聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺研究に関する最新の情報や私見を紹介します。

拙論「『人間聖徳太子』の誕生--戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷--」刊行

2012年05月19日 | 論文・研究書紹介
拙論「『人間聖徳太子』の誕生--戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷--」刊行

 昨年度末以来、更新がとまっていましたが、そろそろ復帰します。その最初は、自分の論文ですみませんが、

石井公成「『人間聖徳太子』の誕生--戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷--」
(『近代仏教』第19号、2012年5月)

です。

 この内容については、以前、少し触れました。聖徳太子を一人の悩む人間としてとらえようとする傾向は、いつ頃、誰が始め、どのように広まっていったのかに関する試論です。

 結論としては、『歎異抄』などの影響が大きく、直接には倉田百三『出家とその弟子』あたりが大きな役割を果たしたのであって、そうした視点が、戦時中に精神的な居場所を見いだせずに悩んでいた亀井勝一郎、小倉豊文、家永三郎の太子観に影響を及ぼしたと論じています。

 戦時中の国家主義的聖徳太子観のうち、注目されるのは、金子大栄が文部省関連で刊行している著作の多さです。文部省は若者が社会主義に染まらないよう国家主義を強調する一方で、西洋風な科学教育をおこなって軍事技術と産業を盛んにするため、聖徳太子を利用しようとしたようです。つまり、けがらわしい毛唐どもから学ぶことなど無いといった偏狭な超国家主義では困るため、聖徳太子のことを、海外の文化を選別しつつ積極的に取り入れ、元のもの以上に磨き上げた偉大な先人とまつりあげ、それにならおうとしたのです。

 なお、戦時中にその文部省とつながり、聖徳太子のことを「承詔必謹」を説いた国家主義者として強調していた人たちのほとんどは、戦後は一転して平和主義者・民主主義者になりましたが、その場合も、根拠は聖徳太子でした。

 その代表は、戦後になると進駐軍こそ太子のいう「枉を直す」ものとして歓迎した紀平正美や、敗戦の翌日から太子が示したような文化国家日本の建設のために、『勝鬘経義疏』の注釈に取り組んだ花山信勝などでしょう。

 こうした人たちは、当然ながら、ろくに反省しません。一方、金子大栄などは、常に凡夫としての我が身を慚愧し、深刻に悩みながら時代に流されるばかりであって、時流の先兵になる場合も多いタイプと言えましょうか。

 これについては、真宗、とりわけ『歎異抄』の影響が強い系統では、慚愧慣れした慚愧が繰り返されるだけであり、「自分の言動を客観視して問題を見いだし、自分なりに責任をとろうとする姿勢が生まれにくい」と書きました。『歎異抄』がもたらした弊害は大きなものがあります。

 面白いのは、これとは反対に、戦時中に「世間虚仮」の語に着目し、「悩む人間としての聖徳太子」を強調していた亀井、小倉、家永などは、戦後数年は太子についてあまり語らなかったことです。

 そうした沈黙を破って家永が昭和26年に書いた太子関連の文章は、少年向けに書かれた偉人伝でした。日本文化のすばらしさを強調する偉人伝集の企画で、聖徳太子を担当し、小説風に書いていたのです。

「殿下、お呼びでございますか。」
太子は、慧慈が入って来たことにさえ気がつかないほど夢中になって、考えごとにふけっておられたのである。
慧慈の声に、太子ははっと顔をあげられた。(七頁)

などと書いてます。

 こういうのを見ると、我々は客観的研究などと言っておりながら、実際には自分が好ましいと思われる聖徳太子像を資料に投影させているだけの場合が多いことを反省させられますね。

 家永の太子関連論文については、やはり家永流の太子観が多少は読み込まれているとはいえ、研究はなるべく文献学の範囲に止め、想像については少年向けの小説や一般向けの戯曲として書くにとどめようとしたことについては、むしろ感心させられます。
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遣隋使研究の進展を示す論文集: 氣賀澤保規編『遣隋使がみた風景』

2012年04月23日 | 論文・研究書紹介
 遣隋使に関する必読の論文集が出ました。

氣賀澤保規編『遣隋使がみた風景--東アジアからの新視点--』
(八木書店、2012年4月、3800円、443頁)

です。600年の遣隋使派遣記事から1400年後となる2000年に実行できなかったため、推古15年の遣隋使から1400年となる2007年に、編者の氣賀澤氏が明治大学で開催したシンポジウム「東アジア史上の遣隋使」の発表と討論に基づいたものであって、内容は以下の通り。

冒頭:カラー写真8頁
序章「東アジアからみた遣隋使--概説と課題」:氣賀澤保規
第I部 遣隋使と国際關係
 1「『隋書』倭国伝からみた遣隋使」:氣賀澤恵教
 2「東アジアの国際關係と遣隋使」:金子修一
 3「朝鮮からみた遣隋使」:田中俊昭
 4「アジア交流しからみた遣隋使--煬帝の二度の国際フェスティバルの狭間で」:氣賀澤
第II部 遣隋使とその時代の諸相
 1「推古朝と遣隋使」:吉村岳彦
 2「遣隋使の国書」:川本芳昭
 3「遣隋使と飛鳥の諸宮」:林部 均
 4「遣隋使の『致書』国書と仏教」:河内春人
第III部 倭人と隋人がみた風景
 1「倭人がみた隋の風景」:氣賀澤保規
 2「隋人がみた倭の風景」:鐘江宏之
 3「遣隋使がもたらした文物」:池田 温
終章「遣隋使の新たな地平へ--おわりに寄せて」:氣賀澤保規
付録:氣賀澤保規ほか
 遣隋使史料集:河内春人・高瀬奈津子
 人物略伝:河内春人
 地図:高瀬奈津子
 官制図:
 年表:石見清裕
参考文献:
【コラム】:岡本公樹

 これだけの内容、それも図や写真が多くて便利この上ないのに、443頁で3800円とは信じがたい値段ですね。絶対にお買い得です。日本古代史については、東アジア全体の中で考えていくほかなくなった状況を象徴する論文集と言ってよいでしょう。

 このうち、河内論文では、当時の外交における僧侶の役割に注意し、「日出処」国書は慧慈、ないし『日本書紀』に描かれた慧慈のモデルとなったような、王権と人格的関係を結んでいた渡来系僧の起草と推測してます。
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藝林会「聖徳太子をめぐる諸問題」シンポジウム内容の刊行

2012年04月15日 | 論文・研究書紹介
 このブログで紹介した昨年9月開催の聖徳太子シンポジウムの内容が活字になりました。『藝林』第61巻第1号(平成24年4月)です。内容は、以下の通り。

北  康 宏「国制史からみた聖徳太子--聖徳太子否定論の本質とその再検討--」21-42頁
石井 正敏 「『日本書紀』隋使斐世清の朝見記事について」43-76頁
武田佐知子「聖徳太子の造形--仏教文化史からみる聖徳太子--」77-109頁
石井 公成「問題提起 聖徳太子研究の諸問題」110-137頁
「聖徳太子をめぐる諸問題」相互討論(司会:所 功。パネラーは上記4名)138-152頁

 そして、北氏の発表への批判として投稿され、【研究ノート】として掲載されているのが、

上野利三「冠位十二階に関する新説について」153-164頁

です。

 発表者のうち、北・石井(正)・武田の三先生は、内容を増補して論文形式にされているのに対し、私の場合は冗談ばかり連発していたため、そうした冗談を少し削っただけで、講演の筆録に近い「です、ます」調のものとなってます。

 最初の北論文は、最近の聖徳太子否定論は、推古朝の意義を否定する戦後の日本史学の論調の上に立っていることを確認したうえで、この問題を再検討しようとする試みです。大化改新・律令国家に直接つながる改革の理念は示されていないとする意見に賛同しつつ、過小評価する傾向には反対し、推古朝には独自の方針によって王権の立て直しをはかったことを認めている。結論の末尾は、「その意味で聖徳太子はやはり実在したのである」となっています。

 石井正敏論文は、榎本淳一氏などの研究成果を踏まえつつ、隋からの使者たちの実態を検討し直したもの。『日本書紀』に見える斐世清の朝見儀式については、基本部分では「史実を反映していると考えてよいと思われる」と述べ、信頼性が高いとされる『隋書』にしても、『日本書紀』同様に政治的な色彩の濃い編纂物であることに注意すべきだと論じています。

 武田論文は、広隆寺上宮太子院の有名な太子像を中心として、着物を着せるようになっている裸の太子像群について考察しています。この像については、元永三年(1120)の紀年を持つ銘が胎内から発見されたため、制作時期が従来の通説より大幅にさかのぼることになったこと、柄杓と柄香炉を持つことによって示される王法と仏法の統合の時期もさかのぼることが注意され、現存する諸像と文献の両面から、こうした着衣の彫刻像の意味が論じられています。

 私の発表は、このブログで書いてきたことをまとめ、いくつかの新発見を報告し、今後は学際的、また国際的な研究が必要となることを論じたものです。聖徳太子については、基本文献がきちんと読めておらず、まだまだ分からないことばかりであることを強調してあります。

