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『風土記』佚文に見える「聖徳王御世」とは:荊木美行「『播磨国風土記』雑考」

2021年01月12日 | 論文・研究書紹介
 数多い聖徳太子論争の争点のひとつが「聖徳太子」という名をめぐる論争です。『日本書紀』では敏達紀に「東宮聖徳」と見えていますが、聖徳太子という呼称が見えるのはかなり遅れ、現存文献における初出は奈良朝中期の『懐風藻』の序であることは良く知られています。

 この序の作者は、還俗して奈良朝を代表する文人の一人となった淡海三船、つまり、大学頭に任じられて天皇の漢字諡號を定めたとされる学者だった三船だと推定されています。三船は、自分の漢詩や『鑑真大師東征伝』などでも聖徳太子と呼んでおり、この呼称は南嶽慧思後身説と結びついていたことは、石井公成「聖徳太子といかに向き合うか-小倉豊文の聖徳太子研究を手がかりとして-」(『教化研究』166号、2020年7月)で論じておきました。

 『懐風藻』以前の文献で「聖徳」の語が用いられているのが、『播磨国風土記』の印南郡大国里条です。この『播磨国風土記』は和銅6年(713)から霊亀元年(715)頃の間に記されたと推測されていますが、その大国里条では、池之原という地には家のような形で「長二丈、広一丈五尺、高亦如之」という巨大な石があるとし、「伝云、聖徳王御世、弓削大連所造之石也」と記されています。つまり、聖徳太子の代に物部守屋が造ったという伝承が報告されているのです。この問題について論じた最新の研究が、

荊木美行「『播磨国風土記』雑考」-「入印浪南郡」「聖徳王御世」「事与上解同」を論じて、中村啓信監修・訳注『風土記』上「播磨国風土記地図」に及ぶ-」
(『皇學館大学紀要』57号、2019年3月)

です。

 『風土記』研究者として知られる荊木氏は、現存する『播磨国風土記』の写本の祖本となった三條西家本の性格は、国衛に残った草稿本ではないかと思われるほど誤字錯乱が多いことについて論じ、印南郡の存否について検討した後、印南郡大国里の巨石について説明します。

 そして厩戸皇子が「聖徳」と呼ばれている様々な用例をあげ、「聖徳王御世」という句は「聖徳太子の治世に」という意味で用いられていると見てよいとします。そのうえで、聖徳太子を架空の存在とする大山誠一説は盤石ではないとし、治世というのは、推古天皇時に「天皇の大権の一部を担っていたことと関係があるのではないか」と述べます。

 その主な理由は、塚口義信「聖徳太子の『天皇事』とは何か」(上田正昭・千田稔『聖徳太子の歴史を読む』文英堂、2008年)が説いているように、『日本書紀』で「大兄」と呼ばれているのは、関係のない用例を除けば、いずれも天皇の第一子であって後に即位したか皇位を争って敗れたかのいずかであって、例外は聖徳太子の長男であった山背大兄王のみであることです(大兄については、井上光貞氏が早くにそうした特質を指摘していました)。塚口氏は、このため、厩戸皇子は天皇に「準ずる立場にあった」と考えられるとし、さらに、『隋書』倭国伝が当時の倭国の王を男性と認識していたのは、厩戸皇子が外交権をゆだねられていたためだとしています。

 荊木氏は、「聖徳王御世」とあるのは、当時の人々のそうした認識を伝えている可能性が高いとし、この佚文は断片的ではあるが「推古天皇朝の厩戸皇子の実像をうかがう貴重な史料」と見てよいと述べます。
 
 そして、『日本書紀』推古14年条には推古天皇が皇太子の『法華経』講経を喜んで播磨国の水田を与え、それを斑鳩寺におさめたとする記事が見えるため、播磨の法隆寺領がこの時の成立かどうかは検討する必要があるが、播磨の国が聖徳太子と有縁の地であったことは興味深いと述べてしめくくっています。太子と播磨国の関係については、このブログでも別論文を紹介したことがありますね(こちら)。
 
 私は、「豊聡耳のみこ」が通称であって、「上宮王」が正式名称だったと考えていますが、古代にあっては様々な名を名乗ったり呼ばれたりしますので、「聖徳太子」という呼称の成立は遅いにせよ、生前から「聖徳」とも称されていた可能性は十分あると考えています。

【付記】
『播磨国風土記』の記述を訂正し、大国里の巨大な石について説明を加えました。
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