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厩戸皇子は馬子との共同輔政にとどまる:古市晃「統合中枢の成立と変遷--王宮と寺院--」

2011年10月11日 | 論文・研究書紹介
 このブログでは4月から原則として週二回の定期更新でやってきましたが、10月は中国、11月は韓国、12月はベトナム出張があるため、その間は更新が不定期になります。本日はこれから成田に向かい、北京・西安へと出かけるところですので、その前にアップしておきます。

 厩戸皇子の活動をどの程度のものと見るかについては、議論百出ですが、最近の若手の史学者には、昔と違って非常にさめた論じ方をする人たちが増えているように見えます。つまり、厩戸皇子については、その役割を画期的だとして高く評価するのでもなく、また『日本書紀』の厩戸皇子関連の記述はすべて怪しいと否定するのでもなく、いわば「そこそこ」の活動を認める立場です。

古市晃『日本古代王権の支配論理』第三章「統合中枢の成立と変遷--王宮と寺院--」
(塙書房、2009年)

も、そうした一例でしょうか。

 古市氏は、まず、王宮と密接な関連のもとで造営された寺院は、「王権の統合儀礼が行われる統合中枢として機能した可能性」(81頁)があるとします。
 
 集まった臣下たちによる儀礼を意識して設計された小墾田宮が史料に見えるのは、推古11年(603)からです。ところが、飛鳥にはそれ以前から集合した臣下たちがそろって国家関連の儀礼に参加できる場所がありました。推古4年(596)に造営がほぼ完成した飛鳥寺です。つまり、飛鳥寺は、最初から「従来とは異なる儀礼空間としての役割を期待されていた」(82頁)というのが、古市氏の主張です。

 『扶桑略記』によれば、推古元年(593)に飛鳥寺で塔の柱が建てられた際は、大臣馬子を初めとする参列者100余人がみな百済の服を着たとされています。つまり、この時点では、倭国には独自の服制は存在せず、服装の統制が仏教儀礼において初めてなされたことになります。

 10月に小墾田宮に移ると、11月に大楯と靫が制作され、12月には冠位十二階が定められており、そうした準備を経て正月に冠位十二階が定める服制で元日朝賀の儀が行われたようですが、小墾田宮では元日朝賀以外に定期的な儀礼が行われた形跡がないと、古市氏は指摘します。ただ、南庭には須弥山が設置されているため、斉明朝の時のように異民族に対する饗宴のために用いられたかどうかは不明であるものの、そこで儀礼が行われたとしたら、それもまた仏教関連のものであったことになると見るのです。

 ところが、推古17年(609)以来、飛鳥寺を中心として寺ごとに行われていたのが四月八日と七月十五日の斎会です。前者は釈尊生誕を祝うもの、後者は盆であって祖霊供養のためですが、いずれもその功徳によって君主への報恩を願うものでした。このため、古市氏はこれらの斎会は「君と臣との関係を規定する統合儀礼として機能したものと考えられる」(84頁)としています。日本の初期の仏教は、こういうものですね。

 このように宮と寺が並立することは、厩戸皇子の斑鳩宮と斑鳩寺にも見られます。ただ、古市氏は、斑鳩寺は蘇我氏が建立した飛鳥寺系の瓦笵を二次的に利用したにすぎないのに対し、蘇我氏と血縁関係がない舒明天皇時には、百済宮と百済寺を同時に壮大な規模で建立し、瓦も従来とは大幅に異なる新しい型が採用されたことを重視します。百済寺の塔は、北魏の永寧寺の九重塔や新羅の皇龍寺の九重塔を意識した巨大な九重塔でした。

 つまり、推古朝において「厩戸皇子が果たした政治上の役割は大きかったとしても」、それは『法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』などが描いているように「推古や蘇我馬子らとの共同輔政の枠を超えるものではなく」(85頁)、『日本書紀』が前提としている厩戸皇子の「主導的地位」は考えられないとするのです。

 「輔政」とは君主の政治を助けることのですので、「馬子との共同輔政」と書くべきところですが、古市氏は推古天皇は単なる傀儡ではなく、政治判断もかなりしていたと見るのでしょうから、これは推古・馬子・厩戸による三頭体制論の立場ですね。そうなると、初期は馬子主導だとしても、三頭体制は以後も一貫していたのか、時期によって勢力関係が多少変わっていったのかが気になります。この辺は史料不足なのが困ったところです。

 いずれにせよ、受容期の倭国の仏教というのはこうしたものだったのですが、これを政治狙いのための手段という見方をすると、実状からずれてしまうでしょう。勝海舟が、銅銭獲得などを目的とした日宋貿易にしても仏教信仰と重なっていたことを指摘していた通りです。私は、以前、『日本霊異記』などでは「信」という動詞は礼仏などの儀礼を熱心に行なうことを意味していたと指摘したことがあります。宗教は内面の信仰が大事であり、現実的な利益を願うことや荘厳な儀礼は不純で外面的なものにすぎないとするのは、鎌倉仏教の一部や、プロテスタンティズム以後の近代的な宗教観ですね。
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3 コメント

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古市先生なつかしい (もろしげき)
2011-10-11 11:58:01
おお、古市先生だ。短い間でしたが同僚でしたので、お懐かしい。
「信」と内面・外面の話はまったくそのとおりだと思います。
出張でのご無事とご活躍をお祈りします。
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古市氏は花大でしたね (当ブログ作者)
2011-10-11 16:35:37
もろさん、
 コメント、有り難うございます。石井@北京中関村のホテル、です。明日、人民大で敦煌写本中の地論宗文献に関する講演をしてから、西安の国際華厳学術検討会に向かいます。
 大勢の臣下たちがいっせいに揃っての国家的儀礼の最初が仏教儀礼というのは、中国周辺の国にはよくあるパターンです。やはり、東洋史・仏教学・日本史学はもっと交流を盛んにしないといけないですね。
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古市君 (斯我梵一)
2011-10-14 20:38:07
古市君も立派になって。最近各方面から彼の名前を聞くようになりました。吉備の某国立大学の学部生の頃からの彼を知る身としてむずがゆい気もしますが、もろさんとご一緒の時期もあったのでしたね。釜山滞在中、友人宅でテレビを見たら、古市君の顔が飛び込んできたこともありました。まさか、誰も見ているはずがないと思っていた彼も驚いていました。
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