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蘇我氏については、『日本書紀』ではいろいろな地に家があったとされています。つまり、小墾田・向原・軽・飛鳥河傍・豊浦・畝傍などです。これらは、別邸とみなすべきなのか、世代によって本拠地が移ったのか。この問題を検討したのが、
西本昌弘「蘇我本宗家の本拠地と甘檮岡家」
(『なにわ大阪研究』第7号、2025年3月)
です。
『日本書紀』持統即位前紀の朱鳥元年(686)12月乙酉条には、天武天皇の追善供養のため、無遮大会を大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田の「五寺」でおこなったとあります。ただ、「五」は「六」の誤記だとする説が江戸時代からあり、近年では「小墾田豊浦」は「小墾田・豊浦」の2寺であって「六寺」が正しいとする研究者が増えています。
西本氏は、僧寺が三寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺)、尼寺三寺(小墾田寺・豊浦寺・坂田寺)とみなしたうえで、小墾田寺については奥山廃寺がそれであって、「大后寺」と呼ばれていたとする近年の研究に注意します。つまり、小治田寺と豊浦寺は別とするのです。
小墾田の地については、百済の聖明王から送られた釈迦像や経論を、蘇我稻目が申し出て受け取り、小墾田の家に安置し、向原の家を改めて寺としたとされており、小墾田の家がやがて小墾田宮となり、推古天皇の没後に小墾田寺に改造されたと推定されています。
一方、豊浦寺は、蘇我氏の邸を推古天皇の宮に改め、推古が小墾田宮に移った後に、改めて豊浦寺としたものです。この時は大臣の馬子がやっています。つまり、いずれも蘇我氏の邸宅であったことに西本氏は注意します。
なお、西本氏は触れていませんが、坂田寺は、蘇我氏に仕えて仏教振興を支えた渡来系氏族の司馬達止の娘で日本最初の尼となった善信尼が住した尼寺です。これも蘇我系ですので、六寺だとすると、大官大寺と川原寺を除く四寺が蘇我氏および蘇我氏系ということになり、蘇我氏が仏教流布の面でいかに大きな役割を果たしたかがわかりますね。法隆寺も四天王寺も出てこない……。
馬子については、敏達13年に、善信尼などを出家させて保護した馬子が「仏殿を宅の東方に」造って弥勒の石像を安置し、「また石川宅に仏殿」を造ったとあります。この二つのは「宅」は同じものと見られていましたが、西本氏は、「また」とあるところに着目し、別と見ます。これは妥当ですね。
そして、『元興寺縁起』によると、慧信尼などは「桜井道場」に置かれたとありますので、宅の東方の仏殿がそれだとし、石川宅はのちの石川廃寺(旧称は浦坊廃寺)の場所にあったと見ます。橿原市の石川町の小字宮ノ下から浦坊にかけての地域ですね。
嶋の大臣として知られる馬子は、飛鳥河のほとりに邸宅を構え、池を造り、その中に小さな嶋を置いています。これが明日香村の島庄ですね。ここからは大型建物の跡が発掘されています。
その馬子の長子であった蝦夷は豊浦大臣と称されており、稻目や馬子の豊浦の邸宅を伝領していました。したがって、西本氏は、これが蘇我氏の本拠であったと見ます。蝦夷は畝傍にも邸宅を有しており、馬子同様に池を造らせた由。この付近からは豊浦寺の瓦と同笵の瓦が出土しいますが。
『日本書紀』によれば、蝦夷と入鹿は甘檮岡に邸宅を構え、蝦夷の家を「上宮門」、入鹿の家を「谷宮門」と呼んだとしています。ただ、これは彼らの専横ぶりを強調した記事の一部ですが、西本氏は、その地は豊浦集落の背後の丘陵あたりと見ます。
すると、やはり豊浦周辺ということになりますので、蘇我氏の本拠地は、一貫して桜井・豊浦地域にあり、それ以外に別宅を置いたのだと西本氏は論じます。このことは、甘樫神社が鎮座するのは、向原寺のすぐ傍であることからも明らかとするのです。
いずれにしても、『日本書紀』は史実をかなり正確に伝えている部分と、蝦夷・入鹿を悪者として強調している部分が混在していますので、そこら辺は慎重に見分けていかないといけないですね。
前回の『聖徳太子―実像と伝説の間』(春秋社、2016年)を出してから10年近くなりました。
この間、このブログでいろいろな分野の研究の最新成果やどうしようもない駄目本などを紹介してきましたが、「憲法十七条」について自分なりの考えが固まったため、「憲法十七条」だけに関する本を出すことにしました。現在、初校の校正を始めたところなので、刊行は11月の予定です。
書いてみて分かったことは、真作派も懐疑派も、前提となる考えは明治・大正以来のものであって同じだったということです。ですから、今回の本は、それを見直したということになります。
また、驚いたのは、「憲法十七条」については玉石混淆、いや玉石石砂利屑混淆の論文やら本やらが山のように出ているのに対し、「憲法十七条」の受容の歴史については論文が一つも無かったことです。ナショナリズムが高まった戦時中に、「承詔必謹」「臣道」を説く「憲法十七条」の評価が高まり、聖徳太子全集が刊行された際、その第一巻として、古代以来の注釈と近代の代表的な論文が収録され、簡単な解説がなされたのが唯だ一つの例外です。
ですので、今回の本には研究史も末尾につけておきました。乞うご期待……。
蘇我氏と物部氏の戦いは、『日本書紀』では崇仏派と廃仏派の対立の結果として描かれていますが、現在の学界では、主要な争点は天皇後継者問題であったとする点で一致しています。
ただ、『日本書紀』の守屋合戦譚では、馬子側は皇子たちと多くの氏族を組織して戦ったとされ、物部の軍衆も強力であったとしていますが、これを疑ったのが、
松倉文彦「物部連氏と物部・大市造・漆部造氏―用明紀二年四月丙午条―」
(『史聚』第52号、2019年4月)
です。
松倉氏は、物部氏は同族が全国に展開していたとされるにもかかわらず、有力氏族が軍勢に参加していないことに注目します。用明紀2年7月条では、守屋の軍勢について「親ら子弟と奴軍を率い、稲城を築きて戦う」と述べているからです。
また、「其の軍、強く盛んにして、家に填ち野に溢れたり」と記し、馬子軍は恐れて三度退いたとしており、厩戸皇子の四天王への誓願によってようやく勝ったように描いていますが、これは四天王寺などの資料に基づいた記述であるうえ、短期間で決着がついていることからしても、ここでは守屋軍の京大さを誇張していると松倉氏は見ます。
