戦後は聖徳太子は平和主義者とされるようになりましたが、『日本書紀』推古10年(601)春2月条によれば、厩戸皇子の弟である久目皇子が新羅を撃つ将軍に任命され、「諸神部及国造伴造等并軍衆二万五千人を授け」たと記されています。
そして、久目皇子が病気になると、翌年夏4月に、久目皇子の兄である当麻皇子を「制新羅将軍」としています。これまた、播磨に至ったところで、皇子の妻が「赤石(明石)」で没したため、皇子は引き返したとされます。
何ともいい加減な話です。それまでは、朝鮮派兵については、大伴氏や物部氏のような軍事担当氏族が担当しており、皇子が将軍とされたのはこれが初めてですので、これが事実なら、推古天皇、廐戸皇子、蘇我馬子の三頭体制であったとされる当時の状況の中で、廐戸皇子の強い意志が働いて実行され、失敗したものということになりそうです。
6世紀半ばから推古朝の末までの朝鮮関連記事については、矛盾した内容、朝鮮や中国の資料の記述と一致しない内容が多く、『日本書紀』編者の造作の多さが推定されています。この問題を検討したのが、
新蔵正道「「任那復興」と推古朝の対朝鮮外交」
(『日本書紀研究』第33冊、2020年3月)
です。
新蔵氏は、全くの造作であれば、もっと矛盾のない記事にすることができたはずであるため、任那問題や新羅問題に関する「実在した資料を可能な限り活かす方針で新たな造作を加えたため」、様々な矛盾が生まれたのだろうと推測します。これは、厩戸皇子に関する記述にも言えることですね。『日本書紀』編纂の最後の段階でゼロから造作したのであれば、呼称が箇所によってあれほどバラバラになることはなかったでしょう。
さて、問題の推古10年と11年の記事の前の推古9年(601)3月条には、大伴連嚙を高麗に派遣し、坂本臣糠手を百済に派遣し、「急ぎて任那を救え」という推古天皇の詔を伝えさせたとしています(大伴連嚙も坂本臣糠手も、守屋合戦の際に馬子側で戦った者たちです)。
これは、倭が主導して高句麗・百済の三国による新羅包囲網を形成しようとしたような書き方ですが、当時、隋が高句麗遠征を行った際、百済は隋軍の先導を申し出ており、高句麗は隋に謝罪して受けいれられると同時に、百済を攻撃しているため、三国協力体制などは考えにくいところです。
この点については諸説あるものの、新蔵氏は、隋が成立すると高句麗も百済もすぐに、また新羅も遅れて朝貢して三国が隋の冊封体制に入るという状況の中で、倭国は601年に遣隋使と遣高麗使・遣百済氏を派遣することによって、新羅の孤立化をはかり、新羅外交を有利に展開し、「任那の復興」、実質的には「任那の調」貢納を実現しようとしたものと推測します。
そのうえで、602年に新羅遠征軍が編成されたものの、ある程度の期間、北九州に大軍を置いて新羅に威圧を加えるのが目的であったため、理由にならないような理由で軍勢派遣がおこなわれなかったと見ます。
610年には、新羅使が任那使を伴って来朝しますが、これは倭国の政策が効果をあげたのではなく、新羅の窮状が背景にあったものと見ます。以後、616年、621年、623年と新羅使が来朝していますが、623年のものは厩戸皇子の弔問の使いとすると、新羅使と任那問題の関連は弱まっていることになると説きます。
倭国が任那に固執したのは、鉄の確保が重要な要素でしたが、新蔵氏は、任那が滅亡した後の6世紀後半になると、倭国内でも量は不十分であるにせよ、考古学が示すように倭国内で製鉄が始まっており、倭国と任那の関係に変化が生じていたとします。
新蔵氏は、さらに、朝鮮半島の軍事面で大伴氏とともに活躍した物部氏本宗家が滅亡したうえ、物部氏とのつながりで6世紀に壱岐島で外交にあたっていた伊吉史氏が、物部氏の滅亡の後で本貫である河内に戻ったことが指摘されていることに注意します。それもあって、6世紀以後は、倭国の朝鮮半島への軍事介入は消極化したとするのです。
任那関連では、時に強硬意見が出ることはあっても、6世紀以後は積極的な軍事行動に出ることが躊躇されたのは、任那問題が倭国が思うようには進まなかったことに加え、倭国内でも関連する要因が複数あったのだ、と新蔵氏は締めくくっています。
そうなると、新蔵氏は触れていませんが、厩戸皇子の弟2人が新羅遠征将軍に任命されたのは、新羅威圧のためであって、実際に戦うことは想定していなかったということになりそうです。
ただ、厩戸皇子の弟たちが続いて新羅遠征将軍に任命されたのは事実のようですので、戦後の常識のような形で厩戸皇子を平和主義者と断定するわけにはいかないようです。