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倭国の官人の仏教知識(研究に必要な仏教知識と検索法):上川通夫「六、七世紀における仏書導入」

2021年09月26日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子の『勝鬘経』講経やその著と伝えられてきた三経義疏が疑われたのは、この時期の倭国は仏教がまだ定着しておらず、僧侶でもない皇子が講経したり経典注釈を書いたするのは無理とされたためです。

 この時期の仏教理解の程度について考えるうえで有益なのが、

上川通夫「六、七世紀における仏書導入」
(山尾幸久編『古代日本の民族・国家・思想』、塙書房、2021年)

です。この論文は、タイトル通りの検討をしているのですが、聖徳太子に関わる部分だけ紹介しておきます。

 中世仏教史が専門であって、この論文では古代仏教に取り組んでいる上川氏は、まず、『日本書紀』欽明15年(554)2月条に、五経博士の馬丁安、僧の道深ら7人、易博士の王道良、暦博士の王保孫、医博士の王有仏㥄、採薬師の藩量豊・丁有陀、楽人の三斤・己麻次たちが次に来た者たちと交代して帰っていることに注意します。氏は、馬・王・藩・丁らの一団の多くは、山尾幸久氏の説に基づいて、中国南朝人であろうとします。

 南朝系という点は確かでしょうが、親や祖父や曾祖父などの代に百済に移住してきた者や百済人との混血の者も含まれているでしょう。また、王有仏㥄などのように中国人とは思われない名前も混ざっていますので、インド・中央アジア・東南アジア系の技術者、あるいは百済におけるその子孫が含まれている可能性もありますね。

 この時期の商人や技術者の国際的な活動はすさまじいいものであって、中央アジアのソグド商人などは、中国・インド・ベトナムなどにまで渡っています。僧侶は、そうした商人とともに旅したのです。

 上川氏は、導入期の仏教は呪術的で未熟だったとする見方が根強いものの、新技術を強く求めていた当時の倭国の状況から見て、仏教についても百済から専門家が派遣されている以上、漢訳経典が手本の一部となり、思想的な関心が生じたことも想像できると述べています。

 これは賛成ですね。『日本書紀』は、仏教導入に関する蘇我馬子の業績を強調していますが、これは馬子を賞賛してその業績を説く伝記が既にできていたためと思われますので、実際には馬子以前から仏教は多少導入されていたと思われます。

 上川氏は、隋に派遣された小野妹子は、出身地に近い琵琶湖南西岸に居住する南朝人や南朝文化を体得した百済人の後裔である志賀(滋賀)の漢人たちとの交流があったものと見ます。そして、妹子と通事の鞍作福利は、煬帝が大乗菩薩戒を受けていることを知ったうえで「菩薩天子」の語を用いて挨拶したと見ます。

 その是非はともかく、注目されるのは、妹子の一行には会丞と呼ばれる官人が加わっていたことです。氏は、唐の道世の『法苑珠林』によれば、妹子が帰国したのちも会丞はとどまり、「「学問」して「内外」(世俗と仏教)を博く学んだ。唐貞観五年(六三一)に還ったという。……遣隋使犬上御田鋤らに伴われたのであろう」と述べます。

 そして、会丞が帰国する前に、長安の大徳が会丞に倭国の仏教事情を問い、インドの阿育王が仏舎利を分けて世界中の国に八万四千の塔を建てたが、倭国にも伝わっていたかと尋ねたため、「会丞は、この問答を通じて、阿育王(塔)」などのことを知り、仏教が根付いた隋王朝や「晩れた倭国の位置を思い描いたであろう」と説いています。

 会丞は、「仏教が伝わる以前は文字がなかったので記録はない」が、倭国人が土地を開発するとしばしば「古塔霊盤・仏諸儀相」が掘り出され、「神光」を放つなどの奇瑞たあるため、倭国にも阿育王塔が存在したと答えており、上川氏は銅鐸を考えたのかもしれないとします。