そこで松倉氏が注目するのが、馬子と守屋が用明天皇の仏教受容をめぐって対立した際、群臣が守屋を陥れようとしていると言われて守屋が阿都に退いて人を集め、物部八坂・大市造小坂・漆部造兄を派遣したいう記事です。
この3名が守屋軍に参加して戦ったという記事はありませんが、使者として親しい配下を送ったのですから、後で共に戦ったことは推測がつきます。そこで、この3名と守屋との関係が検討されます。
物部八坂は経歴は不明ですが、物部とあるのですから、守屋に仕えた部(部曲)あったことが推測されます。
次に大市造氏も経歴不明ですが、伴造であって大市は地名であろうとすると、桜井市箸中から穴師付近が大市郷であったと推定されます。松倉氏は、大市の名を持つ造姓以外の連・首・姓について検討し、大市連については、『姓氏録』などから見て、百済ないし任那出自の渡来系氏族と見ます。
次に大市部については、『先代舊事本紀』では、守屋の兄とされる物部大市御狩連公が石上社を奉祀する役についていたとしていることが注目されます。
漆部造については、守屋合戦で奮闘して戦死し、忠犬譚が残されている桜井田部連もその氏族中に含まれることに注意します。ただ、漆部は、守屋合戦以後も朝廷で用いられており、この合戦において解体・衰滅したわけではないようです。
以上のことから見て、松倉氏は、守屋が動員したのは、出自と系譜に基づく同族関係および地縁関係の氏族の一部にすぎず、王子たちと有力氏族を組織した馬子軍とは異なっており、だからこそ短期間で決着がついたとします。
ここで重要なのは、松倉氏が守屋が自分の本拠に退いたのは戦うためではなかった可能性があるとしていることです。だとすると、馬子は早くから味方を結束させて戦いに備えていたものの、守屋は準備不足であって、あわてて防備を整えたことになります。
いずれにしても、物部氏の軍隊が強大であったような『日本書紀』の記述は誇張ですね。
未整理の瓦から見えてくる四天王寺の創建・整備状況:網伸也・谷崎仁美・矢野昌史「四天王寺における飛鳥・奈良時代の軒瓦の数的動向」
四天王寺の瓦については、このブログでも何度も論文を紹介してきました。その最新版、かつ、最も詳細なのが、
網伸也・谷崎仁美・矢野昌史「四天王寺における飛鳥・奈良時代の軒瓦の数的動向」
(『大阪市文化財論集Ⅱ』、2024年12月)
です。
四天王寺の瓦については、何度も調査報告がなされてきており、四天王寺文化財管理室編『四天王寺古瓦聚成』(1986年)はその代表的なものです。ただ、この掲載から漏れた資料が87箱、17000点も保管されていた由。そこで筆者たちは、2017年に四天王寺勧学部文化財係の協力のもと、これらを再調査したのです。
四天王寺は焼失しては再建されるという経過を繰り返してきました。昭和になっても、1934年に室戸台風によって中門と五重塔が倒壊し、再建されたものの、今度は空襲によって多くの建物が焼失すると、戦後に再建されますが、そうしたたびごとに調査がなされたわけです。
四天王寺の第Ⅰ期の軒瓦のうち、創建瓦として用いられた素弁八葉蓮華文の瓦のうち、NMⅠa1型は、笵崩れの様子から見て、法隆寺若草伽藍で用いられて古くなった瓦笵が楠葉平野山瓦窯に移され、そこで焼成された瓦が四天王寺に供給されたことがわかっています。
ほぼ同じである NMⅠa2 型は、弁と中房がやや小ぶりであって、弁の中央に稜線がやや認められるものですが、破片ばかりであるため NMⅠa1型と区別がつきにくい由。
これらが第Ⅰ期の瓦の多くを占めており、その4分の3が金堂と五重塔付近から出土しているため、創建期は金堂と五重塔だけであって、中門と講堂の造営はやや遅れることが分かります。
第Ⅱ期の軒丸瓦は、舒明天皇11年に創建された百済大寺に比定されている吉備池廃寺や海会寺跡の瓦と同笵である NMⅡa形式と、それに基づいて創出されたNMⅡbとNMⅡcの形式の瓦が出ています。日本最初の勅願寺院と同笵であることから、孝徳朝の難波遷都にともなう伽藍整備を示すとされていましたが、第Ⅱ期の主体を占め、伽藍全体から出土しているのは、NMⅡc形式であって、全体の整備はこの形式でなされたことが判明した由。
ただ、NMⅡa形式は2割程度とはいえ、金堂と塔の周辺に集中しているため、難波宮造営期に整備が行われたことは確かだとします。
そして、NMⅡcの補足として用いられたのがNMⅢc形式であり、この形式の瓦は、難波の堂ヶ芝廃寺、そして谷をはさんで北側に位置する細工谷遺跡で同笵のものが出ており、堂ヶ芝廃寺は百済王氏の寺ですので、この形式は百済の渡来氏族と関係が深いということになります。
以後の瓦の変遷についても詳細な報告がなされていますが、省略します。筆者たちは、これまでの瓦の研究は同笵なのかその改善型かなど、系統を中心にして検討されてきたが、
今回の調査では、出土した瓦の総体を検討し、どの形式がどの場所からどれほどの数で出ているかについて、これまで以上に注意したと述べ、これは四天王寺のような複雑な歴史的経緯を持った寺の場合は特に重要であり、今後の諸寺の調査に役立つだろうと述べています。
道慈(?~744)については、大山誠一氏と吉田一彦氏が『日本書紀』における厩戸皇子関連の記事を執筆し、理想的な聖人としての<聖徳太子>を作り出したとしたことで有名です。しかし、この10数年、「いなかった説」は批判されないどころか、相手にされなくなっており、2022年に出版された研究書、曾根正人『道慈』ではまったく触れられていませんでした(こちら)。
この点は、その後の2023年に出た根本氏の最新論文でも同様でした。
根本誠二「奈良時代における僧と俗―道慈の心情をめぐって」
(宮城洋一郎・根本誠二・直林不退編『奈良平安時代史論纂』、岩田書院、2023年)
です。
根本氏はこの論文の注では、主な研究書・論文として、曾根氏の『道慈』を含む17部を並べていますが、大山・吉田氏の本や論文はあげていません。
さて、唐に渡って16年も滞在し、三論教学を学んで帰国すると、養老3年(719)に法相宗の神叡とともに50戸の封戸を与えられたものの、天平8年(736)になると、唐から帰国した法相宗の玄昉には封戸100戸、田10町、扶翼童子8人が与えられたのに対し、道慈は律師となっておりながら扶翼童子6人が与えられただけでした。扶翼童子とは、将来に弟子とすることができるお付きの少年のことです。
こうしたことが重なったためか、道慈は『大般若経』600巻を600人の僧侶が読誦して国家安泰を祈る法会を行うなど、活躍しましたが、次第に表舞台から遠のいていきます。
