聖徳太子研究の最前線

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最近の研究成果を踏まえた穏健な聖徳太子論であって「和」の特質を強調:頼住光子「仏教伝来と聖徳太子」

2024年04月27日 | 論文・研究書紹介

 2018年に放送大学のテキストとして末木文美士・頼住光子共編でNHK出版から刊行された『日本仏教を捉え直す』が、修正・加筆のうえ、末木文美士編著『日本仏教再入門』となって講談社文庫から10日ほど前に刊行されました。最近の研究成果を踏まえた充実した内容になっています。

 末木さんが「はじめに」「序説」と日本仏教の特質に関する諸章、頼住さんが人物を中心として古代から中世までの諸章、大谷栄一さんが近代仏教の形成・グローバル化・社会活動などの諸章を担当し、最後の第十五章「日本仏教の可能性 まとめ」は、頼住「仏教思想の観点から」、大谷「近代仏教の観点から」、末木「仏教土着の観点から」という形で三人がそれぞれの立場で語っています。従来の日本仏教史の本とは異なる視点での記述が目立ち、有益です(献本してくださった三人の著者の皆さん、有難うございます)。

 ここは聖徳太子ブログですので、この本のうち、

頼住光子「第二章 仏教伝来と聖徳太子 日本仏教の思想Ⅰ」

をとりあげます。頼住さんは、日本倫理思想史を専門とする東大の教授でしたが、道元の研究で知られているためか、私が3年前に定年退職した曹洞宗系の駒澤大学仏教学部にこの4月から移られたため、私とはすれ違いになってます。

 この第三章では頼住さんは、人間は「超越的なるもの」を見いだすことによって、「この私」を成立させ、また「この私」の延長上にある共同体を成立させたというところから話を始めます。これは、日本人にその「超越的なるもの」を教えたのは仏教だからです。

 むろん、日本には日本なの信仰があったものの、それを意識して言葉で表現することを可能にさせたのは仏教でした。神道は、土着のカミ信仰が仏教の刺激によって自覚され、形成されていったのです。

 また逆に、日本の伝統的など土壌が仏教の受容に影響を与えますし、仏教や儒教のような外来の思想同士がある時には融合し、ある時には反発しあいながら日本風な仏教や儒教が形成されていったのだと頼住さんは説きます。
 
 日本には儒教と中国化された仏教が入ってきますが、儒教と仏教の関係について、頼住さんは3つの類型をあげます。(1)対立、(2)融和、(3)包摂、です。これは、宗教的多元論に関する議論で用いられる分類ですね。「包摂」というのは、どちらかが上となって相手を取り込む関係です。
 
 そして、頼住さんは、儒教は日本においては支配層からは、統治のための教え・道徳として摩擦なく抵抗なく受容されたとします。ただ、日本は儒教を受容したものの、天皇による神々の祭祀と衝突するため、「祭天」の儀礼は取り入れなかったことに注意します。

 これは重要な指摘ですね。唐王朝は北方遊牧民族出身ながら老子を祖先と称して祀っていたためめか、日本は遣唐使を送って盛んにあれこれ学んでおりながら、老子に基づくとされる道教の導入は拒否したこととも関わるのでしょう。

 一方、仏教については、受容に際して神々の祭祀と関わるとされ、紆余曲折があったことは良く知られていますが、受容されて王権守護、祖先祭祀などの面で共同体と結びつけられてからは、日本文化の最深部にまで浸透していったとします。これは、仏教教理の専門家などはあまり注意しない視点です。

 頼住さんは、そうした状況で登場したのが聖徳太子の「十七条憲法」であったと説きます。

 なお、私の方で補足しておくと、「十七条憲法」という呼び方には注意が必要です。『日本書紀』では「憲法十七条」とありましたし、古い注釈では「十七条憲章」とか「十七条之憲法」などと称していました。やや遅れる『聖徳太子平氏伝雑勘文』では「十七条憲法」と呼んでいますが、そういう呼び方が広く用いられるようになったのは、明治になって「大日本帝国憲法」が制定され、その先蹤という意味で用いられることが増えてからのことです。

 ともあれ、著者が用いているのでここではその呼び方を用いますが、「十七条憲法」の作者とされる聖徳太子については、その実在性も含めて議論が盛んであるものの、後に聖徳太子と呼ばれる人物が推古朝に蘇我氏の協力のもとで国政にたずさわったことは確かとされている、と頼住さんは述べます。

 さらに、国語学・歴史学の側からも『日本書紀』掲載の「十七条憲法」、少なくともその原型は推古朝にさかのぼる可能性が指摘されているとします。これが最近の学界の動向ですね。

