聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺研究に関する最新の情報や私見を紹介します。

明治末から昭和の法隆寺の教学を支えた佐伯定胤に関する西村実則「法隆寺・佐伯定胤と渡辺海旭」

2016年01月18日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子に関する拙著(こちら)については、一般読者向けの短くて読みやすい本を心がけたため、盛り込めないこともたくさんありました。明治以後における法隆寺の教学研究面もその一つです。

 私が大学院で平川彰先生の『成唯識論』の講義を受けた際、テキストは法隆寺の佐伯定胤(じょういん)が編纂した『新導成唯識論』でした。かつては、誰もがこのテキストで学んだのです。佐伯定胤がいた頃は、法隆寺は法相・唯識の学問の拠点であって、諸大学の研究者も定胤の講義を聞いた者がたくさんおりました。

 その佐伯定胤に関する論文が出ています。

西村実則「法隆寺・佐伯定胤と渡辺海旭-仏典の伝統的研究と原典研究-」
(『大正大学研究紀要』100号、2015年3月)

です。真面目なアビダルマ研究者である西村さんがこうした論文を書いてくれたのは、有り難いことでした。

 佐伯定胤(1867-1952)は、法隆寺村に生まれ、法隆寺の千早定朝について得度し、性相学(法相・唯識学)の権威であった真言宗の佐伯旭雅から性相学を学びます。24才で「法相宗綱要」を著しており、明治36年(1904)に法隆寺住職に就任。

 以後、法隆寺の維持に努めるかたわら、性相学の研究と教育に尽力し、東大や京大での講義もしています。これは、奈良時代から「法隆学問寺」と呼ばれていた伝統を守ろうとするためでもあったでしょう。

 ただ、江戸時代末期には、性相学の研究拠点の一つは長谷寺であって、この学系が泉涌寺に継承され、その代表が佐伯旭雅でした(姓も同じですが、定胤の親戚ではありません)。定胤が学んだ際、旭雅は五十七歳、定胤は十八歳です。
 
 定胤はその後も研究と講義を続け、興福寺に移り、最後は法隆寺に戻ったのです。定胤が教えていた法隆寺勧学院では、様々な学派の寺や東西の諸大学から研究者が学びに来ており、山内の塔中寺院がそれぞれの宗派の寮にあてられたそうです。いわば、ここが性相学の大学院となっていたのです。特に、大正大学からはいつも10名程度の聴講者があった由。

 問題は、性相学は五姓各別を説く唯識派の学問であるのに、法隆寺は仏性説に立つ三経義疏を著したとされる聖徳太子の寺であったことです。そこで、定胤は法相宗という看板を下ろし、「聖徳宗」と改名し、三経義疏などの研究に力を入れます。これは、唯識仲間であった清水寺や興福寺にはショックだったようです。

 定胤は明治期に僧侶の妻帯が許された後も独身であって、質素な生活を守っていたそうです。

 学問は唐代の注釈を重んずる伝統的なものでしたが、大正15年(1926)に島地大等に招かれ東大で唯識三類境について講義した際は、自分は梵語による研究はしていないため、その方面はそちらの先生に尋ねるよう勧め、「そのかわり、漢文の仏典についてのご質問は、どんなものでもあってもお受けします」と述べたそうです。

 島地大等もそうですが、当時は、テキストなど全く見ないで何時間でも、それも何回でも講義できる大学者がいたのです。

 明治末期から戦後まで、法隆寺に対する評価があがったのは、建築の古さ、その美術工芸品の素晴らしさに加え、定胤の存在が大きかったことは、認識しておくべきでしょう。

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吉村武彦『蘇我氏の古代』と倉本一宏『蘇我氏-古代豪族の興亡-』(訂正版)

2016年01月09日 | 論文・研究書紹介
 蘇我氏に関する新書が2冊続けて出ました。

  吉村武彦『蘇我氏の古代』(岩波新書、2015年12月18日)
  倉本一宏『蘇我氏-古代豪族の興亡』(中公新書、2015年12月20日)

です。

 両書とも、蘇我氏の起源と展開を追い、厩戸皇子の頃は天皇家と蘇我氏の対立などはなく、蘇我氏は蝦夷・入鹿の死とともに滅びたわけではないと論じており、有益です。

 特に倉本氏の本は、蘇我氏は同族を別の氏族として独立させて群臣会議に参加させ、多数を占めたこと、大化改新後にも蘇我氏が重要な位置を占め続けており、改新側も蘇我氏と血縁関係を結ぼうとしていたこと、蘇我氏は以後も妃を出し続けたことなどについて、熱っぽく語っており、読み物としても面白い本になってます。

 蘇我氏については、権勢を振るった大豪族であった割には研究が少なく、遠山美都男『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』のような見直しの試みもなされていますが、 様々な分野の研究者たちによる徹底した調査が必要でしょう。それだけに、岩波新書と中公新書という手にしやすい形態で蘇我氏に関するこうした本が続けて出たのは、歓迎すべきことです。

 ただ、吉村氏の本は、氏(うじ)という存在についての解明、蘇我稲目の活動の意義などについては詳しいものの、蘇我氏の専横といった従来の見方に対する見直しはあまりなされておらず、意外なほど『日本書紀』の記述や従来の解釈がかなりそのまま採用されています。

 たとえば、吉村氏の本では、「君」の絶対性を説く「憲法十七条」は蘇我氏の存在と相容れないとしていますが、そうであれば「憲法十七条」が作成されることはないはずです。天皇後継者である太子が、最大の支援者であった蘇我馬子と対立するようなことを書くことは、考えられません。これまでの「憲法十七条」の解釈は変える必要があるのです。 

 厩戸皇子については、両書とも蘇我系の有力な天皇候補と見て、推古天皇のもとで馬子とともに政治にあたったとしており、虚構説は問題にされておらず、批判すらなされていません。

 私のこのブログや諸論文や今度出る本で虚構説批判をやったのは、現在、インターネットで聖徳太子についてを検索すると、虚構説を初めとする怪しい説が多数ヒットすることが示すように、世間にトンデモ説がかなり広まっており、弊害が目立つためです。研究者は、そうした非学問的な説は相手にする必要はないという意見もありますが、現在のネットの状況は見のがしてはおれないレベルです。

 さて、今回の両書は、蘇我氏に関する本であるため、厩戸皇子については、新しい発見や資料の従来の読みの訂正などはされていません。吉村氏の場合は、2002年に同じ岩波新書で『聖徳太子』を刊行していますので、そちらに譲ったということもあるのでしょう。太子に関する以後の研究の進展が盛り込まれるかと期待していたところ、そうなってはいませんでした。

 ですから、その点では両書は、太子に関連する最新研究を考慮していて新発見や新解釈が多い私の『聖徳太子-実像と伝説の間-』(こちら)とは、互いに補完し合う関係ということになります。

 なお、吉村氏が「厩戸皇子」という一般的な呼称を使っているのに対し、倉本氏は「厩戸王子」という呼称を用いていますが、これは問題でしょう。

 虚構説が説く「厩戸王」を避け、また「皇子」は律令制に基づく用語であるため避けたのでしょうが、『日本書紀』では、「王子」という語は新羅や百済の王の子について用いるのが通例であって、入鹿が子のことを「王子」と呼ばせたなどという例しかありません。「王子」という語を使うのであれば、何らかの説明をつける必要があるでしょう。

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石井公成『聖徳太子:実像と伝説の間』(春秋社)の予約受付開始

2015年12月21日 | 論文・研究書紹介
 一般向けに「です・ます調」の読みやすい形で書いてあるものの、最近の諸分野の研究成果と私自身の発見を盛り込んだ聖徳太子本が1月20日に刊行されることになり、一部のオンラインショップで予約受付が始まりました(amazonの場合は、こちら)。

石井公成『聖徳太子:実像と伝説の間』(春秋社、2016年、264頁、本体価格2200円)

 初めに、太子を研究するには、現代人の常識で判断するのではなく、まず古代の人々の発想や習慣を尊重して資料を正確に読まねばならないとした後、古代から現代に至る聖徳太子観の変遷について概説してあります。

 戦時中の文部省や真宗における太子の扱いなど、この変遷の部分だけでも目からウロコの記述がかなりあるはずです。これを読むと、現在の研究状況の背景が分かるでしょう。

 続いて、「<聖徳太子>はいなかった。理想的な聖徳太子像を創りあげたのは、藤原不比等・長屋王・道慈の三人であって、モデルとなったのは、斑鳩宮と法隆寺を建てた有力な王族であったものの、国政に関わるような勢力はなく、聖人でもなかった厩戸王だ」とする大山誠一氏の太子聖徳太子虚構説への批判です。

