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『法華義疏』は隋に派遣された留学僧が帰国する推古末年以前の作:井上亘「御物本『法華義疏』の成立」

2023年06月26日 | 三経義疏

 前回の門田論文では、「三経義疏については諸説がある」といった述べ方をせず、聖徳太子の時期の仏教理解は低いとし、「聖徳太子による編纂が仮託であったにも関わらず」と断定的に述べていました。

 三経義疏の内容には言及していないため、読んでいないことが推察されますが、御物本の『法華義疏』が推古末年以前の作であることは確実であって、聖徳太子の作と見て良いとする論文が出ています。

井上亘「御物本『法華義疏』の成立」
(古瀬奈津子編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』、同成社、2021年)

です。

 このブログで論争があった井上さんですが、大山説批判であって「憲法十七条」も太子の作と見て良いとする点は、私と同じ立場です。今回はそれに三経義疏真作説も加わったというわけですが、この論文は知りませんでした。井上さんも送ってくれれば良いのに……。

 さて、この論文は、御物本『法華義疏』は提婆達多品がない二十七品本であるため、提婆品が加えられた二十八品本が広まり、二十七品本が通用しなくなった時期を明らかにすれば、その成立下限が明らかになるという前提で出発しています。

 井上さんは、従来の研究を紹介する形でこの問題を論じています。まず、鳩摩羅什が五世紀初めに訳した『法華経』には提婆品がありません。ですから、『法華義疏』の「本義(種本)」となった梁の光宅寺宝雲(467-529)の『法華義記』は、それに基づいているため、提婆品はありません。一方、隋の天台宗の智顗(538-598)や三論宗の吉蔵(549-623)の『法華経』注釈には入っています。

 晋の竺法護訳の『正法華経』十巻(286年)には提婆品が入っており、隋の闍那崛多共訳『添品妙法蓮華経』七巻(601年)にも入っていますが、西域本に基づいた鳩摩羅什訳と違い、『添品妙法蓮華経』は天竺の梵本に基づいていくつかの点を補訂してあったにも関わらず、主流になりませんでした。広く読まれたのは、鳩摩羅什訳に提婆品が付け加えられて二十八品としたテキストだったのです。

 隋の経典目録である費長房の『歴代三宝紀』(597年)では、「妙法蓮華経七巻」と「妙法蓮華経八巻」があるとしており、以後の唐の道宣の『大唐内典録』(664年)も同様ですが、智昇の『開元釈教録』(730年)になると、「妙法蓮華経八巻、二十八品或七巻」となっており、七巻本にして八巻品にしても、提婆品が添加されている形が標準になったことが知られます。

 その理由について、井上さんは、吉蔵『法華義疏』では、法献が西域で得た提婆品を瓦官寺の南斉の法意が永明8年(490)に『提婆達多品経』として訳したが、梁末に真諦三藏がこの品を訳し、羅什訳の宝塔品の後に加えたと述べていることを紹介します。

 ところが、天台智顗の『法華文句』では、羅什が406年に訳した段階で既に二十八品だったのに、女人成仏を説いていたので長安の女官たちが秘蔵した結果、南朝では二十七品が流布したが、『法華経』を百回も講義した満法師は提婆品を勧持品の前に置いて講義しており、この形のテキストは広まらなかったが、南岳禅師は宝塔品の後に提婆品を置いていたので、私は後に『正法華経』と比較したところ、その位置で良かったことが分かった、万法師と南岳禅師は『法華経』の意図を深く理解していた、と述べています。

 井上さんは、南岳禅師は智顗の師匠の南岳慧思だが、この記述をそのまま信ずることはできないものの、慧思が二十八品に定めたとする記述は重要とします。その話を伝えた弟子の智顗は隋の煬帝が皇太子の時も皇帝になっても尊崇した名僧だったからです。

 このことから見て、井上さんは、智顗を尊重して授戒した煬帝が君臨する隋の都では、二十八品本が流布していたであろうから、607年に倭国から派遣された「沙門数十人」や翌年派遣された僧旻などは、それを書写してもち帰ったはずと見ます。というのは、煬帝が設置した四方館(後の鴻臚館)では、朝鮮諸国を含め、諸国から留学してきた僧侶を教育していたからです。

 井上さんは、太子が天才であって一人で作ったといった伝承には従わず、『法王帝説』が、慧慈の指導のもとで作ったという記述を史実に近いものと見ます。そして、中国撰述ではありえず、百済ないし高句麗の僧侶が種本となった注釈を講義し、太子がそれを略称しながら自分の解釈を加えていったとする私の説を引いてくれてます(ありがとうございます)。

 そのあたりが穏当なところでしょう。井上さんは、真筆かどうかの問題はとりあげていませんが、このブログでは、これに関する妥当な説の紹介をしてあります(こちら)。

【付記】重複していた箇所を削除しました。

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