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新羅の服制と冠位十二階の同異: 山本孝文「新羅古墳出土土俑の服飾と官位制」

2011年10月17日 | 論文・研究書紹介
 帰国してからと考えていたのですが、現在滞在中のところはネットが使えるため、西安にいるうちにアップしておきます。

 冠位十二階については、最近また研究が進んできたようですが、冠位十二階を考えるうえで見逃せないのは、直接の影響を及ぼしたと思われる古代朝鮮諸国の服制でしょう。そのうち、新羅の服制について考察した論考が、

山本孝文「新羅古墳出土土俑の服飾と官位制」
(『朝鮮学報』第204輯、2007年7月)

です。

 韓国の高麗大学考古環境研究所研究教授である山本氏のこの論文は、慶州龍江洞および隍城洞古墳から出土した人物形の土俑などを材料として、新羅において官制が整備される時期の様相を考察したものです。冠位十二階については言及していませんが、比較が有益です。

 まず、新羅の遺跡から出土する土偶や騎馬人物像は、5~6世紀のものは素朴すぎるため、服飾はほとんど判断できない由。ところが、ある時期からは、顔や服や髪型などまで急に写実的に造形されるようになります。これは外部の影響、つまりは中国の技術の導入としか考えられません。

 そうした好例である慶州隍城洞からの出土品には、文官と武人の人物像の他に、牛や車輪なども含まれており、唐の墓の副葬品を真似たのか、胡人のような人物像が見られるのが興味深いところです。そうした人物像と対比すべき文献のうち、山本氏が注目するのが、『三国史記』に見える記事です。

 それよれば、新羅の法興王7年(520)春正月に律令を頒布し、初めて「百官公服」の秩序を定めた、とあります。官ごとの具体的な色は記されていませんが、『三国史記』の後の記事によれば、最上位の服の色は紫、次が緋、次が青、次が黄、最下位の平人は白衣、となっており、さらに冠などの違いで細分化されていたようです。

 中国の服制を真似た部分もあるのでしょうが、「猶お是れ夷俗」であるとして、真徳王2年(648)に入唐した金春秋が唐の太宗に衣帯の下賜を請い、翌年、中国風に改めたという記事が見えています。そこで、山本氏は、7世紀初めまでは完全な中国式の服制は浸透していなかったと推定します。中国の服制をきちんと認識した後には、皇室の色である黄色を中・下級官僚の服色には使わなかったであろうというのが、山本氏の見解です。

 山本氏がもう一点、注目するのが、1位の伊伐湌から5位の阿湌までの官位の者、すなわち、「真骨大等」の骨品である者は紫、7位の一吉湌から9位の級伐湌までの官位のもの、つまり「六頭品」の骨品である者は緋、などとなっていることが示すように、十七階制であった官位の違いよりも血統・家系による伝統的な骨品の方が重視されており、そちらの区分が服装の違いの基準となっていることです。

 新羅の服制については、唐に関する行事の際は唐風な服を着し、新羅の伝統行事の際は伝統的な服装をしたとする説もありますが、山本氏は、墳墓の出土品にはが唐風な服飾のものしか見えないことから、それに反対します。

 ただ、女性の服装が唐風に変わるのは、男性の場合よりもやや遅れるようです。隍城洞古墳から出土した土俑は、男性の像は唐風な服飾であるのに対して、女性はそうなっていないため、文武王4年(664)に女性の服装も唐式に変える以前の様子を反映していると、山本氏は説いています。

 問題は、その新羅は、唐王朝に何度か服の下賜を要請し、唐から王や王族や高級官僚用に各種の服や高級な布をしばしば送られているにもかわわらず、九品を正と従に分けた唐の十八階制を採用せず、新羅風な官位名による十七階制としていたことです。これは、唐にならって九位を正と従に分けた十八階制を用いるようになった日本との違いです。

 この点について、山本氏は、「日本が唐の律令を体系的に受容したのに対し、新羅は従来の官等制に基礎を置いて唐制を部分的に導入した」(23頁)と述べています。つまり、新羅は、東アジアの大きな流れである中国の制度を受け入れたものの、服制についてはその一部だけを取り入れたのです。それだけ、骨品制という伝統の制約が強かったということですね。
 
 むろん、日本の律令受容も、神祇関連の規定など唐の律令と大幅に違っている面があるわけですが、服制に関してはそうならなかったのは、家柄や官位を明確に服や色で区分するという習慣がもともとなかったことを示すものなのでしょう。

 日本の場合は、徳・礼・信・義・智という6つの位を大・小に開いた冠位十二階以降、官位と服装に関する規定は次々に変更され、上記のような唐風な九位制に至りますが、伝統に基づかず、また実状とぴったり合わない形式優先の規定であったからこそ、そうした再々の変更と唐の官位区分の採用が可能になったということなのでしょうか。
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