 そもそも「厩戸王」というのは、戦後になって推定で作られた表記であって、どの時代の資料にも出てこないことを初め、これまでこのブログで書いてきたことをまとめ、さらに複数の弱点の指摘を加えてありますが、表現は軟らかくしてあります。

 虚構説論者が目についた用語に基づいてあれこれ想像するばかりで、変格漢文に関する研究成果や、飛鳥寺→豊浦寺→法隆寺→四天王寺という瓦の影響関係を初めとする考古学などの成果を無視したのは致命的でした。

 以下、『日本書紀』に描かれている順序にほぼ基づきながら、いろいろな問題について検討してあります。太子礼賛でもなければ、全否定でもありません。

 【目次】
はじめに
第一章 聖徳太子観の変遷
     (一) 聖徳太子観の変遷
     (二) 聖徳太子虚構説の問題点
第二章 誕生と少年時代
     (一) 呼び名の多様さ
     (二) 誕生と名前の由来
     (三) 教育
     (四) 父の死、母の再婚
     (五) 物部守屋との合戦
     (六) 結婚
第三章 蘇我馬子との共同執政と仏教興隆
     (一) 立太子記事の検証
     (二) 三宝興隆の詔
     (三) 慧慈・恵聡の来朝と伊予湯岡碑文
     (四) 斑鳩宮の建設
     (五) 新羅問題
     (六) 小墾田宮での改革と冠位十二階
     (七) 「憲法十七条」
     (八) 改革と仏教
第四章 斑鳩移住とその後
     (一) 斑鳩移住と法隆寺・四天王寺の建立
     (二) 支える氏族
     (三)『勝鬘経』『法華経』の講経と三経義疏
     (四) 壬生部の設置
     (五) 神祇信仰の変化
     (六) 隋および朝鮮諸国との外交
     (七) 活動が記されない期間
     (八) 片岡山飢人説話
     (九) 天皇記・国記・氏族の本記の編集
第五章 病死、そして残された人々
     (一) 病死と慧慈の嘆き
     (二) 法隆寺金堂釈迦三尊像銘
     (三) 天寿国繍帳とその銘
     (四) 上宮王家の滅亡
     (五) 太子の娘による金銅潅頂幡の法隆寺施入
おわりに
 聖徳太子図とその解説
 聖徳太子関連系図
 聖徳太子関連地図
 参考文献
あとがき

 以上です。amazonのページでは、12月20日の時点では、まだ表紙も詳細な内容も出てませんが、表紙は、早稲田大学図書館所蔵の江戸期の模写図を使わせていただきました。許可してくださった早稲田大学図書館に感謝します。衣裳や持ち物について考証を書き込んであるため、この図を選びました(こちら)。

 私の本の末尾では、この図の全体が白黒で掲載されていますが、「実像と伝説の間」という題名なので、表紙ではカラーで薄くもやっとした感じになる予定です。

 図の説明では、かつては別人説があったものの、それは間違いであることが判明しており、奈良時代に中国の人物図の形式で聖徳太子として(想像で)描かれたことについて、最近の説を紹介しておきました。

 この肖像画も、それぞれの時代の社会、それぞれの人が、自分にとって好ましい聖徳太子像を描いてきた一例です。

 一般向けの読みやすい本ですが、日本古代史の研究者、それも聖徳太子に関する本や論文を書いている人が読んでも、初めて知ることが多い本になっていると思います。

 厩戸誕生伝説にしても、一度に十人の言うことを聞いたといった伝説などにしても、仏教経典の記述を利用して理想化した書き方をしていることを明らかにしておきました。

 ただし、太子が病いで倒れた際、周辺の人が太子と等身の釈迦像を作って治癒を願ったことなどは、事実と見ていますし、太子が仏に準ずる存在とみなされたことも事実としています。菩薩扱いされ、自らも菩薩という自覚を持ってそう名乗っていた中国の皇帝などが手本ですので、そうした例と比較してあります。

 5年前の私がこの本を読んだら、おそらく自分でも知らなかったことが多くて驚くことでしょう。授業で教える際に困っていた、中学・高校の歴史の先生などにも役立つはずです。聖徳太子というのは、生前の名ではないものの、「厩戸王(聖徳太子)」などと表記してある教科書は、数年のうちに改めることになるでしょう。

 日本史研究者の場合は、『日本書紀』の太子関連記述や法隆寺の初期資料について、これまでは仏教の要素に対する注意が不十分で正確に読めていなかったことを指摘した部分を読むとショックを受けると思います。

 これまで、多くの研究者が地道に研究してくれてきたおかげで、我々は現在、研究できるようになっているのですが、資料の読解、特に仏教との関連の解明はまだまだ不十分であるのが実状です。つまり、従来は、資料を正確に読めないまま、太子関連記述の内容の真偽を論じてきたのです。

 「憲法十七条」も、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘も、天寿国繍帳銘も、伊予湯岡碑文もそうです。太子関連記述は、仏教に関するものが多いのですから、これは深刻な事態でしょう。今回の本では、新たに発見した出典に基づく読み方を提示しておきました。すると、太子のイメージが変わってきます。

 こうした例は他にも多く、大正大蔵経などが電子化され、検索可能になったことによって発見できたものですが、私は、その電子化作業に10年以上関わってきた人間ですので、「検索ばかり利用して……」などという批判は当たらないはずです。データベースを作成したからこそ出来る検索もあるのです。

 また、寺の瓦に関する考古学の成果なども、太子のイメージを変えるうえで役立つでしょう。蘇我氏内部の勢力争いとの関係など、けっこう生々しいものがありますね。

 「あとがき」では、「憲法十七条」や三経義疏の聖徳太子撰述を疑った津田左右吉が創設した早稲田の東洋哲学研究室で学び、一方、聖徳太子礼賛の拠点の一つであった東大の印度哲学科の教授で定年後に早稲田の教授となった仏教学の第一人者、平川彰先生を指導教授とした私の立場について述べておきました(いろいろな分野に浮気ばかりしており、平川先生の学風は少しも継げませんでしたが……)。

 この本の全体の立場は、冒頭に掲げた小倉豊文の次の言葉の通りです。

「又性急に太子を常人として過小評価することも、或ひは又非凡人として過大評価することも、何れも慎まなければなりません」

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2015年度の変格漢文研究プロジェクトの国際研究集会

2015年12月19日 | その他
 古代東アジアの変格漢文に関する科研費研究の国際研究集会が開催されました。これで四年目、回数としては五回目です。

12月19日  研究発表(駒澤大学会館246) 
1.共同研究の状況説明……………………………………………………………… 石井公成(駒澤大学教授)
2.「智雲『妙経文句私志記』『妙経文句私志諸品要義』の変則漢文」……… 石井公成(駒澤大学教授)
*コメンテーター:師 茂樹(花園大学教授)   
<昼食>
3.「声律から見た「古事記序」と「懷風藻序」 …………………………… 金文京(鶴見大学教授)
    *コメンテーター:崔植(韓国・東国大学准教授)
4.「『古事記』の接続詞「尓」の来源」…………………………………… 瀬間正之(上智大学教授) 
    *コメンテーター:崔植(韓国・東国大学准教授)
5.「『日本書紀』所引書の変格漢文――「百済三書」を中心に」……… 馬 駿(中国・対外経済貿易大学教授)
    *コメンテーター:鄭在永(韓国・韓国技術教育大学校教授)
6.「『日本書紀』の特殊な言語現象探源」………………………… 董志翹(中国・南京師範大学教授)
    *コメンテーター:鄭在永(韓国・韓国技術教育大学校教授)

以上です。

 仏教学である私の発表は、唐の石皷寺の僧侶と伝えられてきた智雲の著作は、中止形の「之」を使ったりするなど、古代韓国・古代日本の変格漢文の用法が見られるため、智雲は新羅僧だろうと推測したものです。智雲は、唐代天台宗の再興の祖とされる湛然(711-782)の弟子らしいため、8世紀終わりか9世紀初め頃の新羅僧ということになります。新羅の場合、初期の天台宗の資料は少ないため、仏教史の面でも語法の面でも注目すべき資料の発見となりました。

 中国文学の金文京さんの発表は、平仄の面から「古事記序」と「懷風藻序」を比較したものであって、『古事記』序の著者問題に新たな視点を加える発表でした。意外かつ有益な指摘が多く、漢文である古代の資料を読むには、漢文学の知識が必須であることを痛感させられたことでした。

