聖徳太子研究の最前線

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実物を見てこそ分かった法隆寺の瓦と近江の瓦の前後関係:北村圭弘「栗東市蜂屋遺跡から出土した忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」

2021年09月14日 | 論文・研究書紹介
 少し前に、法隆寺金堂の薬師如来像の台座裏に描かれた画を復元調査し、新しい知見を報告された東京国立博物館の三田覚之氏の論文を紹介しました。そして、実物調査の重要性を強調し、活字になった文献だけ見てあれこれ想像する時代ではないと述べました(こちら)。

 むろん、写本であれ仏像であれ、実物を間近で見て調査できる人は限られています。私にしても、『法華義疏』の御物本が博物館で公開される時は見に行くようにしていますが、ふだん三経義疏の内容を検討する場合は、戦後刊行された四天王寺版の会本(活字本)で読んでいますし、検索は大正大蔵経の電子テキスト(文字は一部訂正しました)でやっています。

 ただ、巻物仕立てになっている吉川弘文館の非常に精密な『法華義疏』の複製(四巻)はずっと前に購入して眺めており、大学院で『勝鬘経義疏』を1年間講読した際は、院生たちに原物の感じをつかんでもらうため、その『法華義疏』の複製本も少し読んだりしました。

 モノクロですので、実物やカラー写真には及びませんが、それでも活字本ではわからないことが見えてきます。実際、前回紹介した中島壌治氏のすぐれた『法華義疏』書写者研究も、吉川弘文館の複製本で検討しています。

 ただ、可能であれば一部だけでも実物を、無理ならできるだけ実物に近い形のものを見るよう心がけるべきですし、少なくとも、実地調査した人の報告に注意すべきでしょう。活字本、それも現代語訳や近代になってからの訓読だけ見てあれこれ言うのは危険きわまりないことです。

 そこで今回は、写真だけでは分からず、実物を手にして初めて分かった事例の報告を紹介しておきます。雑誌論文ではなく、滋賀県文化財協会保護協会のサイトの連載記事の一つです。

北村圭弘「(調査員のオススメの逸品 第248回)栗東市蜂屋遺跡から出土した忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」(2018年12月19日公開、こちら

 近江は聖徳太子や法隆寺に関わる伝承が多い土地ですが、琵琶湖南西に位置する栗東市の蜂屋遺跡で平成30年におこなわれた発掘調査では、法隆寺の瓦と同笵の瓦(以下、蜂屋瓦)の破片、しかも再建法隆寺の瓦だけでなく、若草伽藍の瓦と同じものが発見されています。

 同じ瓦笵で作成したものと気づいたのは、この報告を書いた北村氏です。実は、安土城考古博物館の平成20年度春期特別展「仏法の初め、茲(これ)より作(おこ)れり」に若草伽藍で出土した忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(以下、法隆寺瓦)が展示されており、北村氏はこの特別展の開催に関わっていたため、印象が強かったのです。

 ただ、蜂屋遺跡のこの瓦は若草伽藍の瓦と同笵だと直観したものの、展覧会の図録の写真や他の本に掲載されている法隆寺瓦の写真と比べると、蜂屋遺跡の瓦は范傷が少ないように見えた由。

 このタイプの忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦は、法隆寺に近接する中宮寺でも出土しており(以下、中宮寺瓦)、范傷の少なさから見て中宮寺瓦が先に作成されていたと推定されています。すると、中宮寺瓦→蜂屋瓦→法隆寺瓦、という順序で瓦笵が移動したことになります。

 不思議に思った北村氏は、蜂屋瓦を持って斑鳩町教育委員会と奈良文化財研究所を訪ね、法隆寺瓦との実物照合をおこなったところ、妙なことに気づいたそうです。法隆寺瓦は蜂屋瓦を作成した後に使われ、傷が増えた瓦笵で作られたはずでありながら、蜂屋瓦にある多くの傷のうちには法隆寺瓦には見当たらないものがあったのです。

 さらに細かく観察すると、法隆寺瓦には、特定の箇所の范傷が無いタイプとあるタイプがあり、前者が古段階、後者が新段階に分けられること、そして蜂屋瓦にはその箇所に范傷が認められ、他にも傷が見られることが分かりました。となると、蜂屋瓦は法隆寺瓦の新段階より後ということになります。

 そこで、法隆寺瓦と蜂屋瓦の実物を比較検討すると、法隆寺瓦の新段階で傷みが目立ってきた部分を削って修正した瓦笵でもって蜂屋瓦を作成したことが判明したのです。つまり、法隆寺瓦を作り終えて瓦笵の傷みが進んだ段階で、傷みのひどい部分を補修し、その瓦笵によって蜂屋瓦を作成したのですが、補修した箇所以外の范傷はそのまま残り、使っているうちにさらに傷が増えたということです。

 北村氏は、中宮寺瓦の実物調査はできていないものの、この結果から見て、これまでは「中宮寺瓦→法隆寺瓦」という順序で進んだと考えられてきたが、実際は「法隆寺瓦の古段階(中宮寺瓦)→法隆寺瓦の新段階→蜂屋瓦」という新古関係が想定できそうだ、と述べています。

 現時点では蜂屋瓦は出土数が少ないため、北村氏は、この地で作ったのではなく、大和でつくった瓦を近江に運び込んだことも考えられると述べています。さて、どうでしょう。中宮寺の瓦については、少し前の記事でふれました(こちら)。中宮寺については、別に書きます。

 北村氏は、この「物部郷と法隆寺の関係は、これまで想像していた以上に深そうです」と述べて、この報告を締めくくっています。

 蜂屋遺跡のある地は『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平19年)が近江にある「荘倉」としてあげている「栗田郡物部郷」と推定されています。守屋合戦の後に、聖徳太子の領地となった可能性がある土地ですね。

 なお、蜂屋遺跡については、若草伽藍と同笵の瓦は2点のみであって、再建法隆寺の瓦が多数出ています。発掘を担当し、北村氏と同道して斑鳩町教育委員会・奈良文化財研究所に調査に行った宮村誠二氏の論文が、北村氏のこの記事の後に刊行されているため、そのうち紹介しましょう。これは、若草伽藍および再建法隆寺がどの地域のどの豪族によって支えられていたか、どの地域に荘倉を有していたかを知る材料になりますので。