聖徳太子研究の最前線

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飛鳥・斑鳩を歩いて聖徳太子時代の状況を考察:和田萃『古代天皇への旅』(1)「用明天皇」

2023年07月29日 | 論文・研究書紹介

 古代史の研究の場合、文献中心となりがちです。しかし、環境は一変しているとはいえ、現地を歩いてその地の状況を確かめ、その土地に今も残る伝承を尋ねてみることは、やはり大切です。

 私も、1年間の在外研究を認めていただき、京大人文研にいせていただいた際は、聖徳太子ゆかりの地をあれこれ回ったことでした。ただ、私は東京で生まれ育っており、勤務先の駒澤大学では6世紀から8世紀あたりの中国・朝鮮仏教が専門ということで教えていた身ですので、奈良で暮らしていて遺跡に詳しく、考古学にも通じている文献研究者のように文献と現地調査をうまく結びつけることはできません。

 そうした研究の好例が、 

和田萃『古代天皇への旅ー雄略から推古まで』(吉川弘文館、2014年)

です。本書は、堅実な文献研究で知られ、早くから考古学にも通じていた和田氏が、『古事記』『日本書紀』の記述から文飾と思われる部分を除き、実際にその場所を訪れ、地元の人々から話を聞くという形で新聞に連載したものに手をくわえてまとめたものです。

 このブログでは、用明天皇・聖徳太子・崇峻天皇・推古天皇を扱っている「Ⅳ 飛鳥の都へ」を、順を追って紹介してゆきます。今回は、「Ⅳ 飛鳥の都へ」のうち、「9 用明天皇ー雙槻宮の営まれた磐余池の推定地ー」です。

 和田氏は、「大兄皇子」と呼ばれた用明天皇の宮、つまり、『日本書紀』では磐余池辺雙槻宮、『古事記』では池辺宮について検討します。「槻」はケヤキであって、高さ40メートルにも及ぶことがあるニレ科の木です。

 古代において霊木とされることが多かったのは、スギ・タブノキ・オガタマノキなどの常緑の高木であって、ケヤキのような落葉する木が霊木とされるのは珍しいのですが、和田氏は、斉明天皇の時に多武峯に「両槻(フタツキ・ナミツキ)宮」が造営されたことが示すように、幹がY字状に二股に枝分かれしたものが神聖視されたと見ます。

 固いカシの木でY字状になったものは、船材や巨石を運ぶ修羅として利用されており、『日本書紀』の履中3年11月条では、「両枝(ふたまた)船」を磐余市磯池に浮かべたとされており、こうしたことが用明天皇の雙槻宮の名と関わると推測するのです。

 その磐余池については、寺川の左岸で香具山の北東域、つまり、桜井市南西部の大字(おおあざ)橋本、池之内、吉備と、橿原市の東池尻町を含めた一帯と見ます。記紀では、磐余宮としては、磐余稚桜宮、磐余甕栗(みかぐり)宮、磐余玉穂宮などがあり、いずれも植物の名を含むことが注目されると説きます。

 磐余池については、大津皇子が処刑される前に磐余池で涙を流して歌ったという挽歌が有名です。飛鳥から訳語田(おさだ:桜井市戒重の地)に連行されていく途中ですので、そのあたりにあったことになります。

 昭和45年、奈良県立農業大学校を建設する際、桜井市池之内集落の南方の丘陵の古墳群を調査したところ、4世紀後半から5世紀初頭の7基の円墳が検出されました。和田氏は、このあたりを調査し、広大な池の存在を思わせる景観が残っていることに気づいた由。

 磐余池は、戒外川の水をせきとめて造られた池であって、東池尻町の小字「嶋井」は、南北の最大幅が50メートル、東西の長さが250メートルに及ぶ堤であったことが明らかだそうで、版築で築造されていました。

 その堤の南には、「中島~」と呼ばれる小字名が多く、広大な磐余池には、南北400メートル、東西200メートルの「池田山」が広がり、かつては池に浮かぶ中島だったと考えられるとします。

 用明天皇は、この地のかたわらに雙槻宮をいとなんだものの、在位わずか1年11ケ月で亡くなります。和田氏は、この前後の時期には「瘡(かさ)」の病が流行し、敏達天皇も物部守屋も瘡を病んでいるため、用明天皇もこの病気、つまり疱瘡(天然痘)で亡くなったと、和田氏は推測します。

 疱瘡は、インドで発生して広がったと見られおり、日本では仏教伝来の頃に朝鮮から伝わったと推測されています。こうした状況なら、仏教を敵視する見方が出てきても当然ですね。逆に、だからこそ仏教にすがろうとする人たちも出るのでしょうが。

 亡くなった用明天皇は、大阪府南河内郡太子町にある磯長谷に葬られました。この地は、欽明天皇の子である敏達天皇、推古天皇の陵がある地域であって、聖徳太子の墓とされるのもこの地ですね。