熊本熊的日常

日常生活についての雑記

西高東低

2011年07月31日 | Weblog
冬型の気圧配置について語ろうというのではない。落語会の観客の平均年齢がこんな感じなのである。勿論、出演者によっても客層は多少変動するが、2009年1月から今月までに訪れた落語会36回の印象である。驚いたのは三鷹の武蔵野市民文化会館だったが、あみゅー立川もなかなかのものである。何に「驚いた」のか、何が「なかなか」なのかは敢えて書かないが、とにかくびっくりした。今日は千葉市生涯学習センターのホールで、喬太郎がトリを取る落語会だった。そこにあたりまえの風景があり、ほっとした。

東京から千葉行きの総武線快速に乗る。車内の風景に特段変わったところはないのだが、電車が終点の千葉に着くと、車内の客が降りる前にホームから人が流れ込んでくる。降りる客が先、という極めて基本的な文明が欠如している。その風景だけで、千葉に来たな、と実感する。私が生まれ育った埼玉も似たような状況なので、偉そうなことは言えない。ただ、三鷹や立川では、こういう未開の地のような風景にはお目にかからない。土地の格のようなものの違いが、日常風景のなかに滲み出ていると言えよう。

千葉駅から千葉市生涯学習センターまでは住宅街のなかを通り抜ける一本道を行く。駅からは緩やかな上り坂になっている。坂の向こうに生涯学習センターの建物が見えたあたりで、店先に花輪が飾られた、開店したばかりらしいカフェがあった。一旦は通り過ぎたのだが、時間に余裕があったので引き返して入ってみた。オーガニック・カフェで、インテリアもメニューもいかにもそれらしい。店内中央にクスノキの一枚板の大きなテーブルがある。それを囲む椅子はバラバラのデザインだ。椅子のほうは中古品のようだが、テーブルの一枚板は加工されて間もない。電動鉋はかけてあるが、ヤスリがけなどは施されておらず、ライフマークが残っている。オイルを塗ってあるようだが、木の香りが勝っていて、落ち着いた佇まいを演出している。店の人に尋ねたところ、客どうしが家族のように、この大きなテーブルを囲むような店にしたいとのことだった。クスノキの大きな一枚板というのは容易に手に入れることができず、あきらめかけていたところに声をかけておいた業者から入手できたとの連絡が入ったのだそうだ。正直なところ、私はオーガニックということに違和感を覚える。しかし、若い人たちが一生懸命考えて、それをこういう形で世に問うというのは健全なことだと思う。雑穀コーヒーとトマトのタルトをいただいたが、そういう味だった。敢えて「そういう」の内容は触れないが、要するに、世に問いかけるようなものである。食べた人は、それぞれに環境とか生活について考えを巡らすことになるだろう。良い店だと思った。

落語会は、前座が出てきたときに驚いた。子供が喋るのかと思ったのである。家禄は9歳のときから高座に上がっていたというから、そういうことがあっても不思議ではないのだが、初めての風景だったので少し動転した。噺が始まり、簡単な自己紹介の後でも、それが若い女性であることを認識できたのは、しばらく経ってからだった。見た目は男子高校生でも、噺っぷりはなかなか堂に入っていて、これからが楽しみな噺家だと思った。

今日の噺は、どれも知っているものだった。そうなると、どうしても自分のなかで一番好きな口演と比較してしまう。それはそれで、落語会に出かけていく楽しみでもあるのだが、素直に目の前の口演を聴いたほうが、楽しくてよい。素直に聴くことができないのは、それだけ私の人間としての器が小さい所為も多分にあると思っている。

ところで、「青菜」に登場する植木職人と屋敷の主とのやりとりに考えさせられることがあった。古典落語が成立した江戸末期から明治にかけては、職人は己の腕に誇りを持っていたし、おそらく誇るに足る腕だったのだろう。職人を使う立場の人は、そういう職人を人として愛したのではないだろうか。単に手間賃を払って、それに見合う労働を提供してもらうだけ、というような乾燥した関係ではなかったように思う。今は金を払うほうが偉くて、金を受け取るほうは払うほうの言いなりになるのが当然、というような歪んだ関係を当然のこととする考え方が横行しているように思われてならない。一方で、伝統工芸と呼ばれる世界では、職人なんだか作家なんだか意識の軸が定まっていないような人も少なくないような印象を受けることがある。こちらは逆に「職人の技」というようなものが神聖にして侵すべからず、というようなことになっていて、たいしたこともないのに妙に威張っているような仕事が見受けられることもある。人と人との関係というのは、家族とか友人というようなものであろうと、社会生活上の契約にかかわるものであろうと、基本は対等であるはずだ。また、そうでなければ円満に事は運ばないものだ。それが畜生のように上下関係をつけたがる輩が多いように思われるのである。いったいいつ頃からそういうことになってしまったのだろうか。そう思うのは私だけなのだろうか。