 「相互討論」では、発表者による講演の補足と、会場からの質問への回答がなされました。また、司会から、女帝である推古天皇登場の意義についての問いかけもあり、また発表者同士の質疑も少々なされました。

 上野論文は、冠位十二階では皇子や諸王や蘇我馬子などには冠位は授けられなかった、とする通説に反対する北説に疑問を呈したものです。『日本書紀』に見える「古冠」に関する記述に関する北氏の解釈を問うています。その中で、『日本書紀』の推古二年の記事は十三年のことと見てよいのではないかといった主張をされており、立場としては、厩戸皇子は推古10年以降は政治力を向上させ、蘇我氏の独裁的傾向を抑制した役割を果たしたという見方です。

 詳細は、また別に紹介します。なお、抜刷はないそうですので、私の分については、引用させていただいた方を含め、関わる方々にコピーをお届けできるのは、少し先になります。
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今後は更新ペースは落ち、代わって変格漢文の国際研究プロジェクトが始動します

2012年04月08日 | その他

 仕事が重なり、その他にもいろいろあって、更新がとどこおっていました。他には、このブログを始める際の大きな原因の一つであった大山誠一氏・吉田一彦氏の聖徳太子虚構説が崩れてしまった、と思われたことも一因でしょうか。

 お二人の主張のうち、問題提起や重要な指摘については評価しますし、反論があればお応えしますが、お二人は今後は別な方面の研究に力を入れられるものと考えています。

 昨年までは、週に2回に近い割合で更新していましたが、今後はこのふた月くらいのようになるかどうかはともかく、更新は不定期となり、ペースも落ちる見込みです。

 代わって始動するのが、このブログで扱っている聖徳太子研究と関係深い変格漢文に関する国際研究プロジェクトです。これによって、三経義疏や『日本書紀』の聖徳太子関連記述に関する文体分析が進むことになります。

 日本のこの方面の研究者たちに加え、韓国と中国の専門家たちも加わってくれる予定であるため、幅広い視点からの研究がなされ、聖徳太子研究、『日本書紀』研究などが大幅に進むことが期待されます。

 詳細が確定した段階で、メンバーや活動内容についてご報告し、以後は、この研究チームの活動についても書いていきます。関連する論文一覧や用例のデータベースも作成しますので、整理が進めばネット上で公開していく予定です。

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漢文訓読とその周辺の研究に関する最新成果:麗澤大学言語研究センター『日・韓訓読シンポジウム』

2012年03月16日 | 論文・研究書紹介

 『日本書紀』研究にしても、三教義疏研究にしても、日本風な漢文に関する研究、広くはアジア諸国における漢文の読み方に関する研究を踏まえなければ、細かい議論はできません。この問題に関する最新成果が昨日、郵送されてきましたので、ご紹介しておきます。

麗澤大学言語研究センター編(代表者:藤本幸夫・千葉庄寿)『日・韓訓読シンポジウム--平成21年〜23年 開催報告書--』
(麗澤大学言語研究センター、2012年2月)

です(藤本先生、有難うございます)。

 論文部分だけで251頁あります。その内容は、

【第1回(平成21年11月21日開催)】
「日本の訓点・訓読の源と古代韓国語との関係」
  広島大学名誉教授・小林芳規
「東アジア学術交流史から見た漢籍訓読の問題」
  富山大学教授・小助川貞次
「江戸時代の訓読について--『詩経』「言」「薄」の訓読をめぐって--」
  二松学舎大学教授・佐藤進
「角筆口訣の解読方法と実際」
  ソウル大学校教授・李承宰
「韓国の口訣資料および口訣研究の現況」
  崇実大学校教授・呉美寧

【第2回(平成22年12月11日開催)】
「宋版一切経に書き入れられた中国の角筆点--醍醐寺蔵本を基に東アジア経典読誦法を探る--」
  広島大学名誉教授・小林芳規
「日本語表記における音訓交用の精錬史」
  愛知県立大学教授・犬飼隆
「歌の表記--木簡と正倉院文書の事例から--」
  大阪市立大学名誉教授・栄原永遠男
「周本『華厳経』点吐口訣解読の成果と課題」
  ソウル大学校助教授・朴鎮浩
「木簡に見られる古代韓国語表記法--吏読の発達史を中心に--」
  ソウル市立大学校教授・金永旭

【第3回(平成23年10月29日開催)】
「韓国の借字表記法の発達と日本の訓点の起源について」
  檀国大学校名誉教授・南豊鉉
「日韓の漢文訓読(釈読)の歴史--その言語観と世界観--」
  京都大学教授・金文京
「ウイグル漢字音と漢文訓読」
  京都大学名誉教授・庄垣内正弘
「朝鮮吏文の形成と吏読--口訣の起源を模索しながら--」
  高麗大学校名誉教授・鄭 光
「日本所在の八・九世紀の『華厳経』とその注釈書の加点(再考)」
  広島大学名誉教授・小林芳規

以上です。

 この10年で研究が大幅に進み、日本、および日本に影響を与えた韓国のみならず、中国自体を含めたアジア諸国における漢文訓読法がどんどん明らかになっているのですから、驚くばかりです。最大の牽引役は、角筆を発見して解明し、またヲコト点の源流にあたる古代韓国の表記法の発見に努められた小林芳規先生でしょう。

 小林先生が韓国の研究者たちと協力しあって2000年にそうした例を発見して以来、韓国と日本で研究が急激に進んでいきますが、重要なのは、序にあたる「日・韓訓読シンポジウムを終えて」で藤本幸夫先生が、この分野ほど日韓の学会が緊密に交流し合って研究を進めている分野は稀だろうと書いている点です。

 このブログで扱っている聖徳太子研究についても、そうあらねばならないでしょう。もちろん、中国の研究者との協力も必要ですし、それ以外の諸国の研究者の参加も望まれます。

 今回の報告集のうち、犬飼論文は、日本と韓国における表記の精錬度を問題にしています。『古事記』の用字は、一字一訓、一字一義方式であるのに対し、長屋王家の木簡では字体と訓の対応が「多」対「多」である一方、一つの字体を複数の訓にあてている、といった事実に着目し、変化のパターンを探っていくのです。

 この変化について、最近次々に発見されつつある韓国の木簡の用例との対比研究が重要となるでしょう。こうなってくると、日韓双方における木簡のカラー画像とその釈文を容易に検索して眺めることができ、また関連論文を知ることができるような体制が、いよいよ必要となってきます。

 『日本書紀』研究や三教義疏研究が、そうした基礎に基づいて進められる時代が早く来るよう願いたいですね。そうした基礎データの一部である変格漢文用例データベースについては、計画もあるのですが、はたして実現できるかどうか。
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大安寺の聖徳太子信仰が重要:山口哲史「『聖徳太子伝暦』所引「四節文」の成立と四天王寺」

2012年03月07日 | 論文・研究書紹介
 「四節文」とは、『聖徳太子伝暦』に引用されている「四節意願」の文であって、病床の聖徳太子が推古天皇の詔問に答えて述べたとされる以下の四条の願いを指します。

(1) 天皇たちの奉為に造営した法隆寺・四天王寺など七箇寺を加護してほしい
(2) 法隆寺僧は、毎年、90日間にわたって三経の講経をおこなうべし
(3) 七箇寺の財物を犯し用い、伽藍を破損すれば悪報があり、後代の子孫にまで災難が及ぶ
(4) 熊凝村に作った道場を官の大寺にしてほしい

以上です。これについて、新たな視点から検討を加えたのが、

山口哲史「『聖徳太子伝暦』所引「四節文」の成立と四天王寺」
(『日本歴史』2011年10月号)

です。山口氏は、聖徳太子信仰について独自の立場から研究を進めている若手研究者であり、関連論文が複数あります。

 『聖徳太子伝暦』に引かれているこの「四節文」については、成立年代などを含め、分からないことばかりです。このブログでは、四天王寺と法隆寺の争いの中で生まれたとする榊原史子氏の論文を紹介しました。

 今回の山口論文は、その榊原論文を批判し、この「四節文」は、法隆寺資料と大安寺資料を一体化したような性格を持っていると主張します。

 まず氏が指摘するのが、宝亀2年(771)に、大安寺僧でもあった四天王寺三綱の敬明らによって著された『七代記』の逸文に、(1)と(4)に当たる内容が見えている点です。ただし、こちらでは(1)は、「四天王寺・法隆寺……」という順序になっています。

 そして、山口氏は、(3)における禁止事項と警告が、大安寺など十二箇寺に対して、聖武天皇が経典読誦を命じて発した詔書の記述と似ていることに着目します。ここでも、大安寺が関わっています。

 そこで、氏は、「四節文」の原形は『七代記』所載の形でまず作成され、第二段階として、法隆寺僧が「四天王寺・法隆寺……」の順であった太子造営七箇寺を「法隆寺・四天王寺……」に変え、法隆寺僧への三経講読を指示した部分を追加し、現在の形ができたと推測します。

 四天王寺と法隆寺が聖徳太子信仰を競い合っていたことは事実であり、四天王寺の伽藍が整備されるのは、法隆寺僧行信や大安寺道慈らによって法隆寺での聖徳太子信仰が強められる時期であり、太子を祀る法隆寺東院が造営されると、その影響を受けて四天王寺でも太子を祀る聖霊院が造営されています。ここでも、大安寺が出てきます。

