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『日本書紀』の推古紀は最終段階で上書き:瀬間正之「『日本書紀』β群の編述順序」

2020年12月01日 | 論文・研究書紹介
 前の記事は、『日本書紀』研究がまだ不十分なので恣意的な解釈が出てくるという話でした。

 『日本書紀』に書かれた記事について論じるには、『日本書紀』そのものの成立について考えておく必要があります。『日本書紀』の成立に関する研究を画期的に進めたのは、森博達さんによる区分論、すなわち、隋唐の漢字音による表記と標準的な漢文の語法で書かれたα群、日本化された漢字音表記と和習が目立つβ群、そしてそれ以外の巻30という区分でした。

 森説のうち、α群が中国人によって書かれたとする点については、このブログでの井上亘さんとの論争が決着しないままになっていますが、『日本書紀』がα群、β群、巻30という順序で書き進められたことは学界でおおむね承認されており、β群は文武朝あたりから執筆が開始されたことも確実視されていることを確認したうえで、β群の述作順序の検討を試みたのが、届いたばかりの、

瀬間正之「『日本書紀』β群の編述順序-神武紀・景行紀の比較から-」
(『國學院雑誌』第121巻第11号[特集『日本書紀』研究の現在と未来]、2020年11月15日)

です(葛西太一さん、葛西さんの日本武尊関係記事論文も載っている雑誌、有り難うございました。葛西さんは、我々漢字文献情報処理研究会の仲間で開発・改善したN-gram分析[こちら]を『日本書紀』研究に活用して成果をあげているため、期待しています)。

 その葛西さんの師匠であり、私が主催した変格漢文の国際研究プロジェクトに参加してくれていた瀬間さんは、『日本書紀』の神武紀は天武紀をもとにして作成されたとする説に基づき、文字表現から見て景行紀に学んで神武紀が述作されたことを論証してゆきます。

 なぜ、こうした論文を聖徳太子ブログで取り上げるかというと、『日本書紀』の理想的な聖徳太子像は天武天皇の頃に創られたのであって、律令制以後と推測される「憲法十七条」はその証拠だとする説があり、太子虚構説では『日本書紀』編集の最終段階で創られたとされているからです。しかし、もしそうだとしたら、天武天皇時の特徴の一つである神話重視・神祇祭祀重視の傾向が推古紀、とりわけ「憲法十七条」に反映していないのはなぜなのか、という問題が生じます。

 瀬間さんは、『古事記』の用語も考慮したうえで、神武紀と景行紀の共通性を綿密に確かめます。また、神武紀と景行紀がともに『漢書』高帝紀を利用している箇所をこれまで以上にあげていきます。そして、漢籍に由来する語や誤用の例を検討することによって、以下の結論を導きだします。

β群は、巻五(崇神紀)「ハツクニシラスメラミコト」から書き始められ、巻一三まで書かれた。続いて巻二八・二九(天武紀)が書かれた。最終段階で行われたのは、既に存したα群の巻二二・二三の上書きと、巻一~巻四の述作であったのではないかという見通しを持った。(238頁上)

 言うまでもなく、巻二二は太子関連の記述が多い推古紀であり、巻二三は太子の子である山背大兄について記される舒明紀です。森説では、巻二二・二三はβ群ですが、瀬間さんはこの論文に先立つ「日本書紀形成論」(『温故叢誌』73号、2019年11月)では、巻一四から書き始められた『日本書紀』は、巻二七までひと通りα群として完成されており、その後、文武天皇二年以後にβ群である巻一から巻一三までが書かれたと説き、巻二二・二三は大幅に改変された結果、β群に属すようになったと推測していました。

 巻二一の用明紀の注では、太子の姉である酢香手姫については推古紀に見えると記してあるものの、現存の巻二二には見えないため、「原推古紀」とでも呼ぶべきものが存在していたと推定するのです。上の結論は、説明不足ながらこの前提に基づいて書いてあるそうです。

 つまり、天武朝以後の時期になってから、アマテラスの子孫である天皇家がこの国を統治することを保証する天孫降臨神話がβ群の漢字音と文体で書かれ、またα群の漢字音・文体で書かれていた巻二二の聖徳太子記述をβ群の語法で造形し直したと見るのです。大化改新が説かれる巻二五の孝徳紀は、歌謡の漢字音はα群に属すものの、漢文の誤用はβ群であるため、これもα群に属する「原孝徳紀」を大幅に書き改めたのだ、というのが瀬間さんの「日本書紀形成論」です。

 語法に基づく論考ですので確実ですが、ここで注意すべきことは、後から書いたと言っても、その段階でゼロから書いたとは限らないということでしょう。つまり、α群ないしβ群の語法で書かれていた既存の資料を組み合わせ編集して追加した部分と、新たに書き起こした部分を区別する必要があるのですね。

 聖徳太子については、推古紀の中でも、登場する箇所によって呼び方がまったく異なっており、中間部分だけが「皇太子」で統一されていることが知られています。拙著『聖徳太子-実像と伝説の間-』では、その点を次のようにまとめておきました。( )内はその呼称の登場回数です。

 敏達五年: 東宮聖徳
 用明元年: 厩戸皇子(注で異称として豊耳聡聖徳・豊聡耳法大王・法主王)
 崇峻天皇即位前紀: 厩戸皇子(2)・皇子
 推古元年: 厩戸豊聡耳皇子・皇太子・上宮厩戸豊聡耳太子
 同二年~二十八年: 皇太子(18)
 推古二十九年: 厩戸豊聡耳皇子命
 同年是月条: 上宮太子(3)・上宮皇太子・皇太子・上宮豊聡耳皇子・太子
 舒明天皇即位前紀: 皇太子豊聡耳尊・先王(2)・聖皇
 皇極二年: 上宮・上宮王(*斑鳩宮や山背大兄を含むため、回数特定できず)

いかがでしょう。推古二年から二十八年までの記事では一貫して「皇太子」と呼ばれており、呼称の統一がはかられています。程度はどうであれ、まとめて書き換えがなされたことは確かであり、改変した者(たち)は、それほど「皇太子」という点を強調したかったのです。ただ、その推古紀でも、それ以外の箇所では呼称が不統一であるのは、基づいた資料のせいなのでしょう。

 ここで、再度、和習に満ちた「憲法十七条」の問題に戻ります。天武天皇の時代、それ以後の時期、『日本書紀』編集の最終段階、のいずれであれ、それらの時代に書かれたとしたら、「憲法十七条」は天皇の絶対化をはかっているにもかかわらず、天孫降臨神話に基づく天皇の権威付けをしておらず、「神」という言葉すら出てこないのはなぜなのか。
                                                                                       

 



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