聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

黒上正一郎の聖徳太子研究が学生に与えた影響(3):一高の瑞穂会

2020年10月22日 | 聖徳太子信仰の歴史
 少し前の記事で、一高内の日本精神団体であった瑞穂会に属していた学生たちが、黒上正一郎を指導者と仰ぐようになり、瑞穂会から分かれて聖徳太子と明治天皇を尊崇する国家主義の学生団体である昭信会を設立したことについて述べました。

 その瑞穂会を創設したのは、瓊音と号していた沼波武夫(1877~1927)です。東大国文科を卒業し、文部省や出版社に務めたのち、東洋大学の講師などをしていた瓊音は、すぐれた国文学者であって、特に俳諧研究で有名でした。ただ、感情の起伏が激しかったため、神経衰弱になった時期もあり、一時期は新興宗教である至誠殿にはまってしまい、女教祖の指導を受け、皆で法悦の踊りを踊ったりしていました。

 瓊音は、その宗教団体から離れると、次第に国家主義を強め、大川周明や安岡正篤などの日本精神論者と交流してともに活動するようになります。

 大正10年には第一高等学校講師(翌年に教授)、東京帝国大学講師となりましたが、同12年に無政府主義者の難波大助が皇太子(後の昭和天皇)を狙撃する事件が起きると、大変なショックを受けます。ただ、きまじめな瓊音は難波を非難するのではなく、この事件を日本の危機を座視してきた自分への戒めと受け止め、その点でむしろ難波に感謝するのです。

 こうしたタイプの人物であった瓊音は、若者に日本精神を広める活動に専念するため、一高以外の複数の大学講師はやめてしまいます。そして、大正15年には一高内に瑞穂会を創設し、日本精神を学ぶ研究会としました。

 この会は盛んに活動しており、全国の学生たちにもかなりの影響を与えました。瓊音が病没すると、著名な学者たちを含む多くの有名人や瑞穂会の会員から追悼文を寄せてもらい、瑞穂会編『噫 瓊音沼波武夫先生』(1928年)という立派な追悼文集を刊行しています。

 瓊音は、早くから聖徳太子を尊崇していましたが、仏教学者や宗派の僧侶が三経義疏について書いたものには飽き足らず、またインドや中国の仏教には不満を覚えていたようです。その瓊音が胸の病気で苦しみ、活動ができず焦躁していた際に出会ったのが黒上正一郎でした。喜んだ瓊音は、黒沼の聖徳太子研究について、「千三百年来唯だ此の一人」とまで賞賛したと、上記の本で瑞穂会の学生が思い出を記しています(316頁)。

 瓊音と黒上の交流については、打越孝明「瑞穂会の結成および初期の活動に関する一考察-沼波瓊音、黒上正一郎、そして大倉邦彦-」(『大倉山論集』49号、2003年3月)、また最近刊行された中島岳志「『原理日本と聖徳太子-井上右近・黒上正一郎・蓑田胸喜を中心に-』」(石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』、法藏館、2020年)が紹介しており、近年になって注目されつつあります。

 瓊音の上記の評価は、黒上のひたむきな態度と国家主義的な解釈に感銘を受けてのものであって、かなり感情的なものです。仏教学や歴史学の教育・訓練を受けていない黒上の三経義疏研究は、思い込みが強く、礼賛先行であって、先行する中国の仏教文献などとの比較は充分になされていません。

 『勝鬘経義疏』については、7割ほどが一致する注釈の断片が敦煌文書中から発見されており(奈93、あるいはE本と呼ばれています)、太子独自の素晴らしい解釈とされてきたものが、実は先行文献にかなり記してあったことが知られています。これは戦後の発見ですので、黒上は利用できなかったわけですが、黒上当時においても、もう少し比較検討はできたはずです。

 いずれにしても、求道者のような生き方をした黒上の聖徳太子研究は、揺れ動く社会状況の中で悩み、迷っていた瓊音や学生たちに大きな影響を与え、彼らを日本礼賛・国家主義の方向に推し進めたのでした。上記の追悼集のうち、瑞穂会同人の筆になる刊行の序の末尾は、

  「鄙を蹂躙し、悪を寸断し、冷静を鞭打つ」の使命は正に我瑞穂会の使命
  である。而して大日本帝国の旗を翻し、大日本帝国の鼓を鳴らす事が先生
  を慰めまつる唯一の道であらう。(4頁)

となっています。鼓を鳴らすとは、むろん、不義を討つ戦陣での鼓舞の鼓です。この人たちは皆なまじめで、ひたむきで、きわめて攻撃的だったのであって、原理日本社などとかなり共通した性格を持っていたのです。
この記事についてブログを書く
« 「天寿国繍帳」を作った技術... | トップ | 再建法隆寺の伽藍配置は唐尺... »

聖徳太子信仰の歴史」カテゴリの最新記事