モンゴル史を中心とする東洋史家である宮脇淳子氏は、一般向けの歴史講座の連載第一回目を、聖徳太子に関する意外な話の紹介で始めました。
宮脇淳子「(淳子先生の歴史講座--こんなの常識!)日本誕生① つくられた聖徳太子」(『歴史通 WiLL別冊』7月号、2009年7月)
です。誤りが目立ちますが、論文ではなく、気楽に読める歴史娯楽読み物といった感じで書かれていますので、内容は紹介しません。気になったのは次の発言です。
「日本人が仏教学上の本を書くようになるのは、仏教を導入した聖徳太子の時代から、二百年近くたった弘法大師が初めてでした」(162頁)
だから、三経義疏が太子の作であるはずがないというのですが、これは史実と全く異なります。朝鮮三国に比べて大幅に遅れていた日本の仏教学も、奈良時代中期あたりになると、玉石混淆ながら注釈がいろいろ書かれるようになっており、中でも三論宗の智光や華厳宗の寿霊などは、多くの文献を引用し論評するまともな注釈を書いていて、今日まで伝えられています。また、奈良末から平安初めにかけて活躍した三論宗の安澄の注釈などは、学術的価値の高い立派な著作です。
それなのに、なぜ宮脇氏のような断言がなされるのか。これは、「京都大学東洋史学科に進級したときから可愛がっていただいた、藤枝晃先生の研究に基づいています」(161頁)という発言から分かるように、藤枝先生の困った断言癖に基づいているようです。
藤枝先生が、一般市民向けに語った内容を編集した藤枝晃『敦煌学とその周辺』(なにわ塾叢書51、大阪府「なにわ塾」編、ブレーンセンター、1999年)では、藤枝先生は次のように述べています。
京都大学人文科学研究所で私と同僚だった上山春平君が「三経義疏は聖徳太子の作ではないということをうちの研究部で研究しているところで、奈良時代にはこれという仕事はない。だから、日本人の著作らしい著作というのは弘法大師が始まりでしょう」と言いましたら、中村[元]先生が大変に怒られて、大論争になったようです。(120頁)
上山先生は、西洋哲学出身とはいえ、仏教文献も幅広く読んでおり、空海を特に高く評価していましたので、上のような発言になったのでしょう。「奈良時代にはこれという仕事はない」以下は、「奈良時代の仏教文献は、中国や新羅の注釈を学んで多少自分の意見を加えた程度のものばかりであって、これが日本仏教だと自信を持って世界に紹介できるような思想的著作はない。そうしたすぐれた著作を生み出したのは、空海が最初だろう」という意味です。実際には、最澄もきわめて独自な主張をしているのですが、空海は確かに大物ですので、こうした上山先生のような意見があっても不思議ではありません。
ところが、藤枝先生は、上山先生の発言を紹介した4頁後で、こう言ってます。
飛鳥時代にそれだけ高級な注釈ができたとすれば、奈良時代にもないといけないんですが、この時代には仏教的な著作が*全くなくて、やっと伝教大師や弘法大師で本らしいものができるわけですから、そういうことがあり得るのかということですね。(*補訂者注…これは言い過ぎであり、奈良時代後期には日本撰述の注釈書が確実に著作されている。)(124頁)
先ほどは、上山先生の意見を正しく伝えていたものが、ここでは、奈良時代には仏教的な著作が全くなくて……という言い方になってます。これが「言い過ぎ」であることは、藤枝先生の娘婿であって書誌学の大家である石塚晴通先生が「補訂者注」で記している通りです。宮脇氏は、くだけた場で藤枝先生のこうした放言風な発言だけを聞いて、記憶にとどめたのでしょう。