 国語学の瀬間さんの発表は、昨年の崔{金公}植さんの発表を承け、『古事記』の接続詞「尓」の来源について検討したものです。「尓」の字体の違いによる意味や用法の違いが検討され、新羅の金石文との綿密な対比がなされました。一つの活字本だけに頼っておこなう議論の危うさがよく分かりました。また、鄭在永さんが今回、韓国から来日する飛行機の中で読んだ新聞で知ったという、発見されたばかりの新羅の金石文の紹介もされており、情報が早いと皆が感心したことでした。

 古代日本の変格漢文の専門家である馬 駿さんの発表は、『日本書紀』中の基礎資料としてきわめて重要な百済三書を検討し、正格漢文、変格漢文、仏格漢文(仏教漢文)の三つに分けて語法を検討したものです。百済三書は、意外にも仏教漢文の用法が多いなど、興味深い指摘がたくさんありました。これについては、仏教漢文に取り入れられた口語の問題も考慮すべきだなとする意見も出されました。ともかく、百済三書を、こうした視点から細かく検討したのは初めてでしょう。

 円仁の在唐日記における倭習の研究で知られ、唐代俗語研究の大家である董志翹さんは、古代朝鮮特有の表現として知られている「~月中」といった言い方は、漢代の中国にはかなり見られることを指摘しました。また、「噵」についても、中国の早い例を示し、「これこれは古代新羅特有の変格語法」などと簡単に決めつけられないことを明らかにされました。
 
 コメンテーターのうち、日本の仏教学・仏教史学の成果を考慮しつつ、古代から現代までの幅広い韓国仏教史研究をされ、新羅僧の変格漢文に関する論文もある崔植さんは、通訳も兼ね、有益なコメントをされていました。

 日本の訓点語学会に当たる韓国の口訣学会会長である鄭在永さんは、変格漢文の語法に関して実に豊富な知識を有しており、次から次へと用例をあげつつ、コメントをされていました。

 プロジェクトのメンバーである森博達さんが用事で出席できなかったのは残念でしたが、日本語、韓国語、中国語を駆使して時には通訳も担当してくださった金文京さんを筆頭に、会議場では諸国語が飛び交い、非常に熱心な討議がなされました。

 『日本書紀』を理解するには、こうした語法などの面に注意を払い、最新の金石文研究の成果を含め、百済・新羅、また中国の用例を考慮しながら読み進めていかねばならないことを痛感させられた密度の濃い7時間半のワークショップでした。

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聖徳太子に関する二つの講演が英訳されてネット公開

2015年11月08日 | 論文・研究書紹介
 現在、1月に出版される聖徳太子本の校正をやっています。自分自身、5年前くらい前にこれを読んだら知らないことが多くて驚くだろうと思われる内容になっています。日本古代史の専門家が読んでも同様でしょう。

 さて、中国仏教研究の古い仲間であって、初期のパソコン利用仲間でもあったアメリカの中国仏教研究者、Jamie Hubbardさんが、私の聖徳太子講演を2本、英訳して公開してくれました。

 研究者が自らの著作を公開する academic.edu というサイトです。訳者である彼のページに置かれています(こちらと、こちら)。
 
 英訳してくれたのは、

「聖徳太子論争はなぜ熱くなるか」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』40号、2007年5月)

「聖徳太子研究の問題点」(『藝林』61巻1号、2012年4月)

です。どちらも冗談まじりでしゃべっていますので、余計な事柄が多いですが、これまで知られていないことも多いため、英語圏で関心のある人には有益でしょう。既に、そこそこダウンロードされています。

 英語が得意な方、英語に訳すとどういう表現になるか興味のある方はどうぞ。


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一般向けの聖徳太子本の原稿完成【訂正:刊行は1月中旬の予定】

2015年10月14日 | 論文・研究書紹介
 ご無沙汰しました。

 いろいろと回り道をしましたが、一般向けの聖徳太子本の原稿をようやく完成させることができました。現在、出版社では編集作業に入っています。

 刊行は年末になるのか1月になるのか、まだ分かりませんが、ともかく、数ヶ月のうちに出版される見込みです。

 このブログで報告した内容と重なる部分も多いですが、新たに書いたこともけっこうあり、このブログをすべて読まれた方でも、新鮮な感じで読むことができると思います。

 amazonなどで予告が出たら、お知らせします。

【訂正:2015年12月8日】
 以上のように書いたのですが、いろいろ事情が重なり、刊行が少し遅れることになりました。現在のところ、1月中旬刊行の予定です。



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日本仏教の基本教理を知るうえで有益な大竹晋『宗祖に訊く』

2015年07月25日 | 論文・研究書紹介
 有益な本が出ました。

 大竹晋さんの『宗祖に訊く--日本仏教十三宗 教えの違い総わかり』(国書刊行会、2015年7月、4500円)です(AMAZONだと、こちら)。

 この本は、現存する主要な日本仏教の宗派の開祖たち(天台大師、善導和尚、慈恩大師、黄檗希運禅師など、中国の祖師も含む)に集まってもらい、司会者の仕切りのもとで語りあってもらった、という架空対談集です。




 とりあげているのは、法相宗、律宗、華厳宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、黄檗宗、曹洞宗という13の宗派です。教判論・行位論・真理論・心識論・仏性論・煩悩論・生死論・修行論・仏身論・仏土論・成仏論・戒律論という12の章に分かれており、それらのテーマについて宗祖たちが自宗の特長を語っています。

 内容はしっかりしたものですが、対談集だけに、読みやすく出来ています。宗祖たちが語ると言っても、実際にはその人の著作や弟子の筆記などにに見える言葉を現代語訳して用いているため、デタラメな想像ではありません。注では原文が示されており、出典の頁などもきちんと明示されています。

 また、司会はなかなか物知りで最近の仏教学の研究成果に通じており、宗祖たちの発言を適切にまとめたり補足説明したりするだけでなく、時には、「~上人様が引用されたその経文は、梵文テキストにはないですが」などと、さりげなく学術的なコメントをはさんだりします。

 このブログは、「聖徳太子研究の最前線」というタイトルが示すように、聖徳太子や法隆寺などに関する最新の研究書や研究論文、関連情報などを紹介するものですが、最近目立つのは、教理に踏み込んだ研究が少なくなったことです。

 かつてであれば、井上光貞のように、日本史学の研究者でありながら、三経義疏と光宅寺法雲の『法華義記』などを綿密に読み比べるといった着実な基礎作業をおこない、仏教学者も感心するような論文を書く大学者がいました。

 しかし、最近は学問の専門化が進み、日本史学や美術史学や国文学などの研究者の多くは、仏教の教理には踏み込まなくなりました。その結果、知識不足や勘違いが目立つ妙な議論を見かける機会が増えました。残念ながらら、これは仏教史学と言われる分野でも同じです。そこでお勧めしたいのが、先日刊行されたばかりの大竹さんのこの本です。

 大竹さんは、つくば大学出身で、中国華厳宗の教理を唯識説との関連という視点で見直した研究をし、博士の学位を得ました。サンスクリットやチベット語も良く出来、仏教の基本教学であるインドのアビダルマや唯識説に通じているうえ、偽経に代表される中国仏教の特徴にも詳しい研究者です。

 大蔵出版社の新国訳大蔵経シリーズでは、『十地経論』や『金剛仙論』その他、華厳宗の前身となった地論宗で重視された経論を担当して何冊も出していますが、すさまじく内容の濃い学問的な注がつけられており、日本でも海外でも話題になっています。

 大竹さんは、日本仏教にも早くから関心を抱いており、そうした幅広い学力に基づいて批判的に研究してきた結果が、今回の本になりました。日本仏教の研究というと、戦後は、親鸞の特異な思想とか、民衆との関係とか、女性と仏教の関係などが注目されるようになったものの、基本的な教理が忘れられがちです。

 しかし、特異な思想は、あくまでも仏教の基本的な教理に基づき、それを変えたり展開させることによって生まれるものです。日本仏教を研究しようとするなら、また、日本仏教に触れる研究をするのであれば、こうした基本的な教理をしっかり押さえておく必要があるでしょう。

 この本は、聖徳太子と関係深い成実宗(中国江南の成実・涅槃学派)や三論宗など、日本に伝わっても消えてしまった諸宗(学派)には触れていませんが、この本を読んで基礎を身につければ、それらの諸宗についても理解しやすくなるでしょう。