長屋王との関係としては、長屋王が神亀5年(728)に書写させた『大般若経』のうち、巻267の奧書には、発願した「長王(長屋王)」を初めとして、書生・校正・装𠘛・検校などにあたった者たちの名が列記されており、最後に「検校藤原寺僧道慈」とあって、道慈も関わっていたことが知られます。
根本氏は、その奧書に記された長屋王の文から見て、長屋王は、僧は經典書写が仏教の教え通りにおこなわれているかどうかを監督できればよいと考えていたようだとし、僧侶の意義を強調する道慈とは異なっていたと見ます。
しかし、長屋王は神仙趣味もあったものの、熱心な仏教信者であって、中国に僧侶に多くの袈裟を送って賞賛された人物です。僧侶を軽んじていたとは考えられません。
ともかく、こうした資料があるため、いなかった派は、道慈と長屋王が親しかったことを強調し、共同で<聖徳太子>造りをおこなったとしたのですが、長屋王が詩宴(酒宴)へ誘ったのに対し、道慈は僧侶と俗人では立場異なるとして断る漢詩を書いています。このため、いなかった派は、この拒絶の詩は親しいがゆえの遊戯気分で書かれているとしたのです。
根本氏は、日本最初の漢詩集である『懐風藻』では、64人の漢詩を収録しているもののの、伝記が付されているのは8人のみ、そのうち4人は道慈の師である智蔵、弁正、道慈、道融という僧侶であって伝記では概して超俗的な面が強調されていることに根本氏は注意します。その立場であれば、俗人の酒宴への誘いを断るのは当然だと見るのです。
道慈は、『愚志』を書き、日本の仏教が唐の仏教と違い過ぎており、これでは国家を守ることができないと批判していました。このため、根本氏は、道慈は天皇・貴族とは一線を画しており、長屋王とも政治的には相容れない立場であったものの、「護国仏教にはしり僧俗の境(ケジメ)をみない奈良仏教の世界をになっている僧侶の行実に批判的である長屋王の立場と共通するものがあるのではないか」と説くのですが、意味が分かりません。
根本氏は、最後に「憶測に憶測を重ね、従来の私見を修正・変更した」と述べていますが、「憶測に憶測を重ね」たことは事実ですね。長屋王の奧書の願文にしても、道慈の漢詩にしても、きちんと読解しないで想像を述べるようでは、いなかった派と同じになってしまいます。
少し前に救世観音像に関する美術史畑の論文を紹介しましたが、異なる視点による論文も出ました。
孫語崎「法隆寺東院本尊像再考―「救世観音」とされる聖徳太子」
(三田哲学会『哲学』155号、2025年3月)
です。孫氏の数年前の肩書きは慶応の大学院後期課程でしたので、現在はその延長上でしょう。
孫氏は、この像が救世観音と呼ばれるようになった時期や背景も考えるため、本稿ではこの像を「東院本尊像」と呼ぶと宣言します。これは良い態度ですね。天平宝字5年(761)の『法隆寺縁起并資財帳』では「上宮王等身観世音菩薩木像」とあるのみですし。
嘉承元年(1106)頃に成立したとされる『七大寺日記』では、「等身救世観音立像」と記されており、平安時代には救世観音とされていたことがわかります。また、鎌倉時代書写の『法隆寺東院縁起』では、「太子在世所造救世観音像」と記され、太子の在世中に作られたとしています。ただ、『東院縁起』は人物の役職など史実に合わない部分が多く、そのままでは信用できないとされています。
孫氏は、この像の作成者と時期に関する諸説を紹介した後、本像の作成者は平面的な表現とすることによって正面觀照性を強調しようとしていたことに注意します。こうしたタイプは、北魏の仏像の系統とされることが多いのですが、両手に宝珠を捧持する形は中国の南朝の特徴とも言われています。
孫氏は、この形式は法隆寺献納宝物中の金銅菩薩立像にも認められ、飛鳥時代の金銅仏によく見られるとします。そして、当時の「中国→高麗沿岸→百済沿岸」という航海ルートから見て、北朝、特に東魏や北斉の影響が韓国経由で日本に及んできたものと推定します。
そして、現在の東院夢殿は鎌倉時代の大修理を経ているものの、古い姿を残す内部の仏壇などから見て、当初から八角であったとし、これは貴人の追善のための建物の形であることに注意します。
そして、三宝を護持する「聖王」の像を造ること、あるいは仏教を保護した聖王を意識した仏菩薩の像を建立する例をインド・中国からあげます。仏教を再興した隋の文帝が、自身の等身の像と幼少期の文帝を育て、将来仏法再興すると預言した尼僧の智仙の図像を作り、天下の諸寺に頒布した例などですね。
また、北斉の事実上の創始者である高歓については、観音と結びつけられたことで有名です。後には、観音の威力を説いた『救生観世音経』とか『救苦観世音経』などとも呼ばれた偽経を改作し、高歓が観音の化身であることを示唆するような『高王観世音経』という名の偽経が作成され、広まっているほどです。
孫氏は、東院本尊像である観音像は、聖徳太子信仰の高まりの中で、上記と似たような状況を背景とし、「太子御影」とする伝承が生まれたものと見ます。
その像で注意すべきは、手にもった宝珠の蓮台と左第一指との間に小さな珠があることだとします。この珠は、金銅仏を制作する際、銅湯が回りにくい部分の鋳損じをふせぐためにわざと設けられた「つなぎ」の部分であって、完成後は鏨ではつり落とすべきものでありながら、小金銅仏などの場合はそのままにされることもある由。
このため、孫氏は、この像の指の珠は、太子と特別な関係があった小金銅仏、たとえば太子の念持仏であった小金銅仏などを忠実に写した結果ではないかと推定します。だからこそ「太子御影」といった伝承が生まれてきたのではないかとするのです。
日本では、朱鳥元年(686)に病気の天武天皇のために観音像を造立し、大官大寺で「観世音経」を講釈させたうえ、宮中で『観音経』を200巻読誦しています。奈良時代になっても、国家鎮護のために観音像を造立したり、『観音経』を書写させたりしています。
正倉院文書には、光明皇后の役所である皇后宮職が天平9年(737)に大官大寺から『高王観世音経』を借り出して返却しています。こうしたことから見て、観音を仏教用語の聖王と結びつけることは、奈良町初期には確立していたと孫氏は見ます。
奈良朝には唐から渡ってきた鑑真の弟子たちが、厩戸皇子は南岳慧思の後身だとする説を広めているわけですが、鑑真が将来した仏像の中には「救世観音像一鋪」も含まれていました。