本日の演目
「手紙無筆」 立川こはる
「青菜」 春風亭一之輔
「宿屋の富」 桃月庵白酒
(中入り)
漫才 ロケット団
「へっつい幽霊」 柳家喬太郎

開演 15:05
閉演 17:30
会場 千葉市生涯学習センター ホール

民藝夏期学校 豊田会場 最終日

2011年07月24日 | Weblog
民芸夏期学校の最終日は豊田市民芸館で見学とパネルディスカッションだった。パネラーの人選が上手いと思った。
濱田琢司(南山大学人文学部日本文化学科 准教授)
竹田耕三(絞り工芸家)
水野雄介(瀬戸本業窯 八代目・水野半次郎後継)
白土慎太郎 (日本民藝館 学芸員)
竹田氏以外は1970年代の生まれだ。民芸を語るとなると、民芸に負けず劣らず化石的な人が登場して、伝承途絶の危機とか素朴なノスタルジーを話題にすることが多く、聴衆のほうにもそうしたことを聞くつもりで来る人が多いように感じられる。発想が目の前の生活から離れているということ自体、民芸的ではないということに気づいているのかいないのか知らないが、そうした話には違和感を禁じ得ない。その点、今回のパネルディスカッションでは、民芸がブランド化してしまった現状への疑問や、民芸に対する作り手の側の受け止めかたといった、たいへん興味深い話を聴くことができた。「興味」の具体的な内容はここには書かないが、「やっぱりそうだよな」と納得できるものだった。

豊田に来るときは豊橋から名鉄で来たが、帰りは名古屋へ出て、徳川美術館に立ち寄ってから東京へ向かった。名古屋にはこれまでに何度も訪れているのだが、徳川美術館を訪れるのは今回が初めてだ。以前から是非訪れてみたいと思っていたので、時間の都合でわずかに1時間しか滞在できなかったが、どのような場所なのかがわかって満足できた。たまたま「やきものの色とかたち」という企画展の最終日で、美術館所蔵の茶道具をまとまったかたちで観ることができたのもよかった。

民藝夏期学校 豊田会場 2日目

2011年07月23日 | Weblog
今日は終日、民芸関連施設を見学して回る。訪問先は以下の通りだ。

久野染工場
有松・鳴海絞会館
瀬戸蔵ミュージアム
(「窯垣の小径」経由)
瀬戸本業窯
小原和紙のふるさと

小原の後、足助の香嵐渓というところにある旅館で鮎料理の夕食を頂いた。

染工場は、5月に見学した都内の注染工場とは様子がだいぶ違う。工場の施設を作家など外部の人たちにも使用料を取って開放しているのだそうだ。多様な使われ方をするということで、誰にでも使いやすいような状態になっているのだろう。工場と同じ敷地内にショールームや販売施設もあり、生産施設でありながら観光施設のような色彩も帯びている。

有松・鳴海絞会館は景観保存地区に立地する観光施設だ。館内では絞作業の実演を見学できるが、作業をしていた90歳だというご婦人は、実演では同じ作業だけしかさせてもらえないと語っていた。こうした伝統工芸には後継者難という話題が付きものだが、「至れり尽くせり」で養成した結果、そのご婦人は3人の後継者を育成できたのだそうだ。やはり意図して育成しないと後継は育たないということなのである。ふと、鴇を思い出した。

陶磁器のことを「瀬戸物」と呼ぶことがある。どちらかといえば、「瀬戸物」は陶器のイメージだが、瀬戸は陶磁器産業の町である。その産業としての陶磁器生産という視点で、陶磁器やその生産工程をわかりやすくまとめて展示しているのが瀬戸蔵ミュージアムだ。陶磁器関連の展示施設というと陶磁製品だけが並んでいるところが少なくないのだが、昔の窯場の様子を再現してあったり、出荷拠点であった鉄道の駅の様子を展示で表現したり、陶磁器生産の現場の雰囲気までも含めて来館者に伝えようとする意欲的な博物館である。

