみれば観音様であったり普賢菩薩であったりするのである。今となっては、図像の類似性しかわからないが、描かれた時には単なる絵画ではなく、そこに何がしかの意味が込められていたということなのかもしれないし、単に図像や意匠として過去の作例を利用したというだけのことかもしれない。

昨日の黒田征太郎の絵にしても、描いているところを目の当たりにするのと、描かれた結果だけを見るのとでは、そこから感じるものは自ずと違う。時間とか時代を共有するという経験の有無は、絵画に限らず物を見る際の重要な要素である。美人画は、そこに「美」とか「美しい人」ということの価値や意味が語られているはずだが、それを理解するにはそれが描かれた時代やそこに描かれているものについての知識が不可欠になる。また、単に「知識」と言えば、それは断片のようなもので、非連続に知識を並べてみたところで、果たしてその対象物が制作された意図が了解できるかどうか心もとない。物事を、それが生れた文脈から切り出してしまえば、その制作技法や使われている材料といったことについての知識をいくら豊富に収集したところで、その物事を理解することはできないのではないだろうか。美術品に限らず、物事はその背景といっしょに経験することでしか、我々はそれを「見た」ことにはならないのではないか。

美術品を観て、その解説を聴いて、自分の中の限られた知識や経験と照合して、そこに形作られる空想の世界に遊ぶというのは、それはそれとして愉快なことだ。しかし同時に、空想することはその断片性を意識することでもある。そこに改めて物事が何事かと連続していることによる意味とか価値の重さも知るのである。自分というものは連続性のなかにだけ存在するということでもある。特定のことだけを抜き出してしまえば、ただの髑髏でしかないということなのだろう。

SHIMOKITA VOICE

2010年08月29日 | Weblog
何かの告知を見て発作的にチケットを購入することがたまにある。購入したときの状況は今となっては記憶に無いのだが、おそらく「志の輔」に反応したのだろう。昨年1月の帰国以来、「志の輔らくご」は何度もチケットを申し込んでいるのだが、これまでのところ全て抽選に外れている。このチケットは抽選になることもなく入手したが、どのような催事なのか見当がつかなかった。チケットに表記されている出演者が何組もあるのだが、認識できるのは志の輔とリリー・フランキーだけだったのである。

とりあえず場所を調べて、下北沢へ出かけてみた。駅南口階段を降りてすぐ、マクドナルドの前で自分がこれから行こうとしている催事のチラシを配っている人がいた。チラシを受け取り、ざっと目を通す。昨日も何かあったらしい。いろいろな分野から出演者が集められているが、司会者の肩書きに「下北沢商業者協議会代表」とか「シモキタ訴訟弁護団」といったものものしいものがある。よく見ると小さな文字で「街を分断する道路計画と様相を一変させる再開発計画」などとも書いてある。どうやら再開発反対運動の一環のイベントらしいということが、開演直前になってわかった。

妙なところに来てしまったと後悔しかけたものの、会場の斜め向かいにあるビルの2階の「花泥棒は珈琲屋です」という妙な名前のカフェでブレンドコーヒーを飲みながらチーズケーキを食べているうちに後悔はどこかへ行ってしまった。

下北沢というところに来るのは1年半ぶりくらいだ。帰国して、住む家がほぼ決まり、家具を買おうと思って、下北沢にある古道具屋を覗いてみたのである。結局、家具は無印良品と近所の家具屋で揃えたのだが、下北沢という場所は私には少し場違いなように感じられた。

昔、下北沢でデートをしたことがある。お茶をしただけのことだが、相手はミス横浜国大だったという人だった。当時、私は債券のセールス・トレーダーをしていた。一日の終わりに電話で顧客とその日の売買の照合をするという作業があった。彼女は富士銀行の資金証券部の人で、なんとなく毎日電話で話をしているうちに親しくなったのである。そのうち、私が留学のために人事部付になるときに、お世話になったからとかなんとか言って私のほうから誘った。週末の昼下がり、彼女の足の便の良い場所ということで、下北沢の喫茶店で会うことになったのである。その後、彼女は結婚したと聞いているが、今頃はどうしているのだろうか。私よりも3つほど年上だったが、きれいなおばさんになっているといいなと思う。

さて、今日の出演は以下の通り。(出演順)
Les cocottes 
MCのなかで、喉が弱くて普段はマスクをつけて歩いている、という話を聞いて驚いた。喉が弱いのに歌を歌うことを生業する決断もすごいことだと思うし、暑いときでも外出するときにマスクをつけるというのもたいへんなことだと思う。私も子供の頃は殆ど慢性ともいえる気管支炎で、夜中に発作が起こるとたいへん辛い思いをしたものだが、成長と共に症状が消えてしまった。今でも、自分の身体の状態を自然に観察してしまうのは、当時の辛さが身に染みているからではないかと思っている。

TWO-STRUMMER
今年、デビュー25周年だそうだ。自分とほぼ同世代だ。不思議なもので、同じ時代を生きてきたというだけで親近感を覚えてしまう。昭和のロッカー、という感じ。こういう友達がいたら、うざいかもしれないけど、楽しいだろうなとも思う。

KIRIHITO
ドラムとギターのロックデュオ。もともと音楽に関心の強いほうではない所為もあるが、この手の音楽を生で聴くのは初めてだ。絶対に自分からCDやDVDを買ったりはしないタイプの音楽なのだが、聴いていてとても愉快だった。

立川志の輔
この人の噺のおもしろさは、日常生活のなかに当たり前に転がっている馬鹿馬鹿しさをデフォルメした現実性にあるように思う。今日はドラッグストアのバイト店員とオヤジ客とのやりとりで構成された噺だったが、普通に生活していれば誰もが気付くのだけれど、敢えて問題にするほどのことでもないささやかな疑問や不可思議に、敢えて注目したものである。今、この瞬間もすぐそこで交わされていそうな妙な会話に妙な現実味があって腹の底がひっくり返されるような心持ちがした。でも、私はやっぱり古典のほうが好きだ。

