熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2016年4月

2016年04月30日 | Weblog

1 甲野善紀/田中聡 『身体から革命を起こす』 新潮社

これも『打ちのめされるようなすごい本』の一冊。武道の類に興味はないのだが、「当たり前」だの「常識」だのというものの怪しさには、かねてより興味があった。合理的とか道理というときの「理」とは何か、科学とは何か、地球が誕生して46億年だか50億年だか知らないが、そもそも存在しなかったものが存在するようになり、そこ生命が生まれて何億年だかがあり、人類らしきものがうろうろするようになって何十万年、今の人類の祖先はそれよりさらに新しい。そういうものがわかったような口を平気できくことの不思議をずっと感じていた。

毎度あちこちで繰り返すように、誰も生まれたくて生まれたのではない。命は所与のものとして在る。命とともに身体も在る。生まれた場というものも在る。生涯はそこから始まる。生まれた後に自らの意思でどうこうなるところも多分にあるのだが、それでどうしようもならないところも多分にある。そのどうしようもないところをどう収めるかというところの知恵と工夫が生き心地を左右するのではないだろうか。身体の用い方も、漫然と世間一般の慣習に従うのではなく、ほんとうはどうしたらよりよくなるのかと考えないことには生きている甲斐がないということなのだろう。おそらく身体の在りようは命の在りようと一体なので、身体論は哲学と同義ということになるのだろう。

以下、備忘録。

どんな世界でも、教師が「正しいこと」として教えるのは、すべて過去の習慣や制度のなかでの「正しいこと」にすぎない。どれほど確からしいことも、視点を変えれば疑わしくなるものであり、その信憑性を支えているのは、なんらかの制度である。制度には、視えるものも視えないものもあるが、おおまかに言えば、固定観念と利権によって構築されている。そして、変化をきらう。したがって、新しい発想を妨げる。(24頁)

小成は大成を妨げる最大の要素である。そこそこの成功は、それ以上のものを追求させないための強力な目かくしとなる(32頁)

近代には、日々の暮らしが刻印された多様な身体に対して、一律な、あるべき体格や姿勢や動きが理想とされるようになる。健康で、清潔で、規律ある身体である。その理想の根拠をなしているのは、近代医学が解剖して見せる、一様な構造をもった身体であった。構造として理解された身体には、体格、運動能力、血圧、血糖値、尿酸値、その他なんでも計測できることのすべてについて、理想域が設定される。計測できる身体は、管理できる身体である。同様に、歩き方や運動の仕方も、日々の労働とは無縁な、構造としての身体の営みとして指導されるようになる。学校は子供を家業の手伝いから引き離し、学校体育は、日々の暮らしと無縁な、すなわち生きるということと無関係な身体を築くべく教育する。そうして身体の多様性に対する忌避感が高まり、労働の刻印された身体は蔑視されるようになる。それは、頭脳を尊重し身体を軽視することと同時に進行した、社会の根底の大変動であった。身体を一律な構造体とみなすことは、身体を意識によって統御、管理されるべきものと考える思想であり、つまりは身体を蔑視するイデオロギーに他ならない。(150頁)

技術というのは、誰でも同じにできるという発想に立っていて、マクドナルドの店頭に誰が立っていようと同じ笑顔であるべきというマニュアル的な発想だと思うんですよ。だけど技は、たとえ同じ方法でも、誰がやるかによって結果は違う。発想が違うんだね。(201頁)

構造とは、認知のためのフィクションである。その構造上の因果関係で説明できる物語は、あらかじめ構造のなかに内包されている順序通りの展開にすぎないから、ウェルメイドな楽しさはありえても、感動にはならない。(205頁)

生体肝移植の手術を行うのに、ある大学では5リットルも出血させてしまうのが常識になっていたのに、ある大学の大変上手い先生を呼んでやってもらったら、驚くなかれ出血量が杯一杯ぐらいだったそうです。もうあまりのことに周囲は呆然としたらしいですけど。腕の差っていうのは、かくの如し。でも、マニュアルは下手に合わせてるから、輸血用の血液もジャンジャン使う。基準を作るっていうことが、どんどん下手ばっかり量産するんですよね。(226頁)

