法隆寺(斑鳩寺)について考えるには、その先行寺院であって日本最初の本格寺院である飛鳥寺について検討しておく必要があります。しかも、飛鳥寺を建立したのは、聖徳太子の義理の父である蘇我馬子ですので、影響がないはずがありません。
その飛鳥寺について、百済や中国の例と比較して検討したのが、
門田誠一「百済王室祈願寺と飛鳥寺の造寺思想」
(『鷹陵史学』39号、2013年9月)
です。
朝鮮史を中心とした古代アジア史の専門家である門田氏は、まず百済最後の都である扶余の王陵とされる陵山寺古墳の西側で遺跡が発見された陵山寺に着目します。この遺跡からは、工房の跡や技術の粋を凝らした見事な金銅の香炉などが出ており、木塔心楚石の周囲から、威徳王の代の567年に「妹兄公主」が舎利を供養した銘文が刻された花崗岩製の舎利龕が発見され、話題になりました。
同じく扶余に建立されたのが、木塔・金堂・講堂が南北に並ぶ、つまり四天王寺式の先行例である王興寺であって、この遺跡から出土した舎利容器に刻された銘文によれば、丁酉2年(577)に「百済王昌」が亡き王子のために刹を立てた際、舎利が神変を起こしたとされています。王興寺の造塔は亡き父王のためのものであり、下で述べる梁武帝の亡父のための造寺と一致することは、既に指摘されています。
扶余以外の地では、益山の弥勒寺跡では、「百済王后」が己亥の年(639)に夫の武王と王后の長寿、子孫の福利、仏道成就を祈って伽藍を造成し、舎利を奉安したことを記す金製の奉安記が発見されています。
これらの王室の祈願寺では、亡父や亡くなった息子の追福、王と王后の長寿や子孫の繁栄などが願われているわけですが、ここで門田氏は中国南北朝の王族の例を見ます。すると、やはり多いのは、身内の追福のための造寺です。百済が手本とした南朝の梁の場合、武帝は父のために皇基寺を建て、さらに父母のために大愛敬寺と大智度寺を建てています。
北朝の追福の例としては、北魏の廃仏を改めて仏教を復興した孝文帝が、先帝の追善のために永寧寺で100人の僧侶を得度させたことが知られています。ただ、門田氏は「自らも剃髪し、僧服を施与した」(5頁)と述べていますが、原文の「為剃髪」は「剃髪を為す」ではなく、「為(ため)に剃髪す」であって、孝文帝が得度を許した者たちのために、相撲の断髪式のような形で100人の髪をちょっとだけ切ったということですね。
その孝文帝は、母の追善のために報徳寺があり、孝文帝の后は自らの母のために秦太上君という号を送り、秦太上君寺を建てています。
北魏では、『洛陽伽藍記』が示すように、王族が死んだ際、その邸宅を改めて寺とした例がいくつもあるほか、邸宅を寺とする「捨宅為寺」の風が盛んであって、様ざまなタイプがあった由。そこで門田氏は、南北朝の捨宅寺院の例を多くあげています。
一方、日本の場合、最初の寺は、蘇我稲目が「向原の家を浄捨して寺と為」した向原寺ですね。向原は、「元興寺縁起」では「牟久原(むくはら)」と記されています。この「元興寺縁起」については、疑われることが多かったのですが、最近では史実を反映した部分もあることが認められるようになりつつあります。
問題は、『日本書紀』によれば、飛鳥寺(法興寺)と四天王寺は、守屋との合戦に際して、厩戸皇子と馬子が戦勝を願って誓願し、勝ったために建立したとされていることです。門屋氏は、この誓願については私の誓願論文(こちら)を引いて説明していました(有難うございます)。
そこで門田氏は、飛鳥寺と四天王寺は、百済や中国南北朝の寺と建立の性格が違うとするのですが、さてどうでしょう。
『日本書紀』の問題点は、四天王寺系の資料に依ったため、斑鳩寺を無視していることです。斑鳩寺は、父の用明天皇の追善のための寺であって、百済や中国の例と違っていません。また、飛鳥寺がいかに百済の王興寺の影響を受けていたかは、この15年ほどでかなり明らかになってきています。
そうでありながら、その飛鳥寺の建立の目的が戦勝のための誓願を果たすためだったとは考えにくいところです。また、飛鳥寺は蘇我氏が建てたとはいえ、稻目の追善のための寺とする記録がなく、また、蘇我氏の仏教信仰と寺院建立は、蘇我氏が担当した職務の一つであったことを考えると、天皇の長寿を祈るためという点が大きかったのではないでしょうか。
つまり、いわゆる氏寺ではなく、氏族が建立した公的な寺という過渡期の性格を持っていたように思われるのです。『日本書紀』のこの時期の仏教関連記事は、四天王寺系の資料が重視されているということを考慮したうえで検討していくべきであるように思われます。
むろん、『日本霊異記』日本霊異記』上巻「亀の命を贖ひて放生し現報を得て亀に助けらえし縁」では、百済を救うために派遣されることになった備後の豪族が、無事に帰れたら神々のために寺を建てますと誓って出かけたところ、無事に帰国できたので寺を作って盛大な供養をしたとされており、そうしたことがありえることが私も論文を書いています。
ただ、『日本書紀』の物部合戦時における誓願の記述は、あまりにも劇的であって、四天王寺で語られていた縁起に基づく点が多いように思われるのです。飛鳥寺の建立と四天王寺の建立は、分けて考えるべきだろうというのが私の見通しです。
もう一つ注意すべきは、『日本書紀』は蘇我氏が仏教を受容したという点を強調しているため、百済に派遣された大別王が、また蘇我氏が奉仏の最初であることを強調するため、敏達6年(577)に百済に派遣された大別王が百済王から「経論若干巻、律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工六人」を与えられ、「難波の大別王の寺」に安置したことが重視されていないことです。
なお、造寺造像は近親の追福のためである場合が多いのは確かですが、北朝の碑文では、まず皇帝などの長寿を祈った後、家族の追福を願う形が多いことも考えるべきですね。北朝のそうした碑文については、倉本尚徳さんが詳細な研究をしてますので、いずれ紹介しましょう。