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書物としての『日本書紀』について検討した遠藤慶太『日本書紀の形成と諸資料』

2015年05月20日 | 論文・研究書紹介
 以前このブログの「東アジアからの視点で史書の成立を眺める:遠藤慶太『東アジアの日本書紀』」という記事(こちら)で紹介した遠藤慶太さんが、本年の2月に、新著を出されています。

 遠藤慶太『日本書紀の形成と諸資料』(塙書房)

です。

 本書は、先の本を継承し、『日本書紀』をあくまでも1冊の書物と見て検討していくという立場で、個々の資料とそれが『日本書紀』にどうより合わされていったかについて詳細な考察を加えたものです(遠藤さん、御恵贈有り難うございます。お礼が遅くなりました)。

 『日本書紀』の記述を利用して古代史について何か書く人は有益な本であって、特に「第一章 日本書紀の読書史」は必読でしょう。第一章は二つに分かれており、1は「『日本書紀』研究の課題」、2は「『日本書紀』の写本と注釈-読書史をたどる-」です。

 ここでは、「記紀で研究する前に、記紀を研究しなければならぬ」という有名な坂本太郎の言葉が引かれ、この言葉の意義が再確認されており、関連する様々な問題点が指摘されていて有益です。

 遠藤さんの立場は穏健なものであって、「『日本書紀』は8世紀初めに一定の意図に基づいて編集された編纂物なのだから、『日本書紀』によってそれ以前の歴史を知ろうとするのは意味がない」といった極端な立場には反対です。

 『古事記』であれば、分量が少なく、テキストが均質であるため、個々の記述に基づいて全体の編纂者の意図について語ることも出来るでしょうが、『日本書紀』のように不統一であって「さまざまな素材史料が束のまま投げ出されたような面をもっている」書物はそうはいかない、というのです。

 『日本書紀』は、助辞、訓注、形式、漢籍の典拠、天文記録その他によって巻ごとの区分が可能であることは、全体の統一がとれていない証拠だとする遠藤さんは、森博達さんの音韻による区分論を最近の研究における最大の成果として高く評価しつつ、筆録者の名前まで特定するのは難しく、「筆録が可能であったろう集団の想定」あたりが限界ではないか、と論じています。

 2では、原撰本が残っていない『日本書紀』を我々が今日読むことができるのは、書写し、また解釈して後世のために伝えてきた人たちのおかげという点を重視し、その過程を検討しています。

 遠藤さんは、ここでは、『日本書紀』に付された「古訓」と称される平安中期の訓点を重視しつつ、これが「そのまま上代語(奈良時代の言葉)ではない」ことに注意します。古訓を絶対視すると、『日本書紀』を伝えてきた卜部氏の解釈にしたがって『日本書紀』を見ることになってしまうのです。

 遠藤さんは、注釈や写本の系統研究の歴史をたどった後、他の古典では古い写本が底本に選ばれるのに対し、『日本書紀』では、現代の代表的な注釈でも、広く読まれてきた寛文九年の版本が底本とされてきる状況に注意します。

 さて、2の「『日本書紀』の写本と注釈-読書史をたどる-」を読み、様々な立場で解釈してきた歴史をたどっていると、気づかされるのは、客観的だと称する現代の研究も、実際には中世の密教的解釈と同様、何かしらの目的をもってかたよった解釈していく面がある、ということです。

 2の末尾はこうです。「また『日本書紀』の読書史は、未来に向かっても開かれていると思うのである」。

 なお、「第二章 分註の諸相」を初めとする諸章でも、いろいろと有益な指摘がなされています。たとえば、『日本書紀』編集当時は、中国では『漢書』は顔師古注、『左伝』は杜預注、『文選』は李善注で読むのが通例になっていたことなどを強調し、『日本書紀』も最初から注つきで書かれただろうと説いた部分がそうです。

 また、歴史書が時代の背景の中で製作されることを認めつつも、「本当に歴史書を編纂する者は、ほしいまままに歴史を書くことができたのであろうか」と疑ったところも興味深い点です。これは津田左右吉批判であり、また現代における『日本書紀』編纂者万能書き換え説に対する批判でもあります。

 遠藤さんは、『古事記』についてはそう言うことができても、不統一であって異説を「一書」として並記する『日本書紀』については、筆録者万能書き換え説は当てはまらないとし、分註からそのことを論証していきます。

 個々の部分については、遠藤さんの主張には反論もあるでしょうが、こうした検討方法は有効なものと、私は評価しています。
 

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新川登亀男「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の成り立ち」は出発点となる先行研究を見落とし【重要追加版】

2015年04月15日 | 論文・研究書紹介
 先日、拙論「『日本書紀』における仏教漢文の表現と変格語法(上)」という論文が刊行されました。これについては、近いうちに紹介します。

 この抜刷を関連する分野の諸先生にお送りしたところ、何人かの先生からは、お返事に添えて最近の著書や論文をご恵贈頂きました。

 そちらもいずれ紹介させてもらいますが、驚いたのは、新川登亀男さんから頂いた2015年3月に刊行されたばかりの論文、「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の成り立ち」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第194集)の抜刷です(新川さん、有り難うございます)。

 冒頭の「論文要旨」によれば、光背銘のうちの「深懐愁毒」「当造釈像尺寸王身」の表現に相当する表現、それも捨身、死別、仏像作成など、光背銘と状況が似ている状況で登場する表現の先例を『賢愚経』と『大方便仏報恩経』に見いだし、その経文を検討することによって光背銘を作った人々の悲歎のあり方を推測し、さらに仏像起源譚という面から銘文の作者を釈迦三尊像を造った止利仏師と推定した、とあります。

 新川さんらしい博捜情報を盛り込んだ論文であるため、いろいろ勉強になりました。ただ、問題になるのは、論文の出発点となる「深懐愁毒」という句について、「これまで適切な解釈がなされたことはない」(283頁)と断言してから議論を始めていることです。むろん、自分が今回初めて出典を指摘したという前提で論じています。

 困りましたね。この「深懐愁毒」の句が『大方便仏報恩経』に基づいており、背景も光背銘と似ていることは、このブログでは、2010年10月31日 にアップした「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に関する新発見!」と題する記事(こちら)で報告しました。これって、このブログの1番人気の記事となってます。アップ以後、書き換えてません。

 ネット記事は論文では原則として資料としないのが学界の慣例ですが、私は翌年の9月に開催された聖徳太子に関するシンポジウムでは、これに触れたうえ、「天寿国繍帳」もこの経典に基づいていることを指摘した発表をやりました。

 それが活字化された「聖徳太子研究の問題点」という論文は、2012年4月に刊行された『藝林』第61巻1号に掲載されています。私の手許の送付リストによれば、新川さんにも抜刷を送ってあります。

 新川さんは、この論文を書くに当たって、タイトルに「法隆寺釈迦三尊」と入っている論文を精査されたと思いますが、私の論文は「聖徳太子研究の問題点」という一般的な題名だったので、見落としたのでしょう。読んでなかったか、読んでも印象に残らなかったかですね。

 なお、私のこの論文が刊行される前にも、拙論「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」(『駒澤大学仏教学部論集』第41号、2010年10月。実際の刊行は2011年1月)が出て抜刷を諸先生にお届けした際、挨拶状の中で、発見したばかりの『大方便仏報恩経』のことについて触れておきました。

 この抜刷と挨拶状も、配布リストによれば、新川さんに送ってあります。その挨拶状を捨てず、抜き刷りにはさんでおられる方は、ご確認ください。

 今回の新川さんの論文は、末尾に「2014年1月7日受付,2014年5月26日審査終了」と記されているように、今から1年ちょっと前に書かれ、審査もあったわけです。

 ネットで、「釈迦三尊像光背銘 大方便仏報恩経」で検索すれば、私の上の記事がヒットしますので、以後の私の論文を読めばそれに触れている可能性がありますが、査読ではこうした面までのチェックは難しいものです。
 
 特に聖徳太子の場合、関連の論文が多すぎて、すべて把握するのはとうてい不可能です。私などもとても追い切れていませんし、読んだとしても、すべて覚えるのは不可能です。

 実は、私の「聖徳太子研究の問題点」論文では、多くの問題点を指摘したうえで、聖徳太子については論文が多すぎて研究情報の共有が不十分であるため、改善しなければならないことを強調し、私の聖徳太子ブログは、そのための手段の一つだと書いてあるのですが、まさに心配した通りの事態になってしまいました。

