聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「聖徳太子はいなかった」説を否定する珍しい歴史番組が放送されました(現在も視聴可能)

2022年07月04日 | 論文・研究書紹介

 タイトル通りの番組が7月3日夜9時から1時間にわたって放送されました。フリーアナウンサーでタレントでもある岡副麻希さん(ご結婚、おめでとうございます)と、歴史家の河合敦さんが進行役をつとめるBS松竹東急の歴史番組、「号外!日本史スクープ砲」です。

 文春砲のような扱いで、日本史に関する意外な事実をわかりやすく伝えていくという番組ですね。

 今回は、「やはり聖徳太子は実在した?!太子研究最前線」という題名が示すように、私の本を読み、この「聖徳太子研究の最前線」ブログを見てくれたディレクターの方が大学経由で連絡してきてくださり、あれこれ話しあって企画がスタートしました。

 ただ、笑いや芸能について盛んに書いていることが示すように、私は冗談好きなお調子者であり、テレビに出るようになったらはしゃいでしまって研究しなくなるであろうことを見抜いていた恩師の平川彰先生から、「石井君、テレビには出ない方がいいぞ」と釘をさされていたため、以後もご命令を守ってテレビ出演はすべて断ってきました(平川門下で、テレビの宗教番組などによく出るようになって有名になり、謝金が高い講演ばかりやるようになって研究しなくなった先輩が当時いたのが原因でしょう)。

 そのため、バラエティ番組を含む数多くの聖徳太子関連番組では、出演はせず、研究状況の説明や資料の提供をしたり、出演者の人選の相談に乗ったり、太子クイズのチェックなどをしてきただけです。今回も同様ですが、SATによる検索のところでは、ちょっとだけ私の研究の紹介がなされ、写真も出ています。

 さて、河合氏については、教科書における聖徳太子の名の表記の変化について説明する際、大山氏の太子虚構説の影響であるとしてそれが最新の学説であるように語っていたため、このブログで批判し、ご当人に伝えていただいたことがあります。

 そうでありながら、今回はこうした番組を担当してくれていますので、感謝したいところです。研究の進展によって学説は変化しますし。なお、この番組はネットで無料で配信されていますので、今回の放送も2023年1月2日まで公式版(権利関係により、一部の画像はカット)を見ることができます(こちら)。

 さて、番組では最初に「いなかった説」が生まれてきた背景が説明され、これがかなりの量(半分近く?)を占めていました。状況を説明したのは、奈良大学の相原嘉之氏。相原氏は、このブログでも取り上げたことがあるように、考古学が専門であって飛鳥などの発掘に関わってきた研究者です。

 なお、釈迦三尊像について説明する際、太子の妻である膳菩岐岐美郎女をCG画像で出し、ナレーションではこの妻が太子の病気回復を願って作ったと語っていましたが、発願したのは一人ではなく、「王后王子等、及び諸臣」ですね。

 また、いなかった説の背景を説明する際、相原氏は、『日本書紀』では太子は三経義疏を書いて広めようとしたと書いてある、と語っていました。考古学が専門なので無理もないのですが、『日本書紀』では『勝鬘経』と『法華経』を講経したとあるだけで、注釈作成には触れていません。

 ついで、このブログで本や論文を紹介したことがある太子実在派の研究者6人が登場し、「いなかった説」に反論していきます。最初は、大平聡氏。

 大平氏は、太子の伝説は信じがたいようだが、ゼロから創作したのではなく、そこには「芯」があり、何らかの実体に基づいて脚色されていった場合も多いはずと論じます。たとえば、『日本書紀』では冠位十二階の制定者について記していないが、古い要素を残す『上宮聖徳法王帝説』では、推古天皇を補弼した上宮厩戸豊聡耳命(太子)と嶋大臣(馬子)が爵位十二級を定めたと記してあるのがその一例だとします。

 次に、仁藤敦史氏が、「憲法十七条」は「国司」という言葉が後のものだとして問題にされてきたが、当時は諸国に派遣される「くにのみこともち」という役職があり、これが後に「国司」と記されたのであって、「憲法十七条」の内容は推古朝に合っているとします。

