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外交のための推古朝の道路整備:積山洋「難波京と難波大道・大津道」

2023年07月11日 | 論文・研究書紹介

 推古朝の遣隋使については様々な説が出ていますが、大道の整備という点からこの前後の道路整備について検討しているのが、

積山洋「難波京と難波大道・大津道」
(『都城制研究』12号、2018年2月)

です。

「難波と大和を結ぶ交通網は畿内でもっとも重要な官道であった」という言葉で論文を始めた積山氏は、『隋書』東夷伝倭国条によれば、大業4年(推古16年:608)に倭国を訪れた隋使の裴世清に対し、「倭王」が「我は夷人にして海隅に僻在し、礼儀を聞かず。……今、故に道を清め館を飾り、以て大使を待つ」と述べたとされていることに注目します。

 むろん、中国側の帰朝報告ですので、中国風な潤色があるであろうことを認めたうえで、倭王の言葉でも触れられていることが示すように、外交においては幹線道路は重要な意味を持つことを強調するのです。そして、史料に見える「大津道」とは、通説がいうような長尾街道ではなく、都から難波大津に至る斜行道路ではないかと推測し、以下、それを論証してゆきます。

 まず、難波京に関する諸説を紹介し、近年の発掘成果をまとめます。詳細は略しますが、積山氏は孝徳朝の前期難波京は、正方形ではなく、隋唐の長安のように横長の里坊で構成されていたのに似るとし、盛り土による整地だけで終わっている箇所もあり、実際には未完であったとします。

 難波京の中軸を走る南進道路、つまり、近年になって難波大道と名づけられた道路については、一部が発掘されており、路幅は約18メートルだったと推測されています。この難波大道については、推古21年(613)11月条に「難波より京に至る大道を置く」とあることなどから見て前期難波京以前からあったとする説、前期難波京と同時に建設されたとする説、それ以後に建設されたとする説があります。

 積山氏は、大道沿いの阿倍寺廃寺や田辺廃寺が7世紀後半以後に整備・拡大されていることから見て、孝徳朝に建設が始まった可能性はあるものの、整備されて実質的な機能を持つに至ったのは天武朝からと見ます。

 問題は、この難波大道につながる「大津道」です。史料の初出は、『日本書紀』天武元年(672)に「大津・丹比の両道」とあるのが最初であって、岸俊男は大津神社の位置から見て、これを長尾街道にあてました。

 しかし、大津神社は長尾街道から800メートルも離れているとする指摘もあり、積山氏はその反論に賛同します。そして「大津」とは、この近辺で最も規模が大きかった難波津を指すと見ます。

 そして、皇極紀3年(644)「豊浦大臣の大津の宅倉」とあって、蘇我氏が有していた宅倉が難波にあったことが示されているため、大津道とは、難波津を起点ないし終点とする道路と見るべきだと説きます。

 積山氏は、直線道路と考える必要はないとし、大和川の自然堤防をたどる斜向道路であったろうと推測します。そして、先の推古21年に見える「大道」とは、四天王寺の南辺から斜向して大和に向かう道であったと推測するのです。

                 (同論文、23頁)

 難波には、初期の港である第一次難波津と孝徳朝に建設された難波京の間に、古墳時代としては図抜けた規模の倉庫群である法円坂倉庫群があります。方位は南北を軸とする正方位であって、その年代は5世紀後半と考えられています。

 ここが物資集散のセンターであり、難波津から運ばれた物資は、ここから水路だけでなく、陸路でも運ばれたものと積山氏は見ます。その陸路が大津道の起源であって、難波津の中心部が西の方に移動すると、以後の難波宮下層の建物群は、棟の方位が大きく西に傾くようになります。方位が西に傾くのは、斑鳩宮や若草伽藍や太子道と同じですね。

 先に見たように、607年の遣隋使をともなって来朝した隋使に備え、倭国は道を整備して待っていました。大道を置いたとする推古21年(613)は、犬上御田鍬らを第5次の遣隋使として派遣する前年にあたります。実際には、御田鍬らは百済使だけをともなって帰朝したのですが、積山氏は、大道を置いたのは、御田鍬らの帰朝時に隋使が来訪することを期待してのものだったと推測します。

 実際、孝徳紀白雉4年(653)6月条でも、「百済・新羅、使を遣そて調を貢り献物す。処々の大道を修治す」と記されています。難波と大和をつなぐ幹線道路は、外交上の重要な道路だったのです。積山氏は、難波津の起源も、倭国が劉宋に遣使したことと関係しており、法円坂倉庫群の建設もこの時期であったとし、幹線道路は「外交と連動していたのである」と結論づけています。

 となると、これまでブログで紹介してきたように、海上から見える位置に四天王寺が建設され(こちら)、その横の道を外国使節が通っていくことを考えると、四天王寺についても法隆寺にして、建立の意義を考え直す必要がありますね。とにかく、当時の仏教は、外交や政治と密接に結びついていたのです。