瀬戸が焼き物の産地として発展したのは、原料である土と、焼成燃料となる木材(アカマツ)に恵まれたからだ。日本には各地に「ナントカ焼き」という陶磁器があるが、その殆どの特徴は原料の土の性質に由来している。瀬戸近辺には、多治見や常滑といった焼き物の産地もあるが、少なくとも、今日、瀬戸で話を伺った人たちの意識には、瀬戸は瀬戸、という自負心のようなものがあるようだ。

ちなみに、陶磁器と言えば食器類を想像することが多いのではないかと思うのだが、電子部品や自動車部品といった経済全体の競争力を左右するようなものに陶磁器あるいはその生産加工技術が用いられている。目で見てわかるものでは、コンデンサ、ICチップのパッケージ、スパークプラグなどがすぐに思いつく。愛知県は世界最大の陶業企業集団である森村グループの本拠地で、その系列の上場企業には以下のようなものがある。

ノリタケ (株式コード(RIC Code):5331.T 本社:愛知県名古屋市)
TOTO (株式コード(RIC Code):5332.T 本社:福岡県北九州市)
日本碍子 (株式コード(RIC Code):5333.T 本社:愛知県名古屋市)
日本特殊陶業 (株式コード(RIC Code):5334.T 本社:愛知県名古屋市)
共立マテリアル (株式コード(RIC Code):1702.NG 本社:愛知県名古屋市)

このほか、INAX(本社:愛知県常滑市)も2001年にトステムと経営統合をするまでは森村傘下だった。

日常生活の道具として使っている茶碗類と、そうしたものとは無縁のようにも見えるハイテク製品の基幹部品とが、歴史を辿ればひとつにつながるというのは面白いことだ。

和紙は日本の至るところで作られていた。原料の楮、三椏、トロロアオイなどが日本中の至るところで生育可能だからだ。これらは、農閑期である冬場を利用して加工するのに都合が良い(トロロアオイの粘液は気温が高い時期にはすぐに腐敗してしまう)ということもあり、本業の収穫を終えた農家の収入源として和紙が作られていた。近頃は伝統工芸として和紙の生産を行っているところもあるようだが、本来、和紙は本業となる農業があって成り立つ副業なので、和紙の生産を主としてしまうとコスト面で厳しい状況にならざるを得ない。それでも和紙を作ろうというのなら、その価格に見合った需要を創造しなければならないということになる。和紙に限ったことではないが、手仕事ほど割高につくものはない。割高な仕事によって作られるものを流通させようとすれば、需要も作り出さなければならないのである。和紙の産地に、需要を作ることまで求めるのは酷というものだ。民芸や工芸は、作り手の生活やその地域だけによって支えられるのではなく、もっと広範に社会や経済とつながっているのである。原材料や技術といった個別要素だけに注目している限り、民芸や工芸の衰退を止めることはできない。

民藝夏期学校 豊田会場 初日

2011年07月22日 | Weblog
日本民藝夏期学校というものに初めて参加した。今回の会場は愛知県豊田市である。この土地に足を踏み入れるのも初めてだ。豊橋まで新幹線を利用し、豊橋からは名鉄で約1時間のところにある。受付が12時半、開校は13時なのだが、11時過ぎに着いたので、まずは腹ごしらえをしようと思い、駅前をふらふらと歩いてみた。

生まれてからこのかた、殆どの期間を東京とその周辺で過ごしてきたので、たまに地方都市を訪れると人影の少なさにいつも驚く。ここも例外ではない。名鉄豊田市駅と愛知環状鉄道新豊田駅の間は繁華街になっているようだが、今日歩いたのは豊田市駅の東側、民藝学校初日の会場である能楽堂の周辺である。人通りは疎らなのだが、自分が予約した宿の近くになんとなく気になるビストロを発見した。11時半の開店で、まだ店は開いてないのだが、ガラス越しに見える人の動きに活気を感じたのである。店の周りを一回りして回転時間に改めて訪れると既に何組かの客が席に着いていた。ランチでも予約が望ましいらしく、私の後に予約なしで来た客は断られていた。

料理は「おすすめ」の「こだわりハンバーグ」を注文。「おすすめ」や「こだわり」には落胆させられることが多いのだが、ここは見事に期待に応えてくれた。詳細は書かないが、まず盛り付けに驚く。一見すると、どうやって食べたらよいのか戸惑うのだが、決して食べにくくはない。ハンバーグも添え物も手の込んだ仕事で、たいへん感心した。味も仕事に見合うものだった。なるほど、これなら予約が必要なのはもっともなことだと納得する。