 このように、道慈や敬明が大安寺僧であったことから見て、奈良時代における聖徳太子信仰の発展には、大安寺が重要な役割を果たしたことが考えられるというのが、氏の結論です。

 こうして見ると、実際の展開はどうであったにせよ、大安寺の前身が、法隆寺の隣接地域であって道慈の出身氏族の本拠地、熊凝の道場であったと伝えられていることは、やはり無視できないですね。
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捨宅寺院から飛鳥寺へ、そして官寺へ:大脇潔「飛鳥・藤原京の寺院」

2012年02月29日 | 論文・研究書紹介
 仏教公伝をめぐる史実と厩戸皇子の仏教受容の意味を考えるには、当時の寺院建立の状況を知る必要があります。そのためには、考古学の最近の成果に注意しなければなりませんが、そうした成果の一つが、

大脇潔「飛鳥・藤原京の寺院」
(木下正史・佐藤信編『飛鳥から藤原京へ』、吉川弘文館、2010年)

です。ここでは、この論文のうち、聖徳太子に関わる部分だけ紹介しておきます。

 大脇論文では、飛鳥寺が画期的な建築物であったことを強調する一方で、その前史として、捨宅寺院に注目します。捨宅寺院とは、自宅を喜捨して寺としたものです。北魏では、皇帝自身が熱烈な仏教信者だったため、王侯貴族から役人・庶民に至るまで競って自宅を喜捨しており、「国家大寺四十七所、其王侯貴室五等諸侯寺八百三十九所、百姓造寺三万余所」に至った由。

 『日本書紀』にも、そうした捨宅寺院の記事が見えており、それらのいくつかは後に本格寺院になっていったことが知られています。檜隈寺跡からは北魏後半から北斉にかけての小金銅仏の断片が出土しており、前身施設の古さがうかがわれます。

 他にも、和田廃寺などからも下層遺構が発見されており、こちらも捨宅寺院であったことが、小笠原好彦「古代寺院に先行する掘立柱建物集落」(『考古学研究』111号、1981年12月)によって示されていると述べています。
(大脇論文は、「100号、1979」と記してますが、これは題名と内容が似た小笠原「畿内および周辺地域における掘立柱建物集落の展開」の方であって、誤りです)

 ここで注目されるのは、そうした捨宅寺院は、蘇我氏および彼らとつながりの深い渡来系氏族の居宅に営まれていたことです。つまり、守屋合戦の前から、仏教は蘇我氏とその周辺にかなり広まっていたのです。

 ただし、それらの捨宅寺院はすべて掘立柱で茅葺きか檜皮葺きによる旧来の建物であったのに対して、巨大な金堂や塔などの建物が居並ぶ全面瓦葺きの飛鳥寺の存在はきわめて特異であることに大脇論文は注意しています。飛鳥寺については、捨宅寺院でなく、他の氏族の家を立ち退かせ、巨大な伽藍を当時としてはきわめて短期間で完成させているのだから、いよいよ異例ということになります。

 大脇論文は、この土地に固執した理由として、蘇我氏および蘇我氏系の氏族の諸寺が、飛鳥寺を扇の要とする形で半円状に分布し、また南方には蘇我氏と関係深い渡来系氏族の寺が丸く囲んでいることに注目します。こうした遺跡から、逆に諸氏族の居住地域や勢力も分かるのです。

 なお、大脇論文では触れられていないが、既にある自分の邸を寺にするのでない点は、斑鳩寺も同様であることが注意されるでしょう。斑鳩寺は、規模はやや小さいが、飛鳥寺に通じる性格を持っていたのです。

 さて、その蘇我氏を圧倒するかのように、舒明天皇は天皇としては最初となる壮大な百済寺の建立を命じ、九重塔を建てようとします。スカイツリーのように異様に巨大な北魏の永寧寺の九重塔を初め、百済も弥勒寺(639年)に、新羅も皇龍寺(645年)に九重塔を建てている以上、日本も追随せざるを得なかったのです。

 大脇論文では、百済大寺→高市大寺→大官大寺・大安寺という流れに注目しますが、その遺構と思われる吉備池廃寺では、金堂と九重塔が東西に並んでおり、それぞれ中門があります。日本独自と思われるこの配置は、かつては聖徳太子の発案とされていましたが、斑鳩寺は四天王寺式であったことが明らかかになった以上、その説は成立しないのです。

 ただ、これは逆に言うと、再建法隆寺の伽藍配置は、この舒明天皇の官寺の伽藍配置に基づいていることになり、再建法隆寺と天皇家の関係、あるいは、舒明天皇と厩戸皇子の関係について考え直す必要があることを示しているように見えます。

 『日本書紀』その他の記述をそのまま信じることはできない場合が多いですが、だからと言って後代の造作として否定して終わりにするのでなく、最新の研究成果に基づいて見直していくことが、今後の課題でしょう。
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『日本書紀』の最終編纂時期における唐の政教策:手島一真「政教の教化と仏教の風化」

2012年02月19日 | 論文・研究書紹介
 「憲法十七条」については、地方長官たちに遵守が命じられた西魏の「六条詔書」などが手本とされることが多いのですが、「憲法十七条」の成立時期をめぐって論争が続いていることはよく知られています。

 「憲法十七条」が『日本書紀』編集の最終段階において、つまり、710年代後半に作成されたのであれば、当時は唐にならって律令制を強化しようとしていたのですがから、唐の似た規定がある程度考慮された可能性があります。

 その当時の唐の規定として注目されるのは、則天武后が685年に学者たちに編纂させて公表した『臣軌』でしょう。実質的な最高権力者であった武后は、当時は皇帝や皇太子や官僚その他に関する様々な書物の編纂を命じていますが、その中核とされる『臣軌』について論じたのが、

手島一真「政教の教化と仏教の風化--則天武后の『臣軌』撰述を通じて見る比較考察--」
(『日本仏教学会年報』第74号、2009年7月)

です。「憲法十七条」については触れていませんが、「憲法十七条」について考える際は、『臣軌』はきわめて重要です。

 武后は690年に皇帝位について国号を周と改めると、693年には『老子』に代えて『臣軌』を科挙の科目としました。705年1月に退位させられて国号が唐に戻されると、『臣軌』に代わって『老子』が再び科挙の科目に指定されています。

 『臣軌』は唐の太宗が編纂させた『帝範』を意識したものとされており、臣下の倫理を十章に分けて説いたものです。手島氏の要約に基づいて条目を列挙すると、以下の通りです。

 一 同体章 君臣は父子以上に同体であれ
 二 至忠章 至公の精神で忠義に努めよ
 三 守道章 臣下の分を守り、職務に励め
 四 公正章 公正無私であれ
 五 匡諌章 諌言に努めよ
 六 誠真章 誠実信義を重んじよ
 七 慎密章 機密を漏らさず、慎重に行動せよ
 八 廉潔章 清廉潔白であれ
 九 良将章 上には忠、下には愛の優れた将であれ
 十 利人章 農を勧め、民の生活を安心ならしめよ

 内容の詳細な検討は、

渡邊信一郎「『臣軌』小論--唐代前半期の国家と国家イデオロギー--」
(礪波護編『中国中世の文物』、京都大学人文科学研究所、1993年)

がおこなっています。手島論文では、この渡邊論文によりつつ論じており、右の十章には仏教によるものは全く無く、儒教が多いほか、道家やその他の諸家の主張も取り入れていることに注意しています。

 この『臣軌』は、門閥貴族を押さえ、父子関係より君臣関係の方が上であることを示し、皇帝へ権力を集中させようとするものです。手島氏は、武后は帝位につくために仏教を用いて様々な神秘的な宣伝を行う一方、こうした儒教的君臣共同体論によって行政機能の理想型を示したとし、武后は仏教・儒教という二つの「教」によって、統治を行ったと論じています。

 さて、この『臣軌』と「憲法十七条」は、どの点が似ており、どの点が違っているでしょうか。慶雲元年(704)と養老2年(718)に帰国した遣唐使たちのうち、前者は『臣軌』ないし、その方針にそった文献類を持ち帰った可能性がありますが。

 なお、4月刊行予定の『藝林』誌に掲載したシンポジウム発表では、「憲法十七条」について、これまで知られていなかった仏教経典の典拠などを少々指摘してあります。
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家永三郎が書いた聖徳太子小説

2012年02月10日 | 聖徳太子・法隆寺研究史
 昨年9月に藝林会の聖徳太子シンポジウムで発表した「問題提起 聖徳太子研究の問題点」は、再校まで終りました。4月に刊行される予定です。近代仏教史研究会で発表した「『人間聖徳太子』の誕生--戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷--」も原稿は提出済みであるため、5月には出るでしょう。

 後者では、発表後に気づいた資料をいくつか付け加えてありますが、一番の驚きは、家永三郎が聖徳太子に関する小説を書いていたことですね。

 その小説というのは、毎日新聞社編『日本文化を築いた十偉人』(毎日新聞社、昭和26年3月。定価180円)に掲載されている家永の「聖徳太子」です。企画したのは、「毎日小学生新聞」「毎日中学生新聞」の編集長である植竹円次のようで、「まえがき」も書いています。

