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聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

スメラミコトは天皇の訓であって須弥(スメール)山に基づくとする学問的な主張:森田悌「天皇号と須弥山」

2023年11月10日 | 論文・研究書紹介

 このブログは、「聖徳太子研究の最前線」という名ですので、この10年以内、できればこの数年内の論文や研究書を紹介するようにしてきましたが、それらについてコメントしていると、かなり前の研究が問題になることもあります。その一例が、

森田悌『天皇号と須弥山』「天皇号と須弥山」
(高科書店、1999年)

ですね。森田氏のこの説については、これまで何度か言及したことがあるものの、20数年前の論文であるため、詳しく紹介してませんでしたが、前々回の記事で須弥山と天皇の関係に触れましたし、天皇号の問題は以後も未確定のままですので、ここで紹介しておきます。

  森田氏は、天皇以前の倭王の称号としては「大王」とされることが多いが、大王は皇族中の有力な人に対しても用いられているため、「治天下」という語と結びつけられることによって倭王の立場を示すとします。そして、前後の文脈からそれが分かる場合は、「治天下」の語が省かれる場合もあるとします。

 次に「天王」号については、雄略紀5年7月条と23年4月条に見えるが、前者は『百済新撰』の引用であり、後者は本文中に出ている前後の呼称から見て、これも『百済新撰』の引用とみられるとする説を紹介します。

 ただ、天王であれば、訓はアメキミかアマツオホキミとなるはずだが、そうした用例は見られないうえ、開皇20年の遣隋使も日本の君主を「阿輩雞弥」と称しており、これは「アヘキミ」ないし「オホキミ」であって、アメキミではないことに注意します。『隋書』倭国伝に見える「小徳阿輩台」は推古紀の外交記事に見える「阿倍鳥」と推測されることも、その理由です。

 そして、さらに重要な指摘をします。それは、天皇は「テンワウ(テンノウ)」であって呉音であるのに対し、律令制で規定された「皇后」や「皇太子」では「皇」は漢音で「クワウ(コウ)」と訓まれており、これは導入時期の違いを示すというものです。

 日本には、南朝に朝貢していた百済から仏教を初めとする文化が導入されたのですが、百済は次第に北朝に朝貢するようなり、隋が天下を統一するとすぐ朝貢します。北朝系である隋は都を長安に移し、続く唐も北朝系であってこれを受け継ぎますので、中国でも周辺国でも次第に北方音が有力になっていくとされています。

 ただ、中国側の記録によれば、推古8年の段階では、日本の君主は「アメタリシヒコ」、中国語では「天児」「天子」だと説明されており、国内では「オホキミ」と称していたことが知られるため、この段階では天皇号は用いておらず、推古朝のその後の時期か舒明・皇極朝にかけて使われ始めたことになると推測します。

 ここで森田氏が着目するのが「スメラミコト」という語です。唐代になると、遣唐使は日本の君主は「主明楽美御徳(スメラミコト)」だと上申し、唐の皇帝の返書の宛て名もそうなっています。これは、怒られた「天子」の語や皇帝と重なる「皇」の字を用いると問題にされるため、日本語の発音を示して逃げたものですね。

 「スメラ」については、統治を意味る「総(す)ベル」の語に基づく「統ベラ」が元とする説もありましたが、森田氏は、「スメラ」の「メ」は甲類であるのに対し、「統ベラ」の「ベ」は乙類であって発音が異なるとします。

 また、「清(す)む」に基づく「清メラ」だとする説については、一般的な言葉である「清む」に基づくのであれば、「赤ら顔」などの形で「清めら顔」とするような用例があるはずなのに、そうした例は見られないと指摘します。

 そして、大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『古語辞典』(岩波書店)では、「スメラ」は「スメロ」の母音交替形であって、「梵語で、至高・妙高の意の蘇迷盧sumeruと音韻・意味が一致する。また、再考のヤマを意味する蒙古語sumelと同原であろう」とあることを紹介し、そうした須弥山を君主を象徴するものとし、それに尊貴な人物を意味する「ミコト」を付け、「スメラミコト」の語ができたと推測します。

 古代日本では、天香具山その他の神々しい山を信仰してきており、そうしたことも背景となって須弥山のことを君主を象徴するものと考えるようになったのであって、仏教用語を用いているのだ、というのが森田氏の推測です。私も道教由来とする津田説には反対であって、天皇号は仏教と関係が深いと考えています。

 実際、遣唐使が行き来するようになった8世紀末になっても、仏教の年分度者については漢音を学ぶよう「制」が命じていることは、仏教側では呉音での読経の伝統が根強かったことを示していると、森田氏は説きます。

 そこで森田氏は、「テンノウ」と呉音で発音される「天皇」の語、そしてその訓としての仏教由来の「スメラミコト」は仏教界との関わりの中で使用されるようになったとし、推古朝の後期になって外交面で使われるようになったものの、国内では確立しておらず、「大王」「治天下大王」などと併用されたと論じます。

 そして、これにより、「天皇」の語が見えるということで疑われていた推古遺文も、それが否定の理由にはならないと述べます。

 須弥山については、『日本書紀』斉明紀に見える、飛鳥寺の西、甘樫丘の東の川上、石上池の辺に須弥山を作ったという記事が有名ですが、その前の推古20年是歳条に、百済から渡ってきた斑白の工人が「須弥山の形、及び呉橋」を作ったという記事が見えます。森田氏は、この推古・斉明の時期以後、六国史に須弥山の記事はなく、仏教振興の時期であるこの時期にだけ見えるのは、スメラミコトの称号が仏教と関連していることを示す、と結論づけています。

 以上です。森田氏は触れていませんが、氏の推測は、法隆寺の薬師如来像銘に見える「大王天皇」などという妙な呼び方を説明する根拠となりますね。この呼び方については、竹内理三氏が律令制以前の過渡期のものと説いたことで有名ですが、私も賛成です。

 薬師如来像もその銘も推古朝以後の作であることは確実ですが、基づく資料があり、それを都合良く変えて使っている可能性はあります。最近は、薬師如来像銘は後代の作だが7世紀後半までは下らず、舒明天皇の宣命などを利用したとする北康宏氏の説(こちら)や、像は7世紀中頃の作とする美術史の三田覚之氏の説(こちら)も出されてますし。

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