また、宮脇氏は、太子が『勝鬘経』を講義して3日で説きおわったとする『日本書紀』の記述について、「何行か大きい声で読んだら、お見事だったということだと、藤枝先生は言っています」(162頁)と述べています。確かに、『聖徳太子集』(岩波書店、1975年)の解説では、藤枝先生は、『日本書紀』における『勝鬘経』講義の記事について、「遣隋使が持ち帰ったばかりの難しい『義疏』を、太子が天皇の前で声高く朗読したのであれば、それは正史に記載するに足る盛事であったに違いなく……」(539頁)と書いてますが、「何行か」とまでは言ってません。それでは3日間持ちませんし……。
しかし、『敦煌学とその周辺』になると、藤枝先生は、 上の記述について、「これは『日本書紀』に書いてある、太子が『勝鬘経』や『法華経』を講じたという記事を、私がうっかり信用したことによる失敗です」(125頁)と明言して、その解釈を自ら否定しています。つまり、藤枝先生は、後になると、聖徳太子が『勝鬘経』や『法華経』を講義したという『日本書紀』の記述を疑い、講義したというのは事実でない、と考えるようになったということです。
すなわち、宮脇氏は、歴史講座の第一回目において聖徳太子について語るに当たり、日本仏教史の最近の研究状況を確かめるどころか、師匠である藤枝先生の本もきちんと読まずに、かなり前に聞いた放談を藤枝先生の意外な学説として披露したのです。
上山春平 → 藤枝晃 → 宮脇淳子、という順序で、つまり、仏教文献を幅広く読んで思想を追求していた上山先生、数多くの敦煌写本を調査して書誌学の面で画期的な業績をあげたものの、仏教史や教理は専門外でその方面の論文は一本も書いたことがない藤枝先生、モンゴル史などが専門で藤枝先生よりさらに日本仏教を知らない宮脇氏、と話が伝わっていくうちに、どんどん意外で面白おかしい話になっていったわけです。恐いですね。
なお、『敦煌学とその周辺』は、上記のような「言い過ぎ」がいくつも混じっているものの、全体としてはきわめて面白く、有意義な書物です。また、藤枝先生の『文字の文化史』(岩波書店、1971年。以後、いろいろな版が出ています)は、古い時代の文献を扱う人や文字に関心のある人にとっては必読の名著です。
宮脇淳子「(淳子先生の歴史講座--こんなの常識!)日本誕生① つくられた聖徳太子」(『歴史通 WiLL別冊』7月号、2009年7月)
です。誤りが目立ちますが、論文ではなく、気楽に読める歴史娯楽読み物といった感じで書かれていますので、内容は紹介しません。気になったのは次の発言です。
「日本人が仏教学上の本を書くようになるのは、仏教を導入した聖徳太子の時代から、二百年近くたった弘法大師が初めてでした」(162頁)
だから、三経義疏が太子の作であるはずがないというのですが、これは史実と全く異なります。朝鮮三国に比べて大幅に遅れていた日本の仏教学も、奈良時代中期あたりになると、玉石混淆ながら注釈がいろいろ書かれるようになっており、中でも三論宗の智光や華厳宗の寿霊などは、多くの文献を引用し論評するまともな注釈を書いていて、今日まで伝えられています。また、奈良末から平安初めにかけて活躍した三論宗の安澄の注釈などは、学術的価値の高い立派な著作です。
それなのに、なぜ宮脇氏のような断言がなされるのか。これは、「京都大学東洋史学科に進級したときから可愛がっていただいた、藤枝晃先生の研究に基づいています」(161頁)という発言から分かるように、藤枝先生の困った断言癖に基づいているようです。
藤枝先生が、一般市民向けに語った内容を編集した藤枝晃『敦煌学とその周辺』(なにわ塾叢書51、大阪府「なにわ塾」編、ブレーンセンター、1999年)では、藤枝先生は次のように述べています。
京都大学人文科学研究所で私と同僚だった上山春平君が「三経義疏は聖徳太子の作ではないということをうちの研究部で研究しているところで、奈良時代にはこれという仕事はない。だから、日本人の著作らしい著作というのは弘法大師が始まりでしょう」と言いましたら、中村[元]先生が大変に怒られて、大論争になったようです。(120頁)