店の名前はBistro Moco。厨房はオープンで、料理担当とそのアシスタントの2名で調理をこなし、フロア担当は1名。テーブルは4人がけ換算で6席程度だろうか。大きな店ではなく、ビストロにふさわしい気軽さと落ち着きがある。先日、鎌倉を訪れたときに見つけたLa Luceというイタリア料理屋も大当たりだったし、日本橋の鰤門もおいしかった。このところ、ふらりと入った店で思いがけずに美味しい料理に出会うということが続いていて、たいへん気分が良い。

この日の夜は、民藝学校の懇親会が開かれた。名鉄トヨタホテルの宴会場での会食だったが、こちらも予想を超える内容だった。民藝にちなみ、愛知県産の食材を使った料理によるコースである。座席の割り振りにも、参加者どうしが打ち解けやすい工夫が感じられ、期せずして楽しい時間を過ごすことができた。

のわけのまたのひ

2011年07月21日 | Weblog
たいふうろくごうがとおりすぎ、すずしくなった。きょねんは、なながつまでは、ふつうのなつだったが、はちがつになって、もうしょがつづくことになった。ことしはどうなるのかわからないが、なつは、あつくてあたりまえ。あつすぎてもいけないが、きょうのような、すずしいひがつづいたら、のうさくもつのせいちょうにふつごうがしょうじてしまう。そうなれば、あきには、こめがないとか、なにがないかにがないとかいって、おおさわぎになるだろう。

あついひもあれば、さむいひもある。あめがふるひもあれば、かんかんでりのひもある。たまには、じしんもおこる。それが、このせかいの、あたりまえのすがただ。あたりまえがいやだからといって、せいかつのばしょをかこってしまい、そのなかのくうきをひやしたり、あたためたりする、というのは、かなりだいたんなはっそうだとおもう。くうちょうにかぎらず、われわれのせいかつは、そうした「あたりまえ」をひっくりかえすことばかりではないだろうか。「あたりまえ」をひっくりかえすのだから、それそうおうのちからしごとがひつようになる。たとえば、ぼうだいなでんりょくがひつようになる。そのでんきをえるために、やまおくに、きょだいなだむをつくったり、せきゆをこれでもかというほどもやしたり、げんしりょくなどというぶっそうなものをもちだしたりしなければならなくなる。

さんざん、べんりなおもいをしてきて、いまさら、べんりをすてることなどできもしない。むしろ、べんりをとことんついきゅうして、べんりにほろびるのが、いちばんらくなことのようなきがする。

苦い味

2011年07月20日 | Weblog
水曜日は木工の帰りにハニービーンズに立ち寄ってコーヒー豆を調達する。たまたま2週続けてCOE入賞農園の豆を手に入れた。ひとつはブラジルのFazenda Santa Barbaraでもうひとつがボリビアのものだ。ボリビアのほうは酸味が効いていて、おいしいとは思うのだが、自分の好みではないと感じていた。それが、今日はいつもより少し丁寧に淹れてみたところ、酸味、香味、ボディのこれまでには感じなかったような絶妙なバランスの良さを感じ、なるほどCOEの豆だなと感心した。やはり手を抜くというのは、物事のあるべき姿を実現するのに支障をきたすもとになることのようだ。コーヒーを淹れるということだけのことではあるまい。実直であれ、と言われているような心持ちになり、少し反省しながらコーヒーを味わった。

やまとことば

2011年07月19日 | Weblog
3月の連休に国立民族学博物館を訪れて以来、梅棹忠夫という人のことが気になって仕方がない。たまたま「考える人」の最新号が氏の特集で、それを買いに立ち寄った書店で、文藝別冊の「梅棹忠夫」をみつけて、それも買って読んだ。氏の著作は書かれてから何十年も経ているのだが、今読んでも全く色あせたところがない。以前にも書いた通り、私にとって初めての梅棹体験は、高校生の頃に読んだ「知的生産の技術」なのだが、若い頃には少しいかがなものかと感じられたことが、今はそうかもしれないと思うところもある。そうしたもののひとつが日本語をローマ字で表記するというものだ。今回購入した雑誌のなかの写真にローマ字で書かれたものの写真があり、それを読んでみたのだが、やはり読みにくい。しかし、近頃は自分が書くものも他人が書いたものも9割方がパソコンで書いたものだろう。そうなると頼みもしないのに漢字かな混じりの文章ができあがる。漢字というのはややこしいものが多く、読めるのに書けない、とか、そもそも読めない、というものに出会うことが当たり前になっている。果たして、自分で書くことのできない文字で表現されたものは、自分が書いたものということになるのだろうか。と、思った。漢字というのは表意文字なので、読んだり書いたりできなくても、その姿を見ればなんとなく意味するところが想像できるものもある。日常生活のなかの意思表示を全て説明可能なものにしなければならないとなると、何もできなくなってしまいそうだが、それほど何の考えもなしにしていることが多いということでもある。そこで、少し反省した。ローマ字というわけにはいかないが、かな表記で文章を書くということをたまにやってみようと思うのである。それで自分のなにかが変わるものなのか、何も起こらないのか、少し楽しみだ。