 そして、「十七条憲法」は、地方官たちに対する倫理規定である北周の「六条詔書」など、北朝の官僚に対する倫理規定と類似しており、その影響下で作成されたと言われていると述べたうえで、「和」を冒頭にかかげるのは「十七条憲法」の特徴であることに注意します。
 
 ついで、第一条が強調する「和」に関して儒教由来・仏教由来とする議論を紹介したうえで、儒教であれば「和」と結びつくはずの「礼」がここで説かれていないことを指摘します。

 また、仏教では僧伽(僧団)の平等な和合を重視し、また様々なことを共に行うべきだとする「六和敬」を説いていることに注目し、「十七条憲法」が想定する官人集団も「共にこれ凡夫」と言われている点などから見て、仏教の「和」と似た性格を持つとします。

 となると、「憲法十七条」は全体として仏教色が強いものいうことになります。こうした理解を強調したのは、日本思想史の村岡典嗣であって、その考察が優れていることは、このブログでも指摘しました(こちら)。

 ただ「六和敬」については、隋の三大法師とも称される慧遠や吉蔵などもしばしば触れていますが、具体的なあり方に関する議論はほとんどなく、また三経義疏では六和敬について説明していないことが気になります。

 また、頼住さんが重視する「憲法十七条」の「共にこれ凡夫」の「凡夫」は、仏教の「凡夫」ではなく、儒教の人性論における「並みの人間」を指すことは、拙著の『聖徳太子―実像と伝説の間―』でも書いておきました。「和」を仏教色が強いものと見る点は賛成ですが、その基盤を大乗の「自他不二」の思想に求めるのは、理想主義的すぎる見方のように思われます。

 頼住さんは、拙著をこの章の参考文献としてをあげてくれているうえ、このブログも時々見てくださっているようですが、山下洋平さんが法家の影響の強さを強調したように(こちら)、「憲法十七条」はあくまでも統治の法であって、ここに仏教の道徳面を見いだそうとしすぎる点は賛成しかねます。

 「憲法十七条」の「和」については、拙著で触れたほか、古い論文でも書いたうえ(こちら)、少し前に「憲法十七条」の基盤となる仏教経典をを発見し(こちら)、「礼楽」という言葉が示すように、儒教の「礼」は「和音」を重要要素とする「楽」と結び着いているのに、「憲法十七条」では「楽」に触れず、仏教がその代役を果たしていることなどは、このブログでも報告しました(こちら)。「憲法十七条」については本を執筆中ですので、詳しいことはそちらに書きます。

 ともかく、この頼住さんによる第三章の聖徳太子論は、枚数の制限もあって簡略に書かれていますが、全体としては現在の学問成果を考慮した穏健な論述となっており、重要な視点も示した概説となっていると言えるでしょう。儒教の受容のされ方と仏教の受容のされ方の違いを指摘した点などは、大事な点です。

【追記:2024年4月28日】
頼住さんは、ネットの動画でも聖徳太子について3回の連載で解説しています(「憲法十七条」に触れた回は、こちら)。ネット上には、頼住さん以外にも聖徳太子について解説する動画がたくさんあがってますが、日本を闇雲に礼賛するサイトで予備校講師などが多くの分野について自信満々に語っている類の動画は、話題の本を数冊かじっただけの内容を受け狙いで大げさに話していることが多く、専門知識がないため初歩的な間違いをしているうえ、中には陰謀説のようなトンデモ論も混じっているものが目立ちます。ここで紹介して批判しようかと考えたこともあるのですが、その動画を見る人が増えても困るので、やめています。この手の人たちの特徴は、原文を自信をもって解説することはできないため、原文には触れないか、他の人の訳を利用して一部だけとりあげ、「要するに~ということです」などとまとめることです。「教科書では教えませんが、実は~」などと語ることも多いですね。私も大学院生時代に予備校や塾でバイトで教えていた頃は、生徒の注意を引こうとしてそうした話し方をしたこともあるため、分かるのですが、問題は上記のような人たちの中には、表現をおだやかにしてあるものの、論旨そのものは戦前の狂信的な右翼の主張や戦後のオカルト説に似ている場合が多いことです。「聖徳太子はいなかった。不比等と長屋王と道慈がでっちあげたのだ」というセンセーショナルな説もそうでしたが、陰謀説だと、すべてを簡単に説明できてしまい、聞いている側はスッキリするうえ、自分はそうした歴史の秘密を知っているのだという優越感を味わえるのですね。この点は九州王朝説も同じですね。実際の歴史は、諸要素がからみあっていて複雑であるうえ、資料不足で断定できない場合が多いわけですが。

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