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聖徳太子研究の最前線

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若草伽藍の塔の工事中断期は推古紀の太子記事空白期と一致?:林正憲「若草伽藍から西院伽藍へ」

2021年09月03日 | 論文・研究書紹介
 少し前に、古代寺院の瓦や瓦窯跡に関する小笠原好彦氏の最近の本を紹介しましたが(こちら)、この本では、奥山久米寺廃寺などの説明に力を入れる一方、若草伽藍および再建された現在の法隆寺については、論文などが多数出ていてある程度知られているためか、簡単な説明にとどまっていました。
 
 そこで、今回はその若草伽藍などの発掘調査に携わってきた奈良文化財研究所の報告のうち、瓦に関する報告を紹介しておきます。

林正憲「若草伽藍から西院伽藍へー年代論の再整理」
(『奈良文化財研究所学報第76冊 法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告』、2007年)

です。

 林氏は、法隆寺昭和資財帳編集委員会編『昭和資財帳第15巻 法隆寺の至宝 瓦』(1992年。以後、『至宝』と略)の分類、つまり、前期は592~622年、中期は622~643年、後期は643~670年という瓦の時代設定を紹介し、その時の調査以後、明らかになった知見を整理します。前期は太子の生存時代、中期は以後、上宮王家滅亡までの時代、後期は若草伽藍焼失までの時代ですね。

 まず、若草伽藍から出土した前期の瓦で最も古いものは、飛鳥寺の創建期に塔・金堂で用いられた瓦の瓦笵が豊浦寺創建時に改范されて用いられた後、若草伽藍の金堂を建てる際に用いて作られたものです。若草伽藍の金堂の軒丸瓦を作った瓦笵は、須恵器を焼いていた楠葉平野山瓦窯にもたらされ、傷みが進んだその瓦笵で作られた瓦が四天王寺の金堂に用いられたことが知られています。

 楠葉平野山瓦窯で瓦と一緒に出土する須恵器は、610~620年頃のものと見られているため、若草伽藍の金堂は607年から610年頃には完成していたと林氏は推測します。斑鳩宮の造営が始まったのが推古天皇9年(601)、太子が移り住んだのが推古天皇13年(605)ですから、それまでに宮が完成し、それから数年で金堂が完成したことになります。

 林氏は、薬師如来像の光背銘には「丁卯年(607)」に造られたとされているため、金堂は607~610年頃にはできていたものと推測します。この薬師如来像については異説も多く、光背銘も追刻とする説もあるのですが、銘文は追刻であって内容は後の作であっても、法隆寺では607年という年が由緒ある数字として伝えられていた可能性があると説く研究者もいますので、林氏はそうした説に従っているのでしょう。

 ところが、若草伽藍の塔は瓦の変化から見て、造営がかなり遅れるのです。『至宝』では、太子の没年である622年頃としていました。林氏は、自らの検討によっても620年代におさまると説いています。つまり、太子の生前に完成していたのは金堂だけであって、亡くなる頃は、塔の工事が始まろうとしていたか、工事途上か、太子逝去にぎりぎり間に合って完成したか、という状況だったことになります。

 となると、金堂の完成と塔の造営の間の10年ほどの空白期間があることになりますが、この期間は『日本書紀』でも厩戸皇子に関する記述がない時期と重なることに林氏は注意し、何らかの事情があったものと見ます。

 これは興味深い指摘ですね。ただ、四天王寺金堂の造営は始まっていたわけですから、若草伽藍の塔の建設を後回しにして、四天王寺金堂の方に注力したのか。それにしても、この時期の推古紀には厩戸皇子の活動が見えないことは事実なのですから、いろいろ考えてみないといけない問題ですね。

 なお、若草伽藍跡から出土する中期の多様な瓦のセットの中には、若草伽藍用の瓦笵が多少改められて中宮寺の瓦を作るために用いられ、逆にそうした瓦が若草伽藍の補修用に持ち込まれたと推定されるものがある由。

 若草伽藍の中期の軒丸瓦のうち、7A形式と呼ばれる瓦は、上宮王家と関係深い奥山久米寺廃寺のⅣA形式の瓦の祖型となったとされています。このⅣA形式の瓦は、播磨の高岡(高丘)窯で630年代に焼かれているため、その元となった7A形式の軒丸瓦は、630年代初期には成立していたことになります。

 その7A形式とセットになる213B形式の瓦は、中宮寺で用いられたセットと同時代のものと推定されています。興味深いのは、その瓦を作成した押し型は、若草伽藍で使用された後、舒明天皇発願の百済大寺や木之本廃寺の瓦で使用されていると、林氏が述べていることです。