やまとなでしこ

2011年07月18日 | Weblog
ナデシコは「撫でし子」に通じることから子供や女性に例えられるのだそうだ。それにしても日本の女子サッカーチームは強かった。テレビがないのでネットのニュースでしか試合結果を知ることができなかったが、報道に込められた興奮が伝わってくるようだった。気のせいかもしれないが、大舞台で活躍する日本人は男性よりも女性のほうが多いような印象がある。

女子サッカーといえば、かつての勤め先には女子サッカーチームがあった。どこか意気の上がらないところのある組織に活を入れるべく、短期間で結果が出そうな種目を選んで参入したと聞いている。ちょうどバブル期でもあり、財務的に余裕があったということもあるだろう。果たして目論見通り、その女子サッカーチームは強いチームとなった。しかし、バブル崩壊後、経営が苦しくなるなかでチームの維持が難しくなり、リーグ連覇中という状況下でチーム解散のやむなきに至った。選手や関係者にとっては悔しいことであったに違いないが、会社そのものが実質的には外資に身売りすることになったのだから、どうしょうもなかったのである。

あれから10年以上が経ち、女子サッカーのほうは世界の頂点を極めた。この間、リーグそのものが存亡の危機に立たされたが、なにはともあれ今がある。どんなことにもあてはまるわけではないだろうが、続けることの力というものを感じないわけにはいかない。困難があればこそ、それを克服するためにあれこれ知恵を働かせ、それが経験となって次に活きるのだろうし、克服したということが自信にもつながり、果敢に一歩踏み出すことにもなるのだろう。とにかく正道を歩み続ける、諦めない、安易な道に走らない、そういうことが人生を豊かにするのだろう。

休日の昼食

2011年07月16日 | Weblog
子供と東京国立近代美術館で開催中のパウル・クレー展を観た後、食事をしに日本橋へ出た。たまにデパートの食堂というのも面白いかと思い、三越に入った。午後1時をまわった頃だったのだが、新館のほうの食堂は10階の「筑紫楼」も「代官山ASO」も満席。子供は好き嫌いがあって和食だと厳しいので「なだ万」は席があるようだったがパス。9階の「満点星」は、店先で1組の順番待ちがあったのと、先月会ったときの食事が洋食屋だったこともあり、やはりパス。5階の「ランドマーク」には長蛇の列。本館へ渡り、7階の「日本橋」へ行くが、ここも20分待ちとのこと。世間では景気が悪いと喧伝されているようだが、少なくともここの食堂はどこも繁盛しているようだ。仕方がないので三越を出て通りを渡り、コレド室町に入ってみる。このビルを訪れるのは今日が3回目。前の2回はいずれも落語会で、最初は杮落とし公演の「志の輔らくご」、次が昇太の独演会で、飲食での利用は今回が初めてだ。まず4階まで上がり、ぐるっと見回したら、子供が寿司が食べたいというので、「鰤門」に入る。カウンター席に余裕があったが、私たちが入って程なくして、この店も満席になった。間一髪で昼食難民状態を回避することができた。

私は料理については門外漢なので、食事の中身については語ることができない。あくまで、自分の言葉で語ることのできることだけ、ひとつふたつ書きたいと思う。まず、店に入ったときの印象が良い。このビルの開業が昨年11月なので、店そのものが新しいという所為が多分にあるだろうが、白木の引き戸、白木のカウンター、というのが気持ち良い。木は檜だろう。香りが良い。そのカウンターの席に案内された。頭を丸めた板さんが3人、カウンターのなかにいる。着衣も手先も清潔感がある。人の口に入るものを商売として扱うのだから、それが当たり前だとは思うのだが、当たり前が当たり前な状態でそこにあることを目の当たりにすると、やはり気分が良いものだ。はじめての店なので、「おまかせ」をお願いする。嫌いなネタについて尋ねられるが、子供のほうがいろいろあって、親としては恐縮してしまう。幸い、今の旬ネタにかかわるようなものはなく、少しほっとする。

