聖徳太子研究の最前線

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煬帝への親書は書簡マニュアルの用語を利用:高松寿夫「『日本書紀』「推古天皇紀」に見える外交文書」

2022年07月15日 | 論文・研究書紹介

 前回紹介したシンポジウムは、発表者である阿部泰郎さんと吉原浩人の2人が編者を務め、司会の河野貴美子さんも書いている論文集、『南岳衡山と聖徳太子信仰』(勉誠社、2018年)の延長版という面もありました。

 中世の太子信仰については膨大な資料があるうえ、おどろおどろしいタイプも多く、また研究も積み重ねられていて踏み込むと泥沼なので、このブログでは、明治から戦時中あたりまでの国家主義的な太子信仰は扱うものの、聖徳太子その人に関する論文や研究書を優先し、中世の太子信仰は敬遠してきました。上記の本の中で、太子の時代を扱った唯一の論文が、

高松寿夫「『日本書紀』「推古天皇紀」に見える外交文書」

です。

 高松氏は、『日本書紀』に掲載されている煬帝が推古に当てた親書が、蔵書家として知られた清朝の学者、陸心源の『唐文拾遺』(1888年)に「玄宗遺文」として収録されていることから話を始めます。『日本書紀』では隋のことを「唐」とか「大唐」と記していますので、陸心源はそれを真に受け、「戊辰」という干支を608年でなく、2巡くりさげた玄宗の開元16年(728)と判断したのだろう、というのが高松氏の推測です。

 高松氏は、煬帝の「皇帝敬問~」という書き出しは、中村裕一『唐代制勅研究』が指摘するように「慰労詔書」の形式であるとし、隋代におけるその例として、智顗禅師あての書と慧則禅師宛の親書をあげます。

 そして、二例とも最後が使いに託して述べさせるという意味である「指宣往意」の句で終わっているのは、推古紀所載の煬帝の書の末尾近くに見える「稍宣往意」と類似することに注意します。同じ親書を掲載している『善隣国宝記』では、これが「指宣往意」となっているため、そちらが『日本書紀』の本来の形だろうとします。

 また、唐の道宣の『続高僧伝』の釈智舜伝にも、「皇帝敬問~」で始まり、末尾近くに「指宣往意」とあると述べます。慰労詔書の形式は唐代にもほぼそのまま継承されたようですが、唐代の慰労詔書の遺文には文末の「指宣往意」の句は見えないため、高松氏は、推古紀の煬帝の親書は隋代の特徴をとどめている可能性が高いとします。

 次に、「東天皇敬白西皇帝」で始まる推古の返書のうち、「天皇」の語の是非はともかく、慰労詔書の形にのっとろうとしているものの、慰労詔書では冒頭で「啓白」の語を用いた例はないとします。

 ただ、梁の武帝の「断酒肉文」其一に「弟子蕭衍、敬白諸大徳僧尼」とあり、隋文帝の「懺悔文」が「菩薩戒仏弟子皇帝某、敬白三世一切諸仏~」とあることに注意します。

 つまり、いずれも仏教関連の内容であり、推古の返書はこれに近いのであって、「敬白」を用いているのは隋の天子を仏菩薩に近いものとして敬意を表したものと見ることができ、これは遣隋使が煬帝のことを「海西菩薩天子」と述べたことに通じると説きます。

 いずれにしても、推古の返書は形式的な挨拶にとどまっており、そこで用いられている句は、王羲之・王献之父子のものが多い書簡によく見られるものだとします。返書のうち、「想清悆(ご清栄でいらっしゃいますでしょう)」については他の用例を見いだしていないが、「勝悆」や「康悆」は書簡冒頭で相手の健勝を祝う表現として用いられる常套表現と思われるとしています。

 こうした検討から見て、推古の返書は、当時の書簡の学習に基づいて書かれており、煬帝への推古の返書は、形としては慰労詔書であるものの、実際には一般の書簡の決まり文句を踏まえたものであり、何らかの「書儀」、つまり当時の書簡マニュアルを学習して作文している可能性が高いと論じてしめくくっています。

 いや、おもしろいですね。隋代の表現を用い、また書儀を利用しているという点が重要です。敦煌文書を見ても分かりますが、南北朝から隋唐にかけては、仏教でも名文句集や願文のマニュアルなどが盛んに書写されており、当時の人はそれらを利用して書いていたのですね。

 願文集には、父母が亡くなった場合に読み上げる願文とか、子供が亡くなった場合の願文などだけでなく、犬が死んだ場合、「忠犬であって、家をよく守った」と誉めるなど、いろいろな場合の手本となる願文が揃っており、まさにマニュアルです。