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天皇は唯一絶対の尊称ではないうえ、長期間にわたって使われず:新川登亀男「二度つくられた「天皇」号」

2022年07月26日 | 論文・研究書紹介

 早稲田開催の聖徳太子シンポジウムでの発表資料では、新川登亀男『聖徳太子の歴史学』(講談社、2007年)をあげておきました。新川氏とは、意見が合わない点がいくつかあるのですが、この本は有益であってお勧めです。

 その新川氏が、まさにこの本のような視点で天皇号について検討した最近の論文が、

新川登亀男「二度つくられた「天皇」号」(『日本史攷究』(44号、2020年12月)

です。

 新川氏は、天皇号は実際には2度つくられており、2度目は江戸末期からの近現代だと説きます。というのは、天皇号は古代に出現したものの、平安時代以来、「~院」という呼び方がなされており、1840年11月に亡くなった兼仁上皇に対して「光格天皇」が贈られるまで、長らく使用されていなかったからです。

 その証拠に、1603年に本編、翌年に補遺篇が出されたイエズス会の『日葡辞書』には「テンノウ」という項目がなく、あるのは「ミカド(帝)」「テンシ(天子」などだけなのです。また、幕末から明治にかけて普及したヘボンの『和英語林集成』でも、「Ten-nō(テンノヲ・テンノウ)が登場するのは1872年の再版の時からである由。

 公式面で「天皇」が登場するのは、やはり1889年の日本帝国憲法だそうです。ただ、当時の様々な草案では「皇帝」「国帝」「帝王」などもあげられており、帝国憲法制定後も外交文書の「和公文」では「皇帝」を用いるなど確定しておらず、天皇号が公式のいろいろな場で使われるのが1936年だとか。

 また、天皇にしても、重要なのは「皇室」であり、個人ではなく、万世一系の継承者であることが重視されたと見られるそうです。

 その他、興味深い検討がなされたうえで、天皇号の研究史が振り返られます。最初の代表は、隋以前の中国の書籍に見える用例を検討した津田左右吉の「天皇考」です。津田は、推古朝始用説ですが、当時はまだ公式なものではなかったと見ます。

 津田が触れた道教面を強調したのが、福永光司説です。新川さんは、福永説の多くは、道教用語と日本の例の共通点を抽象的に結びつける傾向があり、コンテキストの考慮が十分でないと指摘していますが、かつてはかなり福永説寄りで本や論文を書いてましたね。

 漢語ではなく、「スメラミコト」という和語に注目したのが、津田を批判した西郷信綱です。「スメラ」は「統(す)ぶ」由来でなく、宗教的・呪術的な状態を示したものだとし、「オオキミ」は日常でも和歌でも用いられるのに対し、「スメラミコト」はそうでないのは、純粋に制度上の符号だからだとし、天皇というのは、スメラミコトを漢語化したものだと見るのです。

 新川氏は、大宝令・養老令における天皇号について検討し、日本の令における規定は、唐令にならったものの、引き写しではなく、「天皇」を加えた点に特徴があるとします。

 そして『令義解』『令集解』などの古注釈では、令における「天子・天皇・皇帝」などの呼称は用途に応じていろいろであるものの、口頭で述べる場合は、「スメミマノミコト」「スメラミコト」である点に注意します。そして「スメミマノミコト」は注釈所引の「古記」では、「スメミマノミコト」は祭祀をとりおこなう君主の称であって漢語の「天子」に相当し、「スメラミコト」は1人である「君」、つまり天皇を指すとなっている点に注意します。

 その「スメミマノミコト」は「皇御孫命」とも書かれ、『常陸国風土記』久慈郡条では、天より下る「珠売美万命(すめみまのみこと)」とされ、また玄宗の「日本国王」宛の勅書に、「日本国王主明楽美御徳」とあって、「スメラミコト」が好字で音写されています。

 このように、天皇という称号は、けっして唯一絶対のものとして長く使われてきたものではなかったのです。このことは、天皇という語が見える古代の資料について考える際も有益でしょう。

 ただ、「スメラミコト」は仏教の須彌山に基づくと論じた森田悌氏の研究に触れておいてほしかったですね。このブログでは、このことは何度か触れているものの、検索してみたら、森田氏のその本や論文をとりあげた記事は書いていないことが分かりました。かなり前の作だからでしょうが、重要なので、近いうちに取り上げることにします。