リリー・フランキー+上田禎
リリー・フランキーが歌を歌う人だということを今日初めて知った。MCのなかで氏が無職だった時代もあったということを語っていて、それも少し衝撃だった。おそらく、意識するとしないとに関わらず、表現者として生きることを目指していたのだろう。今は誰もがその名を知る存在だが、歌や演奏もよかった。尤も、この人の書いたものを読んだことはないので、歌や演奏「も」、と言うのはおかしなことなのだが。

黒田征太郎+中村達也+田中泯
アクションペインティングとドラム演奏と舞踊が同時に行われた。演奏は聴いていればよいのだが、ペインティングと舞踊はどちらに視線の焦点を当ててよいのか少し迷う。アクションペインティングに限らず、コンテンポラリーアートというのは、まず、どこかで評価を受けてからでないと活動できないような気がする。大きな展覧会で賞を獲るとか、既に名前のある人から声がかかるというようなことで、その仕事が評価され、然る後に本来の活動ができるようになるのではないだろうか。そうでないと、「アート」なんだか単なる「へんな人のへんな行為」なんだかわからない。ただ、不思議なことなのだが、コンテンポラリーアートというのは眺めているだけで愉快なのである。以前にもこのブログのどこかで書いた記憶があるのだが、作品の作り手と自分とが同じ空気を呼吸しているように感じられ、それが楽しいのである。田中泯は、身体の線がきれいな人だと思った。私は舞踊のことなど何も知らないのに、どこかで見たことがある人だと思ったら、昔観た「メゾン・ド・ヒミコ」という映画でヒミコ役で出演していた人だった。さすがに、映画の頃よりは齢を重ねているが、舞踊家らしい適切な均整を感じさせる身体だ。

開演 16時30分
閉演 21時30分
会場 shimokitazawa GARDEN

てまめ

2010年08月28日 | Weblog
陶芸教室でご一緒させて頂いている方が、6月に神楽坂でギャラリー・カフェを開業された。どのようなところか、以前から興味があったのだが、漸く拝見する機会を得た。

場所は神楽坂上交差点からやや下り、地蔵坂を入ってすぐのところである。しかし、通りすがりにふらりと入る、という雰囲気ではない。店舗が通りに面していないので、その店を訪れるという目的を持って歩かないと認識できないからだ。地蔵坂に入ってすぐに飲食店が並んでいるが、そのひとつ「鳥竹」のあるマンションの通路に入り、住居部分の共用部入り口の前を過ぎ、隣接する建物に設置されているエアコンの室外機からの風を感じながらマッサージ店の前を過ぎ、一番奥の扉を開くとそこが「てまめ」である。入り口前には白いオブジェがあり、なんとなくギャラリーだなということはわかるようになっている。

こじんまりとした店で、並んでいる商品は全て手作りのものだ。店内の一角が「ワンボード・ワンコイン・ギャラリー」という棚一段一日500円の貸しスペースになっている。利用は1ヶ月単位で月1万円だそうで、棚ごとに陶芸作品、置時計、アクセサリー、こぎん刺し、革製品、などが並んでいる。壁も床も廃材チックな板張りで、壁は白く塗られている。店内中央に4人がけのテーブルがあって、室内がひとつのまとまった空間になっているうえに、大きな掃き出し窓があって採光も良いので、落ち着いた雰囲気だ。

問題があるとすれば、やはり立地だろう。出品作家によるワークショップも開催されているようだが、通りから人を引き付けるきっかけを積み重ねて常連客を地道に増やすことが手堅いやりかたなのだろう。奥まっている分、落ち着いた雰囲気なので、客との心理的な距離を近くすることができれば、既存客による紹介でも客層が広がるかもしれない。

ところで、神楽坂を訪れるのは久しぶりだったが、けっこう変貌していて驚いた。以前に訪れた際に、コインパーキングが目立ち、ついにここも没落するのかと暗澹たる思いをしたものだが、そうした場所で新しい建物の建築作業が進行している。あと数ヶ月もすれば、建設中の建物が完成し、この坂も新たな装いになるのだろう。知名度の高い場所なので、地代や賃料が高く、ここでそれなりの収益をあげるのは楽なことではないだろうが、現にある程度の存在感を築き上げている店も少なくないので、競争も激しいだろうが、ドメイン効果も期待できるだろう。新しいことが起こるのを眺めるのは楽しいものである。

神楽坂を下り、飯田橋からJRに乗って実家へ向かう。新宿で埼京線に乗り換え、18時20分頃に荒川を渡った。車窓から夕焼けのなかに浮かび上がる富士山のシルエットがきれいに見えた。ここから富士山がきれいに見えるのは夏が終わろうとしている証拠だ。身の回りには然したる変化もないように感じるが、もう終わったと思っていた街が再生の兆しを見せ、灼熱の夏も終わろうとしている。つくづく変わらないものというのは無いものだと思う。

ネットオークション

2010年08月27日 | Weblog
うっかりして、同じ日に開催される2つの落語会のチケットを購入してしまった。最初、時間が3時間ほどあると見て、購入したのだが、早い時間の会のほうが出演者が多く、トリまで聴いてしまうと、次の会に間に合わない。仕方がないので、その早い時間の会のチケットをネットオークションに出品した。額面の半値で出したら全く入札がなく、何度か再出品しても結果が同じなので、オークションで売るのは止めることにした。

初期の頃に比べるとネットオークションの利用手続きはやや煩雑になった。いろいろ悪いことを考える奴が多いこともあるのだろうし、細かいことをうるさく言う奴も多いのだろう。細かい注文をするなら新品を買えばよさそうなものだが、ネットで安く手に入れることに価値を見出している人たちも少なくないだろう。全員が全員というわけでもないだろうが、せこい奴というのは面白くない奴が多いように思う。出し惜しみをする奴は、入ってくるものもそれなりの貧相なものでしかないということだろう。自分の人生の残り時間を考えれば、面白くない奴と関わる余裕はないし、関わりたくもない。

