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「天寿国繍帳」の制作時期

2010年05月27日 | 論文・研究書紹介
 24日は百済の舎利銘文に見える「我百済王后」の語に触れ、昨日は「天寿国繍帳」に触れたので、関連する最新の論文を紹介しておきます。

近藤有宜「天寿国繍帳の制作時期について--繍帳銘文による検討--」
(『美術史研究』第47冊、2009年12月)

 近藤氏は、古い要素が含まれると言われる銘文の前半部分に、欽明天皇が蘇我稲目の娘である堅塩媛を「大后」とした、とある点に注目します。『続日本紀』によれば、天平元年に藤原光明子を皇后とするに当たって官人たちを内裏に集め、皇后として光明子がいかにふさわしいか、また「臣下の女性の立后はこれが初例ではなく、仁徳天皇も葛城襲津彦の娘である磐之媛を皇后としていたのだ」ということを強調する聖武天皇の敕を舎人親王が宣するのですが、こうした苦しい釈明をしなければならないのは、臣下の女性の立后が異例であったためにほかなりません。

 そうでありながら、繍帳の銘文が蘇我稲目の娘を「大后」と称しているのは、『日本書紀』推古二十年二月に「皇太夫人堅塩媛」を改葬して欽明天皇陵である桧隈大陵に合葬した際の大がかりな儀礼が示すように、その堅塩媛と欽明天皇の間に生まれた蘇我系の天皇、すなわち推古天皇を支えた蘇我馬子が全盛を誇っていた時期なればこそだ、というのが近藤氏の推測です。つまり、欽明紀によれば「妃」の一人でしかなかった堅塩媛は、蘇我全盛の時期になって皇后位を追贈されたのだというのです。

 蘇我本宗家が打倒された後は、『日本書紀』が「皇后」と記している石姫と欽明天皇との間に生まれた敏達天皇の系統の皇子たちが次々に天皇となっている以上、堅塩媛を「大后」と称する「天寿国繍帳」の銘文は、それ以前に書かれたことになります。馬子が、推古三十二年に、蘇我氏の本拠地であったからという理由により葛城郡の賜与を推古天皇に求めたのは、まさにその葛城氏の正当な後裔であることを主張するためであったと、近藤氏は説いています。蘇我本宗家が倒されてから、また堅塩媛の位置が変えられ、石姫が「皇后」とされるようになったのだろうというのが、近藤氏の推測です。

 近藤氏は、「天寿国繍帳」を光明皇后の命による作とする大山誠一氏説と、古い要素を残す原本の繍帳を改めて天武朝から持統朝頃にかけて成立したとする東野治之氏の説を批判していますが、金沢英之、瀬間正之、野見山由佳、吉田一彦らの諸氏による後代成立説についても、今後検討していく予定である由。きちんとした論争がなされて研究が進むことを期待したいものです。

 なお、『日本書紀』の早い時期における「皇后」などの呼称は、その当時の実際の呼び方ではないことは言うまでもありません。私自身は、「天寿国繍帳」の成立時期については、判断保留中です。

【付記:2021年2月18日】
現在では、銘文にある通り、推古朝後期と見て良いと考えています。
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