 まあ要するに、私が「一般向けの聖徳太子の本を書く」と宣言しており、出版社も決まっているにもかかわらず、いろんな分野に浮気して遊んでいるのが悪いんでしょう(その浮気のメチャメチャぶりについては、こちら)。

 反省しました。急いで書きます。原稿では聖徳太子36才のところまで書いてあるので、何とかなるでしょう。

 とはいうものの、今年もいろいろな時代と分野の論文をたくさんかかえており、国内・海外での講演や発表もけっこう多いので、かなり厳しい状況です。夏休みに頑張るしかないですね。

【重要追記:2015年4月30日】
 新川登亀男さんからの手紙が本日、到着しました。論文では321頁で石井論文に触れているため、見落としではない、自分自身で出典にたどり着き、別な考えに基づいて論述しているため、ああした書き方になった、とのことでした。

 その321頁とは、結論にあたる「おわりに」の冒頭のところです。そこでは、

ただ、「深懐愁毒」については、『大方便佛報恩經』とのかかわりにおいて、近年、石井公成「問題提起 聖徳太子研究の諸問題」(『藝林』61の1、2012年)で取り上げられている。しかし、それは、いみじくも「問題提起」にとどまるものであり、論点も含めて、本論とは性格を異にするものである。

とあります。そうでしょうか? 本当に読んだのでしょうか? 性格が異なるのでしょうか?

 新川論文の283頁では、「深懐愁毒」の語について、「これまで適切な解釈がなされたことはない」と断言し、『涅槃経』の「莫生愁毒」や『後漢書』の「四方愁毒」などをあげて「愁毒」の訓みが考察された例がある程度として、注で家永三郎・築島裕校注「上宮聖徳法皇定説」(日本思想大系2『聖徳太子』)に触れているだけです。

 なぜここで、石井が既にこれこれと述べており、おおよその方向は正しいので様々な資料によって補足したいとか、石井の指摘は論証不足なので検討し直す、などと論じなかったのでしょう?

 この新川論文を読んだ人は、途中までで終わりにしたら、「深懐愁毒」の出典を最初に指摘したのはこの新川論文だと思うでしょう。最後まで読んだとしても、この語については、石井公成というが『大方便仏報恩経』がらみで何か問題提起をしたらしい、ということしか分かりません。

 その石井なる人物が、簡単な書き方だったとはいえ、上で紹介したような内容を論文に書いているとは思わないでしょう。細かな論述部分はともかく、基本的な構図は新川論文とかなり重なりますよ。「見落とし」という表現でなく、「意図的な無視」と書いた方が良かったんでしょうかね。

 自分自身で調査して発見した部分がどれほど多くても、内容が重なる先行論文があったことに後で気づいたなら、それをきちんと記述するのが学問の約束事だと私は大学院で習いました。実際には、気づかずに見落としたり、論文をほぼ書き上げてから気づき、あわててちょっと触れるだけで逃げる場合も多いわけですが。

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瀬間正之『記紀の表記と文字表現』が刊行されました

2015年03月09日 | 論文・研究書紹介
 瀬間正之『記紀の表記と文字表現』(おうふう、2015年2月。索引含め470頁。12000円)が刊行されました(瀬間さん、有り難うございます)。

 若い頃からこの分野の研究をリードし、『記紀の文字表現と漢訳仏典』(おうふう、1994年)によって学界に驚きを与えた瀬間さんが、以後の研究成果をまとめたものです。これまでの著書に収録されていない80年代後半の論文から、つい最近までの論文がおさめられています。内容は以下の通り。

  序に代えて 記紀に利用された転籍--出典論の研究史と展望--

 第一篇 文字文化の基盤としての<百済=倭>漢字文化圏
  序章 古代半島・列島の文字文化
  第一章 文字表現から観た『弥勒寺金製舎利奉安記』--典拠を中心に--
  第二章 <百済=倭>漢字文化圏の観点から観た古事記難語試解
  第三章 三輪山型神婚譚と須恵器

 第二篇 記紀開闢神話生成論の背景
  第一章 日本書紀開闢神話論の背景
  第二章 古事記序文開闢神話生成論の背景

 第三篇 古事記の文字表現と成立
  第一章 記序は何故「進五経正義表」に依拠したのか
  第二章 古事記「尓」再論
  第三章 古事記の漢語助辞--「還」の福祉用法を中心に--
  第四章 記載されない求婚譚--『古事記』雄略天皇のカラヒメ求婚譚の探索--
  第五章 古事記は和銅五年に成ったか

 第四篇 日本書紀の文字表現と漢籍仏典
  第一章 仁徳紀後半部の述作--仁徳紀五十八年条「連理」を手がかりに--
  第二章 「未経」「既経」--師説「太安万侶日本書紀撰集参与説」をめぐって--
  第三章 雄略紀と仏典語
  第四章 孝徳紀詔勅の訓読的思惟
  第五章 日本書紀の類書利用

 第五篇 記紀歌謡の表記と表現
  第一章 文字記載と歌謡
  第二章 記載文学としての八千矛神歌謡
  第三章 古事記に於ける歌謡詞章の更新
  第四章 「下娉ひに」と「とひ(樋)」
  第五章 記紀歌謡の原表記

 第六篇 神名の表記と解釈
 第一章 古事記神名へのアプローチ序説--神名表記の考察を中心に--
 第二章 ヒルコの変容
 第三章 古事記神名の語構成とその表記

 注
 関連論文一覧
 後記
 総合索引

以上です。

 第一篇の「文字文化の基盤としての<百済=倭>漢字文化圏」という篇名が示すように、国家主義の源流となってきた『古事記』『日本書紀』を研究するにあたって、<百済=倭>の漢字文化圏における表記・表現の問題を中心にして見て行くという研究姿勢は、かつてなら考えられないことです。
 
 瀬間さんは、韓国の新出資料その他を手がかりとして、粘り強くこの問題を追求しています。『古事記』『日本書紀』の編者論については、表記・表現と出典に関するこうした基礎的な研究を無視してあれこれ論じることはできません。

 この内容の中には、このブログで論争になった問題に関わる考察もかなり含まれています。その一例は、「記紀歌謡の表記と表現」です。この章では、『古事記』と『日本書紀』の歌謡の表記で共通するもの、すなわち、この両者以前に文字で書かれていたと思われるもの、「記紀編纂当時、宮廷歌謡として実際に謡われており、その歌唱法にいくつかの型が存した、あるいは歌唱者によって謡い方に多少相違があったと見た方が理解されやすい一群」、そして、その中間的なものに分けています。

 そして、結論において、「それぞれの原表記を翻音した者、それを耳で聴いて文字記載した者」に関心が向かうと述べています。その一例としては、「足結」はα群では「あよひ」と聞いているのに対し、β群では「あゆひ」と聞いていてこれは『古事記』と一致していることが指摘されています。これは非常に興味深いところです。

 また、聖徳太子に関わる部分で重要なのは、瀬間さんの術語として広まりつつある「訓読的思惟」に基づく部分、それも漢訳仏典に基づく部分が『日本書紀』にはかなりあるという指摘でしょう。『日本書紀』の仏教関連の記述は道慈が書いたとか、道慈が編纂したという説がありましたが、瀬間さんは漢訳仏典に基づく訓読的思惟によって書かれた部分は、『日本書紀』のあちこちに見られ、α群にも存在することを指摘しています。

(これは、潤色・加筆の問題にも関わります。上と同様の事態については、先日刊行された私の論文でも指摘してますので、次にはその論文を紹介します)

 瀬間さんのこの本には、他にも重要な指摘、今後検討すべき現象などが多く示されており、『古事記』『日本書紀』の研究に関わる人にとっては、必読の文献です。 

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井上亘『偽りの日本古代史』(1):第1章「十七条憲法と聖徳太子」【訂正簡略版】

2015年01月13日 | 論文・研究書紹介
 さて、前回触れたように、井上亘さんからお送りいただいた『偽りの日本古代史』(同成社、2014年12月)を紹介しておきます。内容は、

  はじめに
  第1章 十七条憲法と聖徳太子
  第2章 大化改新管見
  第3章 偽りの「日本」
  第4章 「日本」国号の成立
  第5章 『日本書紀』の謎は解けたか
  第6章 『日本書紀』の謎は解けたか・再論
  あとがき

となっています。多くは中国での発表に基づいて中国の雑誌や書籍に掲載したものですが、日本での発表に基づいて日本の書籍や雑誌に掲載したものも含まれています。「日本」という国号については中国が認めてこそ正式となる点を強調するなど、そうした状況を反映した論文が含まれており(井上さんは、現在は北京大学歴史学系教授)、日本国内の事情だけで古代史を考えがちな研究者たちへの批判となっています。