こうしたことから、孫氏は、東院の観音像が聖徳太子等身の救世観音とみなされるようになったのは、平安時代ではなく、奈良時代のこの時期のことではなかったかと推測します。
「聖徳太子」という名を広めたのは、歴代の天皇の漢字諡号を定めた文人であって、慧思後身説を言い出した鑑真の弟子の思託と仲が良く、自らもそれに触れている淡海三船であった可能性が強いことは私自身が書いてますが(こちら)、孫氏のこの論文はそれと良く合致しそうです。
続くのは、永崎孝文氏の「憲法十七条の教えと心」。各条の冒頭部分を国会図書館shよ蔵の慶長年間の「憲法十七箇条」のカラー写真で示すなど、デザインは工夫されています。永崎氏は、「憲法十七条」に関する本を複数出しており、自分なりの道徳お説教的な解説をしている人ですね。
永崎氏は、これまでは太子を崇めるあまり、仏教の高度な思想が書かれているとする解釈がおこなわれたと批判します。ただ、第一条の「人皆な党有り」は仲間が徒党を組むことではなく、旧字「黨」の場合、中に含まれる黒の部分は、日月を覆って明るくないことを示すため、ここでの「党」とは無明を意味するなどと、トンデモ説を述べています。これまでの解釈は仏教思想を読み込みすぎだ、という批判はどこへ行ったのでしょう。
永崎氏が仏教に詳しくないことは、これまでの本を見てもわかりますし、東洋思想を研究したと称していますが、「憲法十七条」に多い変格漢文の語法に触れないことを見ると、太子はいなかった派と同様、漢文を文章として読むことができず、単語だけ拾って勝手な解釈を読み込むタイプであることがわかります。
第三条については、天皇に「仁」の心があってこそ臣下もそれになびくなどと説いてますが、「憲法十七条」は群臣に対する教誡であって、上に立つ君主についてはまった道徳上の要請はしてません。「憲法十七条」が断章取義で利用している儒教や法家の文献は、君主にそうした道徳や政治判断を求めていますが、「憲法十七条」はそうしたことは一切述べないのです。
そもそも、「憲法十七条」は「孝」を説いてませんし、『日本書紀』の厩戸皇子関連の記述では、厩戸皇子について「孝」とか「仁」だとか述べてません。「憲法十七条」の基本は「篤敬三宝」であり、「仁」は第六条で上下にへつらう群臣を「民に仁がない」と批判しているだけであって、「仁」の本来の意味とはずれていますし、「憲法十七条」全体の主題にはなっていません。
要するに、永崎氏の説明は、自分なりの道徳を読み込んだ間違いだらけの解釈であって、紹介する価値がないので、やめておきます。こうした文章と並ぶことになったかと思うと、やはり、執筆を断って正解でした。「憲法十七条」を文献的に正確に読むこと、またこれまでの研究史については、秋に出る私の『憲法十七条を読む』(仮題)をお待ちください。
次の大角修氏担当の「仏教の交流と太子の偉業を辿る」も問題が多いものです。前半は仏教の概説です。聖徳太子と仏教について述べた部分では、第三条について「宣じる」などという妙な文になっているます。
第二条で「篤敬三宝」が説かれたことに触れていますが、三宝に帰依しないと悪をただすことができないという部分は『優婆塞戒経』に基づいていること、『勝鬘経義疏』も同じ箇所を引いていることなどは無視されています。
これらの出典を指摘した私の論文や、『日本書紀』では「憲法十七条」だけが重要な箇所で2度持ち一ている「~要在~」の語法が、『勝鬘経義疏』に4回、『維摩経義疏』2回、『法華義疏』に1回、つまり、三経義疏全てに見えており、これらは同じ人物の著作だと推定した岡田高志さんの論文(こちら)にも触れていません。
こんな調子では、最近の研究を読んでないどころか、三経義疏そのものをきちんと読んでいないのではないかと疑念が湧いてきますね。実際、これに続く部分では飛鳥時代の仏像に関する記述がなされ、肝心の三経義疏についてはほとんど説明がありません。
『法華経』『維摩経』『勝鬘経』に関する概説が示され、『維摩経義疏』の「総序」の部分が引用されているだけで、三経義疏の特徴はまったく説かれないのです。やはり、読んでいませんね。見出しは「聖徳太子が詳細に解説した!」となっているものの、大角氏は、「太子が詳細に解説した三経義疏の内容をまったく解説しない!」のです。やれやれ。
やはり、執筆を断って正解でした……。
前回の続きです。最初は、遠山美都男氏の「謎に包まれた「摂政「・聖徳太子」誕生秘話」。不当に矮小化されてきた蘇我氏をきちんと再評価する書物を次々に出してきた遠山氏は、「厩戸皇子」という呼び名を用い、この名はおそらく養育を担当した豪族のウジナに由来するのだろうが、『日本書紀』編纂時には既に不明になっていたため、「厩」にまつわる伝説が生まれたと推測し、いずれにしてもキリスト教と関連づけるのは想像にすぎないとします。
遠山氏は、厩戸皇子は、用明の長子であって大王に推戴される資格はあったものの、敏達天皇の子である同世代の押坂彦人大兄・竹田より年若であったろうとし、大王の選定は群臣の合議によっていたし、その合議は常に分裂の危機をはらんでいたことを強調します。これは大事な点です。
そして、物部氏と蘇我氏の対立については、仏教の受容それ自体ではなく、受容のあり方をめぐってのことだったと考えるべきだとします。つまり、仏教受容とその成果を独占していた蘇我氏に対する反発が要因だったと見るのです。これが、群臣の合議において誰が頂点に立つかという争いとからんでいたとするのですね。
そして、守屋との合戦によって、馬子は単独で群臣中の上位ではなく、その頂点に立つ大臣の地位を確立したと説き、大臣・群臣制が確立したとします。これは、前に紹介した鈴木明子さんも強調していたところです(こちら)。
そして、遠山氏は、厩戸が皇太子とか摂政とかになったわけではないとしつつも、厩戸皇子は王権を代表して大臣の馬子と共に群臣会議を統括する立場に就任したことになると説きます。太子が群臣会議を直接に統括する立場に立ったかどうかは資料不足で判断できませんが、方針を提示する地位にあったことは認めてよさそうですね。
次は、武光誠氏の「仏教の理念に基づいた国づくり」です。武光氏はかつては聖徳太子に関する文献的な研究を発表していましたが、その後、異様に多作な書き手として書籍を生産しており、近年では太子に関しても想像の部分が多い文章を書いていたため、やや心配されたところです。