現代を支配している最低基準を満たしてなければいけないっていう共同幻想みたいなものがあってそれを必死で守ろうとしている感じがしますね。そのためにたとえば原発問題に代表されるように、原発はすごく危険ですけど、電気は絶対要る。「じゃあその代わりはどうするんだ」みたいな形で、問題がどんどん複雑化してきている。それなのに、その対策は、思考停止して単純なマニュアルで対応しようとしているっていうのも、ものすごくおかしいですね。(229頁)

 

2 佐原真 『魏志倭人伝の考古学』 岩波現代文庫

『打ちのめされるようなすごい本』の一冊。たまたま昨年12月に吉野ヶ里遺跡を訪れる機会に恵まれていたので、かなり強い興味を覚えながら読み通した。とはいえ、考古学というものへの関心が高いわけではない。

吉野ヶ里を訪れたとき、再現された住居や望楼の類をなんとなく眺めたり、中に入ってみたりしたけれど、そこに何かを感じることができなかったのは私の知性の貧困だけの所為ではないような気がする。別のところに書いたが、「男はつらいよ」のなかに佐賀を舞台にした作品があり、そこで寅さんが吉野ヶ里を訪れるシーンがある。再現された住居を前にして「2000年も前に建ったの?立派なもんだねぇ、まるで新築だ」という台詞がある。この脚本を書いた人や監督が何を思ってこういう台詞を考えたのか知らないが、かなり深い台詞だと思う。プラスチック製のサンプルを店先に出している飲食店と、そうでない店とで何が違うだろう。食材から調理技術までこだわり抜いたというような店は、ああいうサンプルは置かないだろう。今ある材料や技術ですっと作ったものを並べて、「こんな感じだったと思います」というのは観光施設としてなら許されるのだろうが、遺跡としてはどうなのだろう。確かにあそこは「吉野ヶ里歴史公園」だ。だから、あれでいいのかもしれないが。

それで、この本だが、魏志倭人伝というものを初めて知った。もちろん魏志倭人伝は歴史の教科書には必ず登場する名前なので、そういうものがあるのは知っていたが、それだけのことだった。中国の三国時代の魏・呉・蜀という国々の歴史をまとめた『三国志』のなかで魏について記した「魏志」のなかにある倭に関する部分なのだそうだ。オリジナルは西晋の時代に書かれたので竹簡で、12世紀に南宋で刊本になったという。その刊本のなかで魏志倭人伝に相当する部分は105行、一行は20文字くらいだ。このわずかばかりの記述について検証を試みることで、これほどのことを語ることができるということに目眩がする。ガクモンは偉大だ。

 

3 山下惣一 『ザマミロ!農は永遠なりだ』 家の光協会

『打ちのめされるようなすごい本』の一冊。この書評集を読んだおかげで、当分読む本には不自由しない。当然、米原存命中に出た本なのだが、新本が既に出回っていないものが多い。本というのは売れないものなのだとしみじみ思う。アマゾンでも中古は手に入るが、売り手によって物の善し悪しがバラバラなので、中古を買うときにはブックオフオンラインを利用している。ブックオフの場合、購入金額が1,500円以上になると送料が無料になる。ざっくり一冊200円前後とすると7-8冊注文することになる。それで余計に手元に未読の本が積み上がることになる。

さて、『ザマミロ!』だが、愉快で一気に読んでしまった。読んで愉快になるのは、書き手が自身の経験と思考に基づいて何事かを論じているからだろう。世に空論虚論はいくらでもあり、そういうものは目障りで不愉快極まりない。この本には自ら生産活動に従事している人間の強さのようなものを感じる。実ある体験に基づいて世界観を構築した人の言葉なので、腹にすっと収まって気持ちがよい。

この世に存在する仕事は全て人間の生活のどこかしらを支えているはずなのだが、私はそういう実感を得られないままに社会人として32年目に入ってしまった。もうすぐ定年だ。隣の芝生が青く見えるというのは承知しているつもりなのだが、今頃になって農業だの手仕事だのに憧れてしまう。尤も、山下も「百姓が農業をやめれば、経済的にも肉体的にも楽になる世の中」と書いているし、私が暮らしているところも、2013年5月に引っ越してきた頃に広がっていた畑が、このわずか3年ほどの間にあれよあれよという間に建売住宅やコインパーキングに変貌し続けている。確かに国の農政や、訳も分からずに食の安全という幻想と安さという現実を追い求める消費者の存在という障害はあるにせよ、農業というのはそういうものに振り回されるほかに選択肢のないものなのだろうかと素朴な疑問も感じるのである。