 このうち、第1章は、中文版を増補した日本語版を『古代文化』64巻4号(2013年3月)で発表しているものの、今回の本に収録したのは中文版を日本語化したものである由。

 第5章は、大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』に発表し、森博達さんの区分論を激しい口調で論難した有名な論文です。この論文をめぐって、このブログでも論争になったことは、ご存じの方が多いでしょう。第6章は、その論争での主張を中国の論文集に掲載したものの日本語版だそうです。

 まずは、私の専門と重なる第1章「十七条憲法と聖徳太子」から見ていきましょう。井上さんは、聖徳太子の事績を疑う系統の研究史についてごく簡単に触れ、その極地である大山誠一説を批判し、大山氏の聖徳太子虚構、推古天皇虚構、蘇我馬子大王(天皇)説などは「全く取るに足りない議論である」と切り捨てたうえで、放置するわけにもいかないと説きます。これは賛成。

 そして、聖徳太子について、太子=摂政説、三経義疏、十七条憲法というのが重要なポイントなので、これについて見て行くと述べます。

 最初の「太子=摂政説」の個所では、「太子」と律令制の皇太子は違うため、「太子」という存在があっても不思議でないとします。その証拠として、大山説では無視されていた養育担当の壬生部の存在をあげています。これはその通りですが、注であげているように先行研究があります。
 
 重視されているのは、『隋書』倭国伝の開皇20年(600)の遣隋使記事の解釈です。井上さんは、この記事や『翰苑』倭国条では、当時の倭王が男とされている点について検討し、倭国の使者は女王であったことを隠蔽しようとした「可能性が高い」としています。後に唐の太宗が新羅について「女王だから、隣国の軽侮を招く」として退位を勧告したという例からの推測です。これも注で示しているように、そうした説は前からあります。

 しかし、倭国と関係が深い百済や新羅は、隋に朝貢しており、倭国以上に隋と交流があった以上、隋に倭国の情報がまったく入らないとは考えにくいところです。あるいは倭国は、百済や新羅にも隠していたんでしょうか。当時の推古が、中国が考える他国の女王とはタイプが違っていたので、うまく伝わらなかったというなら、まだ分かりますが。

 井上さん独自の説は、倭王は「天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」という部分の解釈でしょう。井上さんは、「弟」とは日嗣、つまり太子のことであったとします。そして、「天を以て兄と為す」というのは、用明天皇が推古の兄であったことを意味するのであり、「兄」を「せ」と訓めば夫の意になるため、敏達天皇を「兄」としていたという意味となると解釈します。

 これによって、推古天皇(大王)の実在と、摂政としての聖徳太子の実在を論証しようとするのですが、これはおかしな議論です。

 上の解釈の場合、兄の用明天皇であれ夫の敏達天皇であれ、天皇(倭王)を「天」とみなしていることになりますが、そうすると、天を兄とする推古は「阿毎多利思比孤」と呼ばれる倭王でありながら「天」ではない、ということにならないでしょうか。また、女王であることを隠蔽しようとするのであれば、敏達を夫とするという意味で「以天為兄」などと隋に伝えるはずがありません。そもそも、「以天為兄、以日為弟」という記述は推古の個人的な状況について説明したものなのでしょうか、倭王一般の性格を説明したものなのでしょうか。

 井上氏は、「以上の解釈以外に、この天日兄弟説を合理的に説明する方法はないと思うのだが、如何であろうか」(8頁)と自信を示しておられるものの、「合理的」な説明とは思われません。この部分については、私なりの解釈があり、発表したこともありますが、詳細は今年中に出る本で書きます。

 次の三経義疏については、簡単に触れているだけです。私の三経義疏の和習論文を根拠として、藤枝晃先生の中国撰述説は最近ではほとんど否定されていると述べます(引用してくださって有り難うございます)。そして、当時の日本の学問水準では作成は無理とする曽根説などを批判し、同時代の比較できる資料が存在せず、また空海のような時代からかけ離れた天才もいる以上、一般論で片付けるのは不適切とします。

 これはその通りなんですが、最近の拙論で触れているように、十七条憲法と三経義疏とは、ともにかなりの変格漢文であるものの、文体は非常に違います。同じ人とは考えにくいです。この点をどう考えるか。ともかく、三経義疏の著者問題の解明は、仏教学者の責任なので、私の方で研究を進めます。

 次にこの論文の柱となる十七条憲法の問題です。基調を仏教と見る村岡典嗣の説を引いて賛成し、出典論に関する小島憲之の説を引いていますが、私のブログで公開している拙論「伝聖徳太子「憲法十七条」の「和」の源流」(『天台學研究』10輯、ソウル、2007年12月、こちら)を見てませんね。

 だからこそ、第十条が人間を「凡夫」と見なしていることを仏教由来と説くわけです。確かに、仏教的な意味合いで言われているものの、ここでの「凡夫」は、儒教に基づく六朝時代の人間観に基づいており、変化しない上智でも下愚でもない並みの人間、具体的には聖人でない群卿を指します。君主や君主を補佐する聖人のような有力者は凡夫とはみなされていません。つまり、仏教と儒教が融合しているのであって、そうした点に注意しないと、十七条憲法は読めません。

 井上さんは、十七条憲法の心理分析を重視しており、「仏教は日本に文字文化をもたらすと同時に、日本人に主体的な認識方法を教えた」(17頁)と述べており、これはその通りです。日本史学の人が、こういう点を強調するのは珍しいですね。私自身、かなり前から論文や発表などで強調してきたように、日本文学では、心の自覚、分析は仏教から来ます。

 十七条憲法については、冠位十二階との関係がこれまで多くの人によって説かれています。井上さんは、「徳・仁・礼・信・義・智」の順で並ぶ冠位十二階では、「徳」の下の「仁義礼智信」という五常が普通の順序で並んでおらず、「礼」と「信」の位置が繰り上がっており、「この二つは十七条憲法でも尊重されている点を強調します。そして、この「信」は仏教興隆とも関係すると説きます。

 これは妥当な指摘でしょう。私も十七条憲法と冠位十二階は関係があると考えています。ただ、この順序については、朝鮮半島で用いられていた五常や官位説についても触れる必要があります。また、これだけでは、断定はできません。

 というのは、井上さん自身が認めているように、十七条憲法では冠位十二階のトップに来ている「徳」に触れておらず、「徳」を重視しているとは言えないからです。

 また、井上さんは、冠位十二階で一番下に置かれた「智」については、憲法十四条では「智、己に勝れば則ち悦ばず……」とあって、嫉妬を招く原因とみなされているので「評価は高くない」(22頁)と書いていますが、そうは読めません。ここは、「智」が勝った人を登用すべきだという文脈なのだから、「智」は尊重されていると見るべきでしょう。

 さらに、井上さんは十七条憲法では「徳」だけでなく、「仁」も触れられていないとし、第六条の「民に仁無し(无仁於民)」の「仁」は「動詞的に用いた例」であって、徳目としての用例がないことを強調します。

 確かに、十七条憲法は「仁」を特に強調してはいないことは確かですが、「『徳』と『仁』の概念は憲法には触れられていない」(22頁)とまで言うのは行きすぎでしょう。動詞的用例とはいえ、「思いやりの心で接する」という本筋の意味で用いられていることは無視できません。

 となると、十七条憲法と冠位十二階がともに「礼」と「信」を重視していることは事実であるものの、十七条憲法と冠位十二階とが完全に対応しているとは言いがたいことになります。そのように指摘するなら良いのですが、井上さんは、自説の正しさを示そうとするあまり、憲法における「仁」や「智」については実態以上に低く見ようとしていますね。

 以上の論じ方を見れば分かるように、井上論文は自説に強い自信を持っているものの、やや強引な面があり、自説に都合のよくないことにはあまり注意しない傾向が見られます。

 あと、井上さんは、断定はしていないものの三経義疏を太子作と見る立場である以上、三経義疏と十七条憲法の類似についても論じてほしかったところです。これも先行研究はたくさんあります。

 なお、森博達さんは、これまで立派な文章だとする研究者が多かった十七条憲法について、実際には和習が非常に多く、その用例は編集後期に属するβ群に見える和習の用例とかなり共通していることを指摘し、憲法は偽作と論じました。ところが井上さんは、「この森説については、筆者が徹底的な批判を加え、その結論の根拠そのものが成立しないことを明らかにした」(12頁)と述べて終わりにしています。