武光氏は、『日本書紀』は脚色が多いとしたうえで、「用明天皇の王子に後に「聖徳」と讃えられた厩戸王という優れた人物がいた」と書きます。こうした形で「厩戸王」という名を用いるのは感心しませんし、「聖徳」が後代の名であることは確定してないと思いますが、武光氏は、この後、やや小説風な書き方で論を進めていきます。
武光氏は、『日本書紀』にそって時代の流れを概説した後、崇峻天皇の暗殺によって馬子が全権を握ったのではないかとし、欽明天皇→敏達天皇の嫡系を嗣ぐ竹田皇子がまだ幼かったため、成長するまでの中継ぎとして推古天皇を立てたと見るのが妥当だとします。というのは、王家の女性の母から生まれた王子を嫡系としていたためだというのです。
このため、蘇我氏の娘の子である用明天皇についても、敏達天皇の皇后だった炊屋姫(推古天皇)の兄の資格で、竹田皇子が成長するまでの中継ぎを務めていたとします。 ただ、当時は天皇は終身制だったため、中継ぎを予定して天皇を立てるということがあったかどうか。
聖徳太子については「蘇我馬子と推古天皇の間の調整役を期待されて政権に加えられた」とありますが、推古は叔父である馬子とおそらく同じ家で育ち、在位の最後近くまで馬子の提案を受け入れているため、調整役なるものが必要であったかどうかは怪しいですね。
このように、武光氏の文章は断定調が目立つのですが、注目されるのは、太子が推古の補佐役を務めるようになってから11年の間、朝廷では有力者間の内紛が見られないとと述べ、これは太子が人々の気持ちを理解し、「和の政治」を実行したことを物語るとするのですが、一番の権力者は馬子なのですから、その権威によって内紛が押さえられたとみることも可能でしょう。
『日本書紀』によれば、太子と馬子が歴史書を編纂したとしていますが、武光氏はそれを事実とみなし、豪族たちの祖先神を、王家が祭る天照大神の親戚や家来筋の神々となる神話をまとめていったのであって、馬子がそれに協力したとします。
しかし、『日本書紀』の古い部分には天照大神は登場しないため、天照大神が造型されるのは7世紀後半になってからであることが知られています。武光氏の概説は、『日本書紀』そのままに近く、最近の研究状況は反映してませんね。
以前にも聖徳太子特集をやった『歴史道』が2025念5月20日刊行の332号で、また特集を組みました。「完全保存版」と称しており、図や年表や写真なども多く、簡易な聖徳太子事典として使えるような形をめざしているようです。
この特集については、私も原稿の依頼を受けたのですが、断りました。というのは、執筆予定メンバーを尋ねたところ、どうかなと思う人もいたうえ、聖徳太子について研究していないにもかかわらず、雑なムックなどの監修やら執筆をやたらやる一方で、大学では学生をきちんと指導せず、事務局に苦情が来るような人物も含まれていたため、そんな人と名を並べることはできない、出たらブログで批判すると述べて断ったのです。刊行されてみたところ、その人は執筆していませんでした。何か理由があるのか。
それはともかく、冒頭の「聖徳太子の虚と実を解き明かす!」を担当していたのは、このブログでも何度かとりあげた河合敦氏です。テレビなどでお馴染みの河合氏は、かつては大山誠一氏の虚構説を支持する立場で盛んに書いていたのですが、このブログで批判したことも多少は影響しているようで、数年前のテレビ番組では、研究が進展してきたことによって意見を変えつつあるようでした(こちら)。
河合氏は、本書では虚構説と反対説を簡単に紹介しています。最近の状況に注意しているようで、その点は評価できます。ただ、聖徳太子の様々な名前について説明する際、「上宮」や「豊聡耳」に関する古市晃氏の学界で支持されていない2012年の説を挙げ続けているのは感心しませんね。
ともかく、河合氏は、虚構説を否定する研究がいくつも発表されているとして、その例として私の『聖徳太子:実像と伝説の間』をあげ、太子は馬子につぐ勢力を持っていたとする見方を紹介してくれており、有り難いことでした。できれば、飛鳥と斑鳩の約20キロの距離を幅20メートルもの道で斜め一直線に結ぶ太子道に関する考古学の成果なども紹介してほしかったところです。
なお、「東京大学の大蔵経テキストデータベース研究会」が作成してデータを利用した私の三経義疏研究も紹介してくれてますが、厳密にいうと、「大正新脩大蔵経テキストデータベース」は、印度学仏教学会の事業として作成され、それを学会事務局がある東大のサーバーに置いているのであって、東大の研究会ではありません。
三経義疏は日本人によって書かれた可能性があるとする私の研究とともに、木村整民氏の三経義疏同一作者説も紹介されてました。私はテレビ出演はすべて断っているため、上記の番組では木村さんに出演をお願いしたのですが、木村さんの論文は私のブログで紹介したものですね。
河合氏は、唐本の御影に関する説の変化について説明した後、最後の部分で、名前に関しても諸説があることなど、さまざまな説の乱立状態に触れ、「今後も聖徳太子像は変わり続けていくことだろう」としめくくっています。
まあ、無難なところでしょう。明治・大正以来の聖徳太子像をひっくりかえす私の『憲法十七条を読みなおす』(春秋社)が秋に刊行されたら、さらに大きく変化するはずです。
念のために言っておきますが、私は僧侶でもなく、聖徳太子信奉者でもありません。単なる歴史と思想の研究者であって、聖徳太子を無暗に持ち上げて国家主義や旧道徳の復活に利用しようとする動きには大反対している立場です。
次は、「聖徳太子信仰の変遷史」と題する中村修也氏の担当分。中村氏は、かつては推古朝頃について文献的な研究を多く発表していましたが、最近は太子の時代についてはあまり論文などを書いてないように思われます。
実際、この担当分では、天武天皇が「太子ゆかりの法隆寺に西院伽藍を再建した」などと、根拠のないことを書いています。
また、「律令国家の基礎を作ったとされる藤原不比等が、聖徳太子信仰のルーツだという指摘もある」と書いてますが、これは、現在はまったく相手にされていない虚構説ですね。しかし、中村氏はこれに続けて、「太子の死後間もなくから、その生涯を伝承や逸話とともに描く「太子伝」と総称される伝記が作られた」と述べています。この可能性はないではないですが、資料はなく、中村氏も論証していません。断定は避けた方が良かったですね。
この後では、太子信仰の大きな流れを概説しており、無難な記述になっています。
先に東京国立博物館客員研究員の石松氏の救世観音像論文を紹介しましたが(こちら)、その国立博物館勤務から奈良国立博物館に転じた三田覚之氏も、同誌の同じ号で連載を続けています。今回紹介するのは、