今更こんなことを思ってもはじまらないのだが、なんだか付き合わなくてもいいものに妙に律義に付き合い過ぎてしまった、と思ってしまうのである。「付き合わなくてもいいもの」がどういうものか、については書かないが、まぁ、誰もが当然と思っているような類のことだ。

以下、備忘録。この本に関しては、丸ごと備忘録としてここに記しておきたいくらいなのだが、何度か読み返して絞りに絞り込んでみた。

どんなにハイテクを駆使しても、たったコメ一粒、菜っ葉一枚、牛乳一滴も人間は作れないわけだ。農業は工業ではないんだ。すべては自然の恵みなのに、近代化はその自然を汚し破壊してきたし、いまもそれを続けている。いわば母親殺しだ。そしてついに破局は誰の眼にもあきらかとなってきた。だから超えなければならないのだ。(102頁)

 

4 野原由香利 『牛乳の未来』 講談社

『打ちのめされるようなすごい本』の一冊。聞き書きというのはポートレート写真を撮影するようなものだと思う。相手との間に信頼関係がなければ中身のあるものが出来上がらない。相手に信頼されるためにはどうしたらいいかということが感覚としてわかっていなければ取材に応えてもらったり、写真の被写体になってもらったりできない。確かにこの本も「打ちのめされるようなすごい本」だ。

山下惣一、そして本書と続けて農業関係の本を読んだが、農業がどうこうということ以前に生きるということがそもそもどういうことなのか、ということを思わずにはいられない。どのような仕事をするかということは、どのように生きるかということでもあるので、本当なら誰でも山下や本書に登場する酪農家の人々のような話を自分なりに語ることができて然るべきであろう。たぶん、現実はそうではない。何故か。

まずは斎藤晶さんについてのところの備忘録。

なんぼ高学歴だ優秀だって、なんぼ死線を越えたって、「人間ってゆうのは一切あてにならんな」って、そん時痛切に感じましたよ。(48頁)

あとになって借金で首が回らなくなった人たちってゆうのは、たいてい上手に補助金もらって、近所と競争で立派な牛舎建てたような人だったんです。(63頁)

都会の人ってゆうのは、とにがぐ、もの凄く勉強するし頭の回転速くて、素晴らしいんですよ。野菜作っても、鶏飼っても、凄い展開するんですよね。ンだけど、都会の人ってゆうのは全体をとられるってごどがダメ。農業全体を見ているが、山をとらえてるがってごどになると、全然なってないんです。ここの東京だって、川の水溜めて田んぼ作って、自分が食ンべるだけの田んぼを10アールか20アールぐらい作って自家飯米ってゆうのを確保していたわけですよ。そうするともうそれに執着して、広大な荒地を拓いてゆこうってゆう姿勢がないんです。保守的になっていぐんですよ、都会の人は。(69-70頁)

結局、学校で理屈ばっかり教えるから、挑戦力がないがらね、問題を避けよう避けようってゆう知恵ばっかり働くんですよ。できない理由をずらーっと並べて、「ンだからダメだ」、みだいな。(80頁)

東京出身で中標津に開拓入植した三友盛行さんのところの備忘録は以下の通り。

限界を作るってことは、経済も決まっちゃうんだよね、ある部分ではね。パイ決まってくるから。決まった経済で生活すると、そこに豊かさが生まれてくるんですよ。毎年毎年こうやって経済のパイ大きくしてると豊かさがないんだよね、忙しいだけで。(230頁)

取引っていうのはね、成立するまでは結婚みたいなものでさ。お互いが遠慮しながら、うん、寛大になりながらやってるけど、取引始まったら単なる収益の問題になっていくから。だからデパートやなんかに収めるのはうれしいけども、デパートに収めれば定期定量求められるから。で対応する、売れなくなったら捨てられる、質が落ちちゃう。(252頁)

明るさっていうのはどういうものかって、「平凡なことを受け入れるような社会」でないと明るさはないのよ。(260頁)

 