 論争は継続中ですので、森さんも反論されると思いますが、仮に(仮にですよ)井上さんの批判が正しくてα群中国人撰述説が崩れたとしても、十七条憲法に和習が多く、成立の遅いβ群の用例とかなり共通するという指摘は動きません。

 森さんが基本的に中国人撰述だとするα群にも和習が含まれていることは事実ですが(森さんは、それはα群の中でも特定の個所に限られるとして和習や加筆の理由を論じており、先日、このブログで触れた国際研究集会でもその新たな証拠を詳細に示していました)、β群が語彙や語法の面でα群と大きく異なることは、森さん以外の研究者もいろいろな面からの研究で指摘していることです。

 これを根本からくつがえすような論文は見たことがありません。井上さんは、それを無視しているのです。これからは、和習についてさらに詳細に検討し、特徴を分類して『日本書紀』中での分布の様子を明らかにしていくことが必要になってくるでしょう。

 私自身は、十七条憲法については律令制以前の要素が多すぎると考えており、その点ではβ群編者による執筆と見る森説より井上説に近いですし、十七条憲法と冠位十二階は関連すると考えるなど、井上さんと説が似ている部分もけっこうあるのですが、この論文での井上さんの議論には賛同できにくい点が少なくありません。

【追記】
 誤記・誤変換などがあったため、訂正しました。人のことは言えませんね。
 最初にアップした版では、「あとがき」に見える井上さんの学問の問題点の一例を指摘していましたが、削除しておきます。

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「憲法十七条」解釈を含む早稲田開催の特別研究集会「津田左右吉の人文学と中国」

2015年01月08日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 期末の成績つけと卒論・修論・博論の審査が終わったら、聖徳太子研究に復帰する予定ですが、そのきっかけとなってくれそうな催しがあります。

 このブログでの『日本書紀』区分論をめぐる論争でお馴染み、北京大学の井上亘氏も発表される「津田左右吉の人文学と中国」という国際研究集会です。開催は、来週の土曜日である1月17日。

 井上さんからは、前に中国語での著作『虚偽的「日本」』を頂いており、年末にその日本語版である『偽りの日本古代史』(同成社、2014年12月)も送って頂いていますので(有り難うございます)、仕事が一段落したらご紹介する予定です。

 その集会は、以下の通り。入場無料・予約不要だそうです。私は参加の予定。井上さんは、「憲法十七条」の内容を律令以前と見る点では私と考えが同じなんですが、上の本を見る限りでは、私のブログで公開している「憲法十七条」論文(たとえば、こちら)などは、読まれていない感じですね。今回の発表ではどうでしょうか。

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     特別研究集会「津田左右吉の人文学と中国」

【趣旨】
 この特別研究集会は、私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「近代日本の人文学と東アジア文化圏―東アジアにおける人文学の危機と再生」(早稲田大学)のもとで進められている部門研究「早稲田大学と東アジアー人文学の再生に向かってー」の一環である。この部門研究では、人文学が早稲田大学との関係において、どのように形成されてきたのか。それは、日本のなかで、また、東アジアを中心とした世界のなかで、いかように受け止められ、どのような問題点をかかえていたのか。そして、どこへ向かおうとしていたのかを自己検証する。したがって、本研究は、近代日本の私立大学と人文学構築との連環を問い、これからの可能性を探求する例示研究となる。
このたびは、津田左右吉の人文学が中国でどのように受容され、理解されてきたのかを検討し、議論したい。

開催日時
 2015年1月17日(土)14:00 ~ 18:20
開催場所
 早稲田大学文学学術院第七会議室(東京都新宿区戸山1の24の1 戸山キャンパス39号館6階)

【プログラム】
○開会:趣旨説明 14:00~14:10
   新川登亀男(早稲田大学)
○研究報告 14:10~17:20(部分通訳付き)
   劉 岳兵(南開大学) 「中国に於ける津田左右吉の受容と研究について」
苗 壮(遼寧大学)  「海外の中国学からみた津田左右吉研究」
    休憩
井上 亘(北京大学) 「津田左右吉の十七条憲法解釈と戦後歴史学」
○コメント 17:20~17:40
   渡邊義浩(早稲田大学)
○総合討論 17:40~18:20
   研究報告者とコメンテーター
○閉会
閉会後、意見交換会を予定(18:30~20:30 会場未定)。

主催:私立大学戦略的研究基盤形成支援事業部門「早稲田大学と東アジアー人文学の再生に向かってー」(早稲田大学文学学術院) 入場無料・予約不要

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変格漢文に関する科研費プロジェクトの国際研究集会

2014年12月28日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 ながらくのご無沙汰で申し訳ありません。生来の浮気性により、芸能史に打ち込んだり、清末民国初の思想の発表をしたりで、聖徳太子研究からは離れておりました。もう少ししたら聖徳太子研究に復帰しますし、入門書も書きます。

 ただ、この間も、三経義疏や「憲法十七条」その他の著者問題研究に関わる研究プロジェクト、すなわち、私が代表をつとめる科研費の基盤研究B「古代東アジア諸国における仏教系変格漢文の基礎的研究」は進行しており、2014年度の「国際研究集会」のうちの発表会が、12月20日に開催されました。変格漢文に関する諸国の第一線の研究者揃いです。プログラムと各発表の概要は以下の通り。


石井公成(駒澤大学教授)
「盲僧が読誦した『仏説地心陀羅尼経』に見える変格語法-江田文庫本の李朝版に基づいて-」
 *駒澤大学図書館の江田文庫蔵のテキストを利用し、琵琶法師の源流であって高麗の盲僧が琵琶を弾きつつ読誦していたと推測される高麗の偽経『仏説地心陀羅尼経』の変格語法を調査。日本の変格漢文との共通点が目立つことを指摘。

森博達(京都産業大教授)
「『日本書紀』区分論と仏典表現--馬駿氏の「言語類の四文字語句」を資料として--」
 *昨年度の発表における馬駿氏の研究を活用し、正格漢文で書かれている『日本書紀』α群における例外的な表現を精査する試み。α群中のうち、四文字語句の変格語法は、後代の追加・潤色部分に限られることを指摘。変格漢文にも筆者による違いがあることも指摘。

馬 駿(中国・対外経済貿易大学教授)
「上代文学の文体と漢訳仏典との比較研究--提示句式の正格と変格を中心に」
 *日本の上代文献における「如是~」「如此~」「種々~」などの用例を分析し、中国の通常の漢籍に見えるもの、仏教漢文に見えるもの、変格の用例の三種に分類。

瀬間正之(上智大学教授)
「文字言語から見た古代日本の中央と地方」
 *木簡などを活用し、中央の用例と地方の用例の違いに注意したもの。訓読に基づく表記が地方でも7世紀半ばに見られることなどを指摘し、訓読の利用開始時期について、従来の説より年代をあげた。

崔植(韓国・東国大学副教授)
「元暁著述にみられる´爾´の変格用法の性格」
 *正格漢文と思われてきた元暁の著作には、「爾」を接続辞のように使っている用例が見られ、それは新羅の金石文に見える特異な用例と一致することを指摘。

金 文京(京都大学人文科学研究所教授)
「『釈迦如来十地修行記』について」
 *高麗の仏伝である『釈迦如来十地修行記』の特質、口語体・説唱体文体などの文体の混在を指摘し、おかしな語法を含め、特色ある表現について検討。

董志翹(南京師範大学教授)
「漢譯佛典中的“坏(杯)船”、“坏(杯)舟”――兼談“杯度”、“一葦渡江”傳說之由文」
 *漢訳仏典に見られる、「坏(杯)船」「坏(杯)舟」などの表現を検討し、これが菩提達磨が葦に乗って揚子江を渡ったとする伝説に影響を及ぼしたことを指摘。

藤本幸夫(富山大学名誉教授)
「日韓訓読研究の現在」
 *藤本幸夫編『日韓訓読の研究』の元となった研究プロジェクトや出版経緯の紹介。高麗の訓点や韓国で最近発見された様々な角筆から分かる訓読方法に関する最新の研究状況を概説。

以上です。これらの発表を聞いていると、資料のうちから目につく単語だけを拾ってあれこれ議論する時代は終わったことを痛感します。出典や語法に注意しつつ、文章として精密に読む努力が必要ですね。

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拙論「三経義疏の共通表現と変則語法(下)」の刊行

2014年04月14日 | 三経義疏
 一年間のご無沙汰でした……。などと玉置宏の挨拶のようになってしまいました。申し訳ありません。いろいろな分野に手を出して遊んでいるうちに、このブログを更新しないまま時間がたってしまいました。