ここで文句を垂れても仕方がないのだが、その落語会のチケットは、このブログをお読みの方で興味のある方に差し上げようと思う。内容は以下の通り。

六代目 三遊亭円楽 襲名披露公演
出演:桂歌丸 林家木久扇 三遊亭好楽 三遊亭小遊三 春風亭昇太 林家たい平
公演日:2010年10月2日土曜日 15時30分開場 16時00分開演
会場:渋谷C.C.Lemonホール
席:二等席 2階17列33番

コメント欄にご連絡を頂ければ、折り返しチケットを発送させて頂く。勿論、そのコメントは非公開である。「差し上げる」というからには、当然に送料は当方負担である。しかし、送付方法に特別な指定がある場合は、申し訳ないが受け手側で負担して頂きたい。

ちなみ、私は同日19時30分開演の三三の独演会へ行くつもりである。

「キャタピラー」

2010年08月26日 | Weblog
若松孝二監督作品を観るのは「あさま山荘への道程」に次いで2作目。昨年6月に氏の講演会を聴く機会があり、以来、なんとなく気になる人である。自分の親とほぼ同世代という親近感もあるのだろうが、なんとなく筋の通った人という印象が強い所為だと思う。

講演会のテーマは「愛のコリーダ」の舞台裏ということだったのだが、連合赤軍とのかかわりについての話が印象に残り、さっそくアマゾンで「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を注文した。しかし、映画のほうは、私はそれほど好きではなく、観終わってアマゾンのマーケットプレイスで売ってしまった。

この「キャタピラー」はその「あさま山荘」の主人公たちの親の世代を描いたのだそうだ。先ごろ、ベルリン映画祭で主演の寺島しのぶが主演女優賞を受賞して話題になっていたので観る気になった。好きな映画ではないが、面白いとは思う。

「五体満足」という言葉がある。人は程度の差こそあれ、誰でも心身のどこかに問題を抱えているものだ。それでも、圧倒的大多数の人は日常生活に不自由なく生きている。なかには、怪我や病気、あるいは先天的な異常によって、五体満足ではない人もいる。「五体満足」というとき、それは物理的な身体機能に障害が無いという意味だ。しかし、五体満足であることを生活のなかに活かしている人はどれほどいるだろうか。ごく基本的な健康管理を怠って、「生活習慣病」と総称される様々な疾病を抱える状況に陥っている人は少なくないだろう。風邪や飲み過ぎ食べ過ぎも、些細な不注意に起因することが殆どではないだろうか。つまり、物理的に「五体満足」でも実体としては全く満足できるような状況には無いことが多いということだ。これが精神状況について見たら、もっと酷いことになっているのではないだろうか。

映画のなかで、主人公の夫は戦地で負傷して、四肢を失い、頭部の一部が焼け爛れ、耳が不自由になって、声も失った状態で帰還する。戦時中なので、戦場での負傷は名誉であり、勲章を3つ贈られ、人々からは「軍神様」と奉られる。しかし四肢が無く、声も呻き程度しか無いのでは、主体的に行動することはできない。妻の介護に支えられて生命が続いているだけである。それでも食欲と性欲は従前通りだ。食べて、妻の身体を求め、寝るだけの毎日が繰り返される。舞台は農村なのだが、戦時下で徴発もあるため、食糧事情は良くはない。食べるものが足りないといって怒り、妻が農作業や介護で疲れているからと身体を拒めば怒る。そこに精神性は無く、単なる生命体としての存在でしかない。

やがて、戦場で自分が犯した残虐行為がフラッシュバックするようになり、その記憶に脅かされるようになる。遂に発狂し、残された四肢の根元を駆使して、這って家を出て、庭の池のほとりに到達する。池には毛虫が一匹、水面で身体をくねらせている。それに気がついたかどうかわからないが、水面に映った自分の姿に何事かを感じたのは確かだろう。時は昭和20年8月15日。

「あさま山荘」でも感じたが、若松監督の作品には怒りが描かれているように思う。おそらく、氏は人間とかその社会に対する期待が高いのだろう。だから、その期待を裏切る行為や事象を許すことができないのではないだろうか。「キャタピラー」とカタカナのタイトルなので平和呆けの私は建設機械を想像してしまうが、英語の「caterpillar」は芋虫や毛虫のことだ。何を考えてこの作品を制作したのか本当のところは知らないが、人を芋虫のような姿で描くことで、思考しない人間の在り様を激しく批判しているように感じられた。

手作り時計

2010年08月25日 | Weblog
木工で端材を集めて時計を作っていたのが、今日完成した。端材なので、木材のほうのコストはかかっていないが、時計のムーブメントが1個600円程度、ガラスが一枚370円くらいだった。材料費だけで約1,000円。これに手間賃が乗ると、一体いくらくらいの値付けが適当なのだろうか。手作りなので、この世に二つとないものだが、似たようなものなら、おそらく1,000円程度で入手できるのではないだろうか。私が作ったものは純粋に時計だが、量販店で流通しているのは、アラームもついているだろう。実用性とか価格といった目に見えるもので比較すれば、市販のもののほうがはるかに良いと思う。それでも、こちらの手作りのほうが良いと言って、手間賃まで含めた値段を払って買ってくれる奇特な人はこの世に存在するのだろうか。

ゆたか食堂

2010年08月24日 | Weblog
陶芸の帰り道、巣鴨駅北口のロータリーから少しだけ路地に入ったところにある「ゆたか食堂」で日替わり定食を頂いた。今日は煮込みハンバーグ。定食の構成は、このメインのおかずに丼飯、味噌汁、小皿3品が付く。どの品もたぶん店内調理品。これで500円、しかも旨い。この店は、一昨日、羽生田さんから教えてもらった店だ。店構えは、どこにでもあるような定食屋さん。店内も同じ。いまどき喫煙可なので嫌煙家の人には辛いかもしれない。メニューは勿論、日替わり以外にもあるのだが、なんとなく観察していると、常連と思しき客で占めらている店内では日替わりを注文する人が多い。厨房は「マスター」と呼ばれている中年男性ひとり、フロアは女性ひとり。店に入ったのが午後1時半頃で、昼食時の峠を過ぎていたので、この人数なのかもしれない。この「マスター」がもともとはフレンチだかイタリアンだかのシェフだったのだそうだ。そう思って食べる所為かもしれないのだが、煮込みハンバーグなどは、「老舗」と呼ばれるような店のものに勝るとも劣らない味だと思う。

