聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「官(つかさ)」と称された仏教担当者、蘇我馬子:田中史生「『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』と出土文字資料」

2021年09月20日 | 論文・研究書紹介
 前回は、瓦の実物を精査して初めて分かった事実の報告例をとりあげました。文献研究の場合も、ざっと眺めて目につく部分だけ注目するのではなく、典拠と語法に注意しつつ全体を精密に読んでいくべきであることは、言うまでもありません。そこで今回は、文献の実物調査ではありませんが、一字一句に注意して読むことによって意外な事実が見えてくる例を紹介しましょう。

 「憲法十七条」では、「其れ賢哲、官に任ずるときは、頌音、則ち起こる(賢い人が官に任命されると、ほめたたえる声が起きる)」とあります(この「頌音」は、中国古典の常識から見ると、かなり問題のある表現であるため、いずれ解説します)。この「官」について考える際、有益なのが、『元興寺伽藍縁起』で蘇我馬子が「官」と呼ばれていることであって、この表記に着目したのが、

田中史生「『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』と出土文字資料」
(『日本歴史』2014年12月号)

です。

 天平19年(747)に提出された『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下、『縁起』)については、大山誠一氏の太子虚構説仲間である吉田一彦氏が、後代の信用できない記述が多く、史実を伝えてないことを強調した『仏教伝来の研究』(吉川弘文館、2012年)を刊行しています。

 田中氏は、吉田氏のこの書が研究を進めたことを評価しつつも、『縁起』には古い資料に基づく箇所もあるとします。

 その例として、川尻秋生氏の「飛鳥・白鳳文化」(『岩波講座 日本歴史』第2巻、2014年)では、『縁起』の表記が木簡や正倉院宝物の銘文などに見える『日本書紀』以前の古伝に基づく表記が見られると説いていることを紹介します。

 川尻氏のこの「飛鳥・白鳳文化」は、当時の仏教の状況をバランスよくまとめているため、このブログでも紹介しようかと思っていました。なお、田中氏は典拠を『日本通史』と記していますが、『日本歴史』の誤りです。

 そこで、そうした視点で『縁起』を見直すにあたって、田中氏が着目したのが「官(つかさ)」という呼び方です。日本で最初に出家した善信尼などの百済留学に関する記事のところに、他と異なる表記が見られるのです。

 それは、「時に三尼等、官に白(もう)さく」「時に官、許し遣わしき」「百済より尼等還り来り、官に白さく」などといった箇所であって、特に問答の部分で蘇我馬子を「官」と呼んでいることが多いのです。しかし、『縁起』の他の箇所では、大臣」「馬子大臣」「有間子大臣」などと呼んでいます。

 このため、田中氏は『縁起』、あるいは『縁起』が元としたとされる豊浦寺の縁起などがあり、この問答部分ではそれを用いているのだと推測し、特定の官人を「官」と表記するのは、8世紀以前の木簡や土器のヘラ書きなどに見えることを、例をあげて指摘します。

 そして、上の問答部分で馬子が「官」と呼ばれているのは、「大臣として外交を担当する責任者、管理者の地位にあったことによるのだろう」と推測します。これはその通りと思いますが、「外交」に加えて「仏教の責任者」という点も加えてほしかったですね。

 飛鳥寺については、「国家の官寺でなく、蘇我馬子の氏寺であった」というような言い方がなされる例が目につきますが、朝廷において仏教を担当する役職を担当した氏族が職務として国家のために建てた寺と見るべきでしょう。草創期、過渡期については、後代の常識で割り切ることはできません。

 田中氏は、2頁というこの小文の末尾で、『縁起』は「無視しえない史料的価値を持っているといえるのではなかろうか」と述べてしめくくっています。誰でも知っている資料でも、ちょっとした表現に注意すれば、新たな情報が得られるという好例ですね。

 なお、冒頭で「憲法十七条」に触れたのは、「憲法十七条」の目的は、倭国の「治天下大王」を中国の皇帝に近づけようとすると同時に、蘇我馬子をそうした君主を支える「賢臣」「聖臣」として権威づけることにあったと、30年前から考えているからです(こちら)。