 実は、この「三経義疏の共通表現と変則語法(下)」論文は、「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」(『駒澤大学仏教学部論集』第41号、2010年10月)の続編であって、書いて提出したのは3年ほど前のことです。2012年には出るはずでした。

 ところが、この論文が収録された『奥田聖應先生頌寿記念インド学仏教学論集』(佼正出版社、2014年3月30日)が先日ようやく刊行され、送っていただいたのですが、見てびっくりしました。なんと、90名が執筆していて1156ページもあります。これでは、刊行が遅れるわけです。

 それはともかく、(上)論文では『勝鬘経義疏』を中心にしていたのに対し、 この(下)論文は、『法華義疏』と『維摩経義疏』が中心です。そして、伝統説に基づく花山信勝先生の訓読では、『法華義疏』の冒頭部分の句読すら間違っており、正しく読めていなかった個所がいくつもあることなどを明らかにしました。また、漢文として誤っていたり、奇妙であって他に用例がない表現が多いことも指摘しました。

 一例をあげれば、『法華義疏』に多く見えていて「ひとしく賜ふ」と訓まれてきた「平賜」は、『法華経』にも見える一般的な用語である「等賜」と違って、現存文献では『法華義疏』にしか見えません。『法華義疏』は、「ひとしく説く」の意味で「平説」という表現もしています。しかし、この用法は、『法華義疏』をのぞけば、有名な経典や中国の注釈には見えません。

 「平等」という言葉が示すように、「平」には「等しい」という意味もありますが、『法華義疏』はかなり特異な表現をしているのです。しかも、通常の漢文には出てこない表現が少なくありません。

 ほかには、「不清去(清く去らず)」などもそうです。この表現は、検索できる限りの現存文献では、『維摩経義疏』に3回、『法華義疏』に2回見えているのみであって、「(解釈が)スッキリしない」の意で用いられています。こんな表現は、仏教漢文に限らず、中国の古典や史書などにも全く見えません。

 そればかりか、「猶不清去(なお清く去らず=やっぱり、スッキリしない)」という表現も、『維摩経義疏』と『法華義疏』に1例づつ見えるのみです。

 したがって、三経義疏の中で一つだけ形式が異なると言われてきた『維摩経義疏』も、表現では『法華義疏』などと非常に似ていることになります。しかも、これを書いた人は、訓読風な文章で考え、自己流の漢文を書いているのです。

 三経義疏が中国の学僧の作でないことは明らかです。韓国の場合、古い文献や木簡などがあまり残されていないのですが、現存文献に限って言えば、「不清去」その他の表現は、新羅・高麗の注釈などにも見られません。それどころか、後代の日本の仏教文献にも出てこないのです。

 漢文として明らかにおかしい表現もあります。たとえば、『法華義疏』では、「起」と書けばすむところを、「為起(起こるを為す)」と記している個所があります。『日本書紀』にも同様の表現があり、これが和習であることは森博達先生が指摘ずみですが、三経義疏にはそうした不自然な「為~」という表現が多いのです。このタイプの表現も、今のところ韓国の金石文や木簡などの用例は報告されていません。

 三経義疏には、このような表現がたくさんあります。日本古代史学では、これまではそうした点に十分注意しないまま、中国の注釈だとする藤枝晃先生の説を鵜呑みにしたり、奈良朝の偽作だと説いたりしていたのが実状です。しかし、文体や表現に注意しないで著者や成立地や成立年代を論じるなど、まったく無理な話でしかありません。

 三経義疏に聖徳太子が関わっていたかどうかはまた別な問題ですが、ともかく、研究にあっては資料をしっかり読むことが出発点であることを、改めて痛感させられました。

 この論文の PDFについては、いずれ、このサイトで公開する予定です。
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聖徳太子に関する基礎的な事柄の再検討:渡里恒信「上宮と厩戸--古市晃氏の新説への疑問と私見--」

2013年05月04日 | 論文・研究書紹介
 更新をさぼっている間に、何人もの研究者から聖徳太子に関わる御著書やご論文を頂きました。それらの紹介を含め、そろそろ太子研究に復帰しないといけないため、手初めに渡里恒信氏の最新の論文を紹介しておきます。

 聖徳太子は虚構であって実在したのは「厩戸王」だという説が誤りであることは、ここで何度も触れてきました。「厩戸王」というのは、真摯な研究者であった小倉豊文が、「聖徳太子」という言葉が持つ伝統に縛られずに考察するため、仮に提唱した名にほかなりません。生前の名であった可能性があるものとして選んだものの、実証できずに終わった名であり、どの資料にもまったく出て来ない呼び名なのです。

 その「厩戸」について、このブログでも研究を紹介した古市晃氏が新説を出されています。その説に疑問を呈したのが、

渡里恒信「上宮と厩戸--古市晃氏の新説への疑問と私見--」
(『古代史の研究』第18号、2013年3月)

です。

 古市氏は、「聖徳太子の名号と王宮--上宮・豊聡耳・厩戸--」(『日本歴史』768号、2012年)において、太子の「生前に用いられた可能性が高い」呼び名として、「上宮・豊聡耳・廐戸」の三種をあげています。ただ、「上宮」の語に対する説明を含む『日本書紀』の立太子記事は、「宮号の由来を説いた一種の起源伝承とみることも可能」とし、実録とは見がたいとします。

 これに対して、渡里氏は、一度に十人の話を聞いたなどというのは後世の付会であるにせよ、「且」以下は具体的な人名が見えることなどから、実録的と見ることができるとし、諸資料における「上宮」の用例を検討していきます。

 そして、「上宮」は太子の居所であるだけでなく、太子自身の名号(尊号)となり、後には斑鳩宮も「上宮」と呼ばれ、その子供たちが「上宮王等」と呼ばれたと見ます。太子の最初の居所としては、上之宮遺跡(桜井市上之宮)と考えることができるとし、父、用明天皇の宮があったとされる磐余と磐余池について、地名や地理的な状況から検討します。

 その結果、重要な道が交差していて軍事・交通の要所である桜井市仁王堂あたりを磐余の中心と見、そのすぐ南にある「西池田・東池田・南池田」という地名が残るあたりを、磐余池の有力候補とします。

 次に、古市氏は、「厩戸」については太子が設置した王宮の名に基づくとし、それを厩坂宮と見たうえで、「ウマヤト」の「ト」と「サカ」は同義として通用することを指摘しています。これに対して、渡里氏は、「ト」と「サカ」の語義の違いを強調し、「厩戸」は「厩」そのものを表記していたと考えられるとします。

 そして、斑鳩近辺は馬の飼育の盛んな土地であったことに注目し、馬や外交と関係深い平群郡額田氏こそが、太子を養育した氏族ではなかったかと推測します。額田部皇女である推古天皇が太子を重用したのも、推古自身が額田部氏に養育されたことと関係があると見るのです。

 渡里氏は、この推測を補強する証拠として、早川万年氏の研究も参考にし、太子に与えられた壬生部の郷と額田部の郷が隣接している場合があることに注目します。額田部氏の所領が、やがて推古天皇(皇后)の私部に編成変えされたように、太子の壬生部に変えられていった可能性を指摘するのです。

 そうした立場の結果、当然ながら、「大安寺縁起」には問題があるとしつつも、額田氏の寺である額安寺と若草伽藍から出土した瓦の共通性から見ても、額安寺と太子の関係は認めてよいとします。
 
 以上のように、渡里氏は、後世の付会を認めつつも、太子関連の記述については実録に基づく部分があると見て、当時の史実を明らかにしようと試みています。

 私も、斑鳩の地の周辺はに牧場が多かったこと、太子には馬に関連する伝承の多いこと、太子の娘に馬屋古女王(馬屋女王)がいたとされていることから考えて、太子が馬の飼育に関する氏族と関係が深かったことは事実であり、それに様々な伝承が付会されていった結果、『日本書紀』の記述が出来上がったものと考えています。このことは、以前も少し述べました(→こちら)。

 というより、こうした付会は、生前からなされ始めていても不思議ではないと考えているのです。古代の文献を読めば、地名その他は由来伝承抜きにはありえないものであり、また伝承は時代とともに書き換えられていくことが知られます。伝承風だから事実でないと見るのは、現代人の見方にすぎません。

 太子について考えるには、古代の人々の発想法を明らかにしつつ、資料を丁寧に見てゆかねばならないでしょう。


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