ところで、今日は陶芸で、今製作中のものが手を離れたら、次は一塊の粘土で一つの大型作品を作るという技法を教えて頂くことになった。去年の10月から轆轤を使って、やや大きな塊の粘度からいくつもの器や皿を挽くという練習を繰り返してきたが、いよいよ次の段階に入ったということである。おそらく、自分の今の生活のなかで唯一、「進歩」という言葉と縁があるのは陶芸ではないかと思う。

2006年10月に陶芸を習い始めて、途中2007年10月から2009年3月までの中断を経て、2009年4月から再開した。週一回なので、そう顕著に進歩するわけではないのだが、それでもコツコツと続けていれば、それなりに習熟することもある。最初は手びねりや板作りだが、そうした技法を一通り習った後で、轆轤を使った成型を始める。私の場合はそれが昨年10月。今度の大物作りがどれくらい続くかわからないが、最終的には小物に戻るのだそうだ。「袋物」と呼ばれる徳利のようなものである。これが上手く出来るようになって、ひとつの学習サイクルが一巡することになる。

気持ちとしては、毎日土をいじりたい。倉庫のような天井の高いスペースのある家を借り、そこに陶芸の設備一式を揃えて、本格的に取り組みたい。なんとかならないものかと思いながら日々暮らしている。

マイクロコスモスを生きる

2010年08月23日 | Weblog
人の発想は経験に基づく、あるいは経験を超えることはない、というのは殆ど確信のようなものである。ただ、その「人の発想」というものがどの程度のものかということは、何を尺度にするかによってどのようにも表現できる。「誰某の発想がスゴイ」というときの凄さと「人の考えることに然したる違いは無い」というときの違いというのは、当然に異質の尺度によるものだ。人の実体は関係性の結節点のようなものだろう。関係性という概念の世界に浮遊しているようなものなので、あるひとつの事象を同じ人間がどのようにでも評価できる、ということではないだろうか。にもかかわらず、えてして他人から見れば奇妙でしかない単一尺度に縋り付いて、自ら窮屈な世界に入り込んでしまっている人が多い、ように感じられる。

昨日、羽生田さんが語っていたのだが、サラリーマンを辞めてコーヒー豆の焙煎業を始めてみると、それまでには「考えられなかったような人たち」との交流が始まったという。コーヒー豆を自分で選んで、買って、挽いて、淹れる、というような悠長なことを敢えてするのはその人の個性の何事かを如実に示している。そういう個性の人たちと、ごく平均的な会社員の個性とは全く違うということなのだろう。

会社員と言っても業種によって文化が異なり、同じ企業においてさえ、事業部門によってそれぞれの職種の文化がある。以前にも何度か触れているように、私はこれまでに4回転職をしている。最初の就職先は当時の社員数が1万人近い企業で、3年程度の人事ローテーションで営業系と調査系の職場と企業派遣による留学を経験した。その就職先が経営難に陥り、外資傘下に入ることになって転職を余儀なくされた時に、たまたま調査系の職種に就いていたので、以降、調査系の職場が続くことになった。調査系の仕事のおかげで自身の転職経験に加えて様々な調査対象企業の管理部門系の人々と接点を持つことになった。そうした経験から、人の集団は、ある程度の規模を超えると分裂して、それぞれの機能にふさわしい小集団になるものだとの印象を持っている。それでも、どれほど起業家精神が旺盛であっても、給与生活者である限りは給与生活者としての発想からは抜けられないのである。自営業者はどれほど小さな経営体であっても、自営業者としての緊張感のようなものがあるものだ。

それは個性に属する部分も当然にあるのだが、「ポジションが人を作る」という側面もある。同じ人間が、置かれた位置によって、全く別のキャラクターを発揮するということはよくあることだ。これは仕事という場でのことだが、家族との関係とか地域との関係とか、様々な場において似たようなことがある。

繰り返しになるが、結局、人は関係性の中を生きているということなのである。そのひとつひとつの関係性が、あたかもマイクロコスモスの如く、程度の差こそあれ、その世界独自の論理と秩序を有している。本来、人間の生活というものは、個人、家族、血縁、地縁、職縁など多くのマイクロコスモスの複合体なのだと思う。自分が生きる小宇宙の数の「自己」があり、それぞれの宇宙がそれぞれのリズムで代謝を繰り返していて、「自分」はそうした複数の「自己」の集合体のようなものとして、なんとなくそこに在るという状態が自然なのではないだろうか。

自分が位置するすべてのマイクロコスモスにおいて、それぞれに順風満帆であることに越したことはないのだろうが、現実はそうではないだろう。しかし、多くのマイクロコスモスを生きていれば、あるところでは閉塞していても、別のところではそれなりに解放されるという確率も高くなるはずだ。生活の健康は、そうしたバランスの上に成り立つものだろう。

ところが、生活の場というものをひとつの価値観に絞ってしまうと、そうした柔軟性は期待できない。いくつもの生活圏を持っているつもりでも、その全てに資本の論理が貫徹されている、というようなことのほうが、むしろ多いのではないか。何をするにしても、結局は「いくら」というデジタル化されたものに置き換えられてしまうのでは、やはり生活の柔軟性というものは生れないだろう。「自分」というものは分裂しているくらいが調度良いのではないだろうか。

落語と焼き鳥

2010年08月22日 | Weblog
午後、横浜にぎわい座で「落語教育委員会」こと「柳家喜多八・三遊亭歌武蔵・柳家喬太郎 三人会」を聴いた。今日の演目は以下の通り。

