聖徳太子研究の最前線

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【新発見】聖徳太子は「海東の菩薩天子」の自覚があったか:「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の共通箇所

2021年03月01日 | 論文・研究書紹介
 「浄土真宗聖典の学習誌」という副題で本願寺派が出している『季刊 せいてん』誌の134号(「聖徳太子と親鸞聖人」特集)が本日刊行され、そこに私の小文、「聖徳太子研究の最新動向-菩薩天子としての自覚-」が掲載されています(2021年3月1日刊、53頁)。

 1頁のコラムですので、詳細な説明はできなかったのですが、「憲法十七条」の第二条が、三宝に依らなければ悪を是正することができないと説いているのは、大乗の在家向けの戒経である曇無讖訳『優婆塞戒経』に基づいており、『優婆塞戒経』のまさにその箇所を『勝鬘経義疏』が「優婆塞戒経に云く」と経名をあげて引用していることを紹介しました。

 これは、実はかなり前に数人の研究者が指摘していたことです。ただ、その人たちは「憲法十七条」も『勝鬘経義疏』も太子の御作だと主張してひたすら賞賛する鑚仰派であったため、我田引水の主張とみなされたのか、これまで注目されてきませんでした。

 私自身、似ているだけのものを強引に結びつけてるなと思い、気にかけていなかった次第です。上記の鑚仰派の研究者たちにしても、共通性を指摘しただけであって、それ以上の踏み込んだ議論はしていませんでしたし。ところが、昨年の暮になって、これは真剣に見直さねばならない問題であることに気づきました。

 「憲法十七条」第二条が三宝への「信」でなく「敬」を説いていることについては、拙論「傳聖德太子『憲法十七條』「和」の源流」(こちら)において、儒教の『孝経』に基づくことを指摘してありました。そこに『優婆塞戒経』に基づく記述が加わるとなると、「憲法十七条」は重要な第二条で用いるほど『優婆塞戒経』と『孝経』を重視していたことになりますが、実は『勝鬘経義疏』も『優婆塞戒経』と『孝経』を重視して冒頭で用いており、その点が「憲法十七条」と一致していたのです。
 
 そのうえ、「憲法十七条」第十四条が嫉妬をいさめている箇所も、『優婆塞戒経』のある箇所に基づいていました。しかも、その箇所は、菩薩が「大国主」(マハーラージャ)になった際、人民を教誡すべきだとして述べられている箇所でした。

 「憲法十七条」は、前の記事で紹介したように、法家の影響の強い文献ですが(こちら)、その第十四条で述べられている訓戒には、大乗の在家向けの戒経が、菩薩が国王となった際に教化すべきこととして述べている項目が含まれていたのです。
 
 『勝鬘経義疏』は『日本書紀』が説く『勝鬘経』講説の際の内容とは思えませんが、「憲法十七条」作成は推古12年、『勝鬘経』講説は推古14年と記されており、両者の類似を考えると、『日本書紀』のこうした記述を一概に疑うことはできなくなります。

 となると、「憲法十七条」を作った人は、国王である菩薩の立場で書いたか、あるいは、自分を国王となる予定の菩薩とみなしていた可能性が出てきます。

 推古16年に倭国が隋に送った使者は、口上では仏教を復興した隋の皇帝のことを「海西の菩薩天子」と呼んで賞賛する一方で、自らを「日出処の天子」と称し、近い関係の間のやりとりで用いられる「致書」形式の国書を提示したため、煬帝の不興を買ったことは有名です。

 「日出処の天子」で始まる国書は、日本のナショナリズム高揚期には、対等とか対等以上の気構えによって国威を示したものなどとされがちでしたが(こちら)、上記の『優婆塞戒経』の文句の用い方を見ると、弟分にあたる「海東の菩薩天子」から敬愛する兄貴分である「海西の菩薩天子」にあてた親しみをこめたご挨拶、といったものであったことも十分考えられます。実際、面倒を見てくださいということで留学僧を送っているわけですし。ただ、南北朝を統一した隋の中華意識と当時の倭国との国力差を考えれば、いずれにしても無謀で危険な表現だったわけですが。

 この「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の共通箇所、および「菩薩天子」の自覚の可能性件については、上記の発見・推測を補強するいくつかの補足材料を見出してあるため、勤務先の学部の『論集』に詳しく論じた論文を掲載する予定です。

【付記:2021年3月2日】
『勝鬘経』講説を『日本書紀』によって推古14年と書きましたが、天平19年(747)の『法隆寺資財帳』では「戊午年(推古6年=598)四月十五日」とし、『法王帝説』でも同様になっており、これが法隆寺の伝承であったことが知られています。