 敗戦後の「文化国家日本の建設」ブームの一環として、「大きな志をたて励む少年たち」向けに出されたこの本では、「聖徳太子」は冒頭に置かれており、その次は紫式部となっています。軍人を取り上げることの多かった戦時中の少年向け読みものとは、その点が違っています。

 家永の「聖徳太子」では、太子についてごく簡単に説明した後、いっしょに法隆寺を尋ねてみようと読者に呼びかけ、

国鉄の列車を法隆寺駅で降りて、……法隆寺の門前に到着する。正面の山のふもとの小高いところにそびえるのが法隆寺である。南大門をくぐると、すでに自分たちは何百年も前の古い時代に生きているような気がする。白い土塀のつづく参道のつきあたりが……

というように話を進めていきます。そして、

いつしか自分のからだが二十世紀の日本から迷い出して、七世紀の昔のありさまを目の前に見るような気持ちになるのであった。

とことわったうえで、

  斑鳩宮も、しだいに夕やみのとばりにかくされていった。
  宮の奥まった建物にほんのりと灯火がさす。そこは、……聖徳太子のおへやである。
  ……
  「殿下。お呼びでございますか。」
  太子は、慧慈のはいって来たことにさえ気がつかないほど夢中になって、考えごとにふけっておられたのである。慧慈の声に、太子ははっと顔をあげられた。

と小説風に転じており、『法華義疏』を執筆していてわからない箇所を慧慈に尋ねるという場面が描かれています。

 家永は、これだけでは飽きたらず、教科書裁判の最中である昭和50年10月には、『歴史文学』第四号に「新編上宮太子未来記」を発表しています。これは、倉田百三『出家とその弟子』の結末における親鸞と善鸞との対話を、臨終時の聖徳太子と山代大兄王に置き換えたような戲曲です。率直に言って、いかにも素人くさい作品です。

 家永は、一方では『上宮聖徳法王帝説の研究』に結実する研究を戦時中から進めていました。そうした厳密に文献学的なものを書いていると、やはり限られた資料に縛られず、想像を働かせて自分の考える聖徳太子を自由に書きたいと思うようになるのでしょう。

 このように、家永は研究と想像を分けようとしたのですが、ごっちゃにして書いた代表が、梅原猛と大山誠一でしょうか。
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隋代になっても中国南朝と朝鮮諸国の儀礼に基づいていた倭国:榎本淳一「比較儀礼論」

2012年01月31日 | 論文・研究書紹介
 推古朝については、分からないことが多く、特に問題になるのは『隋書』の記述との不一致です。この点について、新たに見いだした中国側の記述などを検討して確実に考察を進めたのが、以前もこのブログで論文を紹介したことのある榎本淳一氏の、

榎本淳一「比較儀礼論」
(荒野泰典・石井正敏・村井章介編『日本の対外関係2 律令国家と東アジア』、吉川弘文館、2011年)

です。

 『日本書紀』では、推古16年(607)に隋の使者がやって来た際の迎賓儀礼について詳しく記していますが、これについては、唐の『大唐開元礼』が基づいた隋代の『江都集礼』に基づくというのが有力な見解でした。しかし、榎本氏は、大業年間(605-616)に編纂された『江都集礼』を、開皇20年・推古8年(600)に初めて派遣された遣隋使が持ってこれたか、持ってきたとしても、すぐにそれによる迎賓儀礼を整えることができたかどうか疑問とします。

 そして、冠位十二階は中国より朝鮮諸国の制度に似ているほか、『隋書』に記された倭国の衣服なども、隋唐ではなく、それ以前の中国南朝のものに似ていることから見ても、推古朝の礼制のモデルは隋ではなかったと考えられると述べます。

 推古12年(604)9月に朝礼を改正し、宮門を出入りする際は、匍匐して超えるべきことが命じられており、これは倭国固有の礼とされることが多いのですが、改革にあたって自国の旧来の礼法を採用するとは考えにくいとし、大隅清陽氏の研究により、隋唐以前の中国でも匍匐礼を行った事例があることを指摘し、中国の礼制をとりいれたものと見ます。

 『隋書』との記述の違いについては、東南アジアの他の国が行っていた隋使の迎賓儀礼と似た面があることを指摘します。そして、唐使の高表仁と倭国の王と礼をめぐって衝突し、皇帝の命を伝えないまま帰国したとする『唐会要』の記述については、唐代には中国の兄弟官僚が高句麗に派遣された際、王を屈服させて礼拝させた兄と、次に出かけて匍匐して王に拝伏した弟の優劣を論じた『唐書』の記述により、外交使節にあっては儀礼上の上下関係より朝命を伝えることの方が重視されたと説いています。

 すなわち、高表仁は朝命を伝えられず、外交の才が無いとして非難されたのに対して、高麗王を拝礼した兄弟官僚の弟は兄に比べて劣っているとされたものの、非難されておらず、処罰された形跡も見られないというのが、その理由です。

 そこで、「日出る処の天子」などという無礼な国書を繰り返し送りつけた倭国が、隋使に対してそれと矛盾するような態度をとったとは考えがたいと説きます。また、『隋書』と『日本書紀』の記述を比較すると、『日本書紀』は迎えの人数などが具体的であるのに対し、『隋書』の記述がおおよその概数であって、『日本書紀』よりかなり多目になっているのは、『隋書』に見える報告がやや大げさになっていると判断します。

 従来は、『日本書紀』の記述が政治的にかたよっていることが強調されてきましたが、『隋書』の側の性格にも注意すべきであるとするです。日本古来の儀礼習俗に、中国南朝の儀礼、朝鮮諸国で変容された中国儀礼、そして隋唐朝の儀礼が積み重なって、古代日本の儀礼が整備されていったのだ、というのが氏の結論です。

 日本と中国の限られた資料だけを比較し、あれこれ想像を働かせて論じていた段階は終わったことを痛感しますね。
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慧思託生説に関する大山説は誤り?:蔵中しのぶ「聖徳太子慧思託生説と『延暦僧録』「上宮太子菩薩伝」」

2012年01月21日 | 論文・研究書紹介
 中国江南で活躍した南嶽慧思は、倭国の王家に生まれて聖徳太子となったとする慧思託生説があります。その慧思の弟子である天台大師の系統を引く鑑真とともに来日した思託が著した『延暦僧録』巻第二の「上宮皇太子菩薩伝」が伝える話です。

 かの大山誠一氏の『<聖徳太子>の誕生』では、この話は鑑真が主人公であり、この話は彼のために作られたものであって、慧思も聖徳太子も鑑真のために利用されているとし、『延暦僧録』の鑑真伝を述作した思託と『唐大和上東征伝』を著した淡海三船が創作したと主張していました。

 これに異を唱えたのが、道慈がいた大安寺文化圏の文学を追究している蔵中しのぶ氏の論文、

蔵中しのぶ「聖徳太子慧思託生説と『延暦僧録』「上宮太子菩薩伝」」
(吉田一彦編『変貌する聖徳太子』、平凡社、2011年)

です。

 まず蔵中氏は、「上宮皇太子菩薩伝」を含めた『延暦僧録』が、唐で成立したとされる『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』の類型表現と似ていることに注目します。この『七代記』によれば、慧思は「倭国の王家に生まれ、百姓を哀(かなし)び矜(あわれ)び、三宝を棟梁し」たとされています。

 この「三宝を棟梁す」という言葉は、639年に百済の王后が弥勒寺西塔に舎利を納めた際に作らせた「金製舎利奉安記」でも百済王后に関して述べられており、『法苑珠林』には唐の太宗に関して「三宝を棟梁す」という表現が見られることを、蔵中氏は指摘します。

 つまり、「上宮皇太子菩薩伝」は、「東アジア世界に広く分布する《皇帝・皇族》にして《在家仏教徒》」(109頁)に関する記述という性格を持っているのです。

 また、蔵中氏の父君である蔵中進氏は、『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』が引用する開元6年(718)に杭州で書写された「碑下題」なる文献が、慧思について「倭州天皇は彼の聖化する所」と述べている点に着目していました。杭州は、遣唐使の経由地です。つまり、聖徳太子と特定はしないものの、慧思が倭国の王家に転生したという伝説が『日本書紀』以前に既に中国に存在していたのです。

 さらに、蔵中氏は、聖武天皇が天平3年(731)に謹厳な書体で書写し終えた『雑集』末尾の「諦思忍、慎口、止内悪、息外縁」という言葉に関する有富由紀子氏の研究を紹介します。これは、敦煌文書によれば、慧思の「思大和上坐禅銘」の句であって、『法華経』安楽行品に説かれる四法を指しているとする指摘です。

 また、蔵中氏は、光明皇后が天平九年(737)に細字『法華経』を法隆寺に寄進したのは、慧思託生説に基づくとする東野治之氏の研究に注意しています。

 そして、以上のことから、聖武天皇が慧思の「坐禅銘」を書写した天平3年の頃から、聖徳太子に特定していく方向で、慧思が倭国の王家に転生したという説が日本でも根付いていったと考えたいと述べています。つまり、鑑真来日以前に、既にそうした説が形成されつつあったと見るのです。

