少し前に、聖徳太子の斑鳩移住は、画期的な斑鳩京の造成をめざしたものと見る前園美知雄氏の主張を紹介し、評価しすぎではないかと述べました(こちら)。そうしたら、斑鳩に見られる地割の特殊さを重視する立場に対して慎重な論文が出てました。
相原嘉之「古代斑鳩の都市構造」
(『奈良大学紀要』第51号、2023年2月)
です。相原氏は、飛鳥の遺跡を考古学的観点から研究して『古代飛鳥の都市構造』(吉川弘文館、2017年)を出している研究者です。
この論文では、斑鳩地域の都市景観を復元し、当時の都であった飛鳥と比較して、斑鳩地域の実態を明らかにしようとしたものです。
斑鳩については、約20度西に傾いた方位による地割が見られることが知られています。これを最初に指摘したのは、1949年の田村吉永氏の論文でした。田村氏は、この方位にそった範囲を法隆寺の所領とみなしました。
以後、この西偏した地割について議論がなされましたが、相原氏は、この西偏は、龍田道の東半で顕著に見られるが、その西延長上では見られず、法隆寺東院の南東から中宮寺跡南辺にも顕著に見られ、西院伽藍の西側とさらに西の龍田一丁目あたりでも断片的に見られるとします。
つまり、「斑鳩大路」の北側の西里・東里・幸前地区で見られるが、「斑鳩大路」と龍田道の間には見られないうえ、「斑鳩大路」と直交する遺存地割はあるものの、平行するものは意外に少ないと述べます。そして、「斑鳩大路」は存在していたものの、方格地割の存在を積極的に認めることは難しいとします。
若草伽藍や斑鳩宮は、尾根の延長上にあたるやや高い場所に立地しているため、「斑鳩大路」は一直線には建設できず、それらを避けて南に張り出した形になっていたと推定します。つまり、この地域では直線の構成を志向したものの、丘陵などの地形を考慮して道や建物が建てられたのであり、碁盤の目のような完全な方格にはなっていなかったと見るのです。
つまり、この地の遺跡にはばらつきがあるのであって、山本崇氏などがそれを整理したのですが、相原氏はそれらを検討し直し、やはりばらつきがあることを確認します。しかも、7世紀前半でも太子没後に建立された最初期の法起寺は正方位に近い3度西偏、中宮寺も4~5度の西偏で建てられており、正方位が意識されていたとします。
これに対して、法輪寺の前身寺院は、16度西偏していますが、相原氏はこれは地形の制約によるものと見ます。
こうした不統一さから見て、相原氏は、斑鳩は、直線を意識しつつ地形の制約で不安定に蛇行していた「斑鳩大路」を基軸とし、それを意識しながら地形に制約されつつ建物や道路が建設されたと見るのです。
ただ、20~26度西偏している岡本宮については、すぐ近くを通過する太子道(筋違道)に規制されたものと見ます。
そして、こうしたあり方は、7世紀初頭の飛鳥の状況と類似すると、相原氏は説きます。飛鳥の建物を規制している古山田道は、直線を志向していたものの、障害物があるとすぐ迂回する不安定な幹線道路であって、斑鳩も同様だったとするのです。
斑鳩の特徴として、相原氏は、妃たちの宮が配置されていたことに注目します。つまり、それまでは、婚姻を結んでも女性は実家に残り、そこに男性が通う形態であったのに、太子は一族を引き連れて斑鳩に移ったことになるというのです。その結果、斑鳩は上宮王家の王都となり、当時としては飛鳥の都に対する副都心的な位置づけとなった、というのが相原氏の見解です。