三田覚之「法隆寺探訪記<7> 百済観音という謎」
(『聖徳』第253号、2025年1月)
奈良国立博物館では、4月19日から6月15日の開館130年記念特別展 超国宝―祈りのかがやき―」に百済観音が展示された由。そのためも兼ねた概説です。三田氏がこの像を初めて見たのは、5歳の頃だった由。
その百済観音像は、大きさから見て、金堂の本尊となって不思議はないにもかかわらず、もともとの安置場所が不明であり、少なくとも江戸初期からは法隆寺金堂の内陣北側に安置されてきました。
ただ、三田氏は、天平19年(747)の『法隆寺資財帳』に「観世音菩薩」関連の品として「金針」「白銅飯鋺」「白銅水瓶」「錫杖」など、百済観音の持ち物が記されているうえ、橘夫人の念持仏とされる阿弥陀増の後輩が百済観音像の後輩を模倣していること、百済観音像の臂釧・腕釧が金堂潅頂幡の金具と同じ規格であることなどから見て、奈良時代には既に法隆寺金堂に安置されていたと見ます。
その金堂潅頂幡については、「片岡御祖命(かたおかのみおやのみこと)」の奉納とされており、これは聖徳太子の娘であって、山背大兄の妹である片岡女王と考えられます。しかも、潅頂幡は主に死者の追善に用いられるため、皇極天皇2年(643)に滅亡した山背大兄のを長とする上宮王家の追善として作成されたのであって、百済観音も恐らく同様であったと三田氏は推測します。
百済観音像は210センチもあって異様に背が高いのですが、梶谷亮治氏によると、これは金堂の壁画の観音像とほぼ同じであるため、その関連で考えてよいとされています。
三田氏は、菩薩像は髪形によって高さがかなり変わるため、髪の生え際から足下までを計測すると、百済観音は196.2センチ、壁画の観音は196センチであって、確かに一致していた由。これは唐小尺だと8尺となり、仏は丈六、つまり一丈六尺(16尺)ですので、仏の半分の大きさということになります。
つまり、金堂の釈迦像は「等身」とされていますが、仏の半分の人間の大きさということで造られていたことになります。
問題は、百済観音は鬟や臂から先を除いては、クスノキの一木から彫刻されています。ひょろ長い姿はそのためですね。この一木へのこだわりは台座にまで及んでいます。ただ、その台座の蓮弁などを見てもわかるように、百済観音の彫刻技術はかなり粗い由。一方、光背の蓮弁は非常にシャープであって唐草や火炎が濃密に描かれているとか。
このため、三田氏は、別人の作とも考えられるとしつつ、時期の違いである場合は、天智9年(670)の法隆寺の火災によって重い光背が失われ、早い時期に作成しなおされたのではないかと想像します。
なかなか、面白くなってきましたね。いずれにしても、百済観音像自体は、あまり新しい作ではなさそうです。
2月に紹介した論文(こちら)の続篇です。
石松日奈子「夢殿秘仏救世観音像考(二)―『唐寅資材帳』の「上宮王等身観世音菩薩木像」について―」
(『聖徳』第253号、2025年1月)
石松氏は、聖徳太子の容姿に基づくとされる救世観音像は、図像的には普通の菩薩像と見てまったく問題ないという話で始めます。ただ、761年の『法隆寺東院縁起資財帳』では、「上宮王等身観世音菩薩木像壹躯 金箔押」とあり、1140年の大江親道『七大寺巡礼私記』では、「太子御影也」と記されており、次第に聖徳太子の肖像とされるようになったわけです。
ただ、興味深いのは、東院(夢殿)には天平9年(737)に光明皇后と行信によって太子ゆかりのものが大量に施入されいますが、それらは「上宮聖徳法王」のものと記されているのです。石松氏はこの点を指摘するだけでそれ以上書いていませんが、救世観音像が「上宮王等身」とだけ記されているのは、天平9年以前にそう呼ばれていたことを示すものですね。
石松氏は、「あらためいうまでもないが」として、「聖徳」や「法王(皇)」は没後の尊号だとしますが、その証拠はありません。没後とするのは「法王」をローマ法皇のような存在と考えるからです。
「法王」と同じ意味と見られる「法主」は、中国では講経が巧みであって、寺でのその面の代表となる学僧を指しました。聖徳太子は、生前に講経しているのですから、講経が巧みといいうことで「法王(のりのみこ/おおきみ)」とか「のりのぬしのみこ/おおきみ)」と呼ばれても不思議はないのです。
「聖徳」にしても、『日本書紀』では「東宮聖徳」という異例の形で呼ばれています。中国でも韓国でも、尊崇されていた王などが生前に「聖~王」などと呼ばれるのは良くあることです。また、「太子」の語は聖徳太子以前から韓国で用いられていました。
これを結びつけて「聖徳太子」としたのは、奈良時代に歴代天皇の漢字諡号を定めた淡海三船であった可能性が高いですが、「聖徳」を没後の名と断定する証拠はありません。
石松氏は、生前に用いられていた可能性が高いのは、「上宮」と「厩戸(馬屋戸、有麻移刀)」だとします。そして、斑鳩には現在も「上宮(かみや)」の地名が残っており、膳菩岐岐美郎女の宮の跡地と言われていることに触れます。
次に「等身」については、聖徳太子の身長どおりだと、救世観音像は180センチであってかなりの長身となるとします。「尺寸王身」と刻まれた金堂の釈迦像は坐像で87.5センチ。立像だと175センチですので、180センチは許容範囲ですが、『資財帳』がいう「等身」とは、丈六(4.8メーター)とされる釈迦の姿ではなく、人間の大きさくらいという意味であった可能性もあるとします。
石松氏は、南北朝や隋唐には皇帝やその父などと等身の仏像が作られたものの、聖徳太子当時の倭国の仏教は、蘇我氏を中心とした氏族仏教であって、国家仏教は乙巳の変以後なので、それが実行されたとは考えにくいとします。
これは時代遅れ、認識不足の仏教史観ですね。氏寺の形成はずっと後のことであって、飛鳥寺は蘇我氏が建てたとはいえ、それは仏教を担当していた蘇我氏が国家のために建てたものであって、祖先の追善などのためではありません。だからこそ、大化改新以後も、飛鳥寺は国の大寺扱いされたのです。
さて、石松氏は、救世像は観音像とされているものの、銘がなく、また対となる像もないため、釈迦菩薩(太子時代)、弥勒菩薩、観音菩薩なのかは判定できないとしたうえで、中国では南北朝から観音像が増えているため、救世像は観音である可能性が高いとします。
