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夢殿の救世観音菩薩像が持つ宝珠から見た造像の意図:大西純子「法隆寺救世観音像への道」

2022年01月11日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子等身とも言われる夢殿の救世観世音像は、両手を胸の前で交差させ、左手の指で火炎を放つ丸い宝珠が載った蓮華座を下から支え、右手の指を宝珠の上に置いています。この形式は、仏像の手の印相を記述した経典には見えない特殊なものです。

 このように両手で何かを捧げ持つ形の仏像を奉持像と呼びますが、その形式の変化について概説し、救世観音像の特質を論じたのが、

大西純子「法隆寺救世観音像への道-宝珠奉持像の研究史を中心として-」
(井出誠之輔・朴亨國編『アジア仏教美術論集 東アジアⅥ 朝鮮半島』、中央公論美術出版、2018年)

です。

 中国の奉持像は、壺や合子を持つことが多く、宝珠を持つ場合、宝珠の本体である水晶の結晶の形あるいは球形に火炎や蓮台、またはその両方が付されるのが通例であって、そうした飾りがつかない球形になるのは、隋代以降だとか。朝鮮半島の例は、横長の蓋付き合子のようなもの、手の中にすっぽり隠れるくらいの球形または合子の形が多く、宝珠なのか舎利容器なのか見分けられないそうです。日本では、救世観音像以外はほぼ球形である由。

 宝珠とは、インドでは摩尼(maṇi)と呼ばれる特殊な宝玉であって、様々な不思議な働きをするとされています。昔、論文を書いたことがありますが(こちら)、水晶がレンズのように太陽の光を集めてものを燃やす力があることが注目されたようです。

 八木春生氏によれば、中国では奉持像が持つのは舎利または舎利容器であったものが、百済で人々を救済する力のある宝珠と認識され、球形化が進んだとします。また、大西修也氏は、弥勒の浄土に往生するには舎利供養が必要であるため、舎利容器が次第に宝珠に形を変えたとします。

 ただ、舎利と摩尼宝珠は同一視されるようになりますし、奉持像の形式は中国より西方に起源があり、聖なるものを供養するものだったとか。それはともかく、日本の他の奉持像と違い、救世観音像の持ち物だけがなぜ火炎を付けているのか。

 救世観音像は隋の様式と異なっていて古様ですが、救世観音と同様に太子等身とされる金堂の釈迦三尊像も、両脇侍の両肩や宝冠脇の装飾用の宝珠に光明の表現である火炎が付いているため、大西氏は、「ほとんど同時代の制作と推測される釈迦三尊像と救世観音には共通する祈願があったと考えられ」ると説きます。

 その祈願とは、亡くなった人が兜率天に昇ることを願うことであったと、長岡龍作氏は推測していました。それは太子の生前の願いであり、この像を造った者たちは、太子の兜率往生を願うとともに、この像を造った人たちも釈迦に随う観音像に導かれて兜率天に登ることを願って造像したものと推測するのです。

 観音は後には阿弥陀仏国への往生を手助けする存在として信仰されるようになりますが、推古朝時代に、弥勒の兜率天に往生する導きをする存在とされていたかは不明です。また、兜率天往生と宝珠に火炎をとりつけることとの関係も不明です。

 この論文では、そうした点は推測にとどまっており、奉持像と兜率天往生・弥勒信仰との関係を示す中国や韓国の実例の提示がほしいところです。ただ、特異な面を持つ救世観音像が釈迦三尊像と似た点があり、太子自身の信仰と、太子を敬慕して像を造った人達の信仰を反映していることは確かでしょう。 
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