5 澤地久枝 『昭和史のおんな』 文春文庫

『打ちのめされるようなすごい本』の一冊。「ノンフィクションの鑑」との評だ。個人の生活というものが社会のなかで営まれるのだから、個人といえども社会や時代というマスの流れを反映するのは当然のことだ。しかし、そのカップリングに執着するとノンフィクションを書いている側のものの見方を無理強いすることになりかねない。ノンフィクションのつもりがフィクションになってしまう。興味深く読んだが、備忘録として残しておきたいようなことはなかった。 

 ところで、志賀暁子のことを書いたなかに「秘密病院」という節がある。敗戦の混乱のなかで、外地から引き揚げてきた人々のなかに、望まぬ妊娠をした人が少なからずいたという。当時は堕胎は犯罪であり、混乱のなかにあっても「政府とししては産児制限を公然と認めることは考えていない」というのが公式見解であった。そうしたなかで、「博多港から軍用トラックで運ばれた女性たちは、この「秘密」病院で中絶手術を受け、それから郷里へ向かった。病院は21年5月から22年10月ごろまで存続し、日本人の子ではないことが明瞭な胎児もあり、息をしたり泣き声をあげる子供もあった。そのすべての子供たちを「処置」したのである。勿論刑法上からは非合法の「処置」であった。」(147頁)というのである。この施設を「ひそかに建設したのは、文化人類学の泉靖一たち京城帝大の医師グループだった」(147頁)という、ここだけを読むと何やら怪しげなことが行われていたかのような印象を与える記述が気になった。

たまたま昨年秋に読んだ「季刊 民族学 154号」の特集が泉靖一で、ここにもその「秘密病院」についての記述があった。

「当時、人道的堕胎は高松宮の非公式慰問で暗黙裡に諒解されたばかりでなく、GHQ公衆衛生福祉局長のサムス准将の署名を基礎として進められた。したがって敗戦処理過程で発生した「秘密病院」の運営という認識は当時の公式な事実過程を認知できない状態から出たセンセーショナリズム次元の判断であった。城大グループは二日市保養所で、九州大学グループは福岡、佐賀国立療養所でそれぞれ中絶手術を実施した。
 満州と朝鮮で、中国人と朝鮮人そしてソ連兵などから暴行にあった女性たちが帰国船の運航中に身投げする事件が発生し、妊娠した状態で帰国した213名の女性たちが二日市保養所に収容された。そうした手続きを可能とし推進した主役としての泉を浮き彫りにした千田夏光のルポ『二日市堕胎病院』(晩声社刊)が刊行されている。私はルポ水準のセンセーショナリズムの対象として取扱った泉に対する評価を信頼することはできない。」(「季刊 民族学 154号」45-46頁 全京秀 ソウル大学名誉教授/貴州大学特聘教授 (訳 伊藤亜人))

備忘録として記しておく。

 

6 山下惣一 『惣一じいちゃんの 知ってるかい?農業のこと』 家の光協会

『ザマミロ! 農は永遠なりだ』のなかに「竹内てるよを知ってるかい?」という節があって、竹内の『海のオルゴール』という本が「心貧しきオレたち現代人にとっては必読の書」と記されていたので、早速ブックオフで検索をした。在庫があったので注文することにしたのだが、1,500円以上にならないと送料が無料にならないので、抱き合わせで何冊か注文した。これはその一冊。児童向け雑誌『ちゃぐりん』に連載したものをまとめた本なので、文字は大きく、全ての漢字にルビが振ってあり、ひとつひとつの文章が読み易い。『ザマミロ』と内容的に重なるとこもあり、またこの本のなかで繰り返されることもあるので一気に読了した。

 

7 竹内てるよ 『海のオルゴール 子にささげる愛と詩』新装版 家の光協会

『知ってるかい?農業のこと』のところで書いた通りだ。この本に巡り会えたことは自分にとっては僥倖だ。「必読」というと読むことが義務であるかのような印象を受けるかもしれないが、読み終わって心底ありがたいと思った。読んで必ず喜びを感じるであろう、という意味では確かに「必読」の書かもしれない。何がどう「ありがたい」のかということを語る言葉が見つからない。尤も、ありがたいと思う気持ちというのはそういうものだ。

 

