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遣隋使が文帝に倭王は天を兄、日を弟とすると語った背景としての天孫降臨神話の原型:舟久保大輔「天孫降臨神話の成立」

2024年07月10日 | 論文・研究書紹介

 「天皇」という言葉に関する論文の続きです(前回の馬梓豪氏の論文紹介は、こちら)。「天皇」という称号については、「天」という語が中国の漢語なのか、日本の概念を「天」という漢字で表記したのかが問題になります。この問題を考えるうえで重要なのが、遣隋使、ないしそれに準ずる使節が隋の文帝に対して、「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟と為す」と述べたという『隋書』の記述です。

 この問題について独自の試案を示した最新の作が、

舟久保大輔『古代王権の神話と思想』「第一章 天孫降臨神話の成立」
(雄山閣、2024年)

です。舟久保氏は、駒澤大学大学・大学院で歴史学を学び、修士課程の時、単位互換制度を利用して明治大学の吉村武彦教授のゼミに2年間通った由。せっかく駒澤で学んだのですから、大学院の仏教学の講義などにも出てほしかったところです。

 私の講義には駒澤や他大学の国文学の院生はたまに来ていましたが、舟久保氏をはじめ、日本史の人は来たことがなかったのは残念。日本古代史は仏教を抜きにして理解できません。私の講義でなくても良いから、仏教文献を精密に読む訓練をしてくれる授業に出てほしかったですね。

 それはともかく、この2月に出たばかりのこの本では、この第一章が扱った天孫降臨神話を重要なテーマーとしており、有益です。舟久保氏は、天孫降臨に関するこれまでの研究史を概説し、5世紀成立説や推古朝成立説もあるほか、天武天皇頃の成立と見る説も有るが、最近では、欽明天皇の代から世襲王権が確立し、この頃に『古事記』や『日本書紀』の天孫降臨神話の元になるものが形成されたとする説が多いと述べます。

 諸説がある理由として、舟久保氏は、天孫降臨神話の定義がはっきりしないためとします。そして、『古事記』『日本書紀』の記述における同異について紹介し、『日本書紀』に様々な説が見られるのは多くの氏族が関与したためであり、共通部分があるのは、王権と諸氏族の間にある種のコンセンサスが得られたからこそ成立した神話だとする榎村寛之氏の説に賛同します。

 そこで舟久保氏は、共通部分が古くて根源的なものとする説に基づき、(1)王権の起源として天という世界が設定されている、(2)天の支配者である最高神と皇孫・天皇が系譜上(血統上)繋がっている、(3)皇孫が最高神の命を受けて地上世界の統治者として降臨する、という三点をあげ、この成立をもって天孫降臨神話の成立と見ます。

 そして、『隋書』東夷伝倭国条の開皇20年(600)に見える「倭王姓阿毎、字多利思比弧、号阿輩雞弥」のうち、姓と字(名)を分けたのは中国側の誤解として、「アメタリシヒコ」については「天上で満ち足りておられる方」説を退け、天から下られた方とする説に賛成します。

 というのは、『日本書紀』推古8年条に、新羅と任那が調を送った際の上表文に、「天上に神有り、地に天皇有り」とあり、『日本書紀』特有の潤色があるとはいえ、天と地が分けられ、天皇は地にいるとされているからです。そもそも倭王が天にいるという記述は記紀には見えません。

 そして、欽明天皇以後、特殊な近親結婚によって欽明の血を引く天皇が五代続くこと、病気となった欽明天皇が皇太子の敏達を呼んで後事を託していることから見て、「原則としては父子直系を目指していたと思われる」と説きます。これは、前に紹介した馬氏の説と異なっていますし、推古天皇の時から大王が後継者指名に関わるようになったとする最近の研究とも異なっていますね。

 ともかく、舟久保氏は、日本でいう「天子」は、徳のある人に天が命を下して天下を統治させるという中国の天命思想に基づくものでなく、日本の神話的世界観に基づくことを強調します。ただ、まったくの日本の独創とするのではなく、高句麗の神話に近いことに注意します。好太王碑文では高句麗の始祖の鄒牟王を「天帝の子」と呼んでいるのが一例です。

 ここからが舟久保氏の創見になるところですが、舟久保氏は高句麗の長寿王(伝:在位413-491)の時代の高句麗の名族の墓誌、「牟頭婁墓誌」では、その始祖の「鄒牟聖王」を「河伯之孫日月之子」と呼んでいることに注目します。

 『隋書』によれば、遣隋使は倭王は「以天為兄、以日為弟」と述べ、文帝に義理がなさすぎるとして叱られていました。高句麗の碑文では、始祖を「日月の子」とするのは異なっていますが、日(太陽)との血縁関係によって始祖の系譜を語ろうとしている点は共通します。

 さらに、『日本書紀』顕宗天皇3年2月条では、使者が任那に赴こうとした際、「月神」がある人に取り憑いて「我祖高皇産尊」が天地を想像したとしてお告げを述べています。これによれば、天孫降臨の際の司令神であるタカミムスヒは月神の祖先ということになり、倭王と月神はタカミムスヒを祖先神とする兄弟ということになります(原文48頁では、「月神タカミムスヒ」となっていて、「月神は」の「は」が抜けてます)。

 また、『日本書紀』顕宗天皇3年4月条には、日神もタカミムスヒを祖とする記事が見えますので、倭王・月神・日神は兄弟ということになります。これは高句麗の神話と琴なりますが、深久保氏は、それは倭国がタカミムスヒという最高神を祖先神として建てたことによると見ます。

 舟久保氏は、大化元年(645)の進調にあたって高句麗王に出した詔では「高麗の神の子」と述べており、高麗王が天帝の子であることを認めているものの、『続日本紀』宝亀3年1月己卯条では高句麗王が天孫であることを否定していることに注意します。つまり、日本の建国神話は高句麗の神話をモデルにして形成されたにもかかわらず、律令制が確立するとそれを否定するようになったのだとするのです。

 このように、倭王に関する遣隋使の妙な応答について試案が示されました。私自身は、遣隋使が倭王が「以天為兄、以日我弟」としているというのは、倭王は「天の日(太陽)を兄弟としている」といった和語の文が、「以天日為兄弟(天日を以て兄弟と為す)」などと漢訳され、後にそれを分解して「天を兄、日を弟」と改めた結果ではないかと考えています。

 英語の brother は、これだけでは兄だか弟だかわかりませんが、遣隋使の場合もそうした語り方をした可能性はあるでしょう。 いずれにしても、欽明天皇から始まる世襲王権が重要であり、それを支えたのが蘇我氏であったことが重要ですね。

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