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「天寿国繍帳」を作った技術者たちの氏族を検証:吉川敏子「天寿国繍帳制作の一背景」

2020年10月18日 | 論文・研究書紹介
 「天寿国繍帳」の銘(以下、銘文と記します)については、記載されている内容通りに推古朝に作られたとする説の他に、天武・持統朝に作り直されたとする説、奈良時代の偽作説など、様々な説が出されています。こうした場合、何より大事なのは、実物の精査、そして絵柄と一体となって刺繍されていた銘文の正確な読解です。銘文は有名であるものの、検討すべきことがまだまだ多いのです。このブログでも、かなり前にそうした見直しの一例である近藤有宜氏の論文をとりあげて紹介したことがあります(こちら)。

 この近藤論文の4年後に、同様に精密な読解に取り組んだ例が、

吉川敏子「天寿国繍帳制作の一背景」
(『文化財学報』31号、2013年3月)

です。

 吉川氏は、奈良大学文化財学科の教授であって古代史の研究者です。この論文は、先にとりあげた酒井龍一氏の退職記念論集に掲載されたものです。

 吉川氏は、この論文当時までの研究成果から見て、「七世紀前半の文章であるか、もしくはその頃の原資料に依拠した文章である可能性は高い」と述べ、銘文の末尾に記された制作者たちの構成を考えると、「七世紀後半の手が加えられた可能性を完全には排除できないにしても、概ね推古朝に一括して書かれた内容を伝えていることを補強できるのではないか」(18頁下)とします。

 銘文の末尾はこうなっています。

  画者東漢末賢 高麗加西溢 又漢奴加己利 令者椋部秦久麻
 (画ける者は東漢末賢[やまとのあやのまけん]、高麗加世溢[こまのかせい]、又た漢奴加己利[あやのぬかこり]、令せる者は椋部秦久麻[くらべのはたのくま]なり)

 「令者」、つまり監督者とされる椋部秦久麻について、吉川氏は鞍部村主という渡来系の氏族に着目します。かの鞍作鳥(止利)もその一族であって、鳥は「鞍部鳥」とも記されます。鳥については、祖父の鞍部村主司馬達等は蘇我馬子の仏教受容を手助けをした人物、叔母の嶋は日本最初の尼、父の多須那は用明天皇の病気恢復祈願のために出家と寺の建立を誓い、天皇の没後にそれを実行しています。また、蘇我馬子の孫の入鹿は鞍作と呼ばれており、この氏族に養育されたことが推定されています。このため、吉川氏は、椋部秦久麻はこの鞍部の人間と見ます。

 次に加西溢の属する高麗氏については、『日本書紀』斉明5年条に、高麗の使者と同族の扱いで「高麗画師子麻呂」なる人物が登場します。また、白雉4年条では、亡くなった旻法師のために画工の狛[こま]堅部子麻呂らに仏菩薩像を造らせたとあり、これが銘文の子麻呂と同じ人物とします。なお、馬子は、仏像を祀らせるために嶋などを尼とさせた際、還俗していた髙麗恵便を師として迎え入れたことで知られており、ここにも高麗氏の名が見えます。吉川氏は、高麗加西溢はその一族と見るのです。

 次に東漢末賢の氏族である東漢氏については、馬子が渡来氏族であるこの氏族を配下に置き、東漢直駒に崇峻天皇を暗殺させたことで知られています。最後の漢奴加己利も渡来氏族ですが、嶋とともに出家して尼となった禅蔵尼の俗姓が漢人です。

 以上のように、「天寿国繍帳」の監督者・制作者と記された者たちの氏族は、いずれも馬子と関係が深く、東漢末賢以外の3人については、すべて蘇我氏の仏教信仰に関わる一族でした。吉川氏はこの点を重視するのです。そして、日本の仏教は百済から受容したものの、推古朝については、高句麗の仏教の影響も考えるべきだと述べています。実際、飛鳥寺などには高句麗仏教の影響があったうえ、聖徳太子の師も百済の恵聡の他に高句麗の慧慈がおり、『日本書紀』では恵聡以上に重視されていますね。

 大山誠一氏は、「天寿国繍帳」と銘文は、藤原氏の危機的な状況の中で太子信仰にすがっていた光明皇后が作らせたものであり、多至波奈大女娘は光明皇后が自らを形象化した架空人物であって光明皇后の「情念の産物」だという珍妙な空想を述べていました(実は、光明皇后との関係を強調する先行説があったのに触れていないことは、こちら)。

 しかし、そうであるなら、銘文は字数が限られているのに、なぜ、すがるべき太子の素晴らしさを強調したり、自分に対する太子の予言などを記したりせず、前半で太子と多至波奈大女娘の尊貴な系譜を長々と述べたてて限られた字数の半分を使い、末尾でも上記のような著名でない制作者たちの名前を詳しく記して貴重な字数を無駄に使うのでしょう。
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