8 田中克彦 『「スターリン言語学」精読』 岩波現代文庫

『打ちのめされるようなすごい本』の一冊。 常々思うのだが、「多民族国家」というものが成り立つことへの素朴な疑問がある。日本にもアイヌのような人たちがいるが、正直なところ「多民族」という感覚はない。今の時代に日本人として生まれ暮らせば、「国民」というのは「国語」を話す単一民族によって構成されるのが当たり前、という感覚が染み付いてしまうのではないだろうか。私はそうである。以前、ウィーンを訪れたとき、ホテルで宿泊手続きの順番を待っていたら、フロントの人が客に応じてフランス語やイタリア語や英語を話すのを目の当たりにして大変驚いた。もちろん、世界的に有名な都市のホテルで客を相手にする職種に就いている人なのだから、そんなことは当然なのかもしれない。ウィーンでも市井の人々の多くはドイツ語しか話さないのかもしれないし、せいぜいそれに英語やフランス語が加わるくらいで、4つも5つも言葉を解するというのは少数派であろう。しかし、私が泊まるような路地裏のそれほど大きくもないホテルのフロントが様々な国からやってきた客と当たり前のように応対し、そのことがその場に馴染んで自然な雰囲気であることは、帝国ホテルやオークラでも見られない現象ではないか。つまり、単一民族の国家として何百年も歴史を重ねてきた国と、国境を変化させながら歩んできた国とでは、そこに暮らす人々の自意識や世界観が全くといってもいいほどに違うのではないだろうか。世界観が全く違って相容れないような相手と、果たして我々はちゃんと付き合っていけるものなのだろうか。

以下、この本の備忘録。

ラテン語がそうであるように、知的な言語は一つでなければならない。それは、多様性を前提とする文化ではなく、人類の進歩の目標の普遍性を表す文明に結びついているものだからである。進んだ文明とおくれた文明があるように、進んだ文明を担う言語だけが用いられ、他は消え去るのが当然のことである。いな、人はむしろ進んでそれを消し去らねばならない。これは方言駆除の心理を思いあわせるならば、ただちに理解できるであろう。(11頁)

近代をめざすヨーロッパ世界では、国家を単位に、自らの言語(母語)が正しく、できのいいものだということを正当づけるための手続きが着々とすすめられていた。こうした手続きの必要性は、それまで知的世界を支配していた非母語、すなわち、根本から徹底的に勉強しなければ全く理解のできない言語(外国語、古典語)であるラテン語に死を宣言するとともに、母語がいかに有能であるかを立証しなければならかった。(中略)言語の近代化はこのようにして出発したのであるから、近代の知的心性の奥ふかいところには、すぐれて規範的で立派なものは、自分のところにはないという深刻な自覚を残すことになった。これがあらゆる、ことばを使う学問の底に横たわるどれい根性であり、そのために、知的活動は言語的教条主義ぬきでは行われにくくなったのである。(12-13頁)

今日、中国で公認されている、漢民族以外の五五の少数民族(中国では、この「少数」というのは、「数が少ない」という意味ではない。たとい、数百万の人口が数えられ、他の場所であれば充分一国家を成す勢力であったとしても、漢民族以外は少数民族と呼ばれる)は、だいたい、このスターリンの「民族」定義によって行われたのである。この定義は素朴なスタイルで書かれているだけに、いっそう、「民族」の認定現場では、大衆的に使い勝手がよかった。ペダンチックな定義は、実務の現場では役に立たないのである。(48-49頁)

このような政治用語は、たいていフランス革命の申し子であるフランス語から来ていることが多いので、さらにフランス語をたどってみるのが近代語しらべのきまった手順だからそのようにしてみると、フランス語にはオートデテルミナシオン(autodetermination)という、これまた、長ったらしくて、いかにも作ったようなことばがある。それで、これを『プティ・ロベール』でしらべてみると、この語の初出は1907年で、生物用語だったというが、どのように用いられたかは示していないし、日本の仏和辞典にも、これを生物学の用語として説明したものはない。さて、これは意外なことなのだが、『プティ・ロベール』をさらに見ると、今日私たちが、「民族自決」というふうに使った「自決」が、フランス語ではじめて用いられたのが1955年だという。この語がどういう状況のもとで用いられるようになったかといえば、ちょうどこの頃フランスで高まってきた地域運動や少数民族の権利の主張が、この語の需要を引き起こしたのであろうと推定できる。(76-77頁)

