聖徳太子研究の最前線

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聖徳太子を神武天皇を継ぐ国体主義者にする無理な書評座談会:相澤宏明・山本直人・清原弘行・金子宗徳「座談会 聖徳太子における「国体」と「仏教」」(上・下)

2024年08月04日 | 史実を無視した日本の伝統・国体(国柄)礼賛者による聖徳太子論

 先日、「史実を無視した日本の伝統・国体(国柄)礼賛者による聖徳太子論」コーナーを新設し、第一回目として相澤宏明氏の『聖徳太子・千四百年の真実』をとりあげました(こちら)。相澤氏を含め、その本について語る座談会がおこなわれています。

相澤宏明・山本直人・清原弘行・金子宗徳「座談会 聖徳太子における「国体」と「仏教」」(上・下)
(『国体文化』令和五年一月号、三月号、2024年1月・3月)

です。肩書きが記されており、相澤氏は里見日本文化学研究所評議員、山本氏は東洋大学非常勤講師、清原氏は歴史探訪人、司会の金子氏は里見日本文化学研究所所長となっています。相澤氏については、前回、紹介しました

 掲載された雑誌、『国体文化』は、前回の相澤氏の本の紹介記事で触れた里見岸雄が創設した国体主義の団体、日本国体学会の機関誌です。学会と称しているものの、純粋な学術団体ではありません。

 山本氏は、聖徳太子論を書いた亀井勝一郎などを中心とする近代文学研究者であって、国体主義の団体と関わっておられるようです。

 清原氏は、氏の instagramのプロフィールには、南河内出身とあり、「ますらをが思ひこめにし一筋は七生かふとも何たわむべき」という歌が掲載されていました。河内で「七生」なのですから、七生報国と語ったとされる楠木正成の信奉者ということですね。この話は、むろん、後代になっての『太平記』の創作ですが。

 また、氏は、座談会では「かつては歴史教科書に関する仕事もやっておりました」と述べていたため、現在はどうであるのか分かりませんが、検索したら、2018年には、新しい歴史教科書をつくる会事務局次長という肩書きで、「歴史教育改革と陰謀」と題する講演をされていました。そうした立場の人ですね。座談会では、「宗教・仏教をしっかりと勉強した人間ではない」と自ら述べていました。

 座談会では、司会の金子氏が、「聖徳太子が薨去あそばされたのは西暦六二二年」と語りだし、この座談会が開かれた二〇二二年は「薨去から千四百年という節目に当たります」と続けます。「薨去あそばされた」といった言い方は、戦前の国家主義者たちが聖徳太子を持ち上げる際にやたら敬語を使っていた影響ですね。

 最初に、相澤氏が自著について説明し、主に辻善之助の『日本仏教史』を手がかりにして書いたと説かれていますが、その第一巻は戦時中に出たものであり、内容はもっと前に書かれたものです。

 その当時は、神道系の者たちの仏教攻撃もなされていたため、辻を含め、太子を評価する者たちは、推古朝の頃は蘇我氏などの氏族が天皇より力を持っており、聖徳太子がそれを是正したといった言い方で弁護に努めていた時代です。

 しかし、このブログで何度も書いているように、聖徳太子は父方・母方とも蘇我氏の血を引く最初の天皇候補者であり、馬子の姪である推古天皇の皇女と馬子の娘を妃としていた人物です。斑鳩寺の建立も、飛鳥と斑鳩を結ぶ太子道も馬子の支援なしにはありえないのですが、大昔の研究に基づいて太子を語ろうとする相澤氏は、そうした最近の研究は無視するのです。むろん、他の参加者も是正する知識はないようです。

 山本氏は、推古朝頃は「これまでの天皇中心の国家が少々揺らいだ時期」であって、太子が摂政となることによって「天皇親政ではなくて補佐する人物が中心となって政治を担っていく時代が始まりました」と述べています。

 しかし、そもそも、当時の天皇(大王)は、有力氏族の代表から成る群臣たちが協議して決定し、重要なことは群臣会議で決めていたことをどう考えるのか。用明天皇にしても、病気が重くなって仏教に頼るかどうかとなった際、群臣たちにその是非を尋ねています。推古朝の前ですけど、天皇親政の時代ですか?

 参加者の中でも、とりわけ神武天皇を信奉し、歴史学の成果をまったく無視したことを語っているのが金子氏です。氏は、「聖徳太子は、氏族が対立して天皇の権威も蔑ろにされていた惨憺たる状況の渦中に居られたわけで、そうした状況を克服するために大乗仏教の教えを導入し」た、などとデタラメを語っています。

 他の氏族の反対を押し切って仏教を導入したのは蘇我氏ですし、仏教弾圧を認めた敏達天皇の方針を改め、仏教を推進したのも蘇我氏であったことを忘れているのではないでしょうか。こういう人は、『日本書紀』を読んでも、自分に都合の良い読み方しかできない人ですね。

 金子氏は、聖徳太子と神武天皇を重ね合わせようとするため、聖徳太子が説く「仏国土」の理念は「神武天皇の示された「八紘一宇」の聖旨とも相通ずる部分があり、その点において「国体」を考える上でも重要です」と断言しますが、「憲法十七条」が「天皇」に触れず、「神」という言葉を一度も使っていないことをどう考えるのか。

 金子氏が所長を務める里見日本文化学研究所は、日蓮宗から飛び出して独自の日蓮主義を強調し、神武天皇を崇拝して偏狭な国家主義を広めた田中智学の息子である里見岸雄の系統の組織です。

 「八紘一宇」という言葉は、智学の親しい年下の同級生である清水梁山が用い、それに似た言葉を前から語っていた田中智学が盛んに用いた結果、大東亜戦争の理念とされたものですね。

 梁山と智学の関係については、昨年5月に出た私の論文「清水梁山の天皇本尊論の形成―平田篤胤とその門流の影響―」(こちら)で論じておきました。日本の伝統のようでありながら、実際には近代になって、それも西洋の影響を受けて生まれた概念は多いのですね。「八紘一宇」は、中国古典に基づいて『日本書紀』が用いた表現による造語であって、推古朝やそれ以前の日本にこんな思想はありません。

 鎌田氏は古代からの日本の国体という点を強調しますが、そもそも「国体」という言葉が盛んに使われて議論されたのは江戸末期からのことです。しかも、その根拠とされたのは天照大神の神勅については、『日本書紀』編纂の後期になって、訳されたばかりの『金光明經最勝王経』の言葉などを用いて作文されたものです。

 天照大神も神武天皇も『日本書紀』編集の後期の段階で性格づけされていますので、聖徳太子の頃は『日本書紀』が描くような天照大神も神武天皇もまだ存在してないんですが。

 とにかく、座談会はこんな調子であって、信仰の世界、イデオロギーの世界の話であり、近年の学術成果はまったく無視されています。そうした立場が力をもって政治の世界に進出してゆくとどんな「惨憺たる状況」になるかは、戦前・戦中の日本が示す通りです。

 あと、相澤氏の本について紹介した記事でも触れましたが、田中智学・里見岸雄が信奉する日蓮は、聖徳太子の『法華義疏』が手本とした『法華義記』の作者である光宅寺法雲の『法華経』解釈などを激しく批判し、聖徳太子についても『法華経』尊重という点だけ評価し、『法華義疏』は評価してませんでした。

 里見日本文化学研究所は、日蓮を重視するのか、聖徳太子の『法華義疏』を重視するのか、どちらなんでしょう。『法華義疏』は日蓮聖人の『法華経』観と一致しているなどと説くのでしょうか。