「南瓜」 入船亭扇里
「竃幽霊」 柳家喬太郎
(中入り)
「子ほめ」 三遊亭歌武蔵
「船徳」 柳家喜多八

開演 13時30分
閉演 16時00分

この落語会は実質的に前座なしという贅沢なものである。扇里は現在は二つ目だが、来月に真打へ昇進することになっているので、「三人会」というより「四人会」と呼んでもよいほどの面子なのである。演目はどれもオーソドックスなもので、「南瓜」や「子ほめ」は前座噺にもしばしば使われるネタである。しかし、毎度書いているように、そういうものほど奥が深かったりするものだ。歌武蔵を聴くのは今回が初めてなのだが、さすがに、この噺はこういう面白い話だったのか、と再認識させてくれる内容だ。

四人の演目は全て古典だ。いずれも程度の差こそあれ、聴く側にリテラシーが要求される。それが無いと木戸銭を払って舟を漕ぐだけ、ということになりかねない。事実、私の右隣の席にいた人はそうだった。年齢は私より上のようだが、七分ズボンに素足でナイキのサンダルにナイキのキャップ、半袖襟付きの淡い色のシャツ、といういでたち。顎鬚を生やし、ちょっと見たところはカッコのよい爺さんだ。開演直前まではiPhoneでFacebookを見ていて、噺が始まってからスイッチを切り、舟を漕ぐ。中入りになると再びiPhoneをいじり、中入り後は終始舟を漕ぐ。何をしに来たのかわからない。長年生きていても、日本語が理解できない人なのだろう。スマートフォンの小さい画面に表現される程度の情報を処理するのが精一杯ということだろうか。

それでも、「南瓜」や「子ほめ」のような前座噺に使われる類のものは、注釈なしでもなんとか理解できるだろう。問題は「竃」だ。漢字を見れば一目瞭然だが、「へっつい」と言われてわかる人が今の時代にどれほどいるだろうか。噺の中身から、大人2人がかりで運ばなければならないような大きく重いものであること、屋内に設置するものであること、設置に手間隙あるいは技能が要求されること、火を使うものであること、どこの家庭にもあること、衝撃を与えると欠けるものであること、というようなことは誰でも理解できる。ここまでわかれば、噺の主旨はそこから出てくる幽霊と主人公とのやり取りなので、舞台装置の詳細までは知らなくとも話しは理解できる。しかし、わからない言葉があることが気になる人にとっては、噺の世界に入り込みにくいかもしれない。「船徳」は、風景描写と江戸における舟の役割やそれを利用することの記号的意味というようなことを知っておく必要があるように思うが、そのあたりの説明を巧みに挟みながら、噺の調子を崩さずに演じるあたりはさすがにトリだけのことはある。この噺の場合、船宿の若い船頭たちが旦那からの使いに集合をかけられ、何かシクジリがばれたのではないかと戦々恐々としながら懺悔をするところで、上手く笑いを取れないと噺全体の間が抜けてしまうのだが、ここの間が素晴らしく、サゲに向かう後半の間が上手く整えられていたように感じられた。

「船徳」は人情噺である「お初徳兵衛浮名の桟橋」の発端部分を取り出して滑稽噺に仕立直したものだ。長い噺なので、三人会だと「お初徳兵衛」を演るのは難しいのだろうが、「南瓜」「竃幽霊」「子ほめ」「船徳」と比較的よく知られた滑稽噺ばかりでまとめるよりは、落語会全体の緩急強弱をつけたほうが、聴く側の満足度は高いように思うのだが、どうなのだろう。

落語会を聴き終えて巣鴨に戻り、ちょっと一服した後で、ハニービーンズの羽入田さんと大塚の「蒼天」という焼き鳥屋へ出かけた。偶然なのだが、「蒼天」の看板は寄席文字を使っている。橘流寄席文字の橘右門の手になるものだそうだ。寄席文字の特徴は、隙間無く、余白が均等で、全体に微妙に右上がりであることだ。これは客席が隙間なく埋まり、興行が右肩上がりになることを願う縁起文字なのだそうだ。

羽入田さんとは19時から閉店の22時30分までおしゃべりを楽しんだ。いろいろ考えさせられる話題もあったが、今日は冗長になってしまうので、明日以降のブログで紹介する機会があるかもしれない。

燻製パーティー

2010年08月21日 | Weblog
菅野さんからのご招待で、燻製パーティーに出かけてきた。場所は鳩ヶ谷にある菅野さんの工場の事務所棟。知り合いの方が作ってくださったというおいしい燻製をいただきながらおしゃべりをするというのが今回の主旨である。菅野さんご夫妻と燻製を作ったマダムせい子さんと私の4人で食卓を囲む。菅野さんとはけっこう頻繁にメールのやりとりがあるものの、実際にお目にかかるのは今回が3回目だ。それでも楽しいひと時を過ごさせていただいた。「ひと時」と言うにはやや長い時間かもしれないが、「日が暮れるまで」というお言葉に甘えて14時20分頃から18時30分頃までおしゃべりに興じた。

菅野さんとはこのブログを通じて知り合った。このブログで新しい人間関係を築くことができた現時点での唯一の事例である。出逢いというものは、多くの偶然の上に成り立つもので、必然のある出逢いのほうがむしろ少ないのではないだろうか。無数の偶然の累積だから何故出逢ったのか明快に説明できない。それ故、我々はそういうものを「縁」という特別な名称で語るのではないだろうか。

最初はどこかのポータルサイトに紹介されていたPingMagというウエッブマガジンで菅野さんを紹介した記事を読んだ。そこで目にした氏の言葉に惹かれて、それをそのままこのブログに引用させていただいた。そこへご本人からコメントを頂いたのである。それをきっかけにメールのやりとりが始まり、私が2009年1月に帰国して渓水の工場に菅野さんを訪ね、続いて翌月、菅野さんが海外メディアからの取材を受ける際に同席させていただき、今日に至るまでご高誼に与っている次第だ。