 百済大寺は、舒明11年(639)に造営開始とされていますが、舒明天皇(田村皇子)は、山背大兄との競争に勝って天皇となっています。山背大兄が管理していた上宮王家の土地や資産は、643年の上宮王家の滅亡後に舒明天皇が受け継いだのでしょうが、厩戸皇子が秦河勝に仏像を与えたように、それより以前に、厩戸皇子→田村皇子という形で受け継がれた部分もある可能性を考える必要がありますね。

 問題は、再建法隆寺です。650年に金堂の四天王像が造られていることから見て、上宮王家滅亡後も若草伽藍の活動は続いていたことは明らかであるものの、林氏は、『至宝』が後期とする時期には新たなタイプの瓦の生産がおこなわれていないことに注意します。上宮王家滅亡後は、若草伽藍は維持されてはいたものの、活動は低調だったと見るのです。

 天智9年(670)に斑鳩寺(若草伽藍)が焼失したことは、東野治之氏が論証したように、史料的に疑いないとします。そして、金堂に用いられた木材には、年輪鑑定によって668~669年に伐採されたものが含まれており、焼失前に伐採されたものがあることを認めつつ、瓦から見ても西院伽藍の金堂造営は若草伽藍焼失より遡ることはないとします。

 となると、何かの建物のために準備が始まっていた木材が、法隆寺再建のために使われたということになります。林氏は、再建金堂の礎石には若草伽藍の礎石が転用されているものがあることなどから、若草伽藍焼失後に再建があわただしく始まったと推測しています。

 その再建、すなわち現在の西院伽藍の造営は金堂から始められたものの、続いて建立された五重塔については、初重部分の扉口の柱や壁などに風触痕が見られるため、建設途中で工事が中断していた時期があることが知られています
 
 この中断期間については、「数十年」とか「十数年」とかの諸説があるのですが、林氏は、塔の二重目以上の部材については風触痕が見られないため、中断期以前に瓦が既に葺かれており、工事再開以後に初重の外側に板葺きの裳階が造られたと見ます。そして、中断の原因については、天武8年(679)の食封300戸の停止だったと推測します。

 瓦以外での、こうした造営の順序を推定するうえで役立つのが、屋根を支える雲肘木の形式です。西院伽藍の金堂の雲肘木は複雑な形になっているものの、五重塔では簡略になっていますが、塔の二層目の雲肘木の年輪年代は673年であって、金堂の創建年代に近い数字となっています。さらに、中門の雲肘木は法輪寺三重塔の雲肘木に近く、塔の雲肘木より簡略化が進んでいる点で、金堂→塔→中門→回廊という順序で進む瓦の変化とも対応するのです。

 そして、焼失してまもなく再建工事が始まって金堂が造営されたものの、塔の工事は始まってから一時期中断され、再開した後の690年頃に中門の建設が開始され、中門が完成する頃に回廊部分の整地がなされて回廊が建設され、711年にようやく再建が完了したと見るのです。

 この間の時期には、唐の建築様式をとりいれた川原寺や本薬師寺などが建設されていますが、再建法隆寺にはそうした影響が見られないことに林氏は注意します。斑鳩地域の造寺では、古い方式に従いつつ、その枠内で進展していった技術が用いられたのです。

 なお、聖徳太子の神格化については、天武天皇(在位673-686)が進めたと考える研究者たちもいますが、林氏は、天武天皇の病気にともなう誦経や崩御後の無遮大会などが大官大寺や飛鳥寺・川原寺でおこなわれたにもかかわらず、法隆寺ではおこなわれていない点から見て、この時期の法隆寺の再建を支えたのは天武天皇ではなく、命過幡などを納めた法隆寺周辺の氏族たちだったと推定します。

 また、法隆寺は瀬戸内沿岸に多くの所領を有していましたが、そうした土地以外の場所の遺跡から法隆寺式の瓦が出土することから見て、林氏は、法隆寺を支えた斑鳩の有力氏族と関係の深い瀬戸内の氏族が法隆寺再建を支援し、そうしたつながりの中で法隆寺式の瓦が広まっていったと推測します。徳島の西原瓦窯から、西院伽藍で用いられている瓦と同笵で范傷が進んだものが出ているのは、塔の建設中断期に瓦笵がこの地に移動したためと説くのです。

 林氏は最後に、自分は考古学専攻であって、文献史学や建築史に関する面では「不充分な点が多い」と率直に述べています。実際、この報告では、不明な点は不明とし、推測した点は推測だとことわるなど、好ましい姿勢が見られます。『論語』為政篇の「之を知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす。これ知るなり」という言葉が思い起こされますね。
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