聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

早稲田で聖徳太子シンポジウムが開催されました

2022年07月11日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 先にお知らせしてあった早稲田大でのシンポジウムが7月9日に、大隈記念タワーの多目的会議室で開催されました。

早稲田大学多元文化学会 春期大会シンポジウム 聖徳太子1400年遠忌記念
「聖徳太子の実像と伝承」

です。参加者は人数を制限した会場組とリモートで公開したZoom参加組、合わせて100名ほどだった由。司会は、河野貴美子(早稲田大学文学学術院教授)さん。発表者と題目は、

石井公成(駒澤大学名誉教授)
 「文献と金石史料から浮かびあがる聖徳太子の人間像」

阿部泰郎(龍谷大学教授・早稲田大学日本宗教文化研究所招聘研究員)
 「聖徳太子と達磨の再誕邂逅伝承再考―光定『伝述一心戒文』が創る仏教 神話の系譜―」

吉原浩人(早稲田大学文学学術院教授・同日本宗教文化研究所所長)
 「磯長聖徳太子廟と「廟崛偈」をめぐる言説」

です。内容は、来春刊行の『多元文化』12号に掲載される予定です。

 私は、まず早稲田における太子研究の歴史を振り返り、津田左右吉・福井康順という太子の事績を疑う研究がなされたところに、太子尊重の東大を定年になって早稲田に来られた平川彰先生が、藤枝晃先生の『勝鬘経義疏』=中国の二流の注釈説に反発して大学院で『勝鬘経義疏』の講義をされ、それがきっかけで私も太子研究に踏み込んだことなどから話を始めました。 

 そして、聖徳太子は「法王・法王大王・法皇」などと呼ばれているものの、原義は『日本書紀』に見える「法主王」であって、「法主」は中国ではその寺の講経の担当者ないし責任者を指すため、「法主王」は「講経が巧みな皇子」ということであり、「王」は最初は「みこ(皇子)」だろうが、次第に「おおきみ」と呼ばるようになっただろうと推測しました。

 「法王」や「法皇」をローマ法王のような存在と考えるから、「この若さでそんな地位につくはずがない」などという空しい議論になるわけです。ただ、伊予温湯碑文に見える「法王大王」は、『維摩経』における「法王=釈尊」が神通力でおこした奇跡(こちら)を踏まえているため、釈迦のようだということで、そのイメージが重ねられていると説きました。

 そして、「聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか」で論じたこと(こちら)を概説しました。ただ、このブログで紹介した「仏教タイムス」の連載記事では、「憲法十七条」第1条の「あるいは君父に順わず、また隣里に違う」の部分は『史記』楽書に基づくと論じたのは、その元となった『礼記』楽記の間違いであったと訂正しました。

 それにしても、「憲法十七条」は『礼記』の楽記に基づいていながら、礼とならんで儒教教育の二本柱である「楽」に触れず、また『孝経』の言葉を用いていながら「孝」にも触れずに、それを仏教で代用しようとしており、とても儒教などと言えたものではないと説きました。

 次に、『勝鬘経義疏』における勝鬘夫人絶讃は、太子の叔母かつ義理の母である推古天皇のイメージを重ねているためだとしたうえで、『勝鬘経義疏』がその勝鬘夫人を「謙虚でありながらかなり自信を持っている人物」として描いているのは、三経義疏における注釈の態度と同じだと論じました。三経義疏は、「自分の愚かな心では判断しにくい」などと謙遜しておりながら、「本義の解釈はちょっとすっきりしない」とか、「これでもまあ良いが」などと言いだしますので。

 そして、「憲法十七条」も三経義疏も、民については思いやるべき存在、身を捨ててでも救うべき存在としつつも、努力・向上は期待しておらず、態度してはイギリスの貴族が、戦争などでは率先して最も危険な場所で戦うノブレス・オブリージュの心構えと同じだと論じました。

 その次は、太子一族の近親結婚の傾向に触れ、これが山背大兄滅亡の一因となったと推測しました。これは昨年12月の浅草寺講演で詳しく語ったことであり、その講演録は浅草寺の雑誌に掲載予定です。

 最後は、「世間虚仮、唯仏是真」の言葉をとりあげ、おそらく南朝の涅槃学の系統の言葉を言い換えたものでだろうと推測して終わりました。

 次に阿部さんと吉原さんの発表は、論文化される前の発表ですし、ともに膨大な資料集を用意してのものであって多様な内容となっていましたので、細かい紹介はしません、というより、できません。

 阿部さんは、最澄の弟子である光定の『伝述一心戒文』が、聖徳太子は天台大師の師である南岳慧思の後身だとする説と、聖徳太子が片岡山で出逢った飢人は実は菩提達摩だという伝承を結びつけ、最澄に始まる日本天台宗は、中国の禅宗と天台宗の系譜を継いでいることに着目し、独自の宗教テキスト論を展開しました。

 吉原さんの発表は、吉原さんが発見したものも含め、太子の葬送や御廟に関する大量の太子絵伝の画像を駆使し、「廟崛偈」や墓所に関する様々な言説がいかに生まれて展開していったかを示したものです。

 3人の発表が終わって総合討論となり、私は、吉原さんがあげた伝説のうち、太子が観音、妃の膳菩岐岐美郎女が勢至菩薩、太子の母后が阿弥陀如来とする伝承が広まっていっておりながら、キリスト教のマリア信仰やインド仏教で釈尊の母の摩耶夫人が安産の神などとして信仰されたようにならなかったのではないかと尋ねました。これに対しては、太子の御廟は三骨一廟として宣伝され信仰を集めたものの、母后である間人皇后だけが信仰された形跡はないとのことでした。

 また、阿部さんには、『伝述一心戒文』は真偽を含めて様々な論争があるが、『伝述一心戒文』の文体を分析し、ここは中国の資料、ここは最澄の言葉、ここは光定の言葉、ここは後代の追補などというように分けられないかといった質問をしました。回答は、全体として光定の思いが強く出た特徴のある文体となっており、光定の作と見て良いと思うが、そうした学説史についてはこれから検討したいとのことでした。大久保良峻さんが同じ趣旨の質問をしていましたね。

 ということで、私の発表は太子その人、阿部さんの発表は平安初期の天台宗における太子観、吉原さんの発表は中世に到る太子の墓所をめぐる信仰の展開、ということで、太子と太子信仰のあり方を時代順に検討したシンポジウムとなりました。