 興味深い指摘ですが、『法苑珠林』の文章の読み方で、状況がかなり変わってきます。つまり、会丞が隋で学んで初めて阿育王塔のことを知ったのか、倭国にいた時から仏教の知識がある程度あって、阿育王塔のことも知っていたのか、という問題です。

 原文は、「隋大業初、彼国官人会丞来此学問、內外博知」ですので、素直に読めば、隋に来て学問し、内典(漢訳経典と注釈その他の仏教文献)と外典(儒教その他の中国の書物)に広く通じるようになった、です。ただ、「学問しにやってきたが、内典と外典に広く通じていた(ような優秀な人材だったからこそ隋での学問も進んだ)」であれば、僧侶でない官人であるのに既に仏教にかなり通じていたということになり、倭国の仏教の水準を考えなおさないといけなくなります。

 また、会丞の回答のうち、「彼国文字不説、無所承拠」は、倭国の文献はそれについて説いておらず、またよりどころとなる(口頭の)伝承も無い、の意味でしょう。仏教以前は文字が無かったというのは、『隋書』倭国伝が、倭国は文字が無く、百済から仏教経典を得て、「始めて文字有り」と記していることに基づいているのでしょうが、資料はあくまでも原文を正確に読むのが第一であって、解釈はその後のことです。

 そもそも、大業年間(605-618)の初め頃、すなわち607年に遣隋使が送られたのは、「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興す(重興仏法)」と聞き、仏教外交をおこなって僧侶を留学させたり書物を導入したりするためでした。「重ねて興す」というのですから、廃仏をおこなった北周にとって代わって隋朝を創始した文帝が仏教を盛大に復興させ、それを継いだ煬帝も「重ねて」仏教復興に力を入れていることを倭国は聞き知っていたことになります。

 そうであれば、文帝が諸国に塔を建てたとされる阿育王を気取り、仁寿年間(601-604)に3度にわたって自分の誕生日に総計114基とも言われる多数の舎利塔を各地に建設させたことを、倭国が知らなかったはずはありません。文帝は、支配していたベトナムにまで塔を建てさせており、ハノイ近辺で最近発見されたその塔の石碑については、現地の研究者と調査した河上麻由子さんが論文を書いています。

 また、大規模な工事をすると古代の遺物かと思われるものが出土し、それが仏教の伝承と結びつけられることは、良くあったようです。高麗の『三国遺事』が、新羅の皇龍寺裏の奇妙な形の石柱は釈迦仏以前の迦葉仏がはるか昔にここで坐禅した石だとする伝承を伝えているのは、その一例です。

 なお、上川氏は、『梁書』百済伝では、百済王の使節が「涅槃等経義、毛詩博士并工匠・画師等」を請うたので与えたとある記事に着目し、「梁から百済へは『毛詩』『涅槃経』が下賜された」と述べ、『日本書紀』欽明六年九月条に記される百済聖明王が欽明天皇に送るために仏像を制作し、「願文」で「普天之下、一切衆生皆蒙解脱」と述べたという箇所について、これは『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」を考慮したものと説いています。

 しかし、百済の使節が請うたのは「涅槃等経義」、つまり、『涅槃経』などの経典の「義」なのですから、これはしきりに講経をして家僧(家庭教師役の学僧)の支援を得つつ注釈も書いていた梁の武帝による『涅槃経』や他の経典の「義(注釈)」の下賜を願ったものと見るべきでしょう。それでこそ、講経や注釈に自信を持っていた武帝を喜ばせ、外交がうまくいくことになるわけです。南朝仏教では『涅槃経』が最も尊重されていたのですがから、南朝仏教を手本としてきた百済には、『涅槃経』は既に導入されていたでしょう。

 また、すべての衆生の安楽を願うのは、小乗仏教を含めた願文の通例ですし、「一切衆生皆蒙解脱」の句は、広く読まれた隋の闍那崛多訳の仏伝、『仏本行集経』の一節です(大正3・697b)。「皆蒙解脱」の語だけなら、『無量寿経』『大智度論』その他の経論に見えています。

