聖徳太子研究の最前線

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叡福寺北古墳は聖徳太子の墓所であってその夾紵棺は最も精巧:安村俊史「安福寺所蔵の夾紵棺」

2022年07月22日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子の墓については、真偽を含め、これまで盛んな論争がありました。これに対して、太子の墓所とされてきた叡福寺北古墳で間違いなく、また大阪市柏原市の浄土宗安福寺が所蔵する夾紵棺の破片は、その玄室に安置されていた太子の棺の一部と推測される、と説く論文が出ています。

安村俊史「安福寺所蔵の夾紵棺」
(白石太一郎先生傘寿記念論文集編集委員会編『古墳と国家形成期の諸問題』、山川出版社、2019年)

です。

 この夾紵棺の破片については、猪熊兼勝「夾紵棺」(森浩一編『論集 終末期古墳』、塙書房、1973年)が早くに着目し、聖徳太子の棺である可能性を指摘していましたが、2010年に柏原市立歴史資料館が一般公開して以来、注目されるようになってきたものです。

 その破片は長さ94センチ、幅47.5センチ、厚さ3センチの板状であって、小口面と考えられる由。

(同論文125頁。原載は柏原市立歴史資料館『群集墳から火葬墓へ』2010年)

 夾紵、つまり布を貼り合わせて漆を塗る技術は、乾漆の仏像を作るために用いられるものですが、棺に用いられていることが分かっているこれまでの例は、斉明天皇(661没)の墓と推測される牽牛子塚古墳のもの、そして天武天皇(683没)の墓と推測される野口王古墳のものであって、いずれも7世後半のものです。

 しかも、牽牛子塚古墳の棺でも荢麻35枚であって、安村氏が藤原鎌足(669没)の墓と推測する阿武山古墳の夾紵棺は麻20枚以上となっているのに対し、安福寺の破片は絹布を45枚貼り重ね、両面を黒漆で仕上げており、これまで発見された夾紵棺の中で最も豪華で精巧な造りになっているのです。

 大きさもきわだっています。阿武山古墳の夾紵棺の身幅は62センチ、牽牛子塚古墳の棺台幅が78センチ、野口王墓古墳の棺台幅は75センチですが、安福寺の夾紵棺は幅97センチもあります。

 3基の棺台がある叡福寺北古墳の玄室では、太子の母のものとされる棺台幅は78センチ、妃のものとされる棺台幅は91センチ、そして太子のものとされる棺台幅は111センチもある巨大なものであって、この棺台なら、安福寺夾紵棺が両側に7センチの空間を残して見事に収まるのです。

 問題は叡福寺北古墳の年代ですが、花崗岩切石による横口式石槨が作られるのは6世紀末あたりからであり、これが横穴式石室に採用されたのが羽曳野市塚穴古墳だろうと安村氏は推測します。

 この古墳は、聖徳太子の弟の来目皇子(603没)の墓と推定されているものであって、石材の大きさは不均等です。叡福寺北古墳はこれを均等にして左右対称にしたと考えられるため、622年に没した聖徳太子の墓とみて良いと安村氏は説きます。

 問題は、その夾紵棺の破片がなぜ安福寺に伝えられているかです。1875年(明治12年)に叡福寺北古墳を調査した際は、石室内に「二斗」の夾紵片があった由。「二斗」とあるため、かなりの小片が大量に残っていたことになり、安福寺の大きな破片はそれよりかなり前に持ち出されたことになります。

 安福寺を復興した阿憶上人(1635-1708)は太子尊崇の念が強く、四天王寺や叡福寺への寄進を惜しまなかったことが伝えられています。特に、叡福寺の南にある西法院という子院との関わりが強く、西法院の額も阿憶の筆に成ります。

 また、阿憶が額安寺の仏舎利二粒を「太子御廟」に寄贈した際、叡福寺の僧が送った礼状が残っていることから見て、そうした行為の見返りとして、夾紵棺の一部が贈られたのではないかというのが安村氏の推測です。氏は安福寺所蔵の資料を調査中とのことですので、状況が明らかになるのとを待ちたいところです。