熊本熊的日常

日常生活についての雑記

選挙考

2010年07月12日 | Weblog
昨日の参議院選挙は下馬評通りの結果だったのではないだろうか。新聞もテレビも無い生活なので、マスメディアがどのような報道をしていたのか知らないのだが、「政権交代」と大騒ぎをして成立した内閣が1年もたずに崩壊しただけでも有権者の印象を悪くしているところに、消費税増税論議を持ち出して選挙に勝つと考えるほうが異常だろう。しかも、選挙戦では小泉政権時代に自民党が繰り出した「小泉チルドレン」戦略を彷彿とさせる著名人投入で、あからさまに有権者を舐めてかかっているのが見え見えの選挙だった。マニフェストだかエベレストだか知らないが、有権者も候補者も共に理解していない空念仏を唱えたところで、何かが起こるわけでもあるまい。尤も、選挙運動中に候補者の口から出る言葉の9割程度は自分の名前だろう。候補者が自分の党のマニフェストなるものを理解する必要はそもそも無いのである。票は雰囲気で動くのは確かなのだろうが、端から有権者を馬鹿にしきった姿勢で選挙に臨めば、それは自ずと有権者に伝わるということを全く気にしていないかのような選挙の戦い方は、民主制とは衆愚制であると語っているようにしか見えなかった。

その選挙で現職の大臣が落選した。当然、内閣は落選した大臣を交代させなければならないだろう。ところが、その大臣は続投なのだという。選挙の結果に対する与党の認識を端的に表現する現象だ。党の名前は「民主」だが、彼等の「民」とは誰のことなのだろうか。

ちなみに第二次大戦後、日本国憲法の下での内閣総理大臣は現職の菅直人が31人目だ。「内閣総理大臣」としては第94代で、戦後は第44代幣原喜重郎内閣から始まるので、内閣の数はもっと多い。戦後65年間で31人の国家元首という数は先進国の中で突出している。同期間の米国大統領は12人、英国首相は13人、フランス大統領とドイツ首相はそれぞれ8人だ。イタリアは多いが、それでも25人である。これが何を意味するか、立場や考え方によっていろいろ説明はつくのだろうが、私は日本という国の在りようが、世界の中軸となっている国々のそれとは異質なのではないかと思っている。もっと言うなら、日本語の世界というものが、突出した指導者というようなものを要求しない世界なのではないかと思っている。言語というのは思考の仕組みを反映するものだ。思考は言語の組み合わせと言ってもよく、その語彙は外部認識を反映し、文法は社会の在りようを反映する。あまり特殊性を強調すると、現実認識を誤ることになるが、他者との関係性において、何が共通で何が断絶しているかということを意識しておかないと、適切な付き合いというものができないように思う。何が何でも民主制、何が何でも多数決、という社会のあり方が、果たしてこの国の在りようとして適切なものなのかどうか、再考を迫られる時が必ず来るような気がする。