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聖徳太子の墓所は用明天皇陵の谷: 来村多加史「天皇陵にみる風水思想」

2011年04月14日 | 論文・研究書紹介
 前回、磯長の太子廟を聖徳太子の墓とする伝承を疑う説を取り上げましたので、今回は、異なる意見を紹介します。

来村多加史「天皇陵にみる風水思想」
(大和文化会編『古代大和の謎』、学生社、2010年3月)

 来村氏は、1985年から88年までの2年半、北京大学に留学した際、最初の半年以後はもっぱら各地の皇帝陵や都城遺跡を調査していた由。南京郊外の30数カ所の陵墓については、特に重視してすべて踏査したところ、大半の陵墓は一筋の谷を兆域としていることが分かったそうです。

 現在、風水師たちが用いている地形の模式図は、後代の成立ですが、「私が南朝の陵墓で調べてきた地形によく似て」いるのは、南北朝頃の「堪輿術」、つまり地形占いの術が継承されたためだろうというのが、氏の推測です。「風水」という言葉自体は明代に登場する新しい用語であることも、むろん付け加えています。

 帰国して奈良の古墳を回るうちに、南朝の陵墓と似た地形に築かれているものがあり、なかでも明日香村には「風水の影響を色濃く受けたとしか考えられない古墳が多く見られ」ることに気づいたとか。

 来村氏は、本稿では様々な古墳を取り上げていますが、そのうち、磯長の太子廟が実際に聖徳太子の墓所であるとする伝承については、太子の没年と石室の様式の年代との違いなどによって疑問視する説に触れたうえで、太子墓と「信じてもよいように思います」とします。

 古墳については「時には思い切って被葬者を特定し、前に進む勇気も持たねばなりません。そうでない確証が得られたときには、いさぎよく説を撤回します。ということで、ここではその古墳が聖徳太子墓であることを前提として話をさせていただきます」というのが氏の立場です。これは、すっきりしてますね。

 聖徳太子墓の前方には東から西へ下る長い谷が広がっており、その谷をさかのぼった奧に、谷をY字形に分岐させる尾根の上に用明天皇陵があります。その南にある推古天皇陵も、同様に谷をY字形に分岐させる尾根の上に乗っていて、偶然とは思えない共通性を持っていると氏は述べます。

 太子墓は、その谷の側面に、斜面をえぐって平坦にする「山寄せ」の技法で造られているため、「聖徳太子は父親が葬られた谷の側面に葬られた」と見ることができると説かれています。

 その太子墓に立地が似ているとされるのが、不確かなものが多い宮内庁治定の天皇陵のうち、間違いないとされるものの一つである舒明天皇陵です。舒明天皇は、聖徳太子が没してから20年ほど後に亡くなってますので、ほぼ同時期とみなしうるものであり、その二つの墓所の「類似性が単なる偶然ではないことが想像できる」と、氏は述べています。

 舒明天皇陵は、墳丘が八角形になっていますが、前回触れた今尾文昭氏の「聖徳太子墓への疑問」(『東アジアの古代文化』88号、1996年)では、太子墓を「叡福寺北古墳」と呼んだうえで、その墳丘は「円墳ではなくて、実は八角形ではないかと思っています」と述べています。来村氏とは逆に、叡福寺北古墳は、改葬された舒明天皇陵に似ているため、太子より後の時代のものではないか、と見るのです。同じ事実が反対の意見の根拠となる一例ですね。

 どのような結果になるにせよ、より詳細な調査が進むことを期待しましょう。
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