寿司屋に限らず、私は飲食店のカウンター席が好きだ。調理人の動きは美しい。動作もさることながら、材料に対する慈しみのようなものを感じて、感心することがある。寿司などはその最たるものだろう。材料を大切に扱うということは客を大切に思うということでもある。器も良かった。カウンターは白木なので、寿司を盛るのにどうするのだろうと見ていたら、子供と私のほうとで色違いの陶器の角皿を出してきた。「皿」というよりも陶板という風だ。席に置かれている銅製の醤油注も、一見すると何の変哲もないように見えるのだが、注ぎ口が細長く、作る側からすれば難易度の高いものだ。そういう細かいところにまでこだわりが感じられると、寿司が出てくる前から嬉しくなってしまう。勿論、そういうふうに気がついたところは、子供に説明する。子供のほうも面白がって聞いているようだが、以前に話をした内容だったりすると「それは前に聞いた」と遠慮会釈なく駄目出しを食らうので、そういうことも楽しかったりする。

結局、午後1時25分頃に店に入り、デザートを頂いて一服して、勘定を払ったのが午後3時頃だった。店の人は「お待たせして申し訳ありません」と頭を下げていたが、休日の昼食はこれくらいゆっくりと楽しむものだろう。満席だった所為で本当に作るのが遅くなったということもあるかもしれないが、私たち親子を担当していた板さんが、私たちの会話の調子に合わせて握ってくれた結果として、この時間になったということもあるのかもしれない。家庭での手料理にしても、飲食店での食事にしても、作り手と食べる側との息が合うと幸せな気分に浸るものだ。特に、子供と食事を共にするのは月に一度のことなので、そういう時間を大切にしたいと思っている。今日も良い店に巡り合えてよかった。

素敵な休日

2011年07月14日 | Weblog
休暇を取って飲み会に出かける。留学時代の仲間の寄り合いだ。今は企業派遣の留学生というもの自体の存在が稀少になってしまったが、当時はどこの企業にも留学制度というものがあった。企業派遣の場合は、MBAの取得ということが成果の目安とされることが多い印象があるが、私の派遣元の人事担当者は「とにかく行ってこい」とのことだった。それでも一応はMBA課程を修了して勤務先に戻るのだが、そんな調子だったので意識としては留学というより物見遊山に近かったのではないかと思う。勿論、授業やグループワークをこなすだけでも大変なことだったので、それなりのことはせざるを得なかった。しかし、大事なのは意識だろう。得がたい経験は数え上げればきりがないほどだが、それがどれほど自分のその後の生活に生きているかというと、心もとないのも現実だ。ただ、こうして留学当時の仲間と再会して何気ない会話に興じるなかで得ることは途方もなく大きい。喋っている内容とか、人物といった個別具体的なことではない。会話の端々から覗く、人の生活や価値観の断片が興味深いのである。

「馬には乗ってみよ 人には添うてみよ」とか「人には添うてみよ 馬には乗ってみよ」というのだが、そこまでしなくとも、人の話を聴くだけで、そこに物事を考えるヒントがいくらでもちりばめられているのである。そういうことに気がつくようになったのは、やはり、それ相応に齢を重ねてからのことだ。それまで気付かなかったことに気付くようになったとき、歳を取るのは楽しいことだと思えるようになるものだ。

素敵

2011年07月13日 | Weblog
明日、これまでにちょこちょこと重ねた休日出勤の代休を取る。仕事の引継ぎ関係のメールを回していたら、返信のなかに「明日は山ごもりですか?」と尋ねてくるものがあったので、「単純に飲み会です。」と返したら、「そういうの素敵だと思います。」と来た。「なんだよ、飲み会で休暇取るのかよ」と思われても仕方ないと思うのだが、「素敵」と言われると反応に困ってしまう。

