熊本熊的日常

日常生活についての雑記

Twitter

2010年07月23日 | Weblog
ふと気になってTwitterのアカウントを作った。案の定、kumamotokumaというユーザー名が既に使われていた。「熊本熊本家」とか「熊本熊本舗」にしようとしたらkumamotokumahoまでしか入力できない。そこで「熊本熊スペシャル」ということでKumamotokumaSPとした。

別にあそこで何事かをつぶやこうというつもりはない。ふと熊本熊という名前が使われているのかどうか知りたかっただけである。

濱田庄司は自分が作ったものに印を入れなかった。若い頃は入れていたが、ある時期から入れなくなった。その理由についてNHKの番組の中で語っていたことが印象的だった。その番組の録画を5月に栃木県立美術館で開催されていた「知られざる濱田庄司」展の会場で観た。

曰く、自分の手で作ったものは誰が見てもそれとわかるものである。敢えて印を押さなければ自分が作ったとわからないようなものは所詮その程度のものでしかない。さらに言うなら、見て自分が作ったとわかってしまうようなものも本物とはいえない。誰が作ったのかわからない、自然に生れてきたようなものに見えてこそ、本物の創造ではないかと思う。

その録画映像が流れる大型テレビに私は釘付けになってしまった。なにか言葉なり文章なりがあって、それを見聞した人が「いかにも○○さんらしい」と思うような言葉は、まだまだ薄っぺらだということだろう。物事を深く考えれば、あたりまえのことのように世の中に流布していることが、いかに「あたりまえ」ではないかという問題に突き当たる。ほんとうのことを突きつけられると、人は沈黙するしかなくなってしまう。そこには人の個性などというものが入り込む余地は無いはずだ。その個性を超えた普遍性を追い求めるのが哲学者であり、個性に拘るのが評論家である。

まだアカウントを開設しただけで使っていないので、まだ想像の域を出ないのだが、Twitterというのは評論家ごっこをして遊ぶところだと思っている。もちろん、ブログも。