聖徳太子研究の最前線

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時代遅れになった部分を含む聖徳太子虚構説批判:川勝守「聖徳太子の実在ー厩戸王はいなかったー」

2023年07月16日 | 論文・研究書紹介

 20年以上前に大山誠一氏が唱えた「聖徳太子はいなかった」説については、一時期はマスコミがしばしば取り上げていたものの、この10年ほどは学界ではまったく相手にされておらず、賛成反対どころか、言及する論文すらなくなっていて完全に終わっていることは、このブログで紹介してきた通りです(たとえば、こちら)。

 ところが、学界のそうした状況を知らず、ネットではいまだに「聖徳太子は実はいなかったという説が、最近の学界では有力となってきました」などと書く素人がいるうえ、不勉強なマスコミにも、この古くさい図式をとりあげ、今更ながら特集のような形で報じているところがあります。あるいは、ネタが無くて困り、時代遅れの説であることを承知のうえで、敢えてやっているのか。

 逆に、「聖徳太子はいなかった」説に対して盛んにおこなわれた批判の多くは、今でも通用します。むろん、中には、現在では内容の一部が古くなって時代遅れとなったものもないではありません。その一例が、

川勝守「聖徳太子の実在ー厩戸王はいなかったー」
(『奥田聖應先生頌寿記念 インド学仏教学論集』、佼成出版社、2014年)

です。東洋史の研究者として九州大学で長年教え、定年後は大正大学に移った川勝氏は、明清時代が専門ですが、東アジアを幅広い視点で研究しており、『聖徳太子と東アジア世界』(吉川弘文館、2002年)はすぐれた考察を含む有益な本です。

 その本の2年後に書かれたこの「聖徳太子の実在ー厩戸王はいなかったー」が掲載された『奥田聖應先生頌寿記念 インド学仏教学論集』には、私は「三経義疏の共通表現と変則語法(下)」を寄稿しています(こちら)。

 さて、川勝氏のこの論文によれば、執筆当時は、「厩戸王」の表記は『古事記』などに見えるという説明をよく見かけたそうですが、川勝氏は、『古事記』の写本については鎌倉・室町以前の古いものはなく、また現存する写本には「厩戸王」の語は見えないと注意します。

 そして、『元興寺縁起』の仏教伝来記事では、歳次戊午(538年)に百済王が「太子像并びに灌仏の器一具」を伝えたとあるが、中国における灌仏儀礼は、4世紀半ばに、後趙の「天王」であった石勒の死没した太子のために仏図澄がおこなったのが最初であり、それを記した文献は6世紀前半の『高僧伝』となるとします。

 さらに、仏図澄と石勒の関係を記した『晋書』の成立は7世紀半ばであって、日本伝来が確認できるのは7世紀後半以後であるため、仏教伝来時の日本や百済に灌仏儀礼が知られていたとは考えにくいのに対し、『日本書紀』欽明13年条の「釈迦仏の金剛像一躯、幡蓋若干、経論巻を献る」という記述は信頼できるとします。

 『元興寺縁起』の信頼性はともかく、灌仏儀礼が日本への仏教公伝時の百済ではまだ知られていなかったとするのは、どうでしょうかね。灌仏儀礼は、インドだけでなく、スリランカや西域では早くから行われていたのですから、海外からの渡来僧が多く、仏教が盛んだった中国南朝で知られていなかったはずがなく、その南朝仏教を手本としていた百済で知られていなかったとは考えにくいです。

 ただ、この件にからめて、川勝氏が「聖徳太子」の「太子」という呼称を疑う説を批判し、皇太子制度はまだなくても、後趙の「天王」の子が「太子」と呼ばれていた以上、そうした呼称が高句麗などを通じて推古朝時に知られていて不思議はないとする指摘は納得できます。「聖徳太子」はともかく、「上宮太子」は生前でもありえたでしょう。

 川勝氏は、こうした北朝の「天王」号は、日本の「天皇号」とも関わる問題であり、日本の「天皇」号は道教に由来するとする説が有力だが、皇帝が長寿を願って道教にすがった中国においてすら、道教思想が皇帝制度に影響を及ぼしたた痕跡はないとします。

 次に、聖徳太子の厩戸誕生説話については、ガンダーラ彫刻に似ている面があるが、こうした状況が知られたのは玄奘とその弟子の慈恩の教学が日本で知られるようになってからである可能性もあるとします。

 しかし、厩戸誕生伝承の基本構造が東アジアで広く読まれた仏伝に基づいていることは、拙著『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』(吉川弘文館、2016年)で指摘しました。このように、f川勝氏の主張には、妥当な部分と、私などの研究によって古くなった部分があるのです。

 さて、f川勝氏は、「憲法十七条」に「国司」という語があるから太子以後の作とする津田説を否定し、内容から見て推古朝のもので良いとします。そして、聖徳太子については、「仏教的徳治主義による東アジア世界的政治行政を見事に遂行した大兄(皇太子)」だったとするのですが、法家の影響もきわめて強いことは、後に山下洋平氏が指摘したところです(こちら)。

 また、聖徳太子が「大兄」的な立場であったことは確かですが、「大兄」として活動していたなら、『日本書紀』や『法王帝説』が「厩戸大兄皇子」などと呼んだ箇所がありそうなものですが、そうした記述は見えません。少なくとも、『日本書紀』が材料とした早い時期の聖徳太子伝は、超人的な面を強調していたものの、「大兄」という呼称を盛んに用いてはいなかったと考えられます。

 「天寿国繍帳」の「天寿国」については、三井文庫所蔵の敦煌写本の末尾に「西方天寿国」とあるため、極楽浄土を意味するとし、太子は極楽浄土を願っていたと述べていますが、この敦煌文書は偽作であることが赤尾栄慶氏などの調査で判明しています。

 このように、以後の研究の進展によって時代遅れになった部分も多いのですが、そのまま通用する部分ももちろん複数あります。この時期の日本の王を「大王」と呼ぶことについては、宮崎市定説に基づき、「大王」は「王」の美称であって正式な称号ではないとした点もその一つであり、これに関する最新の説については、このブログでも紹介した通りです(こちら)。