そして、7世紀にさかのぼる木像は日本しかないことに注意します。救世観音像はクスノキで造られれているのに対し、中国では木像は香木である白檀で作った旃檀像、それも数10センチのものばかりであって、201センチの百済観音も同様です。こうした大きな独尊の木像については、造像目的や当初の安置場所を考える必要があるとします。
そこが大事ですね。石松氏は、前回の論文では、救世観音像の異様な生々しさに注意していました。また、氏は現在は東京国立博物館の客員研究員ですが、東博で飛鳥時代の仏像などを研究していたい三田覚之氏は、救世観音像は釈迦三尊像より古いと論じていました(こちら)。さて、どうなるか。
救世観音像については、金堂の西の間の台座の塗り残し部分の大きさから見て、ここに救世観音像が安置されていた可能性が指摘されていますが、石松氏は、それではこの像だけ背が高すぎ、この場所に安置されている仏像たちのバランスが悪くなるとする東野説に賛成します。
そのうえで、石松氏は、救世観音像は西院の金堂にあったものの、西の間の台座の上ではなく、下の須弥壇に立っていたと推測します。明治時代の写真では、金堂の釈迦三尊像の背面に安置された橘夫人の念仏厨子の傍らに北面して百済観音が立っていた由。そうした姿を考えるのです。
そこで、石松氏は、670年の火災の後、法隆寺が西院として再建されると、関係ある寺々や上宮王の遺族の住居で拝まれていた仏像などが法隆寺に集められ、完成した金堂の須弥壇の上に仮に安置されていたと推測します。これが後に、聖徳太子を祀る東院ができると、そちらに安置されたのだとするのです。
この論考は、次号に続く由。楽しみですね。
中世以後、聖徳太子信仰を支えた主力は、熱烈な太子信仰者であった親鸞を開祖とする真宗でした。このため、聖徳太子像が最も多く安置されているのも、真宗の寺です。
親鸞は、聖徳太子を讃えた和讃を数多く作っており、晩年に作られた75首から成る『皇太子聖徳奉讃』は自筆本が残っています。ただ、現在は、分断されており、あちこちに収蔵されていますが。
親鸞のこうした太子信仰については有名であるものの、大論争となり続けていることがあります。悩んでいた29歳の親鸞が法然のところにおもむくきっかけとなった六角堂百日参籠中に夢想を得たという事件です。見事な如意輪観音像で有名であった六角堂は、当時は都における聖徳太子信仰・観音信仰の聖地となっていました。
親鸞の妻となった慧信尼が娘に送った手紙によれば、親鸞は六角堂に参籠して95日目の暁に「聖徳太子の文」を誦して、あるいは結び文を捧げたところ、太子の示現にあずかったため、直ちに吉水で浄土信仰を説いていた法然のもとにおもむいた、と述べています。
その「聖徳太子の文」は、どのようなものだったか。主流の説は、この「文」とはいわゆる「廟崛偈」だとしています。「廟崛偈」とは、太子廟の内部に太子自身が記したとされるものであって、太子が、自分は西方浄土から人々を救うために日本に身を表した救世観世音菩薩であり、妃は勢至菩薩、母は阿弥陀仏であり、この廟に骨を残して西方浄土に戻ったというものです。
実際には、太子に仮託した文書が平安時代半ばあたりから四天王寺などで次々に登場していました。磯長の太子廟も同様であって、そのそばで「太子御記文」なるものが発見されており、それからやや後に、「廟崛偈」が知られるようになったのです。いわば聖地である磯長の廟への参詣を勧めたCMですね。こうした状況については、このブログでも紹介してあります(こちら)。
問題は、その「廟崛偈」を唱えたか結び文にして捧げたかして、得られた夢想です。一般には、「六角堂救世大菩薩」が僧形で白い袈裟を付けて現れ、善信(親鸞)に対して、行者(善信)がもし女犯しても、自分が玉女の身となって犯され、一生の間、お前を荘厳し、臨終時には引導して極楽に生じさせようという偈を語った、という夢だとされています。
これは親鸞が重視していた経典の要文を書き抜いた『経釈文聞書』の末尾に記されている夢であって、親鸞の有力な弟子の一人である真仏による書写本が伝わっています。
この偈を六角堂での夢想で得た偈だとする説が主流なのですが、親鸞の曾孫である覚如が著した『親鸞伝絵』では、親鸞が法然のもとに赴いたのは29歳の時としたうえで、六角堂夢想の偈を得たのはその2年後としています。
これについては年次の誤認とされることが多かったのですが、東館氏は、覚如は生涯にわたって『親鸞伝絵』の修正を続けていたため、間違いを放置することは考えにくいとし、この記述が正しいと見ます。
東館氏は、今井雅晴氏が親鸞と慧信尼が出合ったのは吉水の法然のもとである可能性が高いと述べていることを重視し、この夢想の偈は、吉水で慧信尼と出合って以後に得られたことを示していると思われるとしています。
この偈については、親鸞(1173-1262)よりやや先輩にあたる真言宗の覚禅(1143-?)が多くの口伝を集めて編集した『覚禅抄』に、如意輪観音の誓いの偈として良く似た偈が収録されています。つまり、淫欲が盛んで堕落しそうであれば、自分が親しい「妻妾」となり、一生の間、裕福で仏教の善行をおこなうことができ、極楽浄土に往生することができるようにしてやろう、という偈です。
東館氏は、『覚禅抄』のこの偈と違い、善信(親鸞)に与えられた偈では、他者を傷つけずには生きていけないようは罪業性を正当化するのではなく、宿業としてとらえている点に特徴があるとし、「共に歩む存在として」罪を知らしめる形で観音が登場しているとします。
さて、どうでしょう。年代論に関する東館氏の検討は有益ですが、夢想の解釈については、史実の追求というより、いわゆる親鸞教学、それも「他者」の重視など現代の問題意識を読み込んだ現代風な親鸞教学の摸索の試みのように見えないこともありません。ともかく、真宗における聖徳太子信仰というのは、法然との同異を考えるうえで重要な要素です。
前回の仁藤論文に続く倉本論考です。
倉本一宏「聖徳太子と蘇我馬子―太子伝説、不在説、改革の敵対者」(『中央公論』1699号、2025年5月)
こちらは、一般雑誌の『中央公論』(元はと言えば、真宗の学校の禁酒運動雑誌だったわけですけど)の「逆転の日本史」という特集号であって、冒頭には国際日本文化センターの磯田道史氏の「歴史人物の評価はなぜ揺れ動くのか」が掲載されています。
磯田氏のこの序説では、揺れ動いた代表として蘇我馬子と聖徳太子がまず取り上げられており、蘇我氏はヤマト王権を強力にするために財務面で活動したのに、皇室中心史観では横暴だったと非難されるようになったと述べます。また、日本では仏教が有力であったため、仏教を妨害した神道系の物部氏を蘇我氏と聖徳太子の連合が打ち破ったというイメージができたとします。