人の生活というものは好むと好まざるとにかかわらず、その糧を得るための労働と生命を維持するための睡眠や休息で過半を占めてしまう。例えば24時間のうちに労働とそのための通勤で10時間、睡眠や休息で8時間とすると、これらだけで1日の75%を費やすことになる。そういう毎日を送っていると、交際の範囲は自ずと仕事関係と若干の地縁や血縁に限定されてしまう。しかも、仕事関係の交際というのは全部が全部というわけではないにしても資本の論理に支配されるものである。資本の論理というのは明快だが、それだけに不安定でもある。そうなると、よほど意識して交際を心がけないと自分を取り巻く人間関係というのは自然に薄く狭くなっていく。人の在り様は関係性に規定されるのだから、楽しく生きようと思うなら、多種多様の関係性を確保するのは必定のことである。

では、そのために自分が何をしなければならないのか。そこに生きること、生活することのテーマを設けないといけないと思っている。大勢の人々が集う催しも結構なのだが、今日の燻製パーティーのような少人数の集まりを、できるだけたくさん持てるような生活を心がけたいと思う。それには、他人の受け売りではない、自分の経験に根ざした自分だけにしか語ることのできない生活を日々心がけなければならない。これは容易なことではない。要するに楽しく暮らすには楽をしていてはいけないということだ。

学問のすゝめ

2010年08月20日 | Weblog
どういうわけで買ったのか記憶が定かでないのだが、最近、福沢諭吉の「学問のすゝめ」を読んだ。今まで読んだことがなく、世の中の多くの人が知っているであろう「天は人の上に人を作らず…」という断片だけが記憶の空間を彷徨していた。

今まで知らなかったのだが、「学問のすゝめ」は1冊の本ではない。明治5年から明治9年にかけて刊行された17編の小冊子の共通タイトルである。1編は現在の文庫本にして10頁ほどのもので、ひとつの小冊子にひとつのテーマで記述がなされ、主旨明快にして歯切れの良い文章だ。これが各編ともたいへんよく売れたのだそうだ。明治13年にこれらが合本されるのだが、その序によれば初編だけで20万部が売れたという。当時の日本の総人口が3,500万人なので人口の0.57%の読者ということになる。これを現在の人口1億2千万人を基準に計算すると68.5万部が売れたことになる。2009年の年間(2008年12月から2009年11月)ベストセラーは村上春樹の「1Q84」で2巻合わせて224万部なのだが、2位が「読めそうで読めない間違いやすい漢字」の115万部(以上、読売新聞ネット版2009年12月14日)なので、「1Q84」の売れ行きは統計的な言い方をすれば異常値だろう。総人口の0.57%というのは十分にベストセラーといえよう。

今読むと、「学問のすゝめ」の内容のほうは突っ込みどころ満載なのだが、文章のリズムが良く、一つの主張を実生活に根ざしたわかりやすい事例を挙げて述べているところが、維新直後の混乱のなかにある人々にとっては進むべき道を指し示しているように感じられたのではないだろうか。とにかく明快な文章だ。

現代であろうが、明治維新の頃であろうが、一寸先が闇であることに変わりはない。世の中を流通している情報量は現代のほうが格段に多いのだろうが、個人が処理できる情報量はいつの時代もたいして変わらないのではないか。人は見たいと思う現実しか見ないものだ。時は新政府成立直後で社会は依然混乱の中にあったであろう。この小冊子が発刊されていたのと同時代である明治10年には西南戦争もあった。そうしたなかにあって、合理性というものを前面に押し出した主張を展開することは、読者に対して改めて討幕とは何であったのか、来るべき時代がどのようなものであるべきなのか、ということを再考させたに違いない。そして、改めて希望を感じさせたに違いない。だからこそ、彼の義塾から多くの人材が新政府や産業界に入り、日本の新しい体制を作り上げるのに寄与したのである。

毒にも薬にもならないものは見向きもされない。当たり障りのないことというのは、あってもなくてもどうでもよいことでもある。「学問のすゝめ」では封建的旧秩序を打破し、合理性を重んじた新たな秩序の確立を謳っている。このため、当然に旧来の秩序を支持する勢力からは危険思想と見做され、福沢は命の危険に晒されたこともあったらしい。おそらく、福沢は自分の思想や哲学を公にすることで、同志と交際し、後輩を育成し、それら有為の人々が政府や産業界の要職に就くことで世の中全体を変革しようという、政治家以上に政治家的な人だったのではないだろうか。しかも、権力や財力にはそれほどの執着がなかったようで、だからこそ人が集まり、人が育ったということでもあるのだろう。権力や財力に執着が無いというのは無欲であるということではない。そうした目に見えるものを超えたところで自己を表現しようとした、ということだったのではないだろうか。本当に大きなもの、本当に大事なこと、といったものは目には見えないものである。目には見えないけれど、伝わるべき人には伝わるものでもある。「学問のすゝめ」というのは、小冊子ではあるけれど、それを時期を見ながら連続して発刊することで、その背後にあるものを伝えるべき人々に伝えた、ということであるように思う。

コーヒー牛乳

2010年08月19日 | Weblog
唐突だが、コーヒー牛乳が好きだ。正確に言えば「好きだった」。ところが、近頃のコーヒー牛乳は私の記憶の中のそれとは違うように思う。職場のあるビルの中のセブンイレブンに並ぶコーヒー牛乳およびそれに類する商品を毎日ひとつづつ飲んでみたのだが、どれも妙にコーヒーを意識しているような気がする。

雪印コーヒー 500ml 紙パック
小岩井コーヒー 500ml 紙パック
グリコ マイルドカフェオーレ 500ml 紙パック
7&i カフェラテ 500ml 紙パック (製造は高梨乳業)
キリンビバレッジ ファイア スゴウマ 深煎り微糖 270ml ペットボトル

このなかに「コーヒー牛乳」という商品名のものはない。2000年6月から7月にかけて発生した雪印乳業の乳製品による集団食中毒事件を契機に、商品名に「牛乳」という言葉を用いることに対する基準が厳しくなった結果、「コーヒー牛乳」とか「フルーツ牛乳」といった名称は実質的に使用不可能となったのだそうだ。

そんなことはともかくとして、私がイメージする「コーヒー牛乳」というのは、例えるならば駄菓子のようなものなのである。申し訳程度にコーヒー「のようなもの」を原材料のひとつに使い、牛乳をベースにして、「コーヒー」でもなく「牛乳」でもない、得体の知れない怪しいもので、安っぽいのだけれど、妙に舌が惹かれる味。そういうものが「コーヒー牛乳」なのである。

