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『播磨国風土記』「聖徳王御世」に作られた石屋:荊木美行「石宝殿小考」

2021年03月25日 | 論文・研究書紹介
 先に『播磨国風土記』印南郡大国里条に見える「聖徳王の御世」という言葉に関する荊木美行氏の論文を紹介しました(こちら)。大国里条の該当部分では、「聖徳王の御世」に家のような巨大な石を「弓削大連」、つまり物部守屋が造ったという伝承が記されています。守屋の関与が史実かどうか、大石は何のために加工されたのかについては様々な説がありますが、荊木氏の最近の論文がこの問題を論じています。

 荊木美行「石宝殿小考-『播磨国風土記』の大石伝承との関聯-」
 (『史聚』53号、2020年3月)

です。

 大国里条では、美保山の西にある池之原という地について、「原の南に作石有り。形、屋の如し。長二丈、広一丈五尺、高亦た之の如し。名づけて大石と曰う。伝に云く、聖徳王の御世に、弓削大連の造る所の石なり」と述べています。「作石」とは、加工した石のことです。

 荊木氏は、美保山は竜山石の産地であり、4・5世紀の畿内や周辺の大型古墳には竜山石製長持形石棺が用いられており、この付近はヤマト政権の直轄する石材の供給地であって、石作連氏が管轄していたと見られるとします。

 上記の「大石」については、最大幅6.45メートル、奧行5.48メートル、最大高5.7メートルの直方体です。この巨大さのため、当時の権力者であった守屋が生前に寿陵に用いるために加工させたものの、途中で馬子との合戦で死亡したためそのままになったとする説や、守屋とは関係ないとする説など、様々な説があります。

 荊木氏は、そうした諸説を簡単に紹介したうえで、石棺ならその形に合わせて切り出すのが普通であり、棺でなく石室にするにせよ、約500トンとも推定される巨大な石を山中から畿内まで運ぶのは困難と説きます。また、畿内のこの時期の石棺はいずれも二上山の凝灰岩であって、竜山石は使われておらず、竜山石がまた用いられるようになるのは守屋が打倒された後であるとする説を紹介します。

 ただ、『先代旧事本紀』巻三「天神本紀」では饒連日尊の天下りに随行する天物部二十五部のうちに「播磨国物部」が見え、『延喜神名式』播磨国条には物部神社があり、『日本三大実録』貞観6年(864)には播磨国の陰陽師として弓削連安人、その子の弓削連是雄の名が見えることなど、播磨国と物部氏(母方の姓から弓削とも称した)を結ぶ史料があることに注意します。守屋に関わる伝承をまったく否定することもできないのです。

 その他、いろいろと検討したのち、明確な結論は示しえないとしたうえで、巨大な石をこの地にすえる「一種のモニュメント」と見る研究者たちの意見を評価して論文を閉じています。
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