ことばは、その基本構造は混じりあわないというのが、正統言語学の前提である。そのようにしておかないと、比較言語学は成り立たない。(176頁)

 

9 山下惣一(編著) 『安ければ、それでいいのか!?』 コモンズ

『打ちのめされるようなすごい本』の一冊。初版の発行が2001年11月だが、果たして現況はこの本か書かれた時よりも酷くなっているのか、マシになっているのか。自分で買い物をして料理をしてみれば多少のことはわかると思うが、「ん?」と思うことが日常のなかにはいくらもある。野菜や果物を買ってくれば、鮮度が落ちていく様子がはっきりとわかる。それなのに、コンビニやスーパーの惣菜はそういう現象がよくわからない。2013年に再婚してからは勿論のこと、2007年に一人暮らしを始めてから、コンビニやスーパーの弁当類は口にしなくなった。前の結婚のときには同居人が家事一切全くできない人だったので、近所のファミレスが食卓代わりのようなもので、コンビニやスーパーの弁当や惣菜も頻繁に食べていたので、この本に書かれているようなことはいちいち「ま、そうだろうな」と妙に納得できるのである。

本書の最後に「何を買うか買わないか、何を食べるか食べないかは、どういう社会を支持するかしないかの、信任の投票行為なのである。」(218頁)とあるが、買う食べるに限らずあらゆる行為は行為者の価値判断に拠るのだから、今生きている社会そのものが自分の世界観の反映でもある。なによりもまず、自分がどうしたいのかということをはっきりとさせれば、生活はそこそこに快適になると思う。別に無理にコンビニやファーストフードを利用しなくてもよいのだし、主義主張を持ってものを作っている人はいくらもいるのだから。

 

10 山下惣一 『この大いなる残飯よ!』 家の光協会

ブックオフ送料対策品。この本が書かれたのは1991年。まだバブルの余韻が冷めやらぬ頃、いや、まだバブルに酔っていた人もたくさんいた時代だろう。ゴミから社会を見ると、共同体的世界が崩壊していく様がよくわかるような気がする。

 

11 山下惣一 『農家の父より息子へ』 家の光協会

ブックオフ送料対策品。この本の発行は1988年。今から振り返れば、昭和という時代の掉尾の一振のようなバブルの真っ盛りだ。この国からいよいよ農業という産業が消滅するのではないかという勢いがあった一方で、目先が利くと自分で思っていた人たちのなかに就農する比較的若い人たちも現れた。「人の行く 裏に道あり 花の山」という相場の格言を彷彿とさせる現象だ。そしてこの本から18年、ここに紹介されていた人たちは今どうしているのだろう?

 

12 小泉今日子 『黄色いマンション 黒い猫』 スイッチ・パブリッシング

今月は山下月間のようになってしまっていたが、たまたま「ほぼ日」で紹介されていたこの本を読んでみようと思った。自分とほぼ同世代で自分とは全く違う世界を生きている人が何をどう見ているのか素朴に興味がある。アイドルという存在そのものが消費の対象のような職業でありながら、消費されることなく仕事を続けているというのは只者でなないだろう。この人が書いたものを読むのは初めてだが、なるほど只者ではないと思った。出版物としてのプロトコルを経て世に出ているものなので、当然に編集はされているだろうが、本人でなければ書けない文章だ。なんでもない日常が綴られているが、なんでもないからこそなんでもある。自分の世界をしっかり生きている、そういう確たるものが感じられて読んでいて嬉しかった。

 

13 山下惣一 『食べものはみんな生きていた』 講談社

編著も含めて今年6冊目の山下本。これも『打ちのめされるようなすごい本』の一冊なのだが、6冊目ともなるとさすがに「打ちのめされる」ということはない。この本に限っての特段のコメントはないが、本書の最後の言葉はよくよく心に留めておくべきだと思う。曰く、「そこで、自分をまもる方法を、じいちゃんがこっそり伝えておこう。それは信じないことだ。人のいうことを鵜呑みにしないこと。すべてのことにたいして、「そうかなあ」と反応しよう。つぎに「ほんとうかなあ」と首をひねって、自分の頭で考えよう。そして、納得できることだけを自分のものとし、それを判断の指針として生きていく。人が人として自立して生きるとは、そういうことだ。」(259頁)