 というわけで、ここでも大山説は疑われています。

 なお、蔵中論文は、「三船伝」について「悪を息めんと為(し)」(122頁)と訓んでいますが、「息悪と為り」と訓むべきところです。「息悪」は「悪を息(や)」めるということで、僧侶を指す仏教用語です。三船は以前は僧侶でしたので。
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台湾の儒教研究者の目から見た「憲法十七条」の二重性:金培懿「儒家経典の受容と大和魂の形成」

2012年01月11日 | 論文・研究書紹介
 ご無沙汰しました。帰省やら何やらであちこち出かけたり、締め切り過ぎの論文に追われたりしていたこともありますが、ここの記事はメモをかなり書きためてあるのに10日も更新していなかったのは、年末に紹介した吉田論文で道慈述作説を柱とする聖徳太子虚構説が自滅してしまったことが大きいですね。あれで一段落した気分になってしまい、ぼんやりと過ごしておりました。
(道慈と額安寺の関係については、12月24日の記事に【追記】として情報を加えておきました)

 ここで気をとりなおして紹介するのは、台湾師範大学国文学科副教授である金培懿氏の論文、

金培懿「儒家経典の受容と大和魂の形成--『憲法十七条』を通して--」
(『中国語中国文化』第8号、2011年3月)

です。金氏は、九州大学で学位を得た研究者で、儒学史、日本漢学、日中儒学の比較その他を研究されている方です。2010年度には日本大学文理学部訪問教授として日本に滞在されていたため、日大の中国語中国文化学科の雑誌に書かれています。

 この論文で目につくのは、「憲法十七条」を単に礼賛したり批判したりするのではなく、ほど良い距離を置いて冷静に眺めて特質を指摘している点でしょうか。「大和魂の形成」となっていますが、『源氏物語』その他の用例を踏まえたり、大和魂自慢を皮肉った夏目漱石の文章を引いたりしていることが示すように、単純な大和魂評価ではなく、大和魂というのは「漢才」という外来文化を選別する過程で獲得した一種の「日本人が日本人たる所以」の識見であった(69頁)と説いています。これは、中国では仏教の影響を受けて民族宗教としての道教が形成されたのと似ていますね。

 「憲法十七条」が中国のどのような古典を踏まえているかについては、膨大な研究の蓄積があり、意見は様々ですが、金氏は、先年亡くなった近代中国の大学者、銭鍾書(1910-1998)の議論に基づき、もとの典拠の利用の仕方を「語典」「意典」「勢典」に分けます。「語典」は言葉そのままの利用、「意典」は意義内容の利用、「勢典」は語句の形式の模倣を指します。そして、その立場で、第一条の出典についてこれまでの諸説を見直しており、新たに見いだした典拠も示されています。

 「無忤」については、儒学の研究者だけに、私が発見した仏教の典拠(江南成実学派の僧たちの徳目)には気づいておられませんが、『韓非子』に「忤」の用例があることを指摘し、また「憲法十七条」の「人皆有党」は『左伝』の「亡人無党」を逆にしたものであって、「意典」と見ています。そして、『韓非子』姦劫弑臣では上に「孤」として立つ君主と下で「党」を組む臣下との対立を述べている箇所その他に注目しているのは、妥当なものでしょう。

 金論文では、上記のような方法で典拠を明らかにしていっており、君主は絶対的なものとされていて仁などの道徳はまったく想定されておらず、臣下の忠だけが強調されているなど、中国古典との様々な違いが指摘されています。

 その中には、これまでの研究で指摘されていることも多いのですが、重要なのは、「憲法十七条」は多様な系統の中国古典の文句を活用して述べているものの、そうした言葉が中国古典の本来の意味と異なった意味で用いられている場合が多いことを、いくつも指摘していることです。つまり、「憲法十七条」は、中国古典に従っている面と従っていない面があるのです。

 金氏は、江戸時代以来、「憲法十七条」を中国の古典を踏まえた内容豊かな文章として評価する者と、水戸学の安積淡泊が「憲法十七条」は儒教の言葉を「剽窃」しつつ仏教を主にしたと批判しているように、儒教本来の立場でないとして非難する者がいるのは、「憲法十七条」のそうした二重性に基づくと指摘しています。

 大山誠一説では、「憲法十七条」は不比等が儒教、道慈が仏教の内容を書いたと述べるだけで、これまで多くの学者が指摘している『韓非子』など法家の思想には全く触れていませんが、そんな単純な図式では「憲法十七条」はとうてい理解できないことが、この金論文からもよく分かります。ただ、金氏が、「憲法十七条」から「豪族が権勢を恣にし、天皇の権力が衰退していたこと」が分かるとしているのは、日本の古い史観に引き摺られたものですね。

 金氏は、日本文学は日本特有のものと見ることもでき、また漢字を用いて中国文学を受容した点で中国文学の支派の一つと見ることもできるのであって、二重性を持つことは「憲法十七条」も同じであるとしつつ、こうした現象は、自分たちが中国の伝統文化の特質を知る上でも有効であり、中国以外の様々な文化を知ってこそ中国文化の特質を知ることが出来るのだ、と述べています。

 つまり、日本に留学して日本の中国文化受容のあり方を学んだ金氏は、逆に、そうした知識によって中国を相対化しつつ中国文化を見直そうとしているのです。この金論文は、何かを研究するに当たって、ほどよい距離を置いて、対象自体の論理とは異なる視点で眺めることの有効さを示していると言えるでしょう。「憲法十七条」の個々の語の解釈については、私は少々異論もありますが、新たに教えられたこともあり、また上記のような姿勢に基づく研究という意味で有益な論文でした。
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10人説に対抗して8人説を提示?:吉田一彦「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺」(3)

2011年12月31日 | 論文・研究書紹介
 四天王寺と法隆寺の対抗関係を軸にし、広隆寺や橘寺の動きにも注意しながら聖徳太子像の変遷を見ていくという吉田論文の方法そのものは、平安時代やそれ以後の大きな流れとしては有効なものであり、実際にいくつか新しい知見を示している点は評価できます。

 ただ、奈良時代について言えば、思託らが慧慈後身説を強調したことは大きいですし、東大寺の明一の太子伝なども後代に影響を与えています。明一の前後の世代としては、元興寺の智光が太子を信仰して著作中で三経義疏をしきりに引いたり、東大寺の寿霊が『五教章指事』で『法華義疏』を活用したり明一の太子伝を引いたりしていることも無視できません。宝亀9年(777)には道慈の孫弟子である大安寺戒明や西大寺徳清が中国に渡り、思託も依頼もあってか『法華義疏』と『勝鬘経義疏』を鑑真の弟子が住する寺に赴いて寄贈したりしており、奈良時代には他の寺でも、奈良時代から平安時代にかけて、様々な形の太子信仰が見られます。

 思託については同書の蔵中論文に譲ったのでしょうが、今回の吉田論文では思託らの後身説を法隆寺が利用したという点を強調するのみであり、東大寺や元興寺その他の寺の太子信仰については触れられてもいません。吉田さんの専門であった薬師寺景戒の『日本霊異記』には、「聖武天皇=太子後身」説も見えていることが示すように、奈良時代においては、聖武天皇を願主と仰ぐ東大寺や東大寺と関係深い大安寺における太子信仰というのはかなり重要なはずですが、なぜ触れずに、四天王寺と法隆寺の対抗関係だけで論じるのか……。

 つまり、今回の吉田論文は、かつての不比等・長屋王・道慈による聖徳太子捏造という図式を、『日本書紀』以後における「四天王寺と法隆寺の太子伝捏造合戦説」に置き換えたような趣きがあり、複雑な相互関影響から成る実態の解明よりも、単純な図式を先行させた感じを受けないこともありません。

 さらに大きな問題は、大山説に基づき、聖徳太子関連記述は『日本書紀』が最初だと決めてかかったうえで議論を進めていることです。

 たとえば、吉田論文では太子の死去年月日をめぐる諸説について、次のように整理しています。

(1)『日本書紀』は、聖徳太子の死去年月日を推古二十九年二月五日とした。
(2)法隆寺は、この説を認めず、推古三十年二月に聖徳太子と膳王后がともに病になり、二十一日に王后が、二十二日に聖徳太子が亡くなったと反論した。
(3)四天王寺は、『日本書紀』の記す死去年月日を継承した。法隆寺説に対しては、聖徳太子と妃がともに亡くなったことは認めつつ、推古二十九年二月五日に、病なくして二人同日に死去したのであると反論した。また、法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた。(37-8頁)

 一見して分かるように、強引で無理な議論です。そもそも、法隆寺には死去年月日はまったく伝えられていなかったのか。

 仮に、聖人としての厩戸皇子の逸話を創作したのは『日本書紀』であって、それ以前には神話化はされていなかったと仮定しましょう。その場合でも、厩戸皇子が蘇我馬子が建立した飛鳥寺・豊浦寺の次に本格伽藍である斑鳩寺を創建したのは事実である以上、斑鳩寺には願主である厩戸皇子の死去年月日が伝えられていて不思議はありません。少なくとも、「何年頃の春」といったおおまかな伝承すら伝えられていなかったとは考えにくいことです。