ここに挙げた5商品のなかでは「雪印コーヒー」がそうしたイメージに近いのだが、それでもコーヒーの風味がやや立っているように感じられた。商品名が「コーヒー」なのでコーヒーの風味が立っていなければならないのだが、容器には比較的大きな字で「乳飲料」とも書いてあるのだから、それがコーヒーだと思って買う人は皆無ではないにしても極めて限られると思う。コーヒーに関心の無い人はそれでもよいのだろうが、以前に何度も触れているように私はコーヒーも大好きなのである。中途半端にコーヒー「のようなもの」を使用して、「コーヒー」だの「カフェなんとか」だのと言われると、不愉快になる。逆に、「牛乳」のほうには何のこだわりもないので、牛乳とかミルクとかの味や風味にはあまり関心が無い。これらの商品の何に不満があるかと言えば、コーヒー「のようなもの」を「コーヒー」と称していることと、申し訳程度にコーヒーにこだわっているかのような姿勢を見せていることだ。この点、グリコの製品にはコーヒーを「毎日挽いて毎日ドリップ」などと書いてある。毎日挽かずに何時挽くんだ、と突っ込みたくなるが、想像するに、一般的なコーヒー飲料の製造工程では巨大な窯で大量に焙煎するということなのだろう。私のなかでは、そういうものはコーヒーとは呼ばないのである。

何事も極めることができるならば、それに越したことはないのだが、手軽に享受できて、しかも何事かを極めているというものは稀有である。本物を知らない奴が「本物」だの「本格派」だのと言い出すから厄介なことになる。ひとつひとつ手間隙かけて作るものと、量産するものとは根本的に相容れないところがあるのだから、できもしないことに名前だけ「本格」だの「本物」だのを謳うというのは消費者を馬鹿にした行為とさえ言えよう。

量産が悪いというのではない。量産自体、誇るべき技術とノウハウの集積だ。中途半端でいい加減なものだから悪いというのではない。現実は中途半端なもので成り立っているものだ。できる範囲で最上のものを作るということは健全な社会の基本だ。無理に寅の衣を被ろうとするのではなく、身の丈に合ったものを尊重する姿勢がないと、生活は心地よくないのではないだろうか。かつての「コーヒー牛乳」にはそういう身の丈に合った旨さと潔さがあったと思う。

コーヒー牛乳に限らず、巷に溢れている商品やサービスの多くに決定的に欠けているのは、見切りの良さとか潔さだと私は思っている。どれもこれも言い訳ばかり考えながら作られているように思えてならない。何事も、こだわりを持って作ればそれだけの費用がかかるのである。しかし、多くの場合、高いものは売れない。高いことに理由があっても、その理由を問う人は少ない。価格比較サイトで値段を確認し、量販店で店員相手に駄々をこね、1円でも安く買うことがたいした事であるかのように考える貧相な輩が多い。自分の仕事にケチが付けば不平不満を覚えるくせに、他人の仕事を認める眼力も思想も無い。破廉恥とはこういう輩を指す言葉だろう。ヘビークレーマーと呼ばれる連中のなかにも似たような奴が多いのではないか。自己主張はしても、他人に主張には耳を傾けない、それが当然だと思っている人たちである。持ちつ持たれつ、とかバランス感覚といったものが欠如しているのである。だから、そういう奴に限って、自己主張が聞き入れられないと傷ついてしまい、時に暴走するのである。

もともと人に限らず、生き物というのは身勝手にできているものなのだが、近年はネット検索でデータ系情報が誰にでも手軽に利用できるようになり、膨大な情報を手にした結果としてバランス感覚を喪失した輩が多くなったのではないだろうか。

量販店と画一的なものが溢れ、中途半端な「ブランド」が跋扈している。手間隙への価値は認められないので、雇用機会は減る。就業機会に恵まれても、低賃金長時間労働が当たり前のような職場が増え、将来を前向きに捉えることが容易でない人が増える。将来設計が立たなければ家庭も持つことができず、家庭を持っても子供を持つことに躊躇するようになる。高齢者ばかりが増え、人口は減少する。社会に閉塞感が強まり不安ばかりが増幅する。政治は政策の一貫性を失い、場当たり的な景気対策を繰り返して結果を伴わない財政支出が増える。結果が伴わないので、財政赤字は際限なく増える。社会は崩壊へ向かって突き進む。

私は、少なくとも自分の身の回りだけでも、手間隙への価値を認め、自信と他人へのまっとうな敬意を持った人たちと出会い、また、そういう人たちを増やしたいと願っている。具体的な手立てはいまだ思いつかないのだが、例えば7月2日付のこのブログに書いたようなこともそのひとつの案だ。誰もが匠になれるわけではない。誰もが名人や天才になれるわけではない。それでも自分のやることに自信と責任を持つことができる、当たり前の努力と当たり前の負担をしながら、向上心と希望だけは胸に、自己主張もするけれど他人の話にも耳を傾ける、そういう人たちのつながりを紡いでみたい。コーヒー牛乳の旨さがわかる人と出会いたい。

習慣化か

2010年08月18日 | Weblog
今日も木工に出かける前に生協の配達が来た。今回のキャンセル商品は桃。高温等による品質不良だそうだ。木工に出かけている間に生協の配達が届いてしまうと、冬場ならそれほど気にもとめないのだが、夏は冷蔵品や冷凍品のことが気になるので、とりあえず木工からまっすぐ帰ることになる。出かける前に配達が来るとそういう心配がないので、先週も書いた通り、外で食事を済ませてから帰る。

今日も「cha ba na」でビルマ素麺。水曜の昼はビルマ素麺、というのが習慣になってしまうのではないか。木工教室の近くにある「まるみ」というラーメン屋のラーメンもおいしいので、たまに寄ってみようかとも思うのだが、木工を終えるが12時台なので、この時間帯はどこの飲食店もそれなりに客の入りがあって、落ち着いて食べるというわけにはいかない。それで、時間稼ぎも兼ねて住処近くまで移動し、そこで食事ということになり易い。巣鴨に着くのはだいたい1時半前後であることが多い。この時間は昼時の客が一巡し、店のなかが落ち着く頃だろう。

