熊本熊的日常

日常生活についての雑記

擬音で祇園

2010年07月10日 | Weblog
落語には噺の内容を主にして観客を魅了するものと、話芸を主とするものとがあるように思う。そして、どちらかといえば、話芸主体の噺のほうが噺家にとっては難しいと思う。

今日、行徳で花緑の独演会を聴いてきた。演目は「祇園会」も「天狗裁き」も一見したところは単純な噺である。しかし、こういう単純なものは一歩間違えれば小話に毛の生えたような陳腐な噺になってしまう。その所為かどうだか知らないが、以前に聴いたときよりも、今日はマクラが長く、本題への下準備に慎重を期したように感じられた。

「祇園会」は人間国宝の桂米朝から稽古をつけてもらったものだそうだ。もちろん、上方落語をそのままというわけではないので、花緑風に改編されている。噺は京の人間と江戸の人間とのお国自慢合戦という他愛のないものだが、祇園祭の囃子の音と神田囃子の自慢のところなど、囃子の擬音で双方の自慢をしあうのである。何がどうでどうだから、こっちがいい、というような理屈の滑稽ではなく、囃子の擬音だけの比較で観客を笑わせるというのは、噺家の力量が試される難易度の高いものではないだろうか。

4月に蕨文化会館で聴いたトリのたい平が口演した「長短」も理屈の展開よりも話芸で聴かせるものだが、このときは正直なところ厳しいものを感じた。彼の場合、得意の秩父夜祭風景があるので、それを噺の最後にもってくるのに、この演目を選択したように感じられたが、果たしてそれが上手くいったと言えるのかどうか、微妙なところだったと思う。

その点、今日の花緑は危なげが無かった。もちろん「祇園会」の自慢合戦は囃子だけではないのだが、いくつかある自慢ネタの配分として、囃子のところはそれなりの重きのある部分なので、ここですべるととんでもないことになってしまう。

「天狗裁き」は噺が入れ子構造になっていて、オチになる最後の場面が最初の場面と重なるというものだ。螺旋階段をぐるぐる上って、上り詰めたところが最初のところ、というエッシャーの騙し絵のようなもの、と言ったほうがイメージしやすいかもしれない。同じ噺が登場人物を入れ替えながら繰り返されるので、新たな登場人物のキャラクターや設定をどうするかというところに工夫が要る。同じ落語家の同じ噺を何度も聴いたわけではないので、私の勝手な想像なのだが、このあたりのところは噺家がマクラを振りながら観客の反応を見て適宜調整しているような気がする。

落語に限らず、観客の地域特性とか会場特性というものは、やはりある、と私は感じている。昨年1月に帰国してから今日までちょうど1年6ヶ月なのだが、この間に21の落語会を訪れた。会場の分布は以下の通りだ。

東京都
 中野区 3回
 千代田区 2回
 立川市 2回
 北区 1回
 練馬区 1回
 新宿区 1回
 葛飾区 1回
 足立区 1回
 武蔵野市 1回
神奈川県
 横浜市 3回
埼玉県
 草加市 2回
 蕨市 1回
 秩父市 1回
千葉県
 市川市 1回

どこがどうとは言わないが、観客総体としてのリテラシーは明らかに違いがある。ついでながら、美術館にもよく足を運ぶのだが、不思議なことに美術館によって客層に違いがあるのである。ちなみに、美術館に関してはこの1年半で延べ89回訪れた結果として、そう感じるのである。

単純なように見えることが、実は最も難しいというのは、落語に限らず、我々の人生のなかでけっこうよくあることのような気がする。落語そのものも愉快だが、落語を聴いていて、その噺とは何の脈絡もないような個人的経験がふと脳裏をよぎるという経験も、負けず劣らず愉快なことである。

演目
「道灌」 柳家緑太
「祇園会」 柳家花緑
(中入り)
江戸曲独楽 三増れ紋
「天狗裁き」 柳家花緑

開演:14時00分
閉演:16時15分