 ここも譲って、法隆寺にはおおまかな死去時期を初め、厩戸皇子に関する情報はまったく伝えられていなかったとしましょう。その場合、法隆寺が四天王寺と太子の神話化を争い、『日本書紀』の記述を否定する場合、二月五日を二月二十二日と訂正することによって、何かメリットがあるのでしょうか。

 しかも、死去年月日を示す法隆寺側の根本資料である「釈迦三尊像銘」では、王后が二十一日に亡くなり、太子も翌日に薨じたとしているのみであって、太子が「二十二日」に薨じたことは明記されていません。つまり、「二月二十二日」という日を特別に意味のある日として扱っていないのです。私が『日本書紀』の死去の日付を訂正するとしたら、釈尊入滅の日とされる二月十五日とかにしますね。

 『日本書紀』は推古二十九年春二月己丑朔癸巳(五日)の夜半に薨じた、と記しているだけで、病には触れていません。また、吉田さんが指摘するように、後代の四天王寺系資料では、「病無くして亡くなった」ということを強調しています。慧慈についても、病無くして亡くなったと記しています。

 一方、法隆寺の「釈迦三尊像銘」では、太子も王后も病気になって寝こんでしまって回復せず、太子は「定業」によって亡くなったことがわかるよう記してあります。「釈迦三尊像銘」は太子を特別扱いして尊崇していますが、亡くなり方については病死とするのみで、維摩のように教化の方便として病気になった、などという書き方ではないのです。

 慧慈についても同様で、法隆寺系の『法王帝説』では、慧慈は太子の命日に合わせて翌年の二月二十二日に病を発して死んだので聖だった、としています。聖扱いしてはいますが、病で死んだと明言しているのです。つまり、法隆寺側は一貫して病死説なのですが、そうした病死説と、太子も慧慈も病無くして没したとする四天王寺説とでは、四天王寺説の方が神話化が進んでいると言えないでしょうか。

 そうした神話化が進んだ四天王寺側の主張に対抗しようとして、「いや、病気で亡くなったのだ」などという資料を後から作成するというのは、考えにくいことです。現存の法隆寺系資料そのものの最終成立年代については、個別に検討する必要があり、かなり遅いものも含まれていると思われますが、「病死」という部分については、「病無くして」とする説より古い伝承を伝えていると見る方が自然でしょう。

 四天王寺系の太子伝承に対抗して私が病死説の法隆寺の立場で書くなら、「病を現じて(現してみせて)」とし、「入滅された」とか「遷化された(化を遷す=この国土での教化が終り、別の世界を教化するためにこの世を去る)」と記して、空に五色の雲がたなびいて音楽が聞こえたなど、臨終時に奇瑞があったなどと書き加えますね。実際、『日本書紀』では山背大兄王の死に関する記述は、そうした神秘的な描写になってます。『日本書紀』を参考にするなら、そのような書き方も可能だったはずです。

 また、吉田論文のうち、四天王寺は「法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた」というのも、無理な議論です。『聖徳太子伝暦』では、慧慈の死の記述は、こうなっています。

吾も来年二月五日<或説曰く、二月廿二日に必ずや死なむと>を以て必ず死し竟[おわ]らむと。其の言の如く、明年の二月廿二日に病なくして逝けり。

 どうでしょう。これを見る限り、慧慈の同日死去の伝承は、元は二十二日となっていたのであって、『伝暦』はそれを太子の命日とする二月五日に改めたものの、修正が不十分だったため、統一がとれていない箇所が残ってしまったように見えます。少なくとも、この箇所から四天王寺は「法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた」とまでは言えないでしょう。

 さらに奇妙なのは、『日本書紀』では「豊聡耳」とあって一度に10人の訴えを聞いたとしているのに対して、法隆寺系の『法王帝説』では『日本書紀』に反発し、8人の言うことを聞いたので「豊聡八耳」と称したのだと吉田さんが論じていることです。しかし、こういう逸話は、時代が後になるほど数が増えて大げさになっていくのが普通ではないでしょうか。『日本書紀』の10人説に対抗するなら、法隆寺側は「一度に20人もの訴えを聞き」とかにしそうなものです。

 日本では「八」は多数を表しますので、「八耳」の方が「十」より口承伝説らしくて古い印象を受けます。つまり、「太子は一度に多くの人の言うことを聞き取った」ということで「八耳」と言われた、という伝承であったとしたら、その方が10人の訴えを聞いたというより古そうに思われるのです。法隆寺が「八」を生かして対抗するなら、古代の決まり文句である「八十(やそ)」とか「八百(やお)」とかにするのではないでしょうか。神話化を争う際、10人説に対抗して8人説を提示するというのは、ちょっと理解できません。

 また、吉田論文では、四天王寺系の『聖徳太子伝暦』では、大臣が群臣をひきいて太子に「厩戸豊聡八耳皇子」の名を献呈したが太子は辞退して受けなかったとし、この名を否定してしまったため、「法隆寺や広隆寺は、以後この名を強く主張することはひかえたものと考えられる」(64頁)と述べています。

 そして、吉田さんは、本書の「親鸞の聖徳太子信仰の系譜」というコラムの中で、和讃その他から見て、親鸞とその弟子は四天王寺系の太子信仰を受け継いでいるため、親鸞自身は四天王寺系の念仏聖、さらに言えば、その系列寺院であった六角堂に関連した念仏聖であった可能性が高いとしています。

 しかし、その親鸞の有名な「皇太子聖徳奉讃」和讃には、「聖徳太子の御名をば八耳皇子とまうさしむ」とあり、左訓も「八人して一どに奏することを一度にきこしめすゆへに、八耳皇子とまうすなり」と説明しています。「八耳」は法隆寺系の説であって、四天王寺側の反論を受けて使われなくなっていたはずではなかったでしょうか。

 以上のように、今回の吉田論文では、検討の多くは不自然な議論となっています。これは言うまでもなく、大山説を前提としたうえで「四天王寺と法隆寺の捏造合戦説」で割り切ろうとしているからです。最初の段階でボタンをかけ違えてしまったため、以後、せっかく新たな視点から有益な検討をしているのに、つじつまの合わない苦しい議論をせざるをえないのです。こうした例は、仏教伝来年代の問題を初めとして他にもまだまだ多いのですが、これくらいにしておきます。

 『日本書紀』が描く厩戸皇子像は事実そのものではなく、神格化されていることは、早くから指摘されてきたことですし、その神格化の過程と聖徳太子信仰の変遷を明らかにするのは重要な仕事です。

 ただ、『日本書紀』の最終編纂段階において不比等と長屋王の指示を受けて道慈が作文したとする大山誠一氏と吉田一彦さんの「聖徳太子虚構説」については、根拠の無い誤った主張であることはこれまで明らかにして来た通りですので、今後はもう取り上げる必要はないでしょう。道慈作文説を引っ込めて「道慈=プロデューサー説」などで逃げても、結局同じであることは、以前ここで指摘した通りです。

 吉田さんは、今後は後代の聖徳太子信仰の展開と親鸞教団の太子信仰の解明に力を入れてゆかれるものと思いますが、その際は、大山説から一度離れたうえで、また「四天王寺と法隆寺の捏造合戦説」にもこだわりすぎず、奈良・平安・鎌倉時代の資料そのものの分析に努め、その検討の中で明らかになってきたことを報告して学界に貢献してもらいたいものです。

【追記:2011年12月31日】
深夜に公開しましたが、大安寺戒明や西大寺徳清による『法華義疏』『勝鬘経義疏』の中国寄贈などを書き加えました。奈良時代の太子信仰においては、四天王寺や法隆寺以外のこうした南都の大寺の動向も見逃せません。
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引用の仕方に見える問題点: 吉田一彦「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺」(2)

2011年12月27日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、吉田論文がこれまでの吉田説の根本であった道慈作文説とは矛盾する説を提示しているのに、道慈に一言も触れないことを問題にしました。少し前に刊行され、今回の論文でも参照が要請されている吉田一彦「『日本書紀』仏教伝来記事と末法思想(その五)[完]」(『人間文化研究』第13号、2010年6月)では、「四天王寺の由緒の作成は『日本書紀』の文章作成と同時並行的になされたものと見るべきで、四天王寺の由緒の作成にも道慈が関わっていたものと推考される」(171頁)とほぼ同文で述べているだけに、今回はなぜ道慈の名を省いたのか不思議です。

 なお、額田部氏と額安寺については、『国立歴史民俗博物館研究報告』第88集(2001年3月)が資料と発掘調査に基づく共同研究の最新成果となっています。それによれば、額田氏は高麗出身の工匠の後裔とする伝承もあり、推古天皇(額田部皇女)の治世においては、額田部皇女に仕えた額田部氏が外交儀礼や貢馬の伝統に基づき騎馬による奉仕を行ったほか、額田寺(額安寺)も建立したと推測されており、この氏族は仏教とも関係深かったことが指摘されています。額安寺は、7世紀前半に創建されて7世紀末あたりに法隆寺式軒丸瓦を用いて整備された点は、中宮寺・法起寺・法輪寺その他と同様であるものの、そうした斑鳩の寺々と違い、8世紀になってから平城京遷都後の最新の方式による伽藍配置に改めてある由。

