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蘇我馬子が入手した弥勒石像は固くて光沢のある蝋石製か:山﨑雅稔「敏達紀の「弥勒石像」と朝鮮三国の弥勒信仰」

2024年05月29日 | 論文・研究書紹介

 前回、須弥山石を取り上げましたので、それに続いて石像に関する論文を紹介しましょう。

山﨑雅稔「敏達紀の「弥勒石像」と朝鮮三国の弥勒信仰」
(『国学院雑誌』第121巻第11号、2020年)

です。

 中宮寺や広隆寺の半跏思惟像は最初期の仏像として有名であり、弥勒像と見るのが一般的です。しかし、山﨑氏は、インドや中国では弥勒像を半跏思惟の形で示した明確な例がなく、美術史では擬議が提示されていると述べます。

 そして、奈良時代には弥勒信仰に関する記述がある史資料が少なからずあるのに、その奈良時代の初期の養老4年(720)に完成した『日本書紀』は弥勒にほとんど触れておらず、例外は、敏達天皇13年(584)に見える記事であって、百済からもたらされた「弥勒石像」を蘇我馬子が所有したいうものです。そこで、山﨑氏はこの点について検討します。

 氏はまず弥勒菩薩の説明から始めます。弥勒は釈迦とともに修行したとされ、現在は兜率天にいて、現在仏である釈迦の次に仏となることになっている菩薩であって、未来の仏とされており、釈迦の入滅から56億7千万年後に人間世界に下生し、龍華樹の下で3度説法し(龍華三会と呼びます)、釈尊の救済から漏れた人々を救うとされています。ですから、弥勒の像は、菩薩の姿か悟った後の仏の姿で示されます。

 こうした弥勒に対する信仰は二種類であって、一つは未来世において弥勒が下生した際、その龍華三会に値遇したいと願うもの、もう一つは、現世で死んだら弥勒のいる兜率天に昇り、弥勒が下生する際にともに下生して三会に値遇したいと願うものです。前者が下生信仰、後者が上生信仰であって、インドでまず下生信仰が生まれ、後に上昇信仰が成立したものの、東の端の日本にはこの二つが一緒に伝えられたようで、むしろ上生信仰が盛んであったとされています。

 さて、問題の『日本書紀』敏達天皇13年(583)9月条では、百済から鹿深臣が弥勒石像一躯をもたらし、佐伯連が仏像一躯をもたらし、続く是歳条では、馬子がそれを請い受け、鞍部村主司馬達等・池辺直氷田に命じて行者を探させ、播磨で還俗した高(句)麗の恵便を見つけて師とし、司馬達等の娘の嶋を尼とし……、仏殿を宅の東に造って弥勒石像を安置して、というお馴染みの記述となっており、「仏法の初め」と記されています。

 そして、敏達天皇14年(584)には、馬子が病み、理由を占わせると父の稻目の時に祭った「仏神之心」が祟ったのが原因だと言われ、天皇に言上したところ、父の神を祭れと命じられたため、勅に従って「石像を礼拝い、寿命を延ばすことを乞う」たとあります。『元興寺縁起』では、甲賀臣が百済から「石の弥勒菩薩像」をもたらしたとあり、菩薩の姿であったとする点に山﨑氏は注意しています。「甲賀」は「鹿深」です。

 問題は、馬子が弥勒菩薩像に延命を祈って礼拝したことです。これはいろいろ議論のある野中寺の金銅造半跏思惟像の台座の銘文に、中宮天皇が病気になった時に知識たちが誓願して造った弥勒の象だとあることです。馬子の場合と同様、延命が主であって、上生・下生には触れられていません。

 平安中期の史料によれば、馬子が祭った石像は本元興寺(飛鳥寺)→新元興寺→多武峯平等院に移ったとされ、後代の史料、たとえば15世紀半ばの『南都七大巡礼記』によれば、この石像は一尺ほどで日本最初の仏像とされ、百済から渡ってきた「馬瑙之弥勒像」とされ、『上宮太子拾遺記』では坐像であって「色白く、極めて固く、面貌奇麗」とされています。

 山﨑氏は、こうした記述は、韓国の扶余や公州で発見された滑石(蝋石)の仏像に似ているとします。美術史の大西修也氏の研究によれば、百済では蝋石製の仏像は6世紀中頃から末頃にかけて流行したそうですので、馬子の仏像はそれと合うことになります。

 須弥山石のような粗い石質の大きな仏像なら、百済から持ち帰るのは困難ですし、あまり有り難くなさそうですが、「蝋石 像」とか「白玉 仏像」などで画像検索してみれば分かるように、そうした貴重な材質の小ぶりな仏像なら拝む気になるでしょう。

 さて、百済があった地では、金銅・銅像・石像・摩崖像などの形で半跏思惟像が見つかっており、弥勒信仰との関わりが推定されていますが、中国の龍門石窟などでは釈迦の前身である悉達太子が半跏思惟形で表されている例があるため、弥勒とは限らない可能性があるとします。

 山﨑氏は、百済・高句麗・新羅における弥勒信仰について検討し、朝鮮三国には弥勒を半跏思惟の形で表す例が造像記から見えると指摘します。そして、弥勒像は、現世の発願者自身や結縁もののために制作される場合は、三会値遇を願うためであり、死者の供養を目的として造られる場合は死者が弥勒の浄土に往生することを願うものでした。

 また、弥勒と阿弥陀を合わせて信仰した例も複数あることに山﨑氏は注意します。ただ、辛卯年銘金銅三尊像銘では、死者のために無量寿仏(阿弥陀仏)を造り、その功徳によって残された者たちが将来、弥勒に値遇できることを願っている点から見て、浄土の区別はなされていたと見ます。

 以上のことから、山﨑氏は、馬子が入手した百済の弥勒石像は、半跏思惟像であったと推定します。そして、鹿深臣の弥勒像とは別に佐伯連の仏像が記されていることから見て、馬子は弥勒菩薩単独ではなく、阿弥陀仏ないし別な仏像と弥勒菩薩をあわせて所有し、信仰したことに『日本書紀』は意味を持たせようとしたと考えられるとします。

 ただ、高句麗や新羅などの例では、馬子や野中寺像銘のように、弥勒に祈ることによってこの世での長寿を得ようとすることは見られないとし、馬子の弥勒信仰については、インド・中国・韓国における展開、俗信との習合など、様々な面から考えなければならないと述べてしめくくっています。

 このように、『日本書紀』のちょっとした記述も、幅広い視点から検討すればいろいろなことを語ってくれることが分かりますね。また、馬子関連の仏教に関する記述は、百済などの状況を正確に反映している面と、そうでない面があることがわかります。

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