巣鴨というと高齢者の街という印象が強いが、「cha ba na」は巣鴨1丁目なので年寄りの客は少ないようだ。少なくとも私はこの店で高齢者を見かけたことがない。雰囲気としては常連客が多い印象だ。アジア系の男女ふたりで店を切り盛りしているので、客が同時に複数入店すると、メニューによっては時間が多めにかかることもあるが、そういう状況下でもビルマ素麺は比較的早く出来てくる。ただ、以前に一度だけ、品切れになっていたことがある。そのときは、トムヤムラーメンを食べた。私は辛いのが苦手なので、注文する前に辛さについて店の人に尋ねたところ、「それほど辛いものではない」とのことだったので、注文した。「それほど」がどれほどなのかというのが問題なのだが、私の許容範囲の限界くらいだった。辛いもの好きの人にとっては、そのままでは物足りない辛さだと思う。

私が酒を飲むことができるなら、夜も訪れてみたいのだが、バーに酒を飲めない奴がひとりでいるというのは、ちょっと場違いな印象だし、そんな奴がいたら店にとっても迷惑なことではないかと思い、いまだに夜の訪問は遠慮している。でも、どんな人たちが集まる店なのか興味がある。

巣鴨で暮らし始めて1年8ヶ月になるが、基本は自炊なので、近所の飲食店に関する情報量は限られている。そうしたなかで、気に入っている店がいくつかあり、「cha ba na」はその一つになっている。昨日は陶芸のある日で、やはり昼を外で済ませたのだが、火曜日は「cha ba na」のランチ営業が無いので、「くまさん」というアジア料理の店で「スペシャル定食」というのをいただいた。

「くまさん」も常連客で賑わう店である。基本はインド料理のような雰囲気だが、東南アジア系のメニューもあり、店側では「アジア料理」と謳っている。昨日の「スペシャル」は小松菜と卵のカレーとナンを核に、生春巻きとチキンの手羽先焼きとサラダの盛り合わせ、中華スープ、大根のピクルス、飲み物、という少し豪華なセットである。飲み物はラッシーを注文した。どれもおいしいが、一番印象深いのはラッシーだ。本格的ラッシーなのである。都内のインド料理店は、けっこう名前のある店でも「飲むヨーグルト」のような味のものを「ラッシー」と称して出すところが多い。私のなかにある「ラッシー」は「飲むヨーグルト」とは似て非なるものだ。「ラッシー」というものの存在を初めて知ったのは1985年2月にインドを訪れた最初の晩のことである。このブログにも書いているが、初めてインドを訪れた晩、マドラス(現チェンナイ)でのことである。空港に降り立ち、コロンボからの飛行機で一緒だった日本人青年2人と、なんとなく一緒に宿を求めて彷徨い始めた。既に夜10時頃で、不安と疲労と暑さに苛まれていた。たまたま「Lassi」という看板を出した屋台があり、我々3人のなかで1人、インドを訪れるのが2回目だという人が、これは飲むヨーグルトのようなもので、おいしいから飲もう、と言い出し、3人でラッシーを飲んで一服することにした。屋台の少年に注文すると、彼は壷のようなものにヨーグルトのようなものと、氷を放り込み、木の棒のようなもので盛大に撹拌し始めた。そして、できあがったものを壷からドロドロとコップに移して出してくれた。その旨いことといったら、例えようが無い。「くまさん」のラッシーを飲んだとき、そのマドラスでの夜のことが思い浮かんだ。

二度と来ない好景気

2010年08月17日 | Weblog
自分は日本の高度成長期と共に成長した感が強いので、経済成長というものの実感を知っている世代に属する。例えば、小学生の頃に家のテレビが白黒からカラーになり、それが自分の家だけでなく友人の家も次々とそうなり、それまで無かった電話が引かれ、親戚に自家用車を持つものが現れ、… という具合に身の回りに、それまで無かった品物がひとつまたひとつと増えていくという現実を経験している。自分は行くことができなかったが、大阪で万国博覧会が開かれて、どのパビリオンでも未来の暮らしを展示していたことは知っている。当時、母が製版会社にパートに出ていて、落丁や乱丁でラインからはねられた本が家にいくらでもあった。そのなかに万博のガイドブックもあったのだ。勿論、良いことばかりではなく、石油ショックでトイレットペーパーや砂糖が店頭から消えてしまって大騒動になったり、大学時代に就職活動をしていた頃も、景気は決して良くはなかった。その直後に円高不況があり、その反動ともいえるバブル景気があり、当然に好況も不況も経験しているのである。

ところが、日本人なら誰でも同じ、というわけではないらしい。「物心付く」のが何歳頃なのか知らないが、仮に5歳くらいとすると、1985年以降に生れた人は経済成長とか好景気というものを実感として経験していないのではないだろうか。経験していないものを思い描くというのは容易なことではない。何があっても、悲観シナリオを描いてしまう世代が、社会を動かす中核を担う時代になっているとしたら、好景気などと呼ぶことのできる経済環境は実現できないのではないだろうか。

日経平均は8月12日に終値ベースでの年初来安値9,065.94円を記録したが、今日も軟調でザラ場安値は9,084.24円、終値9,161.68円だ。雰囲気としては9,000円割れは時間の問題だろう。3月に開かれた大学の同窓会で、証券会社の社長をしている学友が、日経平均5,000円でも利益の出るような仕組み作りを考えている、というようなことを語っていたのが思い出される。株価は経済の先行指標でもあるので、終わってしまった決算の数字が良くても悪くても関係ないのかもしれないが、決算が良くても「先行きの不透明感が強い」とされて株が売られ、決算が悪くても「実体経済が悪い」と言って売られる。なにがあっても、結局は売られてしまう。そういう国になったということなのだろうか。