水晶の推奨

2011年07月12日 | Weblog
このところ、陶芸の帰りにFINDに寄って昼食をいただくということが続いている。今週は2階のギャラリーで水晶の原石を販売している。水晶といえば時計などに使う発信器を思い浮かべるのだが、こうして原石を目の当たりにすると、地球の造形力を感じないわけにはいかない。説明してくれたオニイサンも熱心で、好感を覚えたので、鉱物標本として並んでいたものを一つ買い求めた。偶然なのだが、3月に買い求めたErik Hoglundのマルチトレーにぴったり収まった。ビミョウなものどうしの組み合わせだが、たまにはよしとする。

ドブの流れのように

2011年07月11日 | Weblog
梅雨明け宣言の出た土曜日から体調が良くなかった。外気の熱が体内に吸収されて、そのまま排出されない、というような感じなのである。腹ふくるる心地、というのが「徒然草」にも出てくるが、熱で身体が膨張するような気分だった。それが漸く解消された。きっかけはカイロプラクティックだ。1週間おきに施術を受けているのだが、今月に限っては日の巡りの関係で先週に続いて今日も受けることになった。ちょうど体調が不調のときというのも好都合だが、それで不調が解消されるのは尚好都合だ。詰まっていたドブが流れ出すように、身体のなかの何物かが滞っていた動きを再開したかのように感じられた。不思議なもので、そうなると外気の暑さに少し馴染んだような心持になる。吸って吐いて巡る、吸収して循環して排出する、という外部との適切な交渉に支えられた円環的運動というものが、身体に限らず、物事の健康の基本であるように思われた。

EL ANATSUI

2011年07月10日 | Weblog
埼玉県立近代美術館で開催中の「エル・アナツイのアフリカ」を観てきた。アフリカのものを初めて意識したのは、昔、「芸術新潮」に坂田和實が連載していた「ひとりよがりのものさし」をまとめた単行本のなかでのこと。その本を手にしたのはロンドンで暮らしていた頃のことなので、たかだか3年程度前のことだ。それに触発されたというわけでもないのだが、パリに遊びに出かけた折にケ・ブランリーに立ち寄り、さんざん街中を歩き回った後だったので少し頭痛がするくらいに消耗していたのだが、少なくとも頭痛が消える程度には興奮した。但し、そこにあったものが気に入ったというのではない。素朴に面白かったのである。灯台下暗し、というほど近くはないのだが、3月に訪れた大阪の国立民族学博物館はケ・ブランリーよりも面白かった。もともと高校生の頃に「知的生産の技術」を読んで以来、筆者の梅棹忠夫という人に憧憬にも似た関心を抱いていたので、彼の民族学者としての作品と呼んでも過言ではないと思われる民族学博物館を訪れて、憧憬はいよいよ強くなった。大阪に頻繁に足を運ぶことなどできるはずもないのに、民族学博物館の友の会にも入ってしまった。

今日訪れた「エル・アナツイのアフリカ」は、その国立民族学博物館を起点に日本国内を巡回している。民族学博物館での会期は2010年9月16日から12月7日までで、神奈川県立近代美術館葉山、鶴岡アートフォーラムを経て、今月2日から埼玉に来ている。本展はこの埼玉会場がトリだ。アナツイの作品を展示するには、少し天井が低いような気がしないわけでもないのだが、自分の郷土の公立美術館にこうした企画展が巡回してくるというのは結構なことだと思う。

さて、展覧会の主であるエル・アナツイだが、彼はガーナに生まれ、現在は主にナイジェリアで活動している。生活している当事者の事情とは殆ど無関係に国境が画定されたアフリカにおいて、どの国の国民であるということがどれほど意味のあることなのか知らないが、彼自身も「ガーナ人」でるとか「ナイジェリアの住人」であるということには、それほど意識を置いていないような印象を受ける。アフリカの場合、文化の単位としては国よりも部族なのだろう。「国」とか「国民」という概念は、「日本人」である我々が考えるほど普遍的なものではないので、その扱いには要注意だ。

今回の展覧会では、アナツイの1980年代の作品からヴェネツィア・ヴィエンナーレを飾った大規模なものや最近のものまでが並ぶ。彼は廃材を使った作品、特に缶や酒類の壜の蓋の部分に使われている金属を材料にした作品を数多く手がけている。金属材料は同じ大きさ形の短冊状のものなどに加工され、それらを針金でつなぎあわせて帯状や板状のパーツとなり、そのパーツを組み合わせて作品が作られるのである。材料の加工工程は細分化されて単純化され、それぞれをひとりひとりのスタッフが担当する。彼が抱えている助手は20名。作業は各スタッフ毎に完結し、スタッフ間の連携はなさそうだ。アナツイは廃品業者と交渉して材料となる廃材を仕入れたり、作品の構想を練ったり、作品制作現場で指示を出したりする役回りで、彼が直接に手を汚すわけではないかのように見える。スタッフはそれぞれが決められたことを決められた通りにすることが賃金につながり、作品全体に対する関心はそれほどないらしい。