 また、「普天之下」が問題です。これは、聖明王の願文に実際にそう書かれていたか、『日本書紀』編者が作文したか(元となる資料に既にあったか)はともかく、「普天の下、王土にあらざるなし」という儒教の常識に基づき、欽明天皇が統治する土地の衆生がすべて解脱を得られますように、と願うものであって、人々の成仏を認める大乗仏教に基づくことは確かですが、『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」説とは直接の関係はありません(なお、『涅槃経』の「仏性」という訳語の中国風な性格については、論文で指摘しておきました。こちら)。

 つまり、上川氏が仏書導入という視点で古代仏教を見直そうとされたことは有意義な試みであり、特に7世紀半ば以後の状況に関する考察は有益なのですが、仏教の知識を踏まえたうえで原文を正確に読むことが大事なのであって、そうでないと、史実とは微妙にずれた結論が導かれることになるのです。

 上川氏のこの論文の場合、依拠した日本仏教史研究者たちの論文が既にそうなっており、氏の責任ではない場合も多いのですが、いずれにしても、古代や中世の文献は、仏教の知識や最新の仏教学の成果に関する知識を持ち、仏典の電子データを活用しないと正しく読めないのです。

 先日刊行されたばかりである『源氏物語(九)』(岩波文庫、2021年9月)の末尾の藤井貞和氏の解説が、その良い例です。藤井氏は、『源氏物語』最終巻である「夢の浮橋」において、行方不明になっていた最愛の浮舟が宇治川に身投げしようとして救われ、尼となって比叡山の横川の僧都の庇護のもとで仏教修行に励んでおり、それを横川の僧都がもらしてしまったことによって状況を知った薫は、自らも早くから比叡山などでの仏教修行を願っておりながらも浮舟に対する愛執の念を強め、

  法(のり)の師と尋ぬる道をしるべにて思はぬ山に踏みまどふかな

と詠んだ歌について、「悩みのない山(出家入山する山)ならぬ、あなたを思う山路に足を踏み入れて迷うことだよな」と説明しています。

 しかし、無憂樹なら「物思いの無い樹」ですが、「思はぬ山」だと、思いがけない山の意となりますし、この歌が踏まえていると氏がみなす古歌もそうなっています。

 もともと比叡山などで修行したいと考えていた薫は、仏法の導き手となるはずの法師、それもほかでもない比叡山の高僧によって浮舟が生きていたことを知ってしまった結果、比叡山ならぬ思いがけない愛執の山、つまり煩悩の山に足を踏み入れて迷ってしまった、ということでしょう。

 実際、地獄の描写で有名であって平安貴族にはおなじみであった『正法念処経』には、「煩悩の山」という言い方がいくつも出てきます。その他の経典にもこの語は見えますし、似た表現は経典には多いため、はずです。これは、聖徳太子研究の場合も同様です。

 SAT(大正大蔵経テキストデータベース)で「無思山」や「無憂山」などで検索すれば、前者は用例が無いこと、後者は唐の栖復の『法華経玄義要集』が『正法念処経』に言う「如意山」のことを「無憂山」とも名付けるが、それは快楽と衣食が天人と同じだからであって、この山に入る者は、「皆な快楽するが故」だと説いているのが『源氏物語』以前の例ですが、文脈が合わないことが分かります。

 逆に地獄の詳細な描写で平安貴族には馴染み深かったその『正法念処経』で「山」を検索すれば、「煩悩山」という表現が多数見えており、類似した表現も多いことが分かったでしょう。

 SATの作成・公開メンバーの一人であって、広範な仏教文献データベースである台湾のCBETAとも以前は交流して協力しあい、強力な文献比較ツールであるNGSMを仲間たちで開発し(三経義疏を扱った例は、こちら)、かつ、『源氏物語』における仏教表現のデータベースも作成したことがある身としては、古代の史書や文学書における仏教の要素を正確に理解するために必要な知識や検察のコツなどを、何とかして広めたいところです。

【付記】
朝方、公開しましたが、題名を一部変更し、本文では補足の説明を加えました。

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