 また、1点だけですが、若草伽藍金堂創建時の軒丸瓦と同じ手彫りの軒丸瓦が出ており、元となった堂などであれば、若草伽藍金堂の創建よりやや遅れて造営が始まる斑鳩の寺々よりむしろ早い可能性もあるそうです。聖徳太子の宮があったとされる飽波は斑鳩寺と額安寺の中間あたりですので、早い時期から斑鳩寺の文化圏だったということですね。「額田寺伽藍並条里図」によれば、寺の東南には南院・馬屋と記された場所があります。道慈は額田氏で添下郡出身とされているため、そうした土地で育ったことになります。

 さて、吉田論文の問題点は、論文引用の仕方にも見られます。聖人としての聖徳太子像は『日本書紀』の最終編纂時に一気に作られたとする立場にこだわりすぎるあまり、自説に不利な研究成果に目を向けなかったり、自説に有利な説の誤りに注意しなかったりしがちなのです。

 そうした例の代表は、法隆寺金堂の薬師如来像に関する議論でしょう。聖徳太子信仰は四天王寺と法隆寺の対立関係の中で育っていったという図式を強調する今回の論文では、四天王寺も法隆寺も『日本書紀』以後に聖徳太子伝説をふくらませ、関連する文物を作り出していったのであって、四天王寺の方が優勢であった、という立場を打ち出しています。

 このため、現在の法隆寺金堂の釈迦三尊像と薬師如来像の銘文については、当然ながら『日本書紀』以後の成立と見ます。ただ、釈迦三尊像の造像年代には触れず、「後世に作成された偽銘」と述べるにとどまっているものの、薬師如来像については、「像およびその光背銘文は、『日本書紀』以後の成立とみることになるだろう」(48頁)と述べ、銘だけでなく像そのものも『日本書紀』以後の作としています。

 その主要な根拠は、薬師如来像は「美術史研究の観点からみて推古朝のものとはいえず、後年に作られた模古作だと理解されるようになっている」(47頁)からだそうです。しかし、その典拠として注11であげている石田尚豊『空海の帰結--現象学的史学』「美術史学の方法と古代史研究」(中央公論美術出版社、2004年)では、確かに薬師如来像は後代の作であって釈迦三尊像の模古作としているものの、「薬師造像年次が、法隆寺金堂再建時と密接な関係にある」(182頁)、「薬師像の光背は……薬師如来坐像と同様、金堂再建時とみなすのが妥当であろう」(186頁)と明言しています。

 670年に焼失した法隆寺の再建に当たっては、金堂が最初に造営されたことは昭和の大修理の際の調査で確定しているうえ、693年の仁王会に際して、また翌694年にも「飛鳥(浄御原)宮御宇天皇[持統天皇]」から経典その他が法隆寺に施入されているため、当時は少なくとも金堂は完成していて仁王会をおこなうことが可能であったことが知られています。つまり、石田論文は、薬師如来像は693年以前の金堂再建時に造像されたととみなしているのです。その石田論文のうち、自説に都合の良い箇所にだけ着目し、『日本書紀』以後に造像されたとする主張の根拠として引くのはいかがなものでしょうか。

 もう一例は、「救世観音」という称号に関する議論です。吉田論文が聖徳太子=救世観音説は慧慈後身説と矛盾するとしている(67-8頁)のは大事な指摘ですが、その際、藤井由紀子「『救世観音』の成立について」(佐伯有清先生古稀記念会編『日本古代の祭祀と仏教』吉川弘文館、1995年)を引き、「救世観世音菩薩」「救世菩薩」などの語は10世紀に成立した『聖徳太子伝暦』が初見であるとし、救世観音という尊格は日本以外には存在しないとしているのは誤りです。

 藤井さんのこの論文は、後代の聖徳太子信仰について考えるうえできわめて有益な成果であって必読の論文ですが、16年前のものであり、細かい点については現在ではいくつか修正すべき箇所もあります。たとえば、この論文当時と違い、現在は SAT(大蔵経テキストデータベース) で大正大蔵経を検索できるのですから、「救世観」(「救世観音」だけでなく、「救世観世音菩薩」とか「救世観自在菩薩」などもヒットさせるため)とか、「救世菩」([救世菩提薩埵」もヒットさせるため)とか入力して検索すれば、百済仏教に大きな影響を与えた梁武帝の息子である簡文帝の「唱導文」に「救世観音」とあり、儀礼における礼拝対象となっていることが分かったはずです。SATに長らく関わった人間としては、もっとSATを活用してもらいたいですね。しかも、この「唱導文」は、道宣の『広弘明集』に収録されています。

 他にも、先日紹介した新著に収録されている河上麻由子さんの数年前の諸論文、たとえば話題になった「遣隋使と仏教」(『日本歴史』2008年2月号)などを読めば、皇帝菩薩・菩薩天子などと称された梁武帝のことを「国主救世菩薩」と呼んだ例が道宣の『続高僧伝』に見えることが分かったはずです。この用例もSATでヒットします。

 吉田さんは以前は、入唐した道慈は道宣が住していた長安の西明寺で学び、道宣を尊敬してしきりに道宣の著作を利用していたことを強調していたのですから、その道宣の『広弘明集』や『続高僧伝』に見える以上、道慈が着目して『日本書紀』以後に聖徳太子を「救世菩薩」とか「救世観音」などと呼ぶようになったのだ、と主張すべきではないでしょうか。

 道慈は、行信が光明皇后などの支援を得て東院の建立を柱とする太子信仰宣揚に努めていた際、招かれて法隆寺で『法華経』講説をしたりしているのですから、そうした法会において太子を「救世菩薩」「救世観音」と称したりした可能性も皆無とは言えません。

 ところが、今回の吉田論文では、聖徳太子信仰の宣伝では四天王寺が優勢であったという立場であって、道慈にまったく触れないため、「救世観音」の語は四天王寺系である10世紀の『聖徳太子伝暦』が初見である以上、「四天王寺のほうが先にいいい出したことで、それに対抗するようにして、あとから法隆寺東院の中尊にこの名がつけられたものと思われる」(67頁)と論ずるに至っています。しかし、こうした主張をする場合は、「現存史料による限りでは、初見は……」という形にとどめておかないと危険でしょう。

 しかも、吉田さんは、「聖徳太子を救世観音の垂迹とする理解は、聖徳太子を慧思の後身とする説と両立しないとまではいえないものの、矛盾する部分があるといわざるをえない」(68頁)と述べ、問題があることに着目しておりながら、「だが、それこそが四天王寺の戦略であった」と続けるのです。なぜ、矛盾こそが四天王寺の戦略なのか、詳しい説明はありません。

 思託らの聖徳太子=慧慈後身説を信じ、『法華経』を講説した太子を日本天台の先蹤とみなして四天王寺に詣で、加護を祈った最澄やそれを強調した弟子の光定以後、四天王寺には次第に天台宗の影響が及ぶようになり、やがて天台宗にとりこまれていったことは、よく知られています。法相宗を柱とする興福寺の影響が強くなっていく法隆寺と、天台宗色を強めていく四天王寺とでは、どちらが慧思後身説より救世観音説を強調しやすいでしょう? 慧思は天台大師の師であって、天台宗の祖師ですよ。
 
 今回の吉田論文は、こうした箇所がこれ以外にいくつも目につきます。前の記事で書いたように、吉田さんの論文は重要な問題を取り上げているものの、そうした考察はかえって吉田説の強引さを示し、太子虚構説の弱さを示す証拠となっているように見える場合が少なくないのです。

【追記:2011年12月27日】
薬師如来像と釈迦三尊像の作成年代に関する大山説に触れた部分を削除しました。大山説では、この二つの像の制作年代は不明としつつ銘文はともに天平年間に刻まれ、道慈が関与したと推測しています。ただ、救世観音については『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)では行信か光明皇后によって「新たに作成されたか、あるいは、どこからか、もたらされた」(194頁)と述べており、美術史の常識を無視して新造の可能性もあるとしています。
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道慈作文説の撤回?:吉田一彦「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺」(1)改訂版

2011年12月24日 | 論文・研究書紹介
 吉田一彦編『変貌する聖徳太子--日本人は聖徳太子をどのように信仰してきたか--』(平凡社、2011年11月)のうち、吉田さんの序論「聖徳太子信仰を解き明かす」では、本論文集全体の意図とそれぞれの著者たちの論文の概要が示されています。今回、とりあげるのは、吉田さん個人の論文、

吉田一彦「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺」

です。

 吉田さんは、四天王寺と法隆寺はライバル関係にあり、「相手側の言い分を否定したり、吸収しようとしたりする言説が唱えられ、それに適合するような法物が作成され、伝記が著作されていった」とし、「私は、聖徳太子信仰の発展は、この二寺による、対抗的な教宣活動がその原動力になったと考えている」(26頁)と述べます。そして、その過程を示すとともに、広隆寺や橘寺も自らの立場で聖徳太子に関する伝承をふくらませていったことを明らかにしています。