作品と簡単な資料を観ただけで軽率に結論を出すわけにはいかないが、美術とか芸術といった曖昧模糊としたもの以前に、ものをつくるということに対する個人の姿勢が、文化のなかで違った意味合いを持っているように感じられた。敢えて単純化してしまえば、日本のものづくりというのは共同作業であり、分業がなされていても、全体と個との関係性が比較的明瞭であるのに対し、アナツイのそれは、階級社会的に各工程が分断されていて相互の関係を理解しているのはアナツイだけという印象である。しかし、映像資料のなかでアナツイはこう語っている。
「私が興味を持っているのは作品を作ることや作品そのものではなく、作品によってひとがつながることだ。」
この「ひと」のなかにスタッフも含まれているのか、下働きの単純作業に従事するひとたちは「ひと」ではないのか、というところまではわからない。「ひと」とか「people」とは何者なのか、というのも、おそらく文化のなかで違うはずだ。「ものをつくる」ということはどういうことなのか、「ひと」とは何者なのか、物理的存在としては同一のものが、心象あるいは文化のなかでは同一にはならないということなのである。もっと言えば、同じ文化のなかにあっても、「もの」や「ひと」はひとによって違ったように受け取られているということでもある。

酒類のボトルのキャップに使われている金属を使って作られた巨大なカーテンのようなものを見て、小学生の頃の夏休みの工作の宿題を思い出した。2学期が始まってしばらくの間、教室の後ろのロッカーの上に様々な作品が並んだものである。学年が上がるに従って、バルサ材を使った精巧なものが現れるようになるのだが、今から思い返してみればそういうものは面白くない。ヤクルトのボトルをつないで作ったロケットとか、ゴミとして捨てられてしまうようなものを素材にしたものが、今でも妙に印象に残っていたりする。

展覧会場では「叩く・ぶつける・折り曲げる エル・アナツイの芸術」という90分ほどのドキュメンタリーが上映されていた。そのなかでアナツイが語っていたことで特徴的だと感じたのは、モノそのものに対する執着の薄さだった。例えば、彼が生まれ故郷のガーナではなく、ナイジェリアを現在の生活拠点にしていることに触れて、「home」というのは物理的なものではなく、心の中にあるものだ、というような趣旨の発言をしている。また、作品の制作に使う材料について、「安価な材料は発想を自由にする。高価な材料を使うと作品が小さくなる」というようなことを言っている。物理的なものよりも、それを媒介として広がる世界のほうに目が向いていると感じられた。それは、おそらくアナツイ個人の感覚というよりも、アフリカという場所の歴史や文化に根ざした感覚ではなかろうか。人は、自分の世界観が誰もが共有できる普遍性を持ったものだとの前提に立って物事を考える傾向があるように思う。実際にはそうでないからこそ、人と人との間、組織と組織との間、社会と社会との間、文化と文化との間、あらゆる集団の単位間において軋轢が生じるのである。容易なことではないのだが、自分が見ている世界と他人が見ているそれとは必ずしも同じではないということは、常日頃から意識したいものである。絶対的なものを己の思考のなかに抱え込めば、それは必ず他者との紛争の種になる。紛争の当事者は、どのような結果になったとしても、その紛争からは何も得ることはできないものである。作品のなかに見え隠れする作者の価値観、作品について作者が語る言葉、そうしたものが、作者が属する文化とは違った環境に置かれたときに発するものの大きさを改めて感じる展覧会だった。

梅雨明け

2011年07月09日 | Weblog
今日、東京では梅雨明け宣言が出された。梅雨明け宣言が出て気温が下がったり大雨が降ったりするというのでは洒落にならないが、宣言に見合うかのように暑くなるのも困ったものである。昨日までの数日間が比較的しのぎやすかった所為もあり、今日は気温以上に暑く感じられ、身体の調子もよくない。年齢の所為も多分にあるのだろうが、環境が急変すると身体が適応できない。できないことがはっきりと自覚できるのである。幸い、今日はお茶の稽古以外の用が無かったので、約半日の稽古の後、実家に回って郵便物を回収し、床屋に寄って散発をしてから住処に戻った。暑さ以外は平和な一日だった。