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「聖徳太子の仏教の師たちは三論宗だった」というのは凝然の創作:石井公成「凝然の聖徳太子信仰と三経義疏研究」

2021年03月21日 | 論文・研究書紹介
 三経義疏を疑う研究者たちの根拠の一つは、聖徳太子の仏教の師とされる高句麗の慧慈や百済の慧聡は三論宗の僧であったと伝えられているのに、三経義疏は、その三論宗に批判された系統の学風であったことです。

 この問題に取り組み、「聖徳太子の師たちは三論宗僧だった」というのは鎌倉時代の凝然の創作であって史実ではないと論じたのが、凝然の700年遠忌記念で刊行された論文集(こちら)に載っている以下の拙論です。



石井公成「凝然の聖徳太子信仰と三経義疏研究」
(法藏館、律宗戒学院編『唐招提寺第二十八世凝然大徳御忌記念 凝然教学の形成と展開』、2021年3月)

 執筆者には既に届けていただきましたが、一般読者への発売は3月末以後になる由(ご配慮いただいた唐招提寺の西山明彦長老、編集を担当された龍大の野呂さん・大谷さん、法藏館の大山さん、有り難うございました)。

 さて、六朝の半ばすぎ頃の江南の僧たちの多くは、釈尊の最後の説法であって、すべての命あるものには「仏性」が有って仏になれると説く大乗の『涅槃経』を最も尊重し、「仏性」を説かない『法華経』をその下に位置づけていました。そして、経典を解釈する際は、小乗仏教の論書でありながら「空」を強調するなど大乗に近い面のある『成実論(じょうじつろん)』の法の分類を用いていました。

 こうした主流派を「成実涅槃学派」と呼んでおきます。三経義疏の種本となった注釈を書いた梁の三大法師たちは、いずれもこの学派であって、中でも『法華義疏』の種本となった『法華義記』の光宅寺法雲は、その代表です。

 北地からそうした江南の地にやって来た三論宗には、修禅派その他、いろいろな系統がありましたが、興皇寺で活動した法朗の門下たちは過激な論争家揃いであって、『成実論』は小乗であることを強調し、成実涅槃学派の解釈を強く批判していました。居士の傅縡などは、とりわけ激しく攻撃して反発をくらっており、仏教以外の面でも反対しまくった結果、最後は獄中で皇帝にも逆らって獄死させられたほどです。

 法朗の弟子の代表であって三論宗の教理を大成した吉蔵も批判的な学風で知られており、三大法師のことを「成実師・成論師・成実論師」などと呼び、「仏性」の理解や、大乗の諸経論の解釈が誤っているとして厳しく批判していました。つまり、小乗の法相に縛られていて大乗仏教の理解が不十分だというのです。

 以前の記事で書いたように、吉蔵は『法華経』を重視しており、『法華経』は「仏性」に相当する内容をきちんと説いているにもかかわらず、その説法を聞いても分からなかった理解力が劣る者たちのために、釈尊は補足として「仏性」を強調した『涅槃経』説いたのだ、というのが吉蔵の見解です。これ対し、『法華義疏』は、「本義」である法雲の『法華義記』と同様、「仏性」という語を一度も用いていません。吉蔵とは立場がまったく違うのです。

 しかし、これだと聖徳太子は、法雲と同様に大乗としては不十分な「成実論師」ということになってしまいます。それを懸念したのが、「宗」を単位とした仏教史の枠組みを打ち立てた鎌倉時代の大学僧、凝然(1240~1321)です。
 
 東大寺で学んで華厳と律を柱とし、唐招提寺の長老をも勤めた凝然は、若い頃から三経義疏の研究を始め、後には「三経学士」と名乗るほど三経義疏に打ち込んでいました。注釈である『勝鬘経疏詳玄記』18巻はおそらく64歳、『法華疏慧光記』60巻は75歳の時に完成しており、『維摩経疏菴羅記』30巻に至っては亡くなる前年である81歳の正月に書き始めて何とか完成させています。

 凝然は当時としては稀なほど客観的に判断する学僧でしたので、研究の結果として、『法華義疏』だけでなく、三経義疏はすべて光宅寺法雲の学風が見られると結論づけています。

 しかし、上記の三経義疏の注釈では、三論宗の吉蔵などの大乗の学僧の解釈と一致する点を不要なほど数多く指摘していたうえ、『八宗綱要』や『三国仏法伝通縁起』などでは、慧慈や慧聡は三論宗の僧であって『成実論』にも通じていたのだと説いていました。だから、彼らが指導してできた三経義疏は成実師風なのだが、思想の基本は純粋な大乗だというのです。

 凝然の師匠である東大寺の宗性は、『法華義疏』の研究に励んでその注釈を書いており、『法華義疏』は「本義」である光宅寺法雲の『法華義記』に依拠していると指摘しつつも、『法華義疏』は時に『法華義記』の説を的確に批判しているため、中国の『法華義記』よりはるかに優れていると論じていました。

 凝然はそうした評価をさらに進め、三教義疏がいかに吉蔵や慧遠や基などの解釈と一致する場合が多いかを強調し、聖徳太子の師は三論宗が主であったが『成実論』にも通じており、太子は『法華義記』を手本としたため、三経義疏は「成実師」風になったのだとしたのです。

 これは、奈良朝に南都六宗の一つとして設置された宗(実態は研究組織)である成実宗は、次第に衰えて三論宗の付宗となり、三論宗の僧が『成実論』も学ぶようになっていったことも背景の一つですが、それだけではありません。大乗と小乗が混在し、小乗仏教が優勢であったインドや、小乗の影響が残っている中国と違い、日本は、聖徳太子が最初から大乗仏教を広め、大乗仏教の国になったのだ、ということに凝然はしたかったのですね。

 しかも、三論宗は龍樹の『中論』『百論』とその弟子の提婆の『十二門論』(これは疑義有り)に基づいており、龍樹は八宗の祖とされていましたから、その三論宗によって日本仏教が始まったというのは、誇るべき歴史ということになります。

 しかし、これは無理な議論です。慧慈や慧聡は三論宗だとする古い資料はありません。三教義疏は、梁の三大法師の注釈に基づいて書かれており、隋の三大法師である地論宗南道派の浄影寺慧遠、天台宗の天台智顗、三論宗の吉蔵の教学の影響は見られない以上、聖徳太子の師となった僧たちは、梁の仏教、あるいはその影響を受けた次の陳朝あたりの教学に基づいていたのであって、隋代の最新の教学には通じていなかったと考えるべきでしょう。論文では詳しく論じる余裕がありませんでしたが、北朝の教学が少し入っていた可能性はありますが。

 凝然はきわめて重要な人物です。我々が学んでいる仏教史は、凝然が作った「宗」中心の枠組みの仏教史を多少訂正したものにすぎません。明治時代には、中国・韓国でも『八宗綱要』その他がかなり読まれ、それぞれの国の仏教史研究に影響を与えています。

 私の恩師である平川彰先生は、三聚浄戒について自分が諸国語の文献をあれこれ調べてようやく発見したと思っていたことが、凝然を読んだら書いてあったということで、凝然の学識を賞賛していました。ただ、凝然は単なる祖述者ではなく、自分の価値基準に基づいて書いていますので、その仏教史の図式については、警戒する必要があるのです。

 上にあげた凝然の論文集は、その700回遠忌の記念として、唐招提寺が企画したものであり、凝然の伝記や思想や活動に関する有益な諸論文が収録されています。