 こうした視点は有効であって、このような具体的な検討をつみ重ねていくと、聖徳太子信仰史が明らかになるだけでなく、それぞれの時代が求めていた宗教的理想像が見えてきますね。聖徳太子信仰の変遷は、そのまま日本仏教史でもあることがよく分かります。

 問題は、その四天王寺と法隆寺の対抗関係がいつ始まり、いつ強くなったかです。吉田さんは、『日本書紀』においては、四天王寺は厩戸皇子の発願・創建の寺であることが明記され、日本における仏教興隆と関連づけて描かれているのに対し、法隆寺(斑鳩寺)の記述は少なく、扱いが冷たいことを指摘します。これはその通りなのですが、これについて吉田さんはこう書いています。

私は、『日本書紀』の四天王寺関係の記述は、四天王寺自身による寺の由緒の作成と同時並行的に進められていったと推考しており、『日本書紀』の編集・作成者のなかに四天王寺と関係をもつ人物がいて、その影響力のもとに『日本書紀』の関係記事が述作されたと考えている。(29頁)

 さあ、どうでしょう。これは、吉田さんのこれまでの主張を大きく変更した発言ではないでしょうか。聖徳太子関連記事を含む『日本書紀』の仏教関連記事については、16年に及ぶ留学を終えて718年に唐から帰国した博学で文章の名手であった道慈が「まさに主筆として関与したと考えられる」(吉田「道慈の文章」、大山誠一編『聖徳太子の真実』平凡社、2003年、303頁)というのが、吉田説の根本の立場でした。しかし、上の引用部分だけでなく、今回の論文には「道慈」という言葉が一回も見えません。

 道慈は、唐から帰った後は「藤原寺(興福寺)」にいたらしいことは、森下和貴子「藤原寺考--律師道慈をめぐって--」(『美術史研究』第26冊、1987年)が指摘している通りです。道慈は帰国するとすぐ登用されて活躍したものの、やがて為政者に強硬な諌言をして衝突したらしく、律師を辞任し(ないし解任され)、後にまた召されて大安寺の創建と経営に尽力しています。

 大和田岳彦「大仏造立以前の南都寺院伽藍--道慈の構想と理念--」(『日本歴史』1997年5月号)は、技術者たちを感心させるほど寺院の模型の制作が巧みであったと卒伝に記される道慈は、諸資料や発掘成果から見て、帰朝早々、元興寺の補修に関わるとともに、進行していた平城京の薬師寺と新元興寺の造営に参加し、設計の一部を唐の最新様式に変更させたのであって、その手腕を買われて天平元年(729)から大安寺の造営を任された、と推定しています。また道慈は、『日本書紀』以後のことになりますが、天平8年(736)には、行信が聖徳太子信仰を宣揚していた法隆寺に招かれ、法隆寺側の伝承が太子の命日とする2月22日に法隆寺で『法華経』の講説をおこなっています。

 その道慈が、帰国してすぐ「四天王寺自身による寺の由緒の作成」をすると同時に、『日本書紀』編纂にも関わり、四天王寺を中心にした仏教受容記事を書いて太子の命日を2月5日と定めたとは考えがたいですね。道慈がもし『日本書紀』編纂に関わっていたなら、興福寺の前身である山階寺・廐坂寺などについても詳しい記事を書き、その重要性を強調しそうなものですが、『日本書紀』にはそうした個所は全くありません。

 それに、道慈の出身母体であった額田部氏の本拠地は、斑鳩のすぐ東南です。その地に太子が作らせた熊凝の道場が、やがて完成を願う太子の遺志を受けた舒明天皇によって移されて百済大寺となり、さらに平城京に移されて大安寺となった、というのが大安寺の主張であって、熊凝道場の跡には道慈が額安寺を建立したという後代の伝承がありますが、額安寺は額田部氏の氏寺とも言われています。

 7世紀末から8世紀初めにかけては、法隆寺が再建されたばかりでなく、斑鳩周辺の聖徳太子と関係の深い寺々で「法隆寺式軒丸瓦」と言われる再建法隆寺系の瓦を用いて一斉に改修や新造の工事が始まっていたことは、考古学や建築学の成果が示している通りであり、このブログでも紹介しました。そうした寺院の造営ラッシュは、上宮王敬慕の高まりと無関係であったとは思われません。しかも、額安寺からも「法隆寺式軒丸瓦」が出土しています。斑鳩寺と関係があったかどうかはともかく、再建された法隆寺と額安寺とが近しい関係にあったことは間違いありません。つまり、斑鳩に隣接する額安寺近辺を本拠地とする額田部氏は、再建された法隆寺の文化圏に属していたのです。

 大安寺の創建は『日本書紀』以後ですし、上で述べたような大安寺の伝承は伽藍完成頃か、さらに後に成立したものでしょうが、道慈が『日本書紀』に関与したなら、出身氏族と関係深い熊凝の寺と太子の関係を強調しそうなものです。しかし、『日本書紀』にはそうした記述もありません。額田部氏出身の道慈は、難波の四天王寺に属していて、あるいは四天王寺を応援していて出身地の近隣にある法隆寺に冷たい記事を書いた、ということになるのでしょうか。

 そもそも、聖徳太子記事を含む『日本書紀』の仏教関連記事については、倭習が目立つ拙劣な漢文で書かれているため、唐に16年も留学し、玄宗の命によって百人の僧が『仁王経』を講説した際はその一人として選ばれたこともある道慈の筆とは考えられないことは、森博達さんと私が何度も指摘したことです。

 「四天王寺と関係をもつ人物がいて、その影響力のもとに『日本書紀』の関係記事が述作された」と言うのであれば、聖徳太子関連を含む『日本書紀』の仏教関係記事は道慈が主筆となってまとめあげたとする説は撤回した、と明言すべきですね。

 撤回したのでないなら、道慈こそがその「四天王寺と関係をもつ人物」であって「四天王寺自身による寺の由緒の作成」にも関わっていた証拠、あるいはそうした人物と道慈がきわめて近い関係にあったことを示す必要があるでしょう。しかし、今回の論文では、そのような可能性を示唆するどころか、道慈という名前そのものが一回も出てこないのです。吉田説の大前提であった道慈は、一体どこへ行ってしまったのでしょう?

 それに、四天王寺側の主張が『日本書紀』に色濃く反映しているのは事実ですが、『日本書紀』の四天王寺関係の記述が「四天王寺自身による寺の由緒の作成と同時並行的に進められていった」ことを示す具体的な証拠はありません。四天王寺がそうした由来を既に文書で提示しており、『日本書紀』の編者がそれを利用して書いたと見る方が自然でしょう(ただし、『日本書紀』が四天王寺関係以外の様々な史料も用いていたことは、記事によって太子に対する呼称が違いすぎることからも推察されます)。

 今回の吉田論文のように、法隆寺と四天王寺が対抗関係にあったとするなら、法隆寺が再建されて復興していく様子を目にした四天王寺側が、法隆寺の前身である斑鳩寺(若草伽藍)造営より少し遅れて工事が始まり、斑鳩寺で使ってかなり摩滅してきた瓦当笵で作った瓦を用いて現在地に造営された四天王寺と聖徳太子の関係をこれまで以上に強調し、四天王寺を中心とした仏教受容史を主張するようになったとしても不思議はありません。

 つまり、そうした由緒の作成を、718年12月の道慈帰朝から720年5月の『日本書紀』献上に至る『日本書紀』の最終編纂時期と同じ頃とみなす必要はないのです。7世紀末から8世紀初めにかけて、斑鳩で法隆寺や太子関連の寺々の修造・新造と太子敬慕の風潮が進みつつあった頃に、四天王寺側も聖徳太子と四天王寺の関係を強調しつつ寺の由来を補強していったと考える方が自然ではないでしょうか。たとえば、造営当初は蘇我氏の援助も大きかったのに、そうした記述を削るといった作為は、十分考えられることです。

 いずれにしても、道慈の出る幕は無くなりました。

 大山誠一氏と吉田一彦さんは、道慈の関与という点を「聖徳太子虚構説」の中軸としていたのですから、その根本が崩れたことになります。空想ばかりの大山氏と違い、吉田さんは文献に即して検討していくため、個々の考察にはすぐれたものがあるのですが、そうした考察は、かえって大山・吉田流の「聖徳太子虚構説」を突き崩すものである場合も少なくないのが実状です。

【追記:2011年12月24日】
朝、公開しましたが、額安寺のことを明記し忘れたので、改訂版として更新し直します。
【追記:2012年1月11日】
道慈と額安寺の関係については、興福寺西金堂の帝釈、四天王、八部衆像などはもともとは大和の額安寺の像であったとか、それらの像が西金堂に運ばれて以来、寺中でもめごとが絶えないため返却したといった伝承があり、これは道慈と額安寺の関わりによるものであるとする説などが、村松哲文「十大弟子像と八部衆像」(大西一章・片岡直樹編著『興福寺--美術史研究のあゆみ--』里文出版、2011年11月)で紹介されています。乾漆像の十大弟子と八部衆という点は大安寺の仏殿も同様であったようですが、村松さんは、十大弟子と八部衆の優れた乾漆像という点で、興福寺・大安寺・額安寺をつなげる存在として道慈に注目しています。
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