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救世観音像は聖徳太子の生前に斑鳩宮の夢堂に安置されて礼拝されていたか:金子啓明「日本古代における秘儀と彫像」

2024年06月30日 | 論文・研究書紹介

 法隆寺については、実に様々なものが論争となってきました。こんなに論争になるのは、法隆寺には日本最初であって比較する相手がないものが多く、いつ頃のものなのか年代を定めにくい、という点が大きいでしょう。

 そうした論争の一つが、前回の記事で触れた東院伽藍の夢殿の本尊、つまり、日本最初の木彫とされる救世観音像をめぐる論争です。これについて論じた最近の論文が、

金子啓明「日本古代における秘儀と彫像―法隆寺夢殿救世観音像について―」
(『芸術学』第25号、2022年3月)

です。金子氏は仏、東京国立博物館の彫刻室長などを務めた後、慶応大学文学部教授や奈良の興福寺国宝館館長などを歴任した像彫刻史の研究者です。このブログでは、以前、釈迦三尊像に関する論文を紹介しました(こちら)。

 金子氏は、救世観音像は大きな鼻も異様であり、不気味な生々しさをそなえており、眼は前方の礼拝者へのまなざしを持っているという指摘から始めます。

 そして、両手で捧げている摩尼宝珠について意味を説明します(私は以前、初期禅宗史における摩尼宝珠について論文を書いたことを思い出しました。最近は、自分で何を書いたか忘れていることが多い……)。

 救世観音像は、180センチもの長身でありながら脚部は重量感が希薄であって、逆に上に浮かび上がるような印象があり、また下半身の衣が横に広がっているため、前に向かってくるような感じがあるうえ、全身だけでなく台座も頭光も金箔であって光輝いているため、その印象が強められています。金子氏はこうした像を前にして礼拝するのは誰なのかと問いかけます。

 このようにこの像は工夫がこらされているものの、眼の作りはアーモンド形に成形された金堂の釈迦如来像よりも飛鳥寺の釈迦像の眼に近いため、金子氏はこの像の制作時期はその中間頃と推測します。そして、金色を強く意識している点で、小型の金銅仏を参考にしたと思われると説きます。

 となると、聖徳太子の没後すぐに建立された釈迦如来像以前の作ということになりますが、『法隆寺東院縁起』では、この像は太子の在世中に造立された等身の像と記していました。

 また、焼き討ちされた斑鳩宮からは若草伽藍から出た瓦よりひと回り小さい飛鳥時代の瓦が出ていることから、斑鳩宮には仏堂があったことが推定されていますので、金子氏はそこに安置され、太子が個人的に礼拝していたと見ます。

 現在の夢殿の古代の正式な名称は上宮王院ですが、鑑真の弟子である思託が書いた『上宮皇太子菩薩伝』では、太子が禅定のために一日、三日、五日と建物に籠もると、世間の人は禅定を知らないため、「太子、夢堂に入る」と言ったとあるため、8世紀後半にはそうした呼び方がなされており、それ以前から夢に関する何らかの伝承があったことが推察されると説くのです。

 古代には夢見の儀礼があり、崇神天皇紀には、沐浴斎戒して殿のうちに「神床」をしつらえ、そこで疫病の流行を鎮めるよう祈ると、大物主大神が夢に現れて託宣したとあります。金子氏は、太子はこれを救世観音像を前にしておこなったのではないかと説きます。

 さて、どうでしょう。材質の年代調査などをしないと確定はむつかしいでしょうが、仏像を見る場合、誰がどのような目的で造立し、誰によってどのような目的で礼拝されたかを考えることは確かに必要ですね。

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