まくらはまくら

2016年04月03日 | Weblog

今日聴いた落語会でも、冒頭に出演者全員によるおしゃべりがあった。落語会のなかで出演者たちの雑談のようなコーナーが入るのは珍しいことではない。会の最初にそういうコーナーが入ると、それぞれの噺ではまくらが短くなる傾向があるように感じていたが、今日はそれぞれの噺にもそれぞれにしっかりとまくらが付いた。まくらの位置付けは同じ噺家においてすら一様ではないのだが、まくらも噺も面白い噺家というのはそれほど多くない気がする。たいがいはまくらのほうが面白くて、噺に入ると「ん?」と思う。まくらもいまひとつとなると、「あなた、よくそれで高座に上がれますね」ということになる。堂々と恥をかくことができるのも芸のうち、と言われれば、そうかもしれない。

自分の人生が最終局面を迎えている所為もあるのだろうが、このところ連続性ということが妙に気になっている。自分自身はそう遠くない将来に生命活動を終わる。当事者としてはいろいろあった人生だとは思うのだが、傍目にはゴミとかホコリのような、あるいはそれ以下のようなものでしかない。つまり在ることと無いことの境目は実にあやふやなのである。最近、異常と正常とか、「自分」の領域だとか、本来境目のないものに領域を設ける概念について書かれた本を続けて読んだことも、連続性を考えさせる契機になっていると思う。

それで、噺のまくらだが、たぶん、それに続く噺と一体のものだと思う。かといって、あからさまに噺の伏線というのも野暮だ。なかなか感心するような連続性というものに出会えない。それでも、今日は新作の会だったので、全体としてはまとまりのよい会だったと思う。

本日の演目

三遊亭白鳥・柳家喬太郎・林家彦いち おしゃべり
 白鳥:イイノホールでの喬太郎との二人会で出た弁当
    丸ノ内線で霞ヶ関から池袋まで移動 膝に弁当 刺激臭
    隣の席の人の怪訝な視線 やがて彼は立って別の車両へ
    自分も臭いが気になって網棚に置く
    銀座から乗ってきた乗客たちが臭いのことを騒ぎ出す 自分はしらんぷり
    その臭いが気になって家で開けてみると、ナムルとキムチと糠漬けが混じっていた
    でも、美味しかった
 喬太郎:タクシーで、運転手は紳士的 運転手の携帯に電話 思わせぶりの会話
 彦いち:大阪でタクシー 梅田ドラマシティへ
     運転手はミラー越しにこちらをチラチラみる
     彼の手元にはドラマシティの公演と出演者の一覧
     楽屋口に着いて降りるとき「お客さん、アイーダ出ます?」
 喬太郎:去年の今頃 都電に乗ったとき、面影橋付近に桜の綺麗な場所
     一分間ほど停車して、すっと発車
     かっこいい 

三遊亭粋歌「すぶや」

三遊亭白鳥「結婚妄想曲」
 まくら:高校の同窓会 高田にて
     結婚していないやつが多い 嫁来ない一号、二号、三号、、、
     ナンバーワン美少女だったクミコちゃんが出席
     東京に出て帰ってきた 東京で「人に言えない仕事」 

柳家喬太郎「落語の大学」
 まくら:渋谷にはあまり来ない かつてカルチャーセンターの講師、ジャンジャン
     学生時代は渋谷で遊ぶ 旭屋書店→大盛堂→三省堂
     東横線 渋谷が終点でないといけない つながるとよくない
     東横線といえば、高島町のような駅を大事にしないといけない
     東上線なら北池袋、小田急線なら南新宿
     学生の頃、実践女子の落研にナンパに行く 雰囲気をつかむため口演を聴く
     高校部の落研の子が「子別れ」をやっているのを聴いて、衝撃のあまりそのまま帰る 

林家彦いち「神々の唄」
 まくら:昨日 昇太・喬太郎と三人会
     白鳥うそつき 高田でのこと 家遠い 実はすぐそこ
     自分の嘘懺悔 名古屋で乗変2回目 外人のふり  

開演 14:00  終演 16:10

会場:渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール