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柱の年代から法隆寺創建と再建を解く: 松浦正昭「年輪に秘められた法隆寺創建」

2011年04月18日 | 論文・研究書紹介
 前回、とりあげた来村氏の論考が載っている『古代大和の謎』は、近鉄が主催する「大和文化会」での研究者たちの講演や、その増補版を編集したものです。そのため、収録されている諸氏の文章は、いずれも「ですます調」であって一般向けの内容ですが、ただ一人、「である」調の論文にまとめあげ、「法隆寺の謎を解いた」と明言しているのが、

松浦正昭「年輪に秘められた法隆寺創建--法隆寺論の美術--」
(大和文化会編『古代大和の謎』、学生社、2010年)

です。

 その基本は、松浦氏の『飛鳥白鳳の仏像--古代仏教のかたち--』日本の美術・455(国立博物館[東京 京都 奈良]・文化財研究所[東京 奈良]、2004年)で述べられた主張と同じです。

 氏は、奈良文化財研究所の光谷拓実氏が年輪年代法によって法隆寺五重塔心柱の伐採年代は594年と判定したことを評価し、ここから考察を始めます。心柱がそれだけ古いのに、現在の金堂は若草伽藍時代の仏像たちが主となっていることに注目し、若草伽藍発掘によって法隆寺再建が確定した結果、かえって謎が深まったのが現状だとするのです。

 氏は、法隆寺の北辺を限る掘立柱塀の柱根が発掘されている以上、「一屋も余す無し」と記された天智9年(670)の火災も、この塀やその外側にある建物までは及ばなかったと見ます。そして、現在の金堂は、古い楚石を転用しつつも前より太い柱を用いているうえ、現在の講堂の前身となった食堂と東室も、古い楚石を転用して元の柱を切り縮めた転用材を用いていることから見て、現在のそれらの建物に楚石や用材を供給した大規模な建物群が若草伽藍・斑鳩宮にあったと、説く鈴木嘉吉氏の主張を評価します。

 ただ、松浦氏は、太子追善のために造立された釈迦三尊像を祀っていた堂は斑鳩宮にあったとする鈴木説には反対し、若草伽藍の北方にあった建物こそがそれであろうと説きます。『法隆寺資財帳』に記される「丈六」とは、いわゆる丈六の大きな仏像ではなく、光背を含む「通光座高」なのであって、龍首水瓶に墨書で記されている「北堂」、つまり、北方建物に安置されていて現在の金堂に移された釈迦三尊像を指すのだ、というのが氏の主張です。

 北方建物の旧楚石を転用しながら、元の建物より太い柱にしたのは、焼け残った北方建物を移築するのではなく、若草伽藍金堂の再建をめざしたためだろうと、氏は推測します。

 では、その再建金堂より後に、663年以後に伐採された用材を用いて建立され、和銅4年(711)の塔本塑像の造立によって完成を見た五重塔が、どうして594年伐採の古い心柱を用いているのか。

 これについて、松浦氏は、飛鳥初期の伽藍建設は、まず刹柱建立から始まっていることを指摘します。舎利を先端に納めた高い刹柱を立てて仏塔とし、後に、その舎利を石の心楚中に納め、その刹柱を軸とする五重塔や三重塔を建立するのです。法隆寺の場合も、五重塔を再建するにあたっては、その心柱に、太子ゆかりの由緒ある刹柱を用いたはずだ、というのが氏の解釈です。

 現在の五重塔の心柱は、基壇上面から3メートル下の心楚の上に立てられていますが、その根元は腐食して大きな空洞ができています。その心柱が垂れ下がるのを防ぐために、腐食部をかきとり、板石と日乾煉瓦を挿入して埋め、五重塔の各重に井桁の枠組みを設けて心柱を釘止めしてあります。

 その防止対策がなされたのは、腐食部に入れた日乾煉瓦と同じ煉瓦を用いている五重塔軸部の建造時期、つまり、711年頃と推測されると、氏は説きます。

 つまり、再建五重塔は、もともと腐食していた用材を敢えて用いて建立し、しばらくして腐食部分を処理して補強したことになります。そうなると、よほど由緒のある柱ということになりますが、『聖徳太子伝古今目録抄』では、法隆寺建立は太子の「御年廿二歳」、594年の時としています。これは、まさに五重塔心柱の伐採年代と同じです。

 そこで、松浦氏は、法隆寺創建とされるその年は、実際には刹柱を準備した年だとします。西院の地には、金銅の相輪部を載せた刹柱塔が聖徳太子によって、おそらく、598年の『法華経』講説の際に建てられていたため、若草伽藍焼失後、その地において、その柱を利用して五重塔が再建されたのだ、というのが氏の推測です。

 松浦説には、反論もなされています。たとえば、氏の主張する若草伽藍北方建物については、現在の建物と重なることもありますが、遺跡が発掘されていないというのもその一つです。

 また、598年という早い時期に刹柱が建てられたなら、なぜその刹柱が若草伽藍の五重塔に用いられなかったのか、という疑問もありえるでしょう。いずれにせよ、年輪年代法による成果、法隆寺解体工事にともなう調査、文献資料を組み合わせての主張ですので、松浦説に関して盛んな議論がなされることを期待しています。
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