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釈迦三尊像光背銘は中国南朝の写経の書体:溝井胡桃「法隆寺金堂『釈迦三尊像光背銘』の書法」

2020年11月06日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子が妃とともに重病になった際、その平癒を願って誓願され、没後の623年に建立されたとされる法隆寺金堂の釈迦三尊像については、制作年代に関して諸説があり、その光背銘の真偽・制作年代・制作方法についても様々な議論があります。そうした中で、光背銘の書体について検討したのが、

溝井胡桃「法隆寺金堂『釈迦三尊像光背銘』の書法」
(『書芸術研究』第9号、2016年3月)

です。溝井氏は書家であって中国書道史の研究者です。

 光背銘は、刻されたとは思われないほどなめらかな曲線になっていることで知られており、その書体は、早い時代の中国北朝の堅い字体とは異なり、また唐代に完成された書体とも違っています。そで溝井氏は、まずこの当時の書体に関する諸説を紹介します。これまでの研究では、文化が豊かであった中国南朝の陳の時代(557~ 589)の写経の書法が、その次の隋(589~610)の時代になっても一部の写経に受け継がれ、それが奈良時代の正倉院文書にも影響を及ぼしていることが指摘されています。一部というのは、南北を統一した隋では、北朝の書体の影響も加わり、新しい字体が生まれるからです。
 
 こうした研究を踏まえたうえで、溝井氏は、光背銘の文字の一つ一つについて、陳代の写経の書体の画像を示して比較していき、共通点が多いことに注意します。その結果、光背銘は、陳代の写経の書体が隋代の一部で受け継がれたものの影響を受けて書かれたと結論づけます。つまり、隋の書体ではあるものの、最新のものではなく、古い形を残す書体と見るのです。

 そして、釈迦三尊像光背銘制作の高度な技術から見て、書法についても充分考慮されたうえで選択されたはずだと述べ、なぜ最新の隋の書体ではなく、陳朝の影響が残る古い書体を選んだかについては、今後検討したいと述べています。

 なお、太子作とされる『法華義疏』の書体は、この光背銘の書体と似ていることが先行研究で指摘されており、ともに隋代以前の六朝風であるとされています。私は、現存の『法華義疏』の本文の書蹟は、太子自身が書いたものでなく、筆は達者なものの仏教はあまり知らない側近が書写したものと考えていますが、これについては別に書きます。
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