上山先生は、西洋哲学出身とはいえ、仏教文献も幅広く読んでおり、空海を特に高く評価していましたので、上のような発言になったのでしょう。「奈良時代にはこれという仕事はない」以下は、「奈良時代の仏教文献は、中国や新羅の注釈を学んで多少自分の意見を加えた程度のものばかりであって、これが日本仏教だと自信を持って世界に紹介できるような思想的著作はない。そうしたすぐれた著作を生み出したのは、空海が最初だろう」という意味です。実際には、最澄もきわめて独自な主張をしているのですが、空海は確かに大物ですので、こうした上山先生のような意見があっても不思議ではありません。
ところが、藤枝先生は、上山先生の発言を紹介した4頁後で、こう言ってます。
飛鳥時代にそれだけ高級な注釈ができたとすれば、奈良時代にもないといけないんですが、この時代には仏教的な著作が*全くなくて、やっと伝教大師や弘法大師で本らしいものができるわけですから、そういうことがあり得るのかということですね。(*補訂者注…これは言い過ぎであり、奈良時代後期には日本撰述の注釈書が確実に著作されている。)(124頁)
先ほどは、上山先生の意見を正しく伝えていたものが、ここでは、奈良時代には仏教的な著作が全くなくて……という言い方になってます。これが「言い過ぎ」であることは、藤枝先生の娘婿であって書誌学の大家である石塚晴通先生が「補訂者注」で記している通りです。宮脇氏は、くだけた場で藤枝先生のこうした放言風な発言だけを聞いて、記憶にとどめたのでしょう。
また、宮脇氏は、太子が『勝鬘経』を講義して3日で説きおわったとする『日本書紀』の記述について、「何行か大きい声で読んだら、お見事だったということだと、藤枝先生は言っています」(162頁)と述べています。確かに、『聖徳太子集』(岩波書店、1975年)の解説では、藤枝先生は、『日本書紀』における『勝鬘経』講義の記事について、「遣隋使が持ち帰ったばかりの難しい『義疏』を、太子が天皇の前で声高く朗読したのであれば、それは正史に記載するに足る盛事であったに違いなく……」(539頁)と書いてますが、「何行か」とまでは言ってません。それでは3日間持ちませんし……。
しかし、『敦煌学とその周辺』になると、藤枝先生は、 上の記述について、「これは『日本書紀』に書いてある、太子が『勝鬘経』や『法華経』を講じたという記事を、私がうっかり信用したことによる失敗です」(125頁)と明言して、その解釈を自ら否定しています。つまり、藤枝先生は、後になると、聖徳太子が『勝鬘経』や『法華経』を講義したという『日本書紀』の記述を疑い、講義したというのは事実でない、と考えるようになったということです。
すなわち、宮脇氏は、歴史講座の第一回目において聖徳太子について語るに当たり、日本仏教史の最近の研究状況を確かめるどころか、師匠である藤枝先生の本もきちんと読まずに、かなり前に聞いた放談を藤枝先生の意外な学説として披露したのです。
上山春平 → 藤枝晃 → 宮脇淳子、という順序で、つまり、仏教文献を幅広く読んで思想を追求していた上山先生、数多くの敦煌写本を調査して書誌学の面で画期的な業績をあげたものの、仏教史や教理は専門外でその方面の論文は一本も書いたことがない藤枝先生、モンゴル史などが専門で藤枝先生よりさらに日本仏教を知らない宮脇氏、と話が伝わっていくうちに、どんどん意外で面白おかしい話になっていったわけです。恐いですね。
なお、『敦煌学とその周辺』は、上記のような「言い過ぎ」がいくつも混じっているものの、全体としてはきわめて面白く、有意義な書物です。また、藤枝先生の『文字の文化史』(岩波書店、1971年。以後、いろいろな版が出ています)は、古い時代の文献を扱う人や文字に関心のある人にとっては必読の名著です。