ただ、現代の蘇我氏のイメージに最も影響があるのは少女マンガかもしれないとしており、自由に想像を広げられる小説・マンガ・映像作品なども影響を及ぼしたとします。この点は、クラウタウさんの本が説明してますね(こちら)。
磯田氏は、歴史における評価の変動について検討した後、歴史人物について「好き嫌い」「良い悪い」で割り切るのは適切でなく、「人間の複雑性を複雑なまま理解する」ことの重要さを説いています。
その国際日本文化センターを退職して名誉教授となった倉本氏は、聖徳太子については、仁藤氏と同様に「聖徳太子」とカッコ付きで表記し、かつては「聖徳太子」対蘇我馬子という対立図式あり、馬子が「聖徳太子」の国政改革を妨害したとか、「聖徳太子」が権力闘争に敗れて斑鳩に隠棲して仏教信仰に励んだといった見方が流布していたが、誤りだと宣言します。
そして、『法王帝説』が説くように、「推古・厩戸王子・馬子三
者の共治が行われていたと考えるべきである」とします。その「厩戸王子」が「摂政」となったとか「皇太子」だったといいうのは後の表記であるとしつつ、『日本書紀』以前の早い時期から伝説が成立していたとします。これが、古代史学界の主流の説ですね。
倉本氏は、『日本書紀』に見える太子の神秘的な記述は後代のものとするのですが、三経義疏を撰述したというのもそうした伝説の一つとしています。これは、例によって仏教文献に弱く、訓んでいない歴史学者の言明ですね。
倉本氏は、大山説については、道慈が『日本書紀』の太子関連の記述を書いたとか、行信が太子信仰をふくらませたなどの点は新説だが、実在する厩戸王子と「聖徳太子」を区別することは歴史学の常識だったので、当たり前のことを言っていると受けとめた由。
倉本氏は、冠位十二階については、馬子がその上に立っていて授ける側だったことに注意します。そして隋との外交については、対等外交などではなく、朝貢ではあったが、それ以前の倭国王と違って、朝鮮諸国より上位に立つために冊封を求めず、「東夷の小帝国」を築こうとしたとします。これも最近の通説ですね。
『隋書』が、使節の裴世清が倭国王と接見したとしているのは、厩戸王子のことだろうと説きます。
国史の編纂については、遣隋使が倭国の状況を聞かれて答えられなかったためだろうとし、乙巳の変で国史が蝦夷の邸で焼失しそうになったのは、馬子主導で始まったためだろうとします。
そして、馬子は厩戸王子に娘を嫁がせ、また敏達系の田村皇子にも娘を嫁がせており、蘇我系と非蘇我系の両方の大王家との間に強固な「ミウチ関係」を構築したとします。新羅使の対応には馬子大臣があたり、「四の大夫」が使いの旨を聞いて馬子に啓上しているが、その中に長子の蝦夷がいることに注目します。
つまり、群臣会議は有力な氏族から一人だけ代表を出していたのが、この段階では蘇我氏から大臣と大夫が出ているうえ、他の同族からも大夫が出ているため、特殊な位置を確立したことに注意します。倉本氏は、馬子のことを激動の時代に政治を領導したとsて、「日本史上の巨星と称すべき存在」としています。
確かにその通りで、『日本書紀』は蘇我氏を悪者として描いていると言われますが、馬子についてはそうでないことに注意すべきですね。
ということで、三経義疏の件以外は、かなり私の考えに近いものでした。
前回の続きであって、『歴史地理教育』第984号(2025年5月)です。前回、駒大図書館で(上)をコピーした際は、まだ新着雑誌コーナーに置かれてなかったのですが、昨日、寄った際は、6月号まで置いてありました。
(下)は、「隋との外交」で始まります。600年の遣使では、隋側から風俗を問われ、文帝から野蛮な政治方式であると批判されたため、607年の正式な遣隋使までの間に倭国では制度整備が急に進んでいます。
その遣隋使の帰国に際し、裴世清が派遣されて来るわけですが、その次官として「尚書祠部主事の遍光高」の名が見えており、礼制や儀礼を担当する部局の役人が派遣されてきているのは、倭国の儀礼を視察し、不適切な部分は教諭することが目的であったと見ます。
そして、隋との外交を「対等外交」と見る説は、明治時代に不平等条約を改正しようとしていた時期の見方であって、河上麻由子さんなどが説くように「仏教的朝貢」であったと説きます。国書を見て煬帝が怒ったものの、裴世清を送ってきたのは、高句麗への第二次遠征を改革していたため、倭国を高句麗の味方にしないためだったという説に賛成します。
その高句麗は高句麗で、倭国に黄金や慧慈を送ってきたりしており、接近しようとしていたのであって、高句麗征討が失敗した後に慧慈が帰国しているのは、慧慈が厩戸王の側近となって外交面で働きかけをしていた証拠と見ます。
当時、高句麗と隋の間で百済は二重外交をしていたようであるため、小野妹子が隋からもらった国書を百済で奪われたと『日本書紀』が記しているのは、紛失したための口実でなく、史実であったとすれば、そうした百済が倭国を高句麗から切り離そうとする隋の動静を知るための策謀であった可能性があるとします。
この時期には、新羅も高句麗・百済・倭国が同盟して新羅に対抗するのを避けるため、倭国に使者や調物を送ってきていました。そうした状況で、倭国の外交はおこなわれていたのです。
冠位十二階については、通説のように、儒教の通常の五常の順序でなく、「礼」と「信」が上位に来ているのは、「礼」と「信」を重視している「憲法十七条」と一致しているとします。ただ、「憲法十七条」は『日本書紀』では太子作としているものの、冠位十二階については太子の事績としていないうえ、馬子は冠位を授ける側に立っているうえ、『法王帝説』では、「聖徳王」と「嶋大臣」が仏教興隆して冠位十二階をおこなったとしているため、馬子と太子の共同作の可能性が高いとします。
そして、「憲法十七条」については、諸説があったものの、推古朝のものと見て矛盾はないとするのが、現在の通説だとします。神祇に言及せず、またその当時の社会問題をとりあげているのもその証拠とするのです。
ということで、聖徳太子ついては、推古天皇を太子と馬子が補弼したと『法王帝説』が説くように、皇太子とか摂政というのは疑問であるものの、「有能な推古女帝のもとで、大臣蘇我馬子とともに共同執政した有力な皇子との評価は可能である」と説いてしめくくっています。
穏健な説ですね。私がこのブログを始めた頃の、学界の論調とはかなり変わってきています。