 次に、「いなかった説」を紹介してきた相原氏が、実在説の立場から語り、釈迦三尊像銘で「法興」とう年号があるのはおかしいという批判に対し、東野治之氏の説を紹介し、古代韓国でも限定的に使われた年号があるので不思議はないとします。そして、斑鳩寺は焼けたのに釈迦三尊像が残るのは不自然とする説については、発願した膳氏の邸か寺にあったのであって、それが再建法隆寺に持ち込まれた可能性を説きます。

 次に、このブログでも三経義疏研究を紹介した木村整民氏(こちら)が、三経義疏には多くの仏教文献の中で三経義疏にだけ共通して出てくる語句があることを、SAT(大正新脩大蔵経テキストデータベース。こちら)を使ってパソコン検索してみせ、同一人物の作である証拠として説明していました。これには岡副さんも「すごい!」と驚いていましたね。

 なお、ナレーションでは、SATについて「駒澤大学の石井公成先生がチームを結成して作った」と述べていましたが、仏教文献の電子化を呼びかけたのは早稲田の大学院の東洋哲学専攻で私の後輩であった清水光幸氏です。彼がいろいろな実験をして宣伝したものの、パソコンでは漢字が少ししか扱えない時期だったため、平川先生が科研費を得て、とりあえず論文データベースから作成にとりかかりました。

 大正新脩大蔵経のテキストデータベース化に取り組んだのは、平川先生の弟子であった東大の江島恵教先生でした(両先生は意見が合わず……)。江島先生が急逝された後は、その弟子であった東大の下田正弘さんが代表となり、苦労してこのプロジェクトを推進しましたが、下田さんと中心メンバーであった私は、このプロジェクトを続けるために、艱難辛苦いかばかりだったか……。奈良康明先生が大変な助力をしてくださった件を含め、いつか裏話を書きましょう。

 ともかく、私がSATチームを組織したのではなく、私はその中心メンバーの1人であったにとどまりますし、かなり前に離れてしまったため、現在のシステムは公開当時のものとはかなり違って高機能になっています。そのデータを自在に検索するシステムであるNGSMについては、私が提案し、SATの技術面のリーダーも務めた師茂樹さんを初めとする漢字文献情報処理研究会の仲間たちで作成した、というのが実際のところです。

 なお、木村氏は、『法華義疏』には訂正が多いため、太子が自分で訂正されていったといった説明をされていましたが、これについては私は別意見でであって、このブログでも書きました。

 次は、早くから大山説を批判していた遠山美都男氏。太子は馬子との権力闘争に敗れて斑鳩に引っ込んだのではなく、外交のために難波の港に近い斑鳩に移住したのであって、外務大臣のような役割をつとめたのであり、政治的に有力な皇子であったと論じます。

 次は、以前、別な太子番組でも私に代わって出演してくれた仏教外交史の河上麻由子さん。遣隋使は太子の仕事ではあるが「対等外交」ではなく、仏教を学ぶためのものであったと論じます。

 こうした6人もの太子研究の代表的な研究者が「よく出てくださったなと思う」と感謝していた河合氏は、このように研究が進んでいるため、教科書も今後は変わっていく可能性があると説いてしめくくっていました。

 画面右上には、健康食品のCMでの「これは個人的な感想です」みたいな注意の感じで、「今回紹介された説には諸説があります。また今後の研究によって変わる可能性もあります」という注意が表記されていましたね。

 私が全面的に内容チェックしたわけではないため、細かいところについては、やや問題のあるナレーションなどもありましたが、「いなかった説」が「意外な最近の新説」とか「近年の定説」として紹介されることが多いテレビ番組で、こうした「いなかった説」批判の最新の研究状況がこれだけ詳しく紹介されたのは画期的なことです。テレビの扱いも教科書の記述も、今後は徐々に変わっていくでしょう。

 なお、守屋との合戦に臨む太子の姿がCGで描かれていましたが、太子が彫って作った四天王の木像を鉢巻で兜にくくりつけたようになっており、これだと八つ墓村になってしまいます。インド仏教の場合、お守りとなる像